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『三元神』に組み込んだ後に改めて独立させたので、
章、節、項の表記に一時的な間違いが生じていますが、
今後の改稿の際に改めます。
当初の予定から割愛した部分は『ミロクの仕組』に回すかもしれません。
2013年7月16日 管理人


旧九月八日の仕組

更新履歴


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目次


第五章 神経綸九 「 正念場 」

5-1元神の神策2012/ 1/ 6
5-2終わりの始まり2012/ 1/22
5-3とどめの戦2012/ 2/29
5-4神懸かり2012/ 3/21
5-5正念場の情景2012/ 7/15
5-6九月2012/ 7/23
5-7外国 / 幽界2012/ 8/16

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第五章 神経綸九 「 正念場 」

元神の神策

 日月神示では幾つもの仕組が並行して進められていることが明かされていますが、その中でも(カミ)の計画”の中核を形成すると予想されているのが【旧九月八日の仕組】です。それは時節の基点たる“天子様の年齢”が旧九月八日を指し示すように仕組まれていることや、この仕組が大本神示の頃から繰り返し言及されていることからも推測できます。

 また、旧九月八日の仕組は日月神示の中で“岩戸開き”“立替え立直し”と同義の言葉として使われていると言っても過言ではなく、他の仕組や時節と比べても言及の量が突出しています。これらのことからも判るように、

旧九月八日は大本系統の時節論における“最重要の日付”と言えます。

 この仕組は日月神示の他の例に漏れず、一見しただけでは具体的な内容が不明瞭ですが、天子様の年齢を基点とした上で、前節で論じた日月(ミロク)論や数霊論などを予備知識として持つことにより、仕組の概要が読み解けるようになっていました。

 そして、旧九月八日の仕組は幾つかの内容が組み合わさって形成されており、その全てに相関関係があります。結論から先に述べるなら、旧九月八日の仕組とはにする仕組」の一環であり、これと同じ概念上に属する仕組を包括する名称として使用されています。その内実は“対偶的な存在の和合”のことであり“ミロクの顕現”を意味しています。

 そして、このような背景が有るからなのでしょうが、

旧九月八日の仕組を明らかにすることは、ミロクの仕組を明らかにすることと同義なのです。

 そこで、ここからは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、旧九月八日の仕組について論じて行きたいと思います。

 最初に旧九月八日の仕組の核心部分を【元神の神策】として述べます。次に旧九月八日の仕組の始まりを告げる【終わりの始まり】について考察し、その意味を【とどめの戦】として考え、最重要の出来事(メインイベント)となる【神懸かり】を解説します。そして、上記の結果として起こり得る出来事を【正念場の情景】としてまとめ、神経綸における【九月】の意味を説明します。最後に、旧九月八日の仕組の個々の内容を繋ぐ背景となる部分を【外国】と【幽界】の関係として論じて、ミロクの仕組の予備知識にしたいと思います。

 なお、旧九月八日の仕組の内容は多岐に渡り、日月神示での言及も圧倒的に多いので、その全容を本節のみで論じることは難しいです。そのため、本節では樹木での“幹”に相当する部分に絞り、“枝葉”“根”に相当する部分を割愛しています。本節の内容が旧九月八日の仕組の全容ではないことは、前もって御了承ください。


 旧九月八日の仕組は幾つかの出来事が複合的に折り重なって起こり、その全てに相関関係があります。それらの中でも神経綸の意味や理由や背景と呼び得る【元神の神策】の核心部分を、()()()()(のかみ)()()()()(のかみ)“神話”及び“数霊”として明かしているのが以下の記述です。これらを「一神」や「一人」や「一方」という言葉に注目して読んでみて下さい。

「岩戸閉めの始めは()() ()()の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。(おっと)(がみ)(つま)(がみ)、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉(よもつ)(おお)(かみ)となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、()(びき)の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を(とも)にひらかんと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ」 『至恩の巻』 第八帖 [955] コトドは古事記では「事戸」であり、日本書紀では「絶妻之誓」ですが、日月神示では「九と十」としての意味が第一義であるはずです)

