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| 2010/ 7/31 | 第三章の第一節の第五項を掲載 |
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| 2010/ 2/28 | 凡例を掲載 |
| 2010/ 2/22 | 中編序文を掲載 |
| 中編序文 | 2010/ 2/22 | ||
| 凡例 | 2010/ 2/28 | ||
| 名称 | 2010/ 2/28 | ||
| 資料 | 2010/ 2/28 | ||
| 校正 | 2010/ 2/28 | ||
| 表記 | 2010/ 2/28 | ||
| 第三章 | 日本 | ||
| 3-0 | 天子様の年齢 | ||
| 1 | 十七日の根拠 | ||
| 2 | 二つの注意点 | ||
| 3 | 天子様の誕生日 | ||
| 4 | 神と天皇の物語 | 2010/ 3/ 5 | |
| 鶏子 | |||
| 3-1 | 天地の開闢 | 2010/ 4/25 | |
| 1 | 神は宇宙を創り給わず | 2010/ 5/16 | |
| 2 | 数霊の〇 | 2010/ 5/28 | |
| 3 | 前なるもの | 2010/ 6/17 | |
| 4 | ム / ウ | 2010/ 7/12 | |
| 5 | 数歌としての神経綸 | 2010/ 7/31 | |
「日本とは何か」
と問いかけるなら、「天皇を中心とする神の国」と答えることができます。では、
「天皇とは何か」
と問いかけるなら、「日本の本質」と答えることができるでしょう。
本質とは「
日月神示において“


