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日本T
時節概論 (中編)

更新履歴


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目次

中編序文2010/ 2/22
凡例T2010/ 2/28
名称2010/ 2/28
資料2010/ 2/28
校正2010/ 2/28

  第三章日本

3-1天地の開闢2010/ 4/25
1神は宇宙を創り給わず2010/ 5/16
2数霊の〇2010/ 5/28
3前なるもの2010/ 6/17
4ム / ウ2010/ 7/12
5数歌としての神経綸2010/ 7/31
6雛型2010/ 8/15
7円環2010/ 9/26
8天地2010/11/11
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中編序文

「日本とは何か?」

と問いかけるなら、「天皇を中心とする神の国」と答えることができます。では、

「天皇とは何か?」

と問いかけるなら、「日本の本質」と答えることができるでしょう。

 本質とは()()()()たらしめているもの」です。日本の神話と歴史を紐解けば、天皇があるから日本は日本なのであって、天皇がなければ日本は日本でなくなることが窺い知れます。このような日本の在り方を日月(ひつく)(しん)()(カミ)の国”と表現しています。

 日月神示において()は特別な意味を持つ“文字”です。なぜなら、(あめ)()()()()(のかみ)様はこの記号(シンボル)にとても深い意味を込めていて、「宇宙の全てはとなっている」とまで説いているからです。こういった()()の宇宙観は次のようにも要約できます。



 このような意味を持った調和(マツリ)の宇宙観”が、岩戸開きという現象の(ない)(おう)“現象が起きる理由”として存在しています。時節概論の主題(メインテーマ)である日月神示の予言も、この宇宙観に沿って語られています。中編では両者の関係性を、本格的な時節論を展開するための予備知識として論じます。

 また、日月神示では(マツリ)と密接な関係を持つ(さん)(みち)と読ませる書き方が(ひん)(しゅつ)しますが、(カミ)の国に住む日本人にとって(カミ)の道”とは何なのかを、神話と歴史と予言が(こん)(ぜん)一体となった(ひと)(つむ)ぎの物語”から考察したいと思っています。

 この時節概論の中編が、日月神示の説くの概念”について考える一助となれば幸いです。

平成二十二年二月二十二日 すめらみちの(めい)()

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凡例T

 日月神示は発祥から現在までの六十年近くの間に幾つもの版で出版されましたが、各版の内容には少なからぬ相違点があるので、まずは時節概論での資料の取り扱い方から説明します。

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名称

『日月神示』

 この概論での【日月(ひつく)(しん)()】とは“岡本天明に自動書記を介して伝えられた天啓”のことです。この啓示は実は正式な名称が定まっておらず、複数の呼び名が存在しています。現在までに使われた通称には主に二つの由来があり、その内の一つは、啓示を与えた神霊的存在の名が『(あめ)()()()()(のかみ)』である点です。もう一つの由来は、自動書記による文章の中で啓示そのものが「ふで」と呼ばれ、同時に()()に仮名や漢字を当てたものを()()()と呼ぶように指定されている点です。そして、この啓示を与えた存在は基本的に両者を区別しています。

()()は印刷することならんぞ、この()()説いて臣民の文字で臣民に読めるようにしたものは()()()と申せよ。()()()は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。この()()のまま臣民に見せてはならんぞ」 『天つ巻』 第三十帖 [137]

「この()()読ますやうにするのが役員の務めでないか、役員さへ読んでゐないではないか。()()()()()つけたもの先づ大番頭、中番頭、小番頭どのに読ましてくれよ」 『地つ巻』 第三十一帖 [168]

「これからの()()()()()と申せよ」 『青葉の巻』 第二十三帖 [492]

 こういった経緯から、この啓示は『(ひつく)(しん)()』『()(つき)(しん)()』『()()()』『ひふみ(しん)()』『()(つき)(くに)(せい)(てん)』などの通称で呼ばれて来ましたが、時節概論では『日月(ひつく)(しん)()』の名称で統一します。

『神示』

 この概論での【()()】とは“日月神示の内容全般”のことです。上記のように“ふで”()()()は厳密には別物なのですが、これらを総称して()()と表現する習慣が信奉者の間で定着していますので、この概論でもそれに(なら)います。基本的に()()日月(ひつく)(しん)()は同義の言葉として使用します。

 なお、岡本天明氏に伝えられた啓示には『()()(もく)()』や『(つき)()(れい)()』といった個別の名称を持つものがあり、他にも『()(しん)(まき)』のように翻訳の経緯が不明瞭なものがあります。これらが日月神示に含まれるのかどうかについては幾つかの見解がありますが、この概論では含まれるものとして扱います。

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資料

『原書』

 この概論での【(げん)(しょ)】とは“岡本天明による自動書記の直筆と複製(コピー)のことです。殆どが非公開だった直筆は所在が不明になっており、現存しているのかどうかも判りません。残っているのは極めて僅かな帖の複製(コピー)だけで、これは各地で開かれた岡本天明展で販売されていたものです。

『原文』

 この概論での【(げん)(ぶん)】とは原書を書き写した“翻訳されていない日月神示”のことです。初期の機関紙には多くの原文が掲載されていて、一つにまとめて販売されたこともあります。基本的に原文は写し間違いがある可能性を考慮して原書とは区別しますが、広義の意味で使用する場合は原書も含みます。

『第一仮訳』

 この概論での【(だい)(いち)(かり)(やく)】とは“岡本天明が最終校正をした翻訳文”のことです。具体的には以下の資料が該当します。

【昭和二十六年版】神示』第二十四巻から第二十六巻までを収録
【昭和二十七年版】神示』第二十七巻から第三十巻までを収録
【昭和二十八年版】─────第一巻から第二十三巻までを収録 通称『基本かな訳』)
【昭和二十九年版】『日月神示』第一巻から第二十三巻までを収録
【昭和三十年版】『地震の巻』第十七巻を収録 研究者に送られたもの)
【昭和三十一年版】『地震の巻』第十七巻を収録 一般に販売されたもの)
【昭和三十一年版】『月日霊示』後に『月光の巻』と改題された霊示を収録
【昭和三十七年版】『五十黙示録』第三十一巻から第三十七巻までと補巻『紫金の巻』を収録
【昭和三十八年版】『日月地聖典』第二十四巻から第三十巻までと補巻『月光の巻』を収録

 なお、昭和三十八年版は岡本天明氏の死後に出版されたもので、本人の許可を得ていない改変が行われた可能性があります。しかし、改変されていない可能性もあるので、この概論では第一仮訳に含めます。

『基本訳』

 この概論での【()(ほん)(やく)】とは“昭和二十八年に岡本天明が最終校正をした平仮名の翻訳文”のことです。基本訳は以後に出版された翻訳文の元になったという点では、「岡本天明による第一仮訳」と呼ぶのに最も相応(ふさわ)しい資料なのですが、昭和二十九年版の時点で少なからず写し間違いが発生しているので、他の第一仮訳と区別する必要がある場合は基本訳と表記します。

 この他にも、昭和十九年から昭和二十五年の間に翻訳文が何種類か製作されましたが、全文ではなく翻訳の精度も低いため、参考資料には含めないことにします。ちなみに、こういった翻訳初期の問題点から翻訳文の決定版とすべく製作されたのが基本訳です。

『第二仮訳』

 この概論での【(だい)()(かり)(やく)】とは“岡本三典が最終校正をした翻訳文”のことです。これは昭和五十年代前半に製作されました。現在の主流となっている平成時代に出版された日月神示は第二仮訳の内容を複写(コピー)したものであり、内容の違いは殆どありません。第十七巻『地震の巻』の翻訳文の有無と、第十六巻『荒の巻』の翻訳文に相違があるくらいです。

 なお、この概論に記載されている翻訳文は出典に明記が無い限り第二仮訳からの引用です。

 この他にも、書籍として出版された日月神示の翻訳文には、岡本天明氏や岡本三典女史が直接関わっていないものが幾つかあります。これらは流通した分量が少なく、翻訳の内容も第一仮訳や第二仮訳と大差がないので、参考資料には含めないことにします。

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校正

 資料を比較して異同がある場合は新規に校正を行います。校正の基本的な原則は次の通りです。

一、原文と基本訳以外の訳文で異同がある場合は原文を優先します。
一、第一仮訳と第二仮訳で異同がある場合は第一仮訳を優先します。
一、基本訳と第一仮訳で異同がある場合は基本訳を優先します。
一、原文と基本訳で異同がある場合は個別に判断します。
一、第一仮訳の間で異同がある場合は個別に判断します。

 以上ですが、総合的な資料検証の結果として、上記の原則に例外を設ける場合があります。

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第三章 日本

天地の開闢

 日月神示の予言や神々の物語は日本に伝わる固有の創世神話を背景として語られていますが、()()の説く()(はじめ)には独自の特徴があります。それは「始まりの前を重視している」という点です。これは数で表すなら(はじめ)の前であり(れい)を意味しています。そして、(れい)が一として現れるような“何かが()()瞬間”のことを、日月神示は「生まれつつある」と表現しています。