()(びき)(いわ)をとざすに際して 〔中略〕 その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七(ない)()八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956] 対訳形式である昭和三十七年版の原文では「十千十火」であり、訳文では「十方十全」と書かれています。原文を基準にすれば「十全十方」と書くのが正しいと思われます)

「父のみ(おろが)みたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神を(おろが)まねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ」 『星座の巻』 第十三帖 [896] 第一仮訳)

「何事もはらい清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違ふもの同士 和すのがマコトの和であるぞ。8迄と9 10とは(さが)が違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは(まっと)う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 最後の引用の中の(りん)()まり”の言葉は もう一箇所だけ使われています。

()()読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局(りんどまり)ぞ。(われ)(われ)ががとれたら判って来るぞ。慢心おそろしいぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

 これらの記述では、一神だけで生むことができるのは99%までであることが述べられています。つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいのです。そして、ここでの「終わらせる」とは意味的に「完成させる」であり、三千世界が100%に()()には“対偶の存在”が必要であることが強調されています。つまり、(イザナギ)には(イザナミ)が、(プラス)には(マイナス)が、一二三四五六七八には“九十”が必要なのです。

これが日月神示の説く“神の計画”の核心部分です。

 以上の内容から、時節論とは本質的に“伊邪那岐/伊邪那美論”であることが判って頂けると思います。そして、夫神(イザナギ)妻神(イザナミ)が改めてが結ばれる旧九月八日が、神々が待ち望んだ“岩戸開きの日”であることを、()から裏付ける記述を引用してみます。

「今度の岩戸びらき、神と人との九十運動ぞ」 『黄金の巻』 第十一帖 [522] 第一仮訳では「合同運動」の漢字が当てられています)

「日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。岩戸がひらけると更に九、十となるぞ 〔中略〕 九十の経綸、成就した暁には何も彼も判ると申してあらうが」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ」 『扶桑の巻』 第四帖 [853]

「ナルの仕組とは(ナル)()経綸(しくみ)であるぞ、八が十になる仕組、岩戸ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう」 『星座の巻』 第二帖 [885]

(モモ)不足(タラズ) ()()(クマ)() いまひらかんときぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

「今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「今迄は四の(いき)(もの)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ」 『扶桑の巻』 第十四帖 [863]

(あま)つ神の 寿()(ごと)のままに ()()岩明けぬ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりて()み栄ゆる仕組、十と一の実のり、()()と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ、あな爽々し、岩戸あけたり」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳)

「こんどは、八のくまではたらん。十のくま、十のかみをうまねばならんぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

「四と八によってなされたのであるから森羅万象の(ことごと)くが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸ひらきぢゃ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

「八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか」 『五葉の巻』 第十二帖 [975]

 この他にも後一つだけ同じ内容の記述があるのですが、それは次項の冒頭で引用することにして、ここでは話を先に進めます。

 また、岩戸開きとは“伊邪那岐の国”“伊邪那美の国”の交わりであることを明かす記述もあります。

「天の(おしへ)ばかりではならず、地の教ばかりでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度 上下揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教と光り輝くのざぞ」 『青葉の巻』 第十九帖 [488]

「めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]

「いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の()らす国もナミの命の治らす国も、双方から お互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十一帖 [958]

「今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して この神について御座るのが一等であるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934]

「岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ」 『碧玉の巻』 第二帖 [866]

「岩戸のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]

「新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894]

「岩戸がひらけると言ふことは半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ」 『五葉の巻』 第十五帖 [978]

「マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ」 『五葉の巻』 第十六帖 [979]

 以上の記述からも判るように、伊邪那岐神と伊邪那美神によって象徴される“二つの()()とは天と地、()るいは霊界と現界のことであり、もっと判り易く表現すると()()()()のことです。

 このように、天と地が一つの(あめ)(つち)になることは日月神示で何度も述べられていますので、それを示唆する記述を幾つか引用してみます。

「一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて()(ろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れ」 『富士の巻』 第十九帖 [99]

「天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ」 『天つ巻』 第八帖 [115]

「天地一度に変ると申してあること近づいたぞ」 『地つ巻』 第三十三帖 [170]