このような意味を持った“
また、日月神示では“


この時節概論の中編が、日月神示の説く“
の概念”について考える一助となれば幸いです。
平成二十二年二月二十二日 すめらみちの
この概論での【
この概論での【
なお、岡本天明氏に伝えられた啓示には、『
この概論での【原書】とは“岡本天明による自動書記の直筆と
この概論での【原文】とは原書を書き写した“翻訳されていない日月神示”のことです。原文の一部は当時の機関紙に掲載されており、販売されたこともあります。原文は写し間違いがある可能性を考慮して原書とは区別します。
また、原文とほぼ同じ意味で使う【原典】とは“『原典日月神示』の内容”のことです。昭和五十一年に出版されたこの資料には、第一巻から第二十三巻までの原文が収録されており、他の原文資料と区別する必要がある場合は原典と記します。なお、この概論に記載されている原文は特に明記がない限り原典からの引用です。
この概論での【第一仮訳】とは“岡本天明が最終校正をした訳文”のことです。具体的には以下の資料が該当します。
| 【昭和二十六年版】 | 『 神示』 | 第二十四巻から第二十六巻までを収録 |
| 【昭和二十七年版】 | 『 神示』 | 第二十七巻から第三十巻までを収録 |
| 【昭和二十九年版】 | 『日月神示』 | 第一巻から第二十三巻までを収録 |
| 【昭和三十年版】 | 『地震の巻』 | 第十七巻を収録 |
| 【昭和三十一年版】 | 『月日霊示』 | 後に『月光の巻』と改題された霊示を収録 |
| 【昭和三十七年版】 | 『五十黙示』 | 五十黙示の全巻を収録 |
| 【昭和三十八年版】 | 『日月地聖典』 | 第二十四巻から第三十巻までと月光の巻を収録 |
この中で昭和三十八年版は天明氏の死後に出版されたものであり、本人の許可を得ていない編集行為が介在している可能性があります。しかし、介在していない可能性もあるので、この概論では第一仮訳に含めます。また、昭和三十八年版では『月日霊示』を『月光の巻』と改題して収録していますが、これが天明氏の意志に基づいていたかどうかは不明です。
この概論での【基本訳】とは“昭和二十八年に岡本天明が最終校正をした平仮名訳”のことです。訳文としての精度が最も高く、第一巻から第二十三巻までが収録されています。なお、基本訳は以後に出版された訳文の元になったという意味では、「岡本天明による第一仮訳」と呼ぶのに最も
他にも、昭和十九年から昭和二十五年の間に訳文が何種類か製作されましたが、全文ではなく翻訳の精度も低いため、参考資料には含めないことにします。また、このような翻訳初期の問題点から訳文の決定版とすべく製作されたのが基本訳です。
この概論での【第二仮訳】とは“岡本三典が最終校正をした訳文”のことです。これは昭和五十年代前半に製作されました。現在の主流となっている平成時代に出版された日月神示は第二仮訳の内容を
◆
この他にも、書籍として出版された日月神示の訳文には、岡本天明氏や岡本三典女史が直接関わっていないものが幾つかあります。これらは流通した分量が少なく、翻訳の内容が第一仮訳や第二仮訳と大差がないので参考資料には含めないことにします。
資料を比較して異同がある場合は新規に校正を行います。校正の基本的な原則は次の通りです。
| 一、 原文と基本訳以外の訳文で異同がある場合は原文を優先します。 |
| 一、 第一仮訳と第二仮訳で異同がある場合は第一仮訳を優先します。 |
| 一、 基本訳と第一仮訳で異同がある場合は基本訳を優先します。 |
| 一、 原文と基本訳で異同がある場合は個別に判断します。 |
以上ですが、総合的な資料検証の結果として、上記の原則に例外を設ける場合があります。
第一仮訳や第二仮訳の「てんし様」の表記を「天子様」に改めます。
旧仮名遣いの一部の表記を現代仮名遣いに改めます。
第六巻『
| 一、 | 片仮名訳と平仮名訳の部分に古事記に準拠した漢字と仮名を当てます。 |
| 一、 | 御神名の漢字と振り仮名を古事記に準拠したものに改めます。 |
| 一、 | 同じ名が二度繰り返されている御神名は二度目の御神名を片仮名に改めます。 |
| 一、 | 会話部分に鉤括弧を付加します。 |
| 一、 | 神々の化生順に通し番号を付加します。 |
| 一、 | 二度目の御神名に通し番号を付加します。 |
◆
(※凡例は適時追加します)
天皇の起源を
日本の
記紀は千年前から読み継がれ、更に千年後も読み続けられることが確実であるため、常に『
日月神示では、
そもそも、天之日津久神様は読み手に記紀の知識があることを前提に
このような理由から、第三章は記紀と
それでは“
◆
記紀や世界中の神話がそうであるように、日月神示での神々の物語も【天地の開闢】から始まります。
日月神示の説く“
「我々の一切は生まれつつある。神も宇宙も森羅万象の
悉 くが常に生まれつつある。太陽は太陽として太陰は太陰として絶えず生まれ続けている。一定不変の神もなければ宇宙もない。常に弥 栄 えつつ限りなく生まれに生まれゆく。過去もなければ現在もなく未来もない。ただ存在するものが生まれに生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]
この記述で見受けられるように、何らかの結果が現れようとする瞬間、つまり“結実の直前”の状態である“前なるもの”を重視して説かれているのが
これは、或る意味で徹底した未来指向の宇宙観であり、一切を祝福する極めて肯定的な意味を含んでいると言えます。こういった宇宙観が、
また、それが時節や神経綸の概要を解説することに繋がっています。なぜなら、数の
「全ては
という計画を立てているのが天之日津久神様だからです。同時に、この計画は宇宙の自然な
日月神示の宇宙観の中でも根幹を成していると思われるのが【神は宇宙を創り給わず】という部分です。
「神は宇宙を創り給はず。神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] (※第一仮訳)
「神は宇宙を創り給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切な別れ道で御座るぞ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]
「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]
この他にも同じ意味のことを述べた記述も複数あります。
「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]
「人民いくら頑張っても神の外には出られん。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]
「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ。このこと よくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと善悪のこと、よく判って来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]
「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構」 『月光の巻』 第九帖 [796]
「そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ。思ふさまやりてみて早う得心改心いたされよ」 『月光の巻』 第五十三帖 [840]