「我々の一切は生まれつつある。神も宇宙も森羅万象の(ことごと)くが常に生まれつつある。太陽は太陽として太陰は太陰として絶えず生まれ続けている。一定不変の神もなければ宇宙もない。常に(いや)(さか)えつつ限りなく生まれに生まれゆく。過去もなければ現在もなく未来もない。ただ存在するものが生まれに生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 この記述で見受けられるように、何らかの結果が現れようとする瞬間、つまり“結実の直前”の状態である“前なるもの”を重視して説かれているのが()()の創世であり、日月神示における【(てん)()(かい)(びゃく)】です。

 日月神示で結実の直前が重視されているのは、親の形質が子に受け継がれるように、“次なるもの”を形づくる()()は前なるものの中に既に存在しているからだと考えられます。これは或る意味で徹底した未来指向の宇宙観であり、一切を祝福する極めて肯定的な意味を含んでいると言えます。

 こういった点に代表される宇宙観が、()()の中で旧九月八日や神経綸九が重要視されている理由に繋がっていますので、ここでは日月神示の説く(てん)()が始まろうとする瞬間”から詳細に論じて行きます。

 また、それが時節や神経綸の概要を解説することにも繋がります。なぜなら、数の順序(リズム)のように、

「全ては(はじめ)に還る」

という計画を立てているのが天之日津久神様だからです。同時に、この計画は宇宙の自然な律動(リズム)の発露であり“神の呼吸(リズム)と称されるべきものなのでしょう。

 そして、これらの計画に通底する日月神示の宇宙観は、現象に対する現象が起きる理由、あるいは結果に対する原因として“神経綸の背景”になっています。それ故、天之日津久神様の三千世界論を根幹的な部分から考察することによって、より広範な視点から“神様の計画(パズル)を概観できるようになるはずです。そういったことを創世と絡めながら論じてみます。

 大まかな構成としては、最初に日月神示の【神は宇宙を創り給わず】という点について言及します。次に【数霊の(れい)】と【前なるもの】と【ム/ウ】を考察し、それらを前提に導き出せる【数歌としての神経綸】を解説します。その上で時節の背景にある【雛型】と【円環】の概念を論じ、最後に、始まりの前に関する考察の総論として【(あめ)(つち)】のことを述べたいと思います。

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神は宇宙を創り給わず

 日月神示の宇宙観の中で最も根幹的であると思われるのが【神は宇宙を創り給わず】という部分です。ここから細かい宇宙観が枝葉のように伸びて独自の三千世界論が咲き誇っています。

「神は宇宙を創り給はず。神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] 第一仮訳)

「神は宇宙を創り給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切な別れ道で御座るぞ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]

「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 この他にも同じ意味のことを述べた記述も複数あります。

「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]

「人民いくら頑張っても神の外には出られん。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ。このこと よくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと善悪のこと、よく判って来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構」 『月光の巻』 第九帖 [796]

「そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ。思ふさまやりてみて早う得心改心いたされよ」 『月光の巻』 第五十三帖 [840]

「人民は神の中にゐるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのぞ」 『極めの巻』 第十三帖 [940]

 更に同様のことを、日月神示の特徴である“歓喜の宇宙観”と絡めて述べた記述も存在しています。この宇宙観は三千世界の一切を肯定する非常に高い視座から説かれており、その主旨を極めて簡単に要約すると「あらゆる存在の本体は歓喜そのものであり、宇宙の全ては喜び合うために生まれた」という内容です。

「かくして、大神の大歓喜は大いなる太陽と現われる。これによりて新しく総てが生まれ出る。太陽は神の生み給えるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生まれ給うのである。は絶えず繰り返され、更に新しき総ては神の中に歓喜として(はら)み、生まれ出て、更に大完成に向かって進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その(はたらき)に於いては千変万化である。千変万化なるが故に一である。一なるが故に永遠である」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「人の生後、即ち地上人の生活は生前の生活の延長であり、また死後の生活に そのままにして進み行く。立体となり、立々体と進み、弥栄する処に尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化弥栄することにより善悪美醜の(ことごと)くは歓喜となる。故に神の中に神として総てが弥栄するのである」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「地獄はないのであるが、地獄的現われは生前にも生後にも また死後にもあり得る。しかし、それは第三者から そのように見えるのであって真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に総てのものが生長しているためである」 『地震の巻』 第十七帖 [394]

「宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり弥栄であるぞ。そこに生命あり喜びあるのぢゃ。大神の中で宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655]

 ここまでに引用した記述に見られるように、日月神示では「宇宙は神の中に生まれた」と主張しています。これを別の言い方にするなら「一切万物は唯一者の無限の側面の一つである」と表現しても良いでしょう。そのような視点からの記述も引用してみます。

「何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]

「太日月地大神としての この神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。この方一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。(はん)(しん)ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ」 『春の巻』 第二十一帖 [678] 第一仮訳)

「宇宙の総ては この神の現れであり一面であるから、その()()つかんで拝んでもよいのであるぞ。その()()つかんですがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息 通ふているぞ」 『春の巻』 第二十二帖 [679]

「何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太日月地大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ」 『夏の巻』 第四帖 [721] 第一仮訳)

「一神説いて多神説かんのも(かた)()、多神説いて一神説かんのも片輪、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]

「神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。(みち)(ばた)の花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に総てを見せて飲み込ませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから気長に神求めよ」 『夏の巻』 第十七帖 [734]

「この世は 皆 神の一面の現われであるぞ」 『月光の巻』 第六十一帖 [848]

 以上の記述から推察する限り、天之日津久神様は「宇宙の全ては神が()()()もの」と説いていると思って間違いないはずです。これが日月神示の宇宙観の最も根幹的な部分です。

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数霊の〇

 前記のように、“神が()()()った姿”が大宇宙であるならば、宇宙が()()前から存在していた(なにか)があらゆる存在の根元であり、全ての()()の本体、もしくは“本来の姿”であると思われます。ですが、日月神示には神と呼ばれるような存在は人智を超えているので殆ど理解できないことが記されています。

「人間には神は知れんものぞ。神のはたらきのみ やっと知れるぞ。神の(ハタラ)きは千変万化、(ハタラ)き見て神そのものと思ふは人間心」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「肉体人に神は直接分らんものぞ。神は(ハタラ)き、神の働きの影しか判らんものぞ。神の姿 見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。心に判っても肉体に判るものでないぞ」 『黒鉄の巻』 第三十一帖 [649]

 また、神の神たる“大神”“根元神”は更に理解が難しいことも明示されています。

「神様でも大神様は判らんのであるぞ」 『春の巻』 第五帖 [662]

「人民の智の中に現われてくるときは もはや大神ではないぞ、神であるぞ。大神は人民には判らんと云ふことが判らねばならんぞ。原因の原因は中々見当とれん」 『夏の巻』 第二十帖 [737] 第一仮訳)

「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に また大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とは凝り固まった一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対空は無の始めであり、空の入口であるぞ、そこから無に入れよ、空に生きよ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]

 そして、この“無きが如き存在”()()の始まりの前にあるものであり(はじめ)の前の(はたらき)だと考えられます。これが時節概論で仮定している【(かず)(たま)(れい)】です。

 しかし、数霊の(れい)について論じるのは或る種の困難を伴います。それは(れい)が基本的に“存在しない()()であり()()()()()からです。それでもこのような不明瞭なものに言及せざるを得ないのは、数霊の(れい)が最大最後の神仕組である“富士の仕組”の中核を形成する概念だからです。

 ちなみに日月神示での()()は、()()(さん)()(じゅう)()()()の意味で使われる場合が殆どであり、その中でも始まりの前に特に深く関わっているのが不二です。これは“不可分の一体”“並ぶもの無し”を意味する「唯一であること」を強調する言葉です。

 三千世界の立替え立直しの総仕上げでもある“不二の仕組”の内容は終章で本格的に論じますが、ここでは予習的な意味で、数霊の(れい)の記述を幾つかの項目に分類して引用してみます。

 まずは「元が重要である」という趣旨の“根元的な意味”での(れい)です。

「第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も繰り返したのであるぞ、その時はそれはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて修理(つくり)固成(かため)なされたのぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ」 『至恩の巻』 第七帖 [954]

 次に「始まりと終わりは同じである」という趣旨の“円環的な意味”での(れい)です。

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん。 〔中略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]

 次に“結合的な意味”での(れい)を引用しますが、これは円環的な意味での(れい)と、すぐ後で引用する包括的な意味での(れい)から抜き出したものです。

「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第十帖 [797]

「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、(レイ)がもとぢゃ、()()が元ぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ、よく心得なされよ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 ちなみに、この概論で(れい)が現れる日”「結びの日」と仮称しているのは、この二つの記述が根拠になっています。結びの日は旧九月八日と同じように「別角度から見た記述が同じ日と年を指し示す」という形で特定できるように仕組まれていました。