「天地まぜこぜとなるぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「天も変るぞ地も変るぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神代となれば天は近くなるぞ、神人共にと申してあらうがな。一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ」 『岩の巻』 第十帖 [375]

「天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あな(さや)け、あなすがすがし、あな面白や、いよいよ何も彼も引寄せるから その覚悟よいか、覚悟せよ」 『梅の巻』 第十七帖 [444]

「天も近うなるぞ、地も近うなるぞ、田舎に都、都に田舎が出来ると申してあろが」 『海の巻』 第九帖 [501]

「天地まぜまぜになったら、まだまだなるのである。彼れ是れ、何が何だか判らんことになると申してあらうが。早う神示 肚に入れておけよ」 『黄金の巻』 第六帖 [517]

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は()が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、(カミ)(ヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ、(てん)()がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

「天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ」 『紫金の巻』 第五帖 [984]

 恐らく、こういった「天と地が一つになる」という点が、前節の第二項で引用した第二十二巻『青葉の巻』第十七帖で語られている「旧九月八日から天の御先祖様と地の御先祖様が一体になる」という内容の、一つの意味であると考えられます。

 以上により、八方的世界に本格的に九十が加わり始める旧九月八日が、岩戸開きの日として()()に重要視されているかが判ると思います。更なる参考として、“九十”について注意を喚起する記述も引用します。

「外国の飛行機が来るとさわいでゐるが、まだまだ花道ぞ、九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。臣民は目のさきばかりより見えんから、可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。この知らせをよく読みてくれよ」 『上つ巻』 第六帖 [6]

「九十が大切ぞと知らしてあろがな、戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、上の臣民 九十に気つけてくれよ」 『富士の巻』 第十七帖 [97]

「一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ」 『天つ巻』 第三帖 [110]

「番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いてくれよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意してくれよ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けてくれよ。神示よく読めよ」 『キの巻』 第六帖 [263]

「神は天からも地からも日も夜も()()で知らしてゐるのに、()()聞く身魂ないから、()()きく()()曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「日本が日本がと、まだ小さい島国日本に捉はれてゐるぞ。世界の日本と口で申してゐるが、生きかへるもの八分ぞ。八分の中の八分は又生きかへるぞ。生きかへっても日本に捉はれるぞ。おはりの仕組は みのおはり。骨なし日本を、まだ日本と思うて目さめん。()()()()と申してカラスになってゐるぞ。古いことばかり守ってゐるぞ。古いことが新しいことと思うてゐるなれど、新しいことが古いのであるぞ。取違ひいたすなよ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]

 最後に、旧九月八日の仕組における日本国と日本人の役割について少々補完しておきます。

(てん)()が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が(かん)()(だい)ぢゃ」 『星座の巻』 第二十三帖 [906]

 ここまでに論じた内容から考えると、“天の理”とは()の世の法則”のことであり、岩戸が開くと霊界の法則が地上世界にも適用され始めることになります。

 また、“甘露台”とは日月神示や大本神示が神の計画を(にな)う団体の一つに挙げている奈良の天理教の言葉であり、“世界の始まりの場所に置かれている台座”や、それを象徴として見立てた“神具”のことです。これは「神の意思を受け止める」という意味において人間を含める場合もあるそうです。

 つまり、十方的世界への移行という“新しき()()生み”が外国に先駆けて始まる日本国と、その中心的役割を担う日本人が甘露台に見立てられているのです。少し意味を拡大すれば、十方的世界を外国に波及させる“神の道具”として日本を活用するとも言えます。それが判るのが次の記述です。

「神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国々もその通りざぞ、神には()()無いのざぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]

「この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りてくれよ、()()の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「日本の人民よくならねば、世界の人民よくならんぞ、日本の上の人よくならねば日本人よくならんぞ」 『マツリの巻』 第十六帖 [420]

「いやな事は我が()(すじ)に致さすなり、()(にん)傷つけてはならんなり」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

「世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさせねばならんのぢゃ。それが順序と申すもの。神示で知らしてあらうがな」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540] 第一仮訳)

「日本は日本、(から)は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ。分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ」 『黄金の巻』 第八十八帖 [599]

「どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるのであるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむのぢゃ。行き詰るのぢゃ。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用あるのぢゃ。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ」 『春の巻』 第十四帖 [671] 第一仮訳)

「新しき霊界は(カミ)(ヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神の()(むね)であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん」 『春の巻』 第四十二帖 [699]

「三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、くどう申してゐるのぞ」 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

「自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ。〔中略〕 今が九分九厘であるぞ、日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、おのづから相違あるぞ」 『極めの巻』 第一帖 [928]

 これらのことからも判るように、旧九月八日に起きる出来事は表層的に どのように見えようとも、日本国の“天命”であり日本人の“使命”です。そして、それが果たされることは神と神を信じる人間にとって(まぎ)れもない“喜びごと”なのです。

 たとえ何が起ころうとも、“約束された幸福な結末(ハッピーエンド)を信じて、どうか気を強く お持ち下さい。

「使命がいのちぢゃ。上から、神から命ぜられたことがいのちぢゃぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生まれんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命 果たすがよろこびぞ」 『春の巻』 第十八帖 [675] 第一仮訳)

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終わりの始まり

 前節の第三項でも触れましたが、日月神示の源流の一つである伊都能売神諭には、ミロクの世という言葉が理想世界のみを意味しておらず、立替え立直しの序盤を含むことが述べられています。そして、日月神示の“天子様の年齢”におけるミロクの世とは旧九月八日の仕組の開始を告げており、これらと全く同じ意味で使われているのが【終わりの始まり】という表現です。

 第二章の第七節の第七項『岩戸開き/岩戸明け』でも考察しましたが、旧九月八日から始まる神経綸九の期間は、八方的世界が十方的世界に(せん)()する“正念場”であり、人体に(たと)えるなら絶え間ない陣痛に襲われる“生みの苦しみの期間”です。

「死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の(ことごと)くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ」 『至恩の巻』 第十三帖 [960]

 立替え立直しの真っ最中であり、“最大の難所”を意味する(おお)(とうげ)と呼ぶのに最も相応(ふさわ)しいであろう期間をミロクの世に含む見方は、伊都能売神諭に“ミロクの世の定義”として書かれています。

「世の(しま)いの世の(はじま)りがミロクの世であるぞよ」 『伊都能売神諭』 大正七年十二月二十三日

 基本的に旧九月八日で八方的世界は終わります。しかし、神経綸九の期間は個別的な区分では十方的世界になっていません。故に、あくまでも“終わりの始まり”なのであり、新しき世界が()()()()()()()()()と言えます。それは十方的世界として結実する直前の“前なるもの”としての段階です。

 そして、「終わりの始まり」という表現は日月神示にも出て来ます。

()()に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始めの神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ」 『風の巻』 第七帖 [358]

 この記述からは『日月神示』の意味が判ります。何故なら、終わりの始めとは日の大神と月の大神が結ばれることであり(ミロク)の世の始まり”を意味しているからです。だからこそ(ミロク)の実現のために活動する存在”として『日月神』と名乗っている側面もあるのでしょう。

 また、第一章の第六節でも述べたように、日月神示の予言は旧九月八日の前後と神経綸九の期間に集中しているのですが、これは“終わりの始めの()()として当然のことなのかもしれません。

 その上で、前節の日月(ミロク)論や数霊論にも目を通して頂ければ、日月神示の「終りの始め」や伊都能売神諭の「世の終いの世の初り」という言葉が、神経綸九の“八方的世界から十方的世界への移行期間”としての在り方を表す、()()()()()()()()()であることが判ると思います。

 そして、“終わりの始まりの日”に何が起きるのかは日月神示で明言されています。

「北から攻めて来る時が、この世の終り始めなり」 『富士の巻』 第十六帖 [96]

 即ち“日本と外国の戦争”です。

 日月神示には外国との戦争に関する予言が非常に多いのですが、この戦争の意味について考察するために、まずは“北”という言葉が出て来る記述から引用します。

「北から来るぞ。神は気もない時から知らして置くから、よくこの神示、心にしめて居れよ」 『上つ巻』 第二十五帖 [25]