「人民は神の中にゐるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのぞ」 『極めの巻』 第十三帖 [940]
更に同様のことを、日月神示の特徴である“歓喜の宇宙観”と絡めて述べた記述も存在しています。この宇宙観は三千世界の一切を肯定する非常に高い視座から説かれており、その主旨を極めて簡単に要約すると「あらゆる存在の本体は歓喜そのものであり、宇宙の全ては喜び合うために生まれた」という内容です。
「かくして、大神の大歓喜は大いなる太陽と現われる。これによりて新しく総てが生まれ出る。太陽は神の生み給えるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生まれ給うのである。
は絶えず繰り返され、更に新しき総ては神の中に歓喜として
孕 み、生まれ出て、更に大完成に向かって進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用 に於いては千変万化である。千変万化なるが故に一である。一なるが故に永遠である」 『地震の巻』 第三帖 [380]「人の生後、即ち地上人の生活は生前の生活の延長であり、また死後の生活に そのままにして進み行く。立体となり、立々体と進み、弥栄する処に尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化弥栄することにより善悪美醜の
悉 くは歓喜となる。故に神の中に神として総てが弥栄するのである」 『地震の巻』 第五帖 [382]「地獄はないのであるが、地獄的現われは生前にも生後にも また死後にもあり得る。しかし、それは第三者から そのように見えるのであって真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に総てのものが生長しているためである」 『地震の巻』 第十七帖 [394]
「宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり弥栄であるぞ。そこに生命あり喜びあるのぢゃ。大神の中で宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655]
ここまでに引用した記述に見られるように、日月神示では「宇宙は神の中に生まれた」と主張しています。これを別の言い方にするなら「一切万物は唯一者の無限の側面の一つである」と表現しても良いでしょう。そのような視点からの記述も引用してみます。
「何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]
「太日月地大神としての この神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。この方一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。
汎 神 ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ」 『春の巻』 第二十一帖 [678] (※第一仮訳)「宇宙の総ては この神の現れであり一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのであるぞ。その何処つかんですがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息 通ふているぞ」 『春の巻』 第二十二帖 [679]
「一神説いて多神説かんのも
片 輪 、多神説いて一神説かんのも片輪、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]「神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。
道 端 の花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に総てを見せて飲み込ませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから気長に神求めよ」 『夏の巻』 第十七帖 [734]「この世は 皆 神の一面の現われであるぞ」 『月光の巻』 第六十一帖 [848]
以上の記述から推察する限り、天之日津久神様は「宇宙の全ては神が
前記のように、“神が
「人間には神は知れんものぞ。神のはたらきのみ やっと知れるぞ。神の
能 きは千変万化、能 き見て神そのものと思ふは人間心」 『黄金の巻』 第四帖 [515]「肉体人に神は直接分らんものぞ。神は
能 き、神の働きの影しか判らんものぞ。神の姿 見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。心に判っても肉体に判るものでないぞ」 『黒鉄の巻』 第三十一帖 [649]
また、神の神たる“根元神”は更に理解が難しいことも明示されています。
「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に また大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とは凝り固まった一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対空は無の始めであり、空の入口であるぞ、そこから無に入れよ、空に生きよ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]
そして、この“無きが如き存在”が
しかし、数霊の〇について論じるのは或る種の困難を伴います。それは、〇が基本的に“存在しない
三千世界の立替え立直しの総仕上げでもある“
まずは「元が重要である」という趣旨の“根元的”な意味での〇です。
「第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]
「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も繰り返したのであるぞ、その時はそれはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて つくり固めなされたのぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]
「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ」 『至恩の巻』 第七帖 [954]
次に「始めと終わりは同じ場所である」という趣旨の“円環的”な意味での〇です。
「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん、男から女は生まれんぞ、奇数から偶数は生まれんと申してあろうが、一つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すのは或る時期に於ける教へぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]
「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、
と
と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]
次に“結合的”な意味での〇を引用しますが、これは円環的な意味での〇と、すぐ後で引用する包括的な意味での〇から抜き出したものです。