 また、日月神示を読むと、現在の八方的世界に九と十を加えた十方的世界が完全な世界であるかの如く語られています。それ自体は間違いではないのですが、時節から考える限り()()()()()()()があります。これを数字の(れい)を使って表しているのが、「神の計画は数である」という趣旨の“段階的な意味”での(れい)です。

()()()とは〇一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八隠れてゐるのざぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「マコトに祈れと申してあろう。マコトとは()12345678()10()のことと申してあろう」 『月光の巻』 第四十五帖 [832]

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、()()()のマコトであるぞ、合わせて二十二、()()であるぞ。神示の始めに示してあろう。()()は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]

「四と八によってなされたのであるから、森羅万象の(ことごと)くが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰まりの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

「12345678の世界が12345678910の世となりて012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、()()は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳)

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、その裏は十九八七六五四三二一〇で、合わせて二十二であるぞ、()()が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 これらは“三千世界の調和(マツリ)()()()を意味しているのですが、数霊の(れい)にそのような(はたらき)があることを明かした記述もあります。それが「和合が神の()(むね)である」という趣旨の“包括的な意味”での(れい)です。

「天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれて また三と栄ゆるが故に歓喜が生まれる。則ち一は二にして、二は三である。生前あり、生後あり、死後ありて、尚それらの総ては〇である。〇はでありでありと集約される。故に これらの総ては無にして有である」 『地震の巻』 第五帖 [382] 第一仮訳)

と〇であるぞ、の陰にはがあり、の陰にはがある、その和の状態が〇であるぞ、のみでは力ないぞ、だけでは力ないぞ、とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ。〇があってがあり、があって和があるのであるぞ、別の()(なか)(ぬし)あると申してあらう、ここの道理よく得心、合点せよ。は人間にとって直接の喜びでない、がぢきぢきの喜びぞ、も直接ではなく、が直接の喜びであり、その二つが和して嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ」 『白銀の巻』 第五帖 [616] 昭和二十六年版。この帖は昭和三十八年版で大幅に手が加えられ、それが現在の第二仮訳に受け継がれています)

「山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ」 『月光の巻』 第二十五帖 [812]

「厄も祓はねばならんが福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くには(レイ)にならねばならんぞ」 『月光の巻』 第二十八帖 [815]

「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ。 〔中略〕 それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これが妙であるぞ、奇であるぞ、天の父の教であり地にうつした姿であるぞ」 『極めの巻』 第九帖 [936]

 他にも「現れているものの蔭に現れざるものがある」という趣旨の“表裏的な意味”での(れい)も引用します。

「五十九柱と申してあるが、その中の九柱は隠れた柱ぢゃ。ぞ。ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの隠れた九柱、心して大切申せよ」 『月光の巻』 第十六帖 [803]

 日月神示における数霊の(れい)の記述は以上の通りです。これらの(れい)が意味するものは、()()の宇宙観や日本神話、あるいは神経綸の全体像を探究することによって徐々に見えて来ます。その内容を一度に解説することは難しいので、関連する話題の度に少しづつ言及して行き、終章で総括したいと思います。

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前なるもの

 日月神示には“始まりの前にあるもの”であり、数で表すところの(れい)だと思われるものへの言及があります。()()記号(シンボル)と御神名の二つの形式で記されており、この概論では便宜的に【前なるもの】と仮称しています。こういった表現は次に引用する『地震の巻』の一節から取りました。

「生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない、弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また総てのものの本体は無なるが故に永遠に存在する。地上人は生前に生き、生前に向かって進みゆく。また地上人は地上に生き、地上に向かって進みゆく。また地上人は死後に生き、死後に向かって進みゆく。しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 この帖で前なるものという考え方を軸に展開されている内容は、無きが如き存在や数霊の(れい)について考える上でも参考になりますが、ここでは更に直接的に言及している記述の方を論じてみたいと思います。

 古事記と日月神示において宇宙に一番最初に現れたとされる存在は、後述する『(あめ)()()(なか)(ぬし)(のかみ)』です。しかし、日月神示ではそこに至るまでの過程、つまり“天之御中主神の前なる()()について言及しています。その内容は第二十一巻『空の巻』第三帖に収録されているのですが、始めに記号が羅列され、次に御神名が(つづ)られるという特殊な形式で書記されています。

 まずは記号の部分から引用しますが、これは訳文に絵として収録された原書を複写(トレース)したものです。

 この記号(シンボル)の羅列から読み取れる意味は幾つも有ると思いますが、基本的にはが段階的にと近付いて行く様子を表現しているように見えます。

 また、最後にの蔭に隠れる格好になっています。この絵では描写されていませんが、最終的には完全にの蔭に隠れ、“現れているもの”だけになっているはずです。

 大本系統の宗派においては根元神の象徴(シンボル)ですが、この帖の内容によれば、と同時期にという何らかの因子(ファクター)、あるいは概念(イデア)のようなものが存在していたことが窺い知れます。そして、()()の蔭に今なお“現れざるもの”として存在しているはずです。これが無きが如き存在の一面であり、数霊の(れい)を司る(はたらき)である可能性が高いと思われます。

 なお、を囲むについては他にも記述があるので、次項でまとめて考察します。

 次に御神名の部分を引用します。

「ひふみ四十九柱、五十九柱、神代の元ざぞ。あめつち御中ムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめの御中ヌしの神。(あめ)(つち)(はじめ)。一月三日、()(ツキ)(カミ) 記すぞ」 『空の巻』 第三帖 [458] 御神名の部分は原文と基本訳で微妙な相違点があったので折衷案としました)

 この御神名は直前に羅列されている記号の読み方であるらしく、双方の間には明確な対応関係が見て取れます。そこで見易いように記号と御神名を並べて一覧にしてみます。

 これが、(れい)が一と現れるまでの過程を、記号と御神名を使って表したものだと考えられます。

 ここでは天之御中主神の前なるものとして、『あめつち御中ムしの神』と『あめつち御中ウしの神』という御神名が明かされていますが、これらは名前が殆ど同じであることから、天之御中主神と分けて考えることのできない“いまだ存在(ミナカヌシ)と呼べない存在(ミナカヌシ)だと思われます。恐らく、根元的な(なにか)が恒久性や完全性のようなものを備えた天之御中主神に()()までに、不確定的な揺らぎのような段階があったのでしょう。

 以上の()()の内容は複数の解釈が成り立つので断定はできませんが、この記号と御神名は、最初の存在である天之御中主神が生まれつつある“始源の状態”を表現したものだと考えられます。

 これが日月神示の描写する(てん)()が始まろうとする瞬間”です。

 そして、この記号と御神名から読み取れる意味には幾つかの要点(ポイント)があります。

一、(はじめ)に至る過程が“十段階”で描かれていること
一、()()()()()“十一番目”に数えられていること
一、(てん)()が始まる前の状態が(あめ)(つち)と呼ばれていること
一、(れい)()()の二つの形式で表されていること
一、(れい)の十段階が“五十九柱”に含まれている()()()こと
一、十段階の内訳が“三”“七”に分けられていること

 これらは全て日月神示の宇宙観として“神経綸の背景”になっています。時節概論で岩戸開きや立替え立直しという“現象”を解説するために“現象が起きる理由”から説き起こしているのも、このような形で両者が切り離せない関係にあるからです。

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ム / ウ

 日月神示において“上向きと下向きの二つの三角形”として表現された(はたらき)が【ム】と【ウ】です。ちなみに()()ではを「ム」、を「ウ」と読みます。

 そして、このムとウが数霊の(れい)に関わっていることを示す好例があります。五十黙示の補巻『紫金の巻』第一帖の訳文の最後には数歌の一種として、

「〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳」 『紫金の巻』 第一帖 [980]

と書かれているのですが、昭和三十七年版に収録されている原文では、

一二三曰五六七八九十百千(バン)()()()()()() 『紫金の巻』 第一帖 [980] 一つ目の「バンザイ」の部分は癖字すぎて正確には読めませんでした)

と書かれています。ここで岡本天明氏は「()()」を「(れい)」と翻訳しています。また、前項でも論じたように、日月神示では(はじめ)の前にあるものをという記号で表現し、それを「あめつち御中()しの神」「あめつち御中()しの神」と読ませています。

 これらのことからも判るように、数霊の(れい)()()に深く関わっています。そこで、このムとウが何を意味しているのかを考察してみます。

 ムとウは三角形の記号で表現されていますが、三角形は“方向の情報”を内包して使われることの多い記号です。そこから考えると、日月神示における三角形は矢印的な意味を持っていると思われます。そして、矢印とは“指向性”であり“力の向き”を表現しています。このような視点から見ると、

()()“対称的な進展力(ベクトル)である」

と推察できます。これらは指向性を持つ(エネルギー)のようなものなのでしょうが、人間が想像する力学的な力とは別物であることも明かされています。これは後々論じる“対なるもの”に繋がる記述です。