「北も南も東も西もみな敵ぞ、敵の中にも味方あり、味方の中にも敵あるのぞ。キンの国へみなが攻めて来るぞ。神の力をいよいよ現はして、どこまで強いか、神の力を現わして見せてやるから、攻めて来て見よ、臣民の洗濯第一と言って居ること忘れるなよ」 『上つ巻』 第四十帖 [40]

「北に気つけよ、東も西も南も()うする(つも)りか、神だけの力では臣民に気の毒 出来るのぞ、神と人との和のはたらきこそ 神 喜ぶのぞ、早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう」 『富士の巻』 第二十三帖 [103]

「北に気付けよ。神の世の仕組よく腹に入れておいて下されよ。今度のさらつの世の元となるのざぞ」 『日月の巻』 第十九帖 [192]

「オロシヤにあがりておりた極悪の悪神、愈々神の国に攻め寄せて来るぞ。北に気つけと、北が愈々のキリギリざと申して執念(くどう)気つけてありた事 近ふなりたぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]

「オロシヤの()()と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。北に気つけてくれよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程 (ふんどし) 締めて下されよ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

 次に“天地が引っ繰り返る大戦”があることを示す記述を引用してみます。

の国を八つに切って殺す悪の計画」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「世界中一つになりての国に寄せて来るぞ」 『上つ巻』 第四帖 [4]

「日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。その時にお蔭を落さぬやう、シッカリと神の申すこと腹に入れて置いてくれよ」 『上つ巻』 第九帖 [9]

「やりかけた戦ぞ、とことんまで行かねば納まらん。臣民一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちに この神示よく読んでゐてくれよ」 『上つ巻』 第十五帖 [15]

「外国から攻めて来て日本の国 丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ」 『上つ巻』 第二十一帖 [21]

「神の国を千切りにして(ナマス)にするアクの仕組は分りて居る、アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、天地ひっくり返る大戦となるのぞ」 『上つ巻』 第二十八帖 [28]

「まだまだ悪魔はえらい仕組してゐるぞ、神の国 千切りと申してあるが、(たと)へではないぞ」 『上つ巻』 第三十五帖 [35]

「お宮も一時は無くなる様になるから、その時は、みがけた人が神のお宮ぞ。早う身魂みがいておけよ、お宮まで外国のアクに壊されるやうになるぞ」 『上つ巻』 第三十七帖 [37]

「世界一度にキの国にかかりて来るから、一時は潰れたやうに、もうかなはんと云ふところまでになるから、神はこの世に居らんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたやうに見える時が来たら、神の代 近づいたのぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

「神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、悪の神わたりて来てゐるから、いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ」 『下つ巻』 第十六帖 [58]

(とし)(より)や女や(めくら)(つんぼ)ばかりになりても、まだ戦やめず、神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組もう見て居れんから、神はいよいよ奥の手出すから、奥の手出したら、今の臣民ではようこたえんから、身魂くもりてゐるから、それでは(あぶ)(はち)取らずざから、早う改心せよと申してゐるのぞ」 『下つ巻』 第二十八帖 [70]

「メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ」 『富士の巻』 第三帖 [83]

「江戸に攻め来たぞ」 『富士の巻』 第十帖 [90]

「メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る」 『富士の巻』 第十六帖 [96]

「世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。臣民には まだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。覚悟はよいか」 『富士の巻』 第二十三帖 [103]

「富士を目ざして攻め寄する、大船小船あめの船、赤鬼青鬼黒鬼や、おろち悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空(おお)ひ、海を埋めて(たちま)ちに、(てん)(ぢつ)暗くなりにけり」 『富士の巻』 第二十四帖 [104]

「神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ」 『地つ巻』 第六帖 [143]

「神の国には神の国のやり方、外国には外国のやり方あると申してあらうがな、戦もその通りぞ、神の国は神の国のやり方せねばならんのざぞ、外国のやり方真似ては外国強いのざぞ、戦するにも身魂みがき第一ぞ。一度に始末することは易いなれど、それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならんから、待てるだけ待ってゐるのざぞ、仲裁する国はなく、出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来るぞ、神気つけるぞ」 『地つ巻』 第二十八帖 [165]