「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第十帖 [797]
「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、
〇 がもとぢゃ、一 が元ぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ、よく心得なされよ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]
ちなみに、この概論で“〇が現れる日”を“結びの日”と呼称しているのは、この二つの記述が根拠になっています。結びの日は旧九月八日と同じように「別角度から見た記述が同じ日と年を指し示す」という形で特定できるようになっていました。
また、日月神示を読むと、現在の八方的世界に九と十を加えた十方的世界が完全な世界であるかのように語られています。それ自体は間違いではないのですが、時節の視点から考える限り
「
〇 九 十 とは〇一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八隠れてゐるのざぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]「マコトに祈れと申してあろう。マコトとは
0 123456789 10 のことと申してあろう」 『月光の巻』 第四十五帖 [832]「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の
隈 からひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、
〇 九 十 のマコトであるぞ、合わせて二十二、富 士 であるぞ。神示の始めに示してあろう。二 二 は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]「四と八によってなされたのであるから、森羅万象の
悉 くが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰まりの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]「12345678の世界が12345678910の世となりて012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、
二 二 は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] (※第一仮訳)「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、その裏は十九八七六五四三二一〇で、合わせて二十二であるぞ、
二 二 が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]
これらは“三千世界の
「天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれて また三と栄ゆるが故に歓喜が生まれる。則ち一は二にして、二は三である。生前あり、生後あり、死後ありて、尚それらの総ては〇である。〇は
であり
であり
と集約される。故に これらの総ては無にして有である。人の生後、則ち地上人の生活は生前の生活の延長であり、また死後の生活に そのままにして進み行く。立体となり立々体と進み弥栄する処に尽きざる歓喜あり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化弥栄することにより善悪美醜の
悉 くは歓喜となる。故に神の中に神として総てが弥栄ゆるのである」 『地震の巻』 第五帖 [382] (※第一仮訳)「
と
と〇であるぞ、
の陰には
があり、
の陰には
がある、その和の状態が〇であるぞ、
は
のみでは力ないぞ、
は
だけでは力ないぞ、
と
とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ。〇があつて
があり、
があつて和があるのであるぞ、別の御中主あると申してあらう、ここの道理よく得心、合点せよ。
は人間にとって直接の喜びでない、
がぢきぢきの喜びぞ、
も直接ではなく、
が直接の喜びであり、その二つが和して嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ」 『白銀の巻』 第五帖 [616] (※ここで引用しているのは昭和二十六年版です。この帖は昭和三十八年版で大幅に手が加えられ、それが現在の第二仮訳に受け継がれています)
「山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ」 『月光の巻』 第二十五帖 [812]
「厄も祓はねばならんが福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くには〇にならねばならんぞ」 『月光の巻』 第二十八帖 [815]
「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ、神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、この交叉弥栄は限りなし、これを五鎮と申すのであるぞ。上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ。東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す。裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのぢゃが、それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これが妙であるぞ、奇であるぞ、天の父の教であり地にうつした姿であるぞ」 『極めの巻』 第九帖 [936]
他にも「現れているものの蔭に現れざるものがある」という趣旨の“表裏的”な意味での〇も引用します。
「五十九柱と申してあるが、その中の九柱は隠れた柱ぢゃ。
ぞ。
ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの隠れた九柱、心して大切申せよ」 『月光の巻』 第十六帖 [803]
日月神示における数霊の〇の記述は以上の通りです。これらの〇が意味するものは、
日月神示には“始まりの前にあるもの”であり、数で表すところの“
「生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない、弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また総てのものの本体は無なるが故に永遠に存在する。地上人は生前に生き、生前に向かって進みゆく。また地上人は地上に生き、地上に向かって進みゆく。また地上人は死後に生き、死後に向かって進みゆく。しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ」 『地震の巻』 第一帖 [378]
この帖で前なるものを軸に展開されている内容は、無きが如き存在や数霊の〇について考える上でも参考になりますが、ここでは更に直接的に言及している記述を論じたいと思います。
◆
古事記と日月神示において宇宙に一番最初に現れたとされる存在は、後述する“
まずは記号の部分から引用しますが、これは訳文に絵として収録された原書です。