「天国を動かす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、(やみ)は光明あるが故である。ここで云ふ力とは霊体、天地、陰陽、左右、上下、善悪、真偽の現はれと云ふことであって人間の云ふ力学的力ではない、本来は天国もなければ地獄もなく、ただ歓喜と歓喜の因があるのみであって、これが総てである。因が果にうつり、呼が吸となり行く道程に(おい)て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、又 強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼も又 長くなる、ここに平衡が生まれてくる。は常に動いて栄え、は常に動かずして栄え行く、その平衡が浄化、弥栄である。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現はれであることを知らねばならない」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 この記述から見える“対称的な(はたらき)とは一種の()()のことであり、(かつ)(よう)と表現しても構わないと思われます。そこでムとウの活用(はたらき)(いざな)わんとする具体的な()()を、日月神示の記述から考えてみます。

 まずは“根元的な神の表現”としてのムとウの記述を引用します。

「アメのひつ()のか()とはアメの()(つき)の神で御座るぞ、アメの(つき)()の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る(おん)神様ぞ、つちのひつ()のおん神様ぞ、つちの()(つき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

 ここでは()()を降ろした天之日津久神様が、ムとウの(はたらき)に関係する(もと)(がみ)であることが明かされています。また、日月神示では一二や()(つき)(つき)()と読むのですが、これはムとウの用が()()()()()()()()に受け継がれていることを暗示しているのかもしれません。実際に双方が象徴するものにはかなりの類似点が見受けられます。

 次に“根元的な(はたらき)の表現”としてのムとウの記述を引用します。

「ものはキから生まれるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ。ムのキ動けばムくるぞ、ウのキ動けばウ来るぞ、どんなことでもキあれば出来るぞ、キから生まれるぞ」 『磐戸の巻』 第二帖 [238]

「玉串として自分の肉体の清い所 供へ奉れよ、髪を切って息吹きて祓ひて紙に包んで供へまつれよ、玉串は自分捧げるのざと申してあろがな。お供への始めはムとせよ、ムはウざぞ、誠のキ供へるのざぞ」 『青葉の巻』 第二帖 [471]

 ここでの「キ」とは“根元的な力”“根元に向けた意識”というような意味で使われており、極めて深い精神的な作用のようなものだと考えられます。

 次に“同じ名の神の表現”としてのムとウの記述を引用します。

がよろこびであるぞ。もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表裏合わせてぞ。は神であるぞ。神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。のもとがであるぞ。キであるぞ。元の元の太元の神であるぞ。()であるぞ。()から()生まれ、()から()生まれるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうが」 『春の巻』 第四帖 [661]

 この記述の内容によると、日月神示の独自の概念である“同じ名の二柱の神”もムとウの用に深く関わっているようです。また、ムとウは便宜的に二つのものとして表現されていても、実際には分けることのできない“一なるもの”であり、同時にとも切り離して考えることができないとのことです。

 (たと)えるなら、はゴム(ひも)のようなものであり、ゴム紐の伸縮力がムとウの(はたらき)なのでしょう。ゴム紐は片側に引っ張ると必ず等分の力で逆側にも引っ張られるという性質を持っていますが、逆様の二つの力は不可分の一体の(はたらき)として、ゴム紐の全ての部位に備わっているようなものだと考えられます。

 次に“世界的な表現”としてのムとウの記述を引用します。

「三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。この世も(また)三千に分かれ、更に五千に分かれてゐるぞ。この方 五千の山にまつれと申してあろう。今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。人民のタネによっては七つしか分らんのであるぞ。日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。イワトがひらけると更に九、十となるぞ。 〔中略〕 九十の経綸、成就した暁には何も彼も判ると申してあらうが。八つの世界とは、、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考へてよいのぢゃ。キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。その上に 又 霊の霊の個から始まってゐるのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ。霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆 直ちには判らないのであるぞ。判らんことは判らんと、わからねばならんと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「元の元のからの中界を経て、ウの現界に到る(ことごと)くの世界が 皆 人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂はに通じてゐるのであるから、はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。ウもムも同じであるぞ。ムからウ生まれて来ると申してあること、よく心得よ」 『秋の巻』 第二十五帖 [766]

 ここで引用したムとウの記述は非常に意味が判りにくいのですが、“ムの用の影響が強いものの代表”“ウの用の影響が強いものの代表”として霊界や現界が挙げられていると考えられます。

 次に“無と有の表現”あるいは“無限と有限の表現”としてのムとウの記述を引用します。

「ムからウ生まれ、ウからム生まれると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生まれるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。ムがウざぞ。世の元に返すのぞと申してあろが。ムに返れば見えすくのざぞ」 『松の巻』 第二十五帖 [316]

「物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。(しか)して、永遠性をもつ()(ぶつ)は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない」 『地震の巻』 第八帖 [385]

「小の中に大あるぞ。無の中に()あるぞ。もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。(ウム)よく見て下されよ」 『白銀の巻』 第二帖 [613]

がよろこびであるぞ。またはムでもあるぞ。内から外に向かって行くのがのやり方、外から内に向かって行くのが、がいこくのやりかた。からに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。元わからんで生きのいのちの判る(はず)ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。から出てにかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、また有限に動くのがマコトのやり方であるぞ」 『夏の巻』 第二帖 [719] 第一仮訳)

が無なればなるほどは有となるであるぞ。このことよく判りて下されよ。肚の中のゴモクすてるとよくわかる」 『夏の巻』 第十一帖 [728]

「ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。ウム組み組みてと申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限であること知れよ」 『夏の巻』 第十三帖 [730]

「無限のものと有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭は()(かく)ウになりがちぢゃぞ」 『夏の巻』 第二十三帖 [739]

「中は無、外は有であるぞ。中になる程 無の無となるのぢゃ。同じこと繰り返すと人民申すであろうが、得心して居らんから、肝腎のことぢゃからクドう申してゐるのぢゃ」 『秋の巻』 第二十六帖 [767]

「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるから、つまらんことでつまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばならんぞ、そこから正さねば、外側からばかり清めても何もならん」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]

 ここでのムとウの記述も判りにくいのですが、主に“霊と物質の関係”“霊と物質の性質”について語られているようです。基本的には前出の記述と繋がっている内容だと言えます。

 次に“言葉的な表現”としてのムとウの記述を引用します。

()()()()()にアエオイウざぞ。昔の世の元ぞ。、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。サタナハマからあるぞ。一柱、二柱、三柱、五柱、九柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。五十九の神、七十五柱これで判りたか。ざぞ。には裏表上下あるのざぞ」 『日月の巻』 第二十六帖 [199] この帖は基本訳と第一仮訳の折衷案としました。傍点は基本訳と第一仮訳のままです)

「人民が正しく言霊すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ。始め言葉の元があるぞ、ヽヽヽヽヽアと現はれるぞ、神の現はれであるぞ、言葉は神をたたへるものぞ、マコトを伝へるものぞ、(トモ)になり、倶に栄えるものぞ」 『星座の巻』 第二十帖 [903] 第一仮訳)

 この二つの記述ではムとウを囲う(まる)が徐々に開いて行きますが、(まる)は胎児を包む()()のようなものを表現していると考えられます。あるいは卵の殻や何らかの皮膜(コーティング)と見ても間違いではないはずです。恐らく、これらは“生まれつつある状態”を絵的に描写しているのではないでしょうか。これは前項で掲載した『空の巻』第三帖も同様です。

 ただし、引用した記述の中ではムとウを“言葉の元”として挙げていますので、基本的に日月神示の説くムとウは概念的なものであり、声や音のことではないと思われます。

 そして、ここまでに引用した内容から、ムとウの用によって(いざな)われる“方向”を簡単にまとめてみます。

 以上のように考えると、ムとウの用は主に“天的指向”“地的指向”という意味を持っていると思われます。これについては“霊的指向”“物質的指向”と言い換えた方が判り易いかもしれません。

 なお、この場合は一つの注意が必要です。それはムとウはを表現する(はたらき)であって、表現されたものの実体や本体と呼べるようなものは、あくまでであるということです。として表現する」とでも言えば良いのでしょうか。これは何らかの方向性(ベクトル)(もっ)て表現、あるいは活用しなければ、()()は無いのと同じようなものであることに似ています。そして、こういった側面を別の視点で見れば、

「全ては()()の中にある」

とも言えます。その意味において()()は、日月神示でと並んで重視されているの記号と同じ意味を持っているのかもしれません。は正念場にも関わる重要な記号なので、これから何度か取り上げます。

 このように、が渾然一体でありながら、いかなる存在(かたち)にも()()ことなく在った状態が、(はじめ)の前の(れい)の状態”だったと考えられます。

 こういった存在の本体としての“二つの指向性(ベクトル)を、この概論では全ての原因であり結果だと解釈しています。別の言い方をすれば最初(はじめ)の前に在るもの」であり最後(むすび)の後に在るもの」です。

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数歌としての神経綸

 前編で既に論じましたが、天之日津久神様は自らの計画を“数”で表現しています。そして、その計画が“歌の韻律(リズム)を持っていることを考察したものが【(かず)(うた)としての(かみ)(けい)(りん)】です。

 これについて解説するために、まずは日月神示において特に重要視されている(あめ)(かず)(うた)を例示します。

 天の数歌は大本教から日月神示に受け継がれたのですが、原型となった数歌は『(せん)(だい)()()(ほん)()』に登場します。この辺りのことは改めて説明しますので、取り敢えず「日月神示には旧事本紀に準拠した記述がある」とだけ憶えておいて頂ければ結構です。その中の一つが、次に引用する()(くさ)(かん)(だから)に関する記述です。

()(くさ)(とおあまり)(ふた)(くさ)(かむ)(たから)(おき)()(かがみ)()()(かがみ)()(つかの)(つるぎ)(ここの)(つかの)(つるぎ)()(つかの)(つるぎ)(いく)(たま)(まがる)(がへし)(のたま)(たる)(たま)()(がへし)(のたま)(おろち)(のひ)()(はち)(のひ)()(くさ)(ぐさ)(のひ)()であるぞ。ム、(ひと)(ふた)()()(いつ)()(なな)()(ここ)(たり)、ウ、であるぞ。ウ、(たり)(ここ)()(なな)()(いつ)()()(ふた)(ひと)、ム、であるぞ。唱えよ。()り上げよ」 『月光の巻』 第五帖 [792]

 この帖の前半では、十種の神宝には無い()握剣と()握剣を加えて“十二種の神宝”という独自の説が展開されています。それに対応しているのが後半の“ムとウを加えた数歌”です。この数歌は内容的に同じものを“順律”“逆律”()んでいて、こういった指向性の違いが、前項で言及した天的指向と地的指向であり、霊的指向と物質的指向に当て嵌まります。

 そこで、これらの関連性について解説するために、日月神示の“霊体一致の原則”の記述を引用します。

「天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は存在しない」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「多くの地上人は霊界を知らない。霊界には地上世界に顕現せる総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しない。霊人は又、霊物を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない」 『地震の巻』 第十四帖 [391] 昭和三十一年版)

「生長し、考慮し、行為するものの本体は自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。霊の自分は物質世界にあっては物質の衣をつける。故に物質的感覚は、その衣たる物質的肉体の自分なりと錯覚する場合が多いのである。しかし肉体をすてて霊界に入ったからと云って物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなって(しま)ふのではない。死後と(いえど)も物質界とは極めて密接なる関係におかれる。何故ならば物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界の(いず)れもが不離の関係におかれて(たがい)に呼吸し合っている」 『地震の巻』 第十七帖 [394] 第一仮訳)

「霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従ふもの。このこと判れば、この世のこと、この世とあの世の関係がはっきりするぞ」 『黄金の巻』 第四十八帖 [559]

「そなた達は神をまつるにも、祖先をまつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それは正しい事ぞ。なくてならんことぞ。物質をはなれて霊界のみの存在はないのであるぞよ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 第一仮訳。第二仮訳では文意が逆様になっています)

「人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前に(おい)て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。又 物質界は霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆ど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 次に引用する記述も同じ内容なのですが、日月神示の宇宙観を考える上で参考となる(かみ)という表現が出て来ます。これはや一二三の概念を理解するための(たと)えになっています。

「木にも草にも石にも道具にも それぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ」 『月光の巻』 第十三帖 [800] 第一仮訳)

 更に、このような霊体一致の原則の中でも、ムとウの(はたらき)という“指向性”に合致している記述も引用します。

「霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである」 『地震の巻』 第四帖 [381]

「神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を、形は霊を求めて御座るのぢゃ。人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 これらは「ム的なものほどウ的なものを希求し、ウ的なものほどム的なものを希求する」という主旨であり、それが前項で引用した「()から()生まれ、()から()生まれるぞ」という記述の背景になっています。ゴム紐は引っ張る力が大きいほど()()()()()()力も大きくなるようなものです。

 この他に、指向性を“竜神”として表現した記述もあります。

「竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化を嘘ざと思ふは神様迷信ぞ。天からの竜神は退化して行くのであるぞ。この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくって神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。天地の御恩 忘れるでないぞ、神の子ぞ。岩戸閉めと岩戸開きの二つの御用のミタマあると申してあらうがな。ミタマの因縁 恐ろしいぞと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第二帖 [613] 昭和二十六年版)

 以上の内容に基づき、()()を加えた数歌を、記号が内包する指向性の情報、つまり(うえ)(した)方向(ベクトル)を崩さないようにまとめてみます。

 こうして見てみると、先に引用したムとウを加えた数歌は「同じものを逆様に辿(たど)っている」ということが判ります。一枚の紙の表と裏のようなものです。また、辿る方向は逆でも「十段階を経て(はじめ)に還る」という意味では、どちらも“12345678910”です。そして、全体的に見れば(れい)から始まって“十一段階目”で再び(れい)に戻っています。ただし、(れい)には実体が無く、文字通りの()()()()なので、実際の十一になるのは“新しき(はじめ)です。

 こういった十段階とムとウの関係については、日月神示の中で“十二”もしくは“十と二”という表現で言及されています。

「今度は八の(くま)では足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。その他に隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

 この帖で「隠れた二つの神」や「二つの隈」と呼ばれている(くま)ですが、元々は、(はし)(かた)(すみ)、奥まった場所、物陰といった意味の言葉であり、日月神示では、(はな)、接点、境界、転換点というような意味で使われています。これがムとウの(はたらき)であり数霊の(れい)を指しています。

 この他にも、隈を“玉”“卵”という表現で言及している記述もあります。

「十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。この二つが天晴れ世に出る時 近づいたのであるぞ」 『秋の巻』 第二十一帖 [762] 昭和二十七年版)

「岩戸閉めの始めは()()()()の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも云へるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

 また、ムとウを一体として見た記述も存在します。この見方には「最初と最後が繋がっている」という円環的な意味が含まれているので、“十一”もしくは“十と一”という表現で言及されています。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりて()み栄ゆる仕組、十と一の実のり、()()と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳)

(いよ)(いよ)が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 以上のように、日月神示では岩戸開きを五、十、十二、もしくは十一という数で表現しています。これらの数が九の岩戸開き、十の岩戸開き、(れい)の岩戸開きと対応関係にあります。この三つの数が現在の八方的世界に加わって()()()の世界になる」というのが、日月神示の説く立替え立直しであり“いよいよ”です。この辺りの数霊論については後編で詳述したいと思います。

 そこで、先に引用した数歌を、世界の始まりである“天之御中主神の()(しょう)、日月神示で時代の転換点として説かれている“五度の岩戸閉め”、この概論で仮定している“時節の節目”と照らし合わせてみます。

 そして、このような数字的な対応関係からは一つの推論が導き出せます。

三千世界の生成化育は“天の数歌”(ひな)(がた)として計画されています。

()()()()()の原則は“数の順序”なのでしょう。

 これが数歌としての神経綸の()()です。この天の数歌には他にも大事な意味が込められていますので、終章の『(いの)りの(ことば)』の中で“ひふみ祝詞(のりと)“いろは祝詞(のりと)と共に再び取り上げます。

 最後に、上記の内容に関連する簡単な補足を二つほど記しておきます。

 一つ目は、日月神示の説く「五度の岩戸を一度に開く」という部分との関連についてです。この記述には「現在までに閉ざされた五度の岩戸を開く」という意味と、「七、八、九、十、〇の岩戸を開く」という二重の意味が込められていると考えられます。その場合、岩戸が開かれる期間が ほぼ同時期になりますが、これが「一度に開く」という表現に繋がっているのではないでしょうか。

 なお、一、二、三、四、五、六の時代に比べて極端に短い七、八、九、十の時代が一つの時代に数えられているのは、日月神示の時間観と関連しているらしいので、第四章でも論じてみます。

 二つ目は、この概論で仮定する“結びの日”との関連についてです。上記の対応関係を見て判るように、天之日津久神様が明かしている“最後の審判の日”()()月です。

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雛型

 日月神示において、神霊的な存在との経路を繋ぐとされている行為や事象が【(ひな)(がた)】です。これは或る種の象徴化(シンボライズ)の技法”であると言えます。なお、雛型は単に(かた)と形容されることが多く、二つを区別して論じる場合もあるのですが、この概論では基本的に同義の言葉として使用します。

 そもそも、このような“型の概念”は大本教で重要視されていたもので、大本信徒が「型の大本」と自称するほどでした。そして、大本系統の宗派にとっての型とは本質的な意味を共有するもののことであり、祭祀の知識がある人は(かた)(しろ)(より)(しろ)の延長線上にある考え方」と言われた方が判り易いと思います。

 また、雛型について説明するために一例を挙げるなら箱庭(ミニチュア)が適当かもしれません。これは現実の世界を()した箱庭を作ることにより、()()()()()現実の世界に影響を与えられるというものです。このような考え方の背景には「本質的な形質(かたち)が同じものは同調(シンクロ)する」という感覚が存在しており、型の概念では一種の法則とすら認識されています。