この記号の羅列から読み取れる意味は幾つも有ると思いますが、基本的には
と
が段階的に
と近付いて行く様子を表現しているように見えます。
また、最後に
は
の蔭に隠れる格好になっています。この絵では描写されていませんが、最終的に
は完全に
の蔭に隠れ、“現れているもの”は
だけになっているはずです。
大本系統の宗派において
は根元神の
と同時期に
と
という何らかの“
の蔭に今なお“現れざるもの”として存在しているはずです。これが無きが如き存在であり、数霊の〇を
次に御神名の部分を引用します。
「ひふみ四十九柱、五十九柱、神代の元ざぞ。あめつち御中ムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめの御中ヌしの神。
天 地 の始め。一月三日、一 二 記すぞ」 『空の巻』 第三帖 [458] (※御神名の部分は原典と訳文と基本訳で微妙な相違点があったので折衷案としました)
この御神名は直前に羅列されている記号の読み方であるらしく、双方の間には明確な対応関係が見て取れます。そこで見易いように記号と御神名を並べて一覧にしてみます。

これが〇が一と現れるまでの過程を、記号と御神名を使って表したものだと考えられます。
ここでは天之御中主神の前なるものとして、“あめつち御中ムしの神”と“あめつち御中ウしの神”という御神名が明かされていますが、これらは名前が殆ど同じであることから、天之御中主神と分けて考えることのできない“いまだ
以上の
これが日月神示の説く“
◆
そして、この記号と御神名から読み取れる意味には幾つかの
| 一、 |
| 一、 |
| 一、 |
一、 〇が“![]() ![]() |
| 一、 〇の十段階が“五十九柱”に含まれていること(※確証ではありません) |
これらは全て日月神示の宇宙観として“神経綸の伏線”になっています。この概論で“現象”を解説するために“現象が起きる理由”から説き起こしているのも、このような形で両者が切り離せない関係にあるからです。そういったことを、ここで明かされた御神名に関係する事柄と共にもう少し論じてみます。
日月神示において“上向きと下向きの二つの三角形”として表現された
を「ム」、
を「ウ」と読みます。
そして、このムとウが数霊の〇に関わっていることを示す好例があります。五十黙示の補巻『紫金の巻』第一帖の訳文の最後には数歌の一種として、
「〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳」 『紫金の巻』 第一帖 [980]
と書かれているのですが、昭和三十七年版に収録されている原文では、
「
一二三曰五六七八九十百千
万 三 一 八 ん 三 一 」 『紫金の巻』 第一帖 [980] (※一つ目の「バンザイ」の部分は癖字すぎて正確には読めませんでした)
と書かれています。ここで岡本天明氏は「


”や“
”という記号で表現し、それを「あめつち御中
これらのことからも判るように、数霊の〇は

ムとウは三角形の記号で表現されていますが、三角形は“方向の情報”を内包して使われることの多い記号です。そこから考えると、日月神示における三角形は“矢印的な意味”を持っていると思われます。そして、矢印とは“指向性”であり“力の向き”を表現しています。このような視点から見ると、
「

と推察できます。言わば“指向性を持つ
◆
まずは“根元的な神の表現”としてのムとウの記述を引用します。
「アメのひつ
九 のか三 とはアメの一 二 の神で御座るぞ、アメのの神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る 御 神様ぞ、つちのひつ九 のおん神様ぞ、つちのの御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]
ここでは日月神示を降ろした天之日津久神様が、ムとウの
”は「
次に“根元的な
「ものはキから生まれるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ。ムのキ動けばムくるぞ、ウのキ動けばウ来るぞ、どんなことでもキあれば出来るぞ、キから生まれるぞ」 『磐戸の巻』 第二帖 [238]
「玉串として自分の肉体の清い所 供へ奉れよ、髪を切って息吹きて祓ひて紙に包んで供へまつれよ、玉串は自分捧げるのざと申してあろがな。お供への始めはムとせよ、ムはウざぞ、誠のキ供へるのざぞ」 『青葉の巻』 第二帖 [471]
ここでの「キ」とは“根元的な力”や“根元に向けた意識”というような意味で使われており、極めて深い精神的な作用のようなものだと考えられます。
次に“同じ名の神の表現”としてのムとウの記述を引用します。
「
がよろこびであるぞ。
もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。
は表、
は裏、表裏合わせて
ぞ。
は神であるぞ。神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。
のもとが
であるぞ。キであるぞ。元の元の太元の神であるぞ。
であるぞ。 から 生まれ、 から 生まれるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうが」 『春の巻』 第四帖 [661]
この記述の内容によると、日月神示の独自の概念である“同じ名の二柱の神”もムとウの用に深く関わっているようです。また、ムとウは便宜的に二つのものとして表現されていても、実際には分けることのできない“一なるもの”であり、同時に
とも切り離して考えることができないとのことです。
次に“世界的な表現”としてのムとウの記述を引用します。
「三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。この世も
亦 三千に分かれ、更に五千に分かれてゐるぞ。この方 五千の山にまつれと申してあろう。今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。人民のタネによっては七つしか分らんのであるぞ。日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。イワトがひらけると更に九、十となるぞ。〔中略〕 九十の経綸、成就した暁には何も彼も判ると申してあらうが。八つの世界とは、、
、
、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考へてよいのぢゃ。キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。その上に 又 霊の霊の個から始まってゐるのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ。霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆 直ちには判らないのであるぞ。判らんことは判らんと、わからねばならんと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第一帖 [612]
「元の元の
から
、
の中界を経て、ウの現界に到る
悉 くの世界が 皆 人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂はに通じてゐるのであるから、
はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]
「ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。ウもムも同じであるぞ。ムからウ生まれて来ると申してあること、よく心得よ」 『秋の巻』 第二十五帖 [766]
ここで引用したムとウの記述は非常に意味が判りにくいのですが、“ムの用の影響が強いものの象徴”や“ウの用の影響が強いものの象徴”として霊界や現界が挙げられていると考えられます。
次に“無と有の表現”あるいは“無限と有限の表現”としてのムとウの記述を引用します。
「ムからウ生まれ、ウからム生まれると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生まれるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。ムがウざぞ。世の元に返すのぞと申してあろが。ムに返れば見えすくのざぞ」 『松の巻』 第二十五帖 [316]
「総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては生命の統一はなくなる。其処に分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面には、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは平面的には分離し得ない。二なるものは平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は立体的神秘の中に秘められている。
については一なるも
に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は存在しないのである。しかし大歓喜にまします太神の
は、そのままで成り成りて鳴りやまず存在し、弥栄する。それは立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である」 『地震の巻』 第二帖 [379] (※第一仮訳)
「物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。
而 して、永遠性をもつ事 物 は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない」 『地震の巻』 第八帖 [385]「小の中に大あるぞ。無の中に
有 あるぞ。もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。よく見て下されよ」 『白銀の巻』 第二帖 [613] 「
がよろこびであるぞ。また
の
はムでもあるぞ。内から外に向かって行くのが
のやり方、外から内に向かって行くのが、がいこくのやりかた。
から
に行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。元わからんで生きのいのちの判る
筈 ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。から出て
にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、また有限に動くのがマコトのやり方であるぞ」 『夏の巻』 第二帖 [719] (※第一仮訳)
「ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動くのであるぞ。ウム組み組みてと申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限であること知れよ」 『夏の巻』 第十三帖 [730]
「無限のものと有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭は
兎 角 ウになりがちぢゃぞ」 『夏の巻』 第二十三帖 [739]「中は無、外は有であるぞ。中になる程 無の無となるのぢゃ。同じこと繰り返すと人民申すであろうが、得心して居らんから、肝腎のことぢゃからクドう申してゐるのぢゃ」 『秋の巻』 第二十六帖 [767]
「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるから、つまらんことでつまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばならんぞ、そこから正さねば、外側からばかり清めても何もならん」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]
ここでのムとウの記述も判りにくいのですが、主に“霊と物質の関係”や“霊と物質の性質”について語られているようです。基本的には前出の“世界的な表現”や“同じ名の神の表現”と繋がっている内容だと言えます。
次に“言葉的な表現”としてのムとウの記述を引用します。
「
、 、 、 ウ 、にアエオイウざぞ。昔の世の元ぞ。 、
、
、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。サタナハマからあるぞ。一柱、二柱、三柱、五柱、九柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。五十九の神、七十五柱これで判りたか。
は
ざぞ。
には裏表上下あるのざぞ」 『日月の巻』 第二十六帖 [199] (※この帖は基本訳と第一仮訳の折衷案としました。なお、傍点は基本訳と第一仮訳のままです)
「人民が正しく言霊すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ。始め言葉の元があるぞ、
ヽヽヽヽヽアと現はれるぞ、神の現はれであるぞ、言葉は神をたたへるものぞ、マコトを伝へるものぞ、
倶 になり、倶に栄えるものぞ」 『星座の巻』 第二十帖 [903] (※第一仮訳)
この二つの記述ではムとウを囲う

ただし、引用した
◆
そして、ここまでに引用した内容から、ムとウの用によって

これらから考えると、ムとウの用は“
なお、この場合は一つの注意が必要です。それは、ムとウは“
を表現する
であるということです。このように、
と
と
が渾然一体でありながら、いかなる
こういった“二つの
”を、この概論では全ての原因であり結果だと解釈しています。別の表現をすれば“始まりの前に在るもの”であり“
前編で既に論じましたが、天之日津久神様は自らの計画を“数”で表現しています。そして、その計画が“歌の
これについて解説するために、まずは日月神示において特に重要視されている“