 現代人にしてみれば、こういった感覚は呪いの(わら)人形に代表される呪術や魔術の(たぐい)に感じられるかもしれませんが、大本系統での型の概念は非常に肯定的な意味で使われています。なぜなら雛型は、同調した正神や善霊の姿を自身に()()()ことによって、現実の世界を浄化、聖化、純化、美化、善化する側面を持っているからです。

 参考として、そのような意味で使われている日月神示の記述を引用します。これらの殆どは()()が降りた当時の役員信者への指示ですが、現在の信奉者への言葉としても通じる内容を含んでいます。

「今迄の事は 皆 型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も 皆 型ぞ、鳴門と(うず)(うみ)の仕組も型してくれよ。尾張の仕組も型 早よう出してくれよ。型 済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ」 『日月の巻』 第十二帖 [185]

「型してくれたのざから、もう(はじめ)の仕組よいぞ」 『日月の巻』 第十七帖 [190]

「三、四月に気つけてくれよ、どえらい事 出来るから何うしても磨いておいて下されよ、それまでに型しておいてくれよ」 『日の出の巻』 第六帖 [219]

「此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦は無いのざぞ、それまでに型さしておくぞ、御苦労なれど型してくれよ」 『日の出の巻』 第十六帖 [229]

「いづこも仮であるぞ、世が変りたら結構にまつりくれよ、今は型であるぞ、祀れと申してあること忘れるなよ、まつはらねばならぬのざぞ、神がついてゐるのざから神の申す通りにやれば箱指したように行くのざぞ」 『日の出の巻』 第十七帖 [230]

「山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型 結構ぞ。何もかも神人共にするのざぞ」 『夜明けの巻』 第五帖 [325]

「早よ誠の臣民ばかりで固めてくれよ。神世の型 出してくれよ」 『夜明けの巻』 第七帖 [327]

「岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。今度はみづ逆さにもどるのざから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。時待てと申してあろが。人民 大変な取違ひしてゐるぞ。次の世の型 急ぐ急ぐ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

「一所だけ清いけがれん所 残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、型 出さねばならんぞ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「建替は今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ、それで型 出せ出せと申してゐるのぢゃぞ」 『風の巻』 第八帖 [359]

「人民には見当取れん大きな大きな大望ざから、その型だけでよいからと申してゐるのぢゃ、型して下されよ」 『岩の巻』 第十帖 [375]

「この道に(ゆかり)ある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ」 『光の巻』 第六帖 [402]

「ミロクの世のやり方 型出して下されよ、一人でも二人でもよいぞ、足場 早うつくれと申してある事 忘れたのか」 『梅の巻』 第二十帖 [447]

「よう分けて聞きとりて折角の(えにし)と時を外すでないぞ、世界中の事ざから、いくらでも代へ身魂、代りの集団(まどひ)つくりてあるのざぞ。尊い身魂と、尊い血統、忘れるでないぞ。型は気の毒ながら この中から」 『青葉の巻』 第十三帖 [482]

「この中から神示通りの型 出せよ。出さねばならんぞ」 『黄金の巻』 第十六帖 [527]

()()は光の道 伝へ、行ふ所、(おしへ)でないと申してあろう。教は教に過ぎん。道でなくては、今度はならんのぢゃ。天の道、地の道、もろもろの道、型 早う急ぐぞ」 『春の巻』 第一帖 [658] 第一仮訳)

 こういった型を打ち出す行為は、霊界と現界、神霊と人間を繋げるための“神業”と認識されていて、日月神示でも非常に重要視されています。

 そして、前項で言及した天の数歌との類似性を筆頭に、神経綸には幾つもの雛型が重層的に織り込まれています。そのように仕組まれている理由が、()()の宇宙観に含まれる形で述べられた部分も引用してみます。

「歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「全大宇宙は神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に宇宙そのものが神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失はず生活するのである。その状態よりも(なお)一層に そのままであって、何等の変化もないと思へる程である。(さなぎ)(ちょう)になる如く弥栄へるのであって、それは大いなる喜びである。何故ならば大歓喜なる大神の中に(おい)て、大神の その質と性とを受け継ぎ呼吸してゐるからである」 『地震の巻』 第八帖 [385] 第一仮訳)

「人間が物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、即ち肉体を持ち、霊界に入った時は それに相応した霊体を持つ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である。大宇宙にも頭があり、胴があり、手足があり、目も鼻も口も耳もあり、又 内臓諸器官に対応する それぞれの器官があって常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない」 『地震の巻』 第十六帖 [393]

「神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に自分新しく生むときは、自分と同じ(かた)のものを生む。大神 弥栄なれば、神も弥栄、神 弥栄なれば人民 弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ。道ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

「人間は大神のウズの御子であるから、親の持つ、新しき、古きものが そのまま型として現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]

「人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体の型とし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の(また)や土から生まれたのではマコトの親子ではないぞ」 『秋の巻』 第二帖 [743]

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなってゐるぞ。人間も 又 同様であるぞ。宇宙にあるものは 皆 人間にあり。人間にあるものは 皆 宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神の(ひな)(がた)と申してあらう」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年版)

「人民の肉体も心も天地も 皆 同じものから同じ想念によって生まれたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ」 『至恩の巻』 第五帖 [952]

 日月神示は宇宙が神の中に生まれたことを繰り返し説いていますが、それ故に宇宙は神の形質(かたち)を受け継いでいるとのことです。それは子が親の姿に似るのと同じことなのでしょう。このため、神様によって生み出された神の計画も、“神の(ことわり)“神の物語”といったものに準じざるを得なかったのだと考えられます。そういった意味では()()しかできなかった」と表現する方が正確なのかもしれません。

 以上が神経綸に多くの雛型が織り込まれている理由であり、同時に日月神示で神話が極めて重要視されている理由でもあると考えられます。

 また、逆の視点で見れば、計画の土台になった類型(パターン)を理解することによって、事象が内包する象徴的(シンボリック)な意味を より正確に把握することができます。これを雛型となる行為に還流(フィードバック)して神霊との繋がりを更に強固にすることもできるはずです。

 こういった視点から展開しているのが、第三章の総論である『三千年と五十年』及び『真珠の首飾り』です。この総論の中で、大本系統の神話に沿って打ち出された雛型が日本人にどのように関わっているのか、一つの仮説を提示したいと思います。

 その意味では、雛型は中編での事実上の主題(メインテーマ)だと言えます。

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円環

 日月神示では、四季が巡るように宇宙にも循環的な周期(サイクル)が存在し、天と地の関係ですら その(ことわり)の中にあることを説いています。それは宇宙が脈動する姿であり“神の呼吸(リズム)とも言えます。このように一定の周期や順序を経て(はじめ)の姿に還らせようとする(はたらき)が、神経綸の背景の一つである【円環】の概念です。

 円環とは元々ドーナツ状の形態を指す言葉ですが、「どこに向かって進んでも元の位置に戻る」という性質や状態を表現する言葉としても使われます。また「同じことを繰り返す」という意味で(ループ)と表現される場合もあります。

 このような円環の動きを図形的に表現すれば(えん)になります。また、()()では円環の「常に動いている」という側面や「元に還っても以前と完全に同じではない」という側面を重視して(らせん)と表現される場合もあります。その他にも、日月神示は円環的な動きの原因および結果として現れる(ちゅうしん)の存在も説いており、更に両者が組み合わさった全体像としてのの姿についても言及しています。

 これらの記号(シンボル)は非常に抽象的なのですが、要するに宇宙の動きや在り方を象徴化(シンボライズ)したものです。その意味するところは大変に広く深く、様々な分野に当て嵌めて考えることができます。なお、『地震の巻』第十三帖でも高度の霊人が数字と記号を文字として多用していることが明かされていますが、それはこういった点に理由があると思われ、日月神示の宇宙観を突き詰めて行けば最終的に数霊論と記号論になるはずです。実際に時節概論でも要所で記号(シンボル)論を展開していますし、この第三章の最後も象徴(シンボル)論です。

 そこで、こういった円環の概念が背景にあることを類推し易い記述を引用してみます。

「お太陽()(まる)いのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ、人も円いのが良いのではないぞ、息してゐるから円く見えるのざぞ、(はたら)いてゐるから円く見えるのざぞ、皆 形無いものいふぞ、息してゐるもの皆 円いのざぞ。神の経済この事から生み出せよ、大きくなったり小さくなったり、神の御心通りに(はたら)くものは円いのざぞ、円い中にも(しん)あるぞ、神の政治、この事から割り出せよ、神は(まつり)(ごと)の姿であるぞ」 『日の出の巻』 第十四帖 [227]

「世はクルクルと廻るのざぞ」 『磐戸の巻』 第十七帖 [253]

「霊界と物質界は かくの如き関係におかれている。()()にこそ大生命があり、大歓喜が生まれ、栄えゆくのである。更に極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界が また映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じてを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして大神の大歓喜は大いなる太陽と現われる。これによりて新しく総てが生まれ出る。太陽は神の生み給えるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生まれ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては神の中に歓喜として(はら)み、生まれ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばならない」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上 述べた処によって、これら霊人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである」 『地震の巻』 第五帖 [382] 第一仮訳)