この天の数歌は大本教から日月神示に受け継がれたものですが、原型となった数歌は『
「
十 種 、十 二 種 の神 宝 、瀛 都 鏡 、辺 都 鏡 、八 握 の剣 、九 握 の剣 、十 握 の剣 、生 玉 、死 返 の玉 、足 玉 、道 返 の玉 、蛇 の比 礼 、蜂 の比 礼 、品 物 の比 礼 であるぞ。ム、一 、二 、三 、四 、五 、六 、七 、八 、九 、十 、ウ、であるぞ。ウ、十 、九 、八 、七 、六 、五 、四 、三 、二 、一 、ム、であるぞ。唱えよ。宣 り上げよ」 『月光の巻』 第五帖 [792]
この帖の前半では、十種の神宝に無い九握の剣と十握の剣を加えて“十二種の神宝”という独自の説が展開されてます。それに対応しているのが後半の“ムとウを加えた数歌”です。この数歌は内容的に同じものを“順律”と“逆律”で詠んでいて、こういった指向性の違いが、前項で言及した天的指向と地的指向であり、霊的指向と物質的指向に当て嵌まります。
そこで、これらの関連性について解説するために、日月神示の“霊体一致の原則”の記述を引用します。
「神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は存在しない」 『地震の巻』 第二帖 [379]
「地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する」 『地震の巻』 第三帖 [380]
「生長し、考慮し、行為するものの本体は自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。霊の自分は物質世界にあっては物質の衣をつける。故に物質的感覚は、その衣たる物質的肉体の自分なりと錯覚する場合が多いのである。しかし肉体をすてて霊界に入ったからと云って物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなって
了 ふのではない。死後と雖 も物質界とは極めて密接なる関係におかれる。何故ならば物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界の何 れもが不離の関係におかれて互 に呼吸し合っている」 『地震の巻』 第十七帖 [394] (※第一仮訳)
次に引用する記述も同じ内容なのですが、日月神示の宇宙観を考える上で参考となる“
や一二三の概念を理解するための
「木にも竹にも石にも道具にも それぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの
能 をしてゐるのであるぞ」 『月光の巻』 第十三帖 [800]
更に、このような霊体一致の原則の中でも、ムとウの
「霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである」 『地震の巻』 第四帖 [381]
「神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を、形は霊を求めて御座るのぢゃ。人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]
「一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]
これらは「ム的なものほどウ的なものを希求し、ウ的なものほどム的なものを希求する」という主旨の記述であり、それが前項で引用した「



この他に、指向性を“竜神”として表現した記述もあります。
「竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化を嘘ざと思ふは神様迷信ぞ。天からの竜神は退化して行くのであるぞ。この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくって神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。天地の御恩 忘れるでないぞ、神の子ぞ。岩戸閉めと岩戸開きの二つの御用のミタマあると申してあらうがな。ミタマの因縁 恐ろしいぞと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第二帖 [613] (※昭和二十六年版)
以上の内容に基づき、


こうして見てみると、先に引用したムとウを加えた数歌は「同じものを逆様に辿っている」ということが判ります。一枚の紙の表と裏のようなものです。また、辿る方向は逆でも「十段階を経て
こういった十段階とムとウの関係については、日月神示の中で“十二”もしくは“十と二”という表現で言及されています。
「今度は八の
隈 では足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。その他に隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]
この帖で「隠れた二つの神」や「二つの隈」と呼ばれている“
この他にも、隈を“玉”や“卵”という表現で言及している記述もあります。
「十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。この二つが天晴れ世に出る時 近づいたのであるぞ」 『秋の巻』 第二十一帖 [762] (※昭和二十七年版)
「岩戸閉めの始めは
那 岐 那 美 の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉 国 に入られたのが そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも云へるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]
また、ムとウを一体として見た記述も存在します。この見方は「最初と最後が繋がっている」という円環的な意味が含まれているので、“十一”もしくは“十と一”という表現で言及されています。
「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]
「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりて
笑 み栄ゆる仕組、十と一の実のり、二 二 と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989] (※第一仮訳)「
愈 々 が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]
以上のように、日月神示では岩戸開きを、五、十、十二もしくは十一という数で表現しています。これらの数が、九の岩戸開き、十の岩戸開き、〇の岩戸開きと対応関係にあります。この三つの数が現在の八方的世界に加わって「
◆
そこで、先に引用した数歌を、世界の始まりである“天之御中主神の

そして、このような相応的な関係からは一つの推論が導き出せます。
三千世界の生成化育は“天の数歌”を雛形として計画されています。
これが中編で言及する最初の“
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