「守護神守護神と申してゐるが、魂の守護神は肉ぞ。肉の守護神は魂ぞ。くるくる廻って 又 始めからぢゃ。前の始と始が違ふぞ」 『黄金の巻』 第十二帖 [523]

「四季はめぐる。めぐる姿は(ウズ)であるぞ。は働き、上れば下り、下れば上る」 『黄金の巻』 第九十五帖 [606]

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 第一仮訳)

「皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。始の始と始が違ふぞ。皆 始めヒからぢゃ。赤児になりて出直せよ」 『春の巻』 第一帖 [658]

「一切のものは(ウズ)であるぞ。同じこと繰り返しているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな」 『春の巻』 第十帖 [667]

「曲がって真っ直ぐと申してあらう。動きは正円形、正円球でないぞ。()(えん)、楕円球であるぞ、大き動きと それぞれの各々の動きと組み組みて曲がれるのであるぞ、また真っ直ぐになるのであるぞ」 『秋の巻』 第十三帖 [754] 昭和二十七年版)

「この神は現在も(なお)、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理 判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ」 『星座の巻』 第七帖 [890]

 このような円環や(ループ)を象徴する絵としては“ウロボロス”が有名です。これは自分の尾に噛み付く蛇や竜のことですが、日月神示にも関係していると言えます。なぜなら、()()の仕組は“始点と終点を結ぶ仕組”とも表現できるからです。それ故、()()には円環の概念が持つ循環性や永続性を「始まりも終わりも無い」という種類の言葉で表現した記述も存在しています。

「神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに地上人としては割り切れない程の神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その(へい)(こう)を破るようなことになってはならない。その平衡が神の()(むね)である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。左手は右手によりて生き、動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿が それである」 『地震の巻』 第十五帖 [392]

「元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終りなく始なく弥栄えてゐるのぞ」 『黄金の巻』 第一帖 [512]

「神心には始めも終りも無いのぢゃ、総てがあるのであるぞ。世界見よ、三千世界よく見よ、総てが神示ぢゃ」 『黒鉄の巻』 第九帖 [627] 第一仮訳)

「よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。始の始と始が違ふぞ。後になるほどよくなるぞ。終りの中に始めあるぞ」 『夏の巻』 第十四帖 [731]

「世の元はであるぞ、世の末もであるぞ、からに弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]

 この他に、円環的な動きを時節と絡めて述べている記述も存在します。これは或る意味で()()の本質”を明かしたものだと言えます。

「春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節ほど結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神の(ハタラキ)であるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ」 『月光の巻』 第五十八帖 [845]

 ここまでに引用した円環の記述に少々補足しますと、要するに神様の計画はマラソン競技と同じで出発点(スタート)到着点(ゴール)が同じ場所なのです。また、極論するなら立替え立直しは()()()()()()()「単なる必然(リズム)である」と言えるのかもしれません。

 そう考えれば、日月神示が“元”を重視する理由が見えて来ます。()()こそが神の呼吸の行き着く先であり、全ての存在の本来の状態、即ち、これからやって来る“ミロクの世の姿”なのです。

 ただし、未来は過去と完全に同じではありません。恐らく、()()は数の進み方のように、同じことを繰り返しつつも違いが生じ、違いが生じながらも同じことを繰り返しているのでしょう。日月神示で三千世界の生成化育や神経綸の進展段階が数字で表現されているのは、この辺りにも理由があると思われます。

 最後に、(きた)るべき世界”が円環の概念を背景として生まれることを強調した記述も引用しておきます。

「かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も各々その最後の審判的段階に入るまでは真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に新天新地の来るまで真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生まれ、より大なるものより、より小なるものが生まれ、より新しきものより、より古きものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人は かくして生まれ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである」 『地震の巻』 第八帖 [385]

 なお、この記述で語られている一と二と三の関係や“最後の審判”については、終章で改めて考察します。

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天地

 日月神示を降ろした天之日津久神様は自らの宇宙観を一つの言葉によって表現しています。その言葉が伝えているのは(てん)()が始まる前から存在する根元神の姿であり、霊と物質が一致した調和(マツリ)の状態であり、人間の意識の(まこと)の在り方であり、これから実現するミロクの世の様相です。他にも多くの意味を含む その言葉が【(あめ)(つち)】です。

 この項では、それらが()()の唱導する(マツリ)(ミチ)の概念に どのように通じ、同時に(てん)()(かい)(びゃく)へ どう繋がるのかを論じて、始まりの前に関する考察の総論にしたいと思います。

 前項でも論じましたが「世界は円環している」という考え方が日月神示の基本的な宇宙観の一つです。そのため、(あめ)(つち)とは(てん)()が分かれる前の世界であると同時に、(てん)()が結ばれた後の世界のことでもあります。これは“一なる()()のことであり()()の世界”とも言い換えられます。故に、このような循環的な周期(サイクル)に基づく神様の計画は、

「全ては(はじめ)に還る」

という風にも要約できます。また、こういった宇宙観が日月神示の“創世神話”へと繋がっています。それというのも、第六巻『日月(ひつく)(まき)』の中で描かれている創世の物語は(あめ)(つち)(とき)という一言から始まっているからです。この言葉は他にも使われているので引用してみます。

「天地和合してとなった姿が神の姿ざぞ。()(こころ)ざぞ。(あめ)(つち)ではないぞ。アメツチざぞ。アメツチの時と知らしてあろうが、みな取違ひ申して済むまいが。神示よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろが」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

「世の建替へと申すのは、身魂の建替へざから取違ひせんよう致されよ、ミタマとは身と(たま)であるぞ、今の学ある人民 ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。(あめ)(つち)(とき)来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ、神示読んでタマ早う掃除せよ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

 このように、日月神示は遠くない未来に(あめ)(つち)()()が到来することを告げています。なお、この(あめ)(つち)という言葉には更なる意味が込められているのですが、それはすぐに後述しますので、まずは円環に関連する部分に絞って話を進めます。

 円環と言っても別に難しく考える必要はなく、日月神示では、原因であり結果であり、発端(プロローグ)であり結末(エピローグ)であり、出発点(スタート)であり到着点(ゴール)である()()が、最初から明かされているだけの話です。つまり、

日月神示の創世神話は最後(むすび)の言葉”から始まっているのです。

 ちなみに、日本語では物事の最後を“結び”という言葉で表現する場合がありますが、これは何かを一つにまとめる作業の最後が、紐状のものの両端を結び合わせる行為である場合が多かったことに由来しています。そのため、結びは「封じる」や「()める」や「固める」という意味も持っています。こういった意味合いが、(てん)()を結んで(あめ)(つち)を実現する不二の仕組が「動かん」と形容されている理由だと考えられます。

「動かん富士の仕組の鳴門の仕組」 『黄金の巻』 第二十帖 [531]

「不二の仕組とは動かん真理、(ウズウミ)の鳴門の仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

「自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマの道でなくては立ちては行かん、動かん富士の仕組、ひらけて渦巻く鳴門ぢゃ。新しき人民の住む所、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894]

 これらの記述に見られる“富士と鳴門の仕組”とは、大本系統では()(みづ)の仕組や()(みつ)の仕組、あるいは()(みつ)の仕組”と伝えられています。ちなみに、神典研究者の間では富士山と鳴門の大渦が内包する象徴的な意味から“静と動の仕組”と考えられており、この概論では「水で溶かして火で固める計画である」と結論しています。

 そして、こういった「世界を固定する」という考え方は、古事記の創世神話における修理(つくり)固成(かため)の物語を背景としています。結局の所、日月神示の時節論は()()()()()()()()論として、この修理固成の物語に集約されることになります。これは非常に大事なことなので後で何度も言及します。

 また、引用した記述の中に見られたように、日月神示は何箇所かで()()「真理」と呼んでいますが、これも(あめ)(つち)の概念に関連していると思われますので、少しだけ触れてみます。

()()は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

「なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生まれるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

「マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、その裏は十九八七六五四三二一〇で、合わせて二十二であるぞ、()()が真理と知らしてあろう、()()()()と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 簡単に言って()()(まこと)(ことわり)という主張は、(てん)()が調和した状態が“三千世界の真実(まこと)の姿”であり、同時に、その実現に尽力する姿勢や意識そのものが至誠(まこと)であることを説いているのだと考えられます。

 日月神示では、この他にも(あめ)(つち)という言葉が使われているのですが、それらは(てん)()(つい)なるもの”という主旨で使っています。これは明確な(たい)(ぐう)(せい)を備えているもの同士のことで、陽と陰、表と裏、上と下、左と右、男と女のような関係にあります。そのため、対なるものの協調や一体化という意味を内包する(あめ)(つち)という言葉は、()()調和(マツリ)の宇宙観”を象徴する言葉としても使われており、日月神示の説く三千世界観や善悪観や日本観に密接に関わっています。

 これらについての詳しい解説は、対なるものの象徴である伊邪那岐神と伊邪那美神、善と悪の象徴である()()(なる)(のかみ)()(また)大蛇(のおろち)、そして日本という国号に秘められた霊的な意味の解説などでも言及しますので、ここでは残りの(あめ)(つち)の記述を引用して論じてみます。

「悪い者 殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂までは、人民の力では どうにもならんであろがな。元の(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居りながら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、(アメ)(ツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

「分け(へだ)てと云ふ事なく一致和合して神に仕へまつれよ、和合せねば誠のおかげないぞ。先づ自分と自分と和合せよ、それが和合の第一歩、アメツチ心ぢゃぞ、すべてはそこから生まれ来るものなのぞ」 『青葉の巻』 第六帖 [475]

「一三五七九が天であるぞ、又、二一六が天であるぞ。二四六八十が地であるぞ。又、一四四が地であるぞ。一から始まって合わせてアメツチぢゃ。天、上にあるのであるが上でないぞ。中にあるのであるが中でないぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 第一仮訳)

「天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。天国は霊人のみの住む所でないぞ。そなた達も今住んでゐるでないか。霊人も現界に住んでゐるでないか。現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。アメツチと申してあらう。この道理よくわきまえよ。善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614]

「神と金と二つに仕へることは出来ん、そのどちらかに仕へねばならんと、今迄は説かしてゐたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ。影しか判らんから、時節が来て居らんから、さう説かしてゐたのであるが、この度、時節到来したので、マコトの道理 説いてきかすのぢゃ。神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ。嬉し嬉しとはそのことであるぞ。神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ。まつれるのであるぞ。これが、まことの正しきマコトの信仰であるぞ。今迄の信仰は()()かにさびしき、もの足りなさがあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな」 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654] 第一仮訳)

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は()が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、(カミ)(ヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ、(てん)()がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

 ここで述べられているように、(あい)反するもの同士、あるいは性質の異なるもの同士が、反発し合いながらも最終的には一致和合して弥栄することを軸にした宇宙観が、日月神示の説く(マツリ)(ミチ)の概念に繋がっています。こういった“神の呼吸(リズム)と称されるべき“分離と統合の(はたらき)は次のようにも表現できます。

「対なるものは結ばれて新生する」

 これを更に別の言い方にすれば「三に()()とも表現できます。この考え方は何らかの対立事項を超越することを“第三の道”と称するのに似ています。日月神示の原文では“三”と書いて(みち)と読ませる書き方が頻出しますが、それは「一つのものが二つに分離して再び一つに統合される」という意味を内包する(さん)が、調和や新生を象徴する数であるからだと思われます。この点について言及した記述も存在します。

「道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、元の昔に返すのざぞ、修理(つくり)固成(かため)の終わりの仕組ぞ、終わりは始めぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

のうつりた人とのかかりた人との大戦ぞ、とが戦して、やがてはを中にしてがおさまるのぞ。その時はでなく、でないのざぞ、となるのざぞ、のマツリぞと申してあらうがな」 『地つ巻』 第二十二帖 [159] 第一仮訳)

の中のの中のは一であり二とひらき三と生命するぞ。道は一で二で三であると申してあらう。一も二も三も同じであり違って栄えるのざ。()()()であるぞ。このこと教へられても判るまい。肚で判る大切こと、肚 大切ぞ。かたまってはならん。に捉はれるとは判らん」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 他にも(ミチ)不二(ひとつ)の関係について述べられた記述もあります。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898] 数霊的な側面を意識しないのであれば、最後の部分は「道であるぞ」と訳すのが適当だと思われます)

 ここでは二十二(フ ジ)は三でもある」と説かれていますが、これは()()()()()()()()()を実現するのが()()の仕組であるからだと考えられます。()()こそが日月神示で繰り返し登場する“元の神”“元の世”という言葉が指すものであり、(てん)()の開闢の前に存在していた“前なるもの”“三千世界の本来の姿”であるはずです。故に、対立を超えて物事の調和の実現を図ることが人間の意識の(まこと)の在り方であり、人生の正道なのでしょう。すなわち(ミチ)です。

 また、三になるということは“新しき(ひとつ)が生まれることを意味していますので、次のような単純(シンプル)な形で表現することもできます。

1+1=3(1)

 こういった特異な数え方は日月神示で何度も述べられています。

「神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。一に一足すと二となると云ふ(そろ)(ばん)や物差しでは見当取れんのざぞ」 『地つ巻』 第二十一帖 [158]

「一に一足す二でないと申してあろが」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、神に(たず)ねて神の科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったら神に尋ねと申してあること忘れるなよ、一に一たす二ばかりとは限らんのぢゃ、判りたか」 『梅の巻』 第十五帖 [442]

「そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ」 『月光の巻』 第六十二帖 [849]

「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、(レイ)がもとぢゃ、()()が元ぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 そして、このような()()の状態を実現するのが、根元神の表現であり、結びの(はたらき)を成す“数霊の(れい)だと考えられます。この“存在しない()()あるいは“無きが如き存在”については終章で再び取り上げますが、最後の章で論じる理由の一端を述べておきますと、数霊の(れい)には数学史での『(ゼロ)の発見』と似た側面があると思われるからです。簡単に言うと、()()()()()()()()()()()()()()らしいのです。

 この点が()()“九分九厘”という表現に繋がっており、同時に数霊の九と十が()()()という表現で(れい)(ひと)(くく)りにされている理由だと考えられます。この辺りの(れい)と九と十の数霊の繋がりは、“対なるもの”の解説や後編の数霊論で取り上げたいと思います。

 更に、これまでに論じた宇宙観は、日月神示に関する“ある基本的な疑問”に一つの()()を与えています。

()()()()の別名は()()()なのか?

 この疑問については終章で明確な回答(こたえ)を導き出しますが、その際に秘密(こたえ)は最初から明かされていた」ということが明瞭になると思います。天之日津久神様は根元神の象徴(シンボル)である()記号(シンボル)や、自らの言葉の表題(タイトル)でもある()()()、もしくは「(あめ)(つち)の時」や「富士は晴れたり日本晴れ」という最初(はじめ)の言葉”の中に()()を込めているのです。

 それを念頭に置いて終章まで読み進めて頂ければ、日月神示は論じれば論じるほど(はじめ)に還って来ることが判って頂けると思います。

 ここまでの内容から見えるように、日月神示の表現は深い部分で相互に繋がっており、天之日津久神様が非常に周到で繊細な配慮を以て言葉を選んでいらっしゃることが窺い知れます。無論、これらを単なる()()合わせや言葉遊びと見ることも可能なのですが、実際には「日本語の(たえ)なる側面が現れた結果」と見る方が自然なのではないでしょうか。

 このように、日月神示は本質的な意味を共有する言葉を繋げることで読み解ける、一種の“連想法”に近い手法で書かれています。これについては後編の内容、特に第七章での隠喩(メタファー)の解説で更なる詳細を明らかにできると思います。また、第八章の最後で論じる“神経綸十を象徴する言葉”も同様の手法を使って特定したものです。

 以上が、日月神示で重要視されている“始まりの前”に関する考察です。そして、ここまでに論じた()()の宇宙観から見えて来るのは「次なるものを形づくる()()は前なるものの中に既に存在している」という点です。これは(たね)から()()()実の中に同じ種が宿るようなものだと考えられます。

 その種子が存在する故に、生んだものと生まれたものは(しゅ)の同一性”を保ったまま連綿と続いて行きます。それは、親が子として、子が親として新しく生まれ続けて行く“継承の宇宙観”に他なりません。これは「無くなることなく受け継がれて行く」という意味において徹底した未来指向の宇宙観であるのと同時に、過去と現在と未来の一切を祝福する極めて肯定的な意味を含んでいるのではないでしょうか。

 このような宇宙観を背景として、日月神示は未来の行き着く先が過去で()あることを説いています。要するに、()()が指し示す三千世界の物語の最後(むすび)は、宇宙を生んだ()()状態(すがた)に還ることなのでしょう。それは生まれたものが生んだものに()()ことであり、その状態を表現する言葉が(あめ)(つち)なのです。

 或る意味で、神経綸とは“根元的な(なにか)が自らを取り戻して行く(どう)(てい)のことなのかしれません。そう考えることにより、日月神示で始まりの前が重要視されている理由が見えて来ると思います。

 そして、こういった宇宙観が古来から伝わる日本神話へと繋がって行きます。なぜなら、始まりであり終わりでもある(あめ)(つち)の状態は、「あらゆる性質を(あわ)せ持つ中間状態」という意味において“全て”“真ん中”という側面を持っているからです。

 恐らくは それ故なのでしょうが、古事記と日月神示で宇宙に一番目に現れたとされる存在は“中央”を意味する御名を持っています。そして、ムスビの名を持ち、最初の“対なるもの”である二番目と三番目の神と共に(さん)()(いっ)(たい)を形成すると考えられています。

 この【(ぞう)()(さん)(しん)】の出現と共に、生まれつつあった(なにか)(てん)()として(かい)(びゃく)します。



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