「江戸に攻め寄せると申してあろがな。富士 目指して攻め来ると知らしてあること近付いたぞ」 『日月の巻』 第十二帖 [185]

「世界中 総掛かりで攻めて来るのざから、一度はあるにあられん事になるのぞ。大将ざからとて油断出来ん。富士の山動く迄には どんな事も(こら)えねばならんぞ。上 辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ」 『日月の巻』 第三十一帖 [204]

「大きアジアの国々や、島々()()の人々と、手握り合ひ神国の、光り輝く時来しと、皆 喜びて三千年、神の()(わざ)の時来しと、思へる時ぞ神国の、まこと危なき時なるぞ、()()に嵐のどっと吹く、どうすることもなくなくに、手足縛られ縄付けて、神の御子等を連れ去られ、後には(とし)(より)()()()のみ、女子供もひと時は、神の御子たる人々は、(こと)(ごと)暗い臭い()に、暮さなならん時来るぞ、宮は潰され()(ふみ)皆、火にかけられて灰となる、この世の終り近づきぬ。この()()心に入れくれと、申してある事わかる時、愈々間近になりたぞよ。出掛けた船ぞ、(ふんどし) 締めよ」 『日月の巻』 第三十八帖 [211]

「天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿(する)()(なだ)、富士を境に真二つ。先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。されど日本は神の国。最後の仕組 神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。夜明けの御用つとめかし。晴れたる富士のすがすがし」 『松の巻』 第二十七帖 [318]

「神の国は神の肉体ぞと申してあるが、いざとなれば、お土も、草も、木も、何でも人民の食物となる様に出来てゐるのざぞ。何でも肉体となるのざぞ。なるようにせんからならんのざぞ。それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、()(なか)の国であるからぞ」 『夜明けの巻』 第二帖 [322]

「神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 (うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力 現れるのざぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「悪神の国から始まって世界の(おお)(いくさ) 愈々激しくなって来るぞ」 『梅の巻』 第七帖 [434]

「日本つかむことは三千世界をつかむことぞ。悪の大将も、そのことよく知ってゐて、天地デングリ返るのぢゃ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]

 こういった戦争の予言は非常に恐ろしいものがありますが、天之日津久神様は決して恐怖を煽っているわけではありません。単に“最悪の事態”を想定して警告を発していらっしゃるだけです。

 そもそも、戦争になるのは大難が小難にならなかった場合の話であり、()()には戦争を回避できる可能性も充分に提示されています。ちなみに、日月神示では「戦争の引金(トリガー)を引くのはロシアである」とされているので、何らかの方策でロシアの武力行使を諦めさせることが小難への近道であるようです。

 また、たとえ戦争になったとしても根本的な部分では心配する必要はありません。何故なら、外国との戦争は日本の神々の“想定内の出来事”だからです。この辺りのことは大本神諭に判り易い記述があります。

「明治二十五年から出口直の手を借り、口を借りて知らしてありた事の、実地が出て来る世になりたぞよ。露国から始りて、日本と外国との大戦が在ると申したが時節が来たぞよ。外国は(しまい)には一腹になりて来ると申して知らして在ろうがな。この神一度申したら何時に成りても、毛筋の(よこ)(はば)ほども違いは致さんぞよ。これが違ふたら神は(この)()に居らんぞよ。外国の悪神の頭が、露国を無茶苦茶に致して置いて、モ一つ向ふの国へ渡りて、人民の王を自由に使ふて、世界中の困難をも構はずに、()()さえ良けら(ひと)はドウデも良い、人は倒しても我さえ立ちたら満足じゃと申して、悪の頭が今に日本の神国へ攻めて来るぞよと申して知らしてあるぞよ。〔中略〕 兵隊を一旦 日本へ引寄して、外国を地震、雷、火の雨 (ふら)して()()さねば、世界は神国にならんから、余り何時迄も神の申す事を聞かねば、三千年の経綸(しぐみ)通りに致すから、世界に何事ありても神と出口を恨めてくれなよ。〔中略〕 何事も大本の変性男子の筆先で、天地の大神が時節/\の事を先きに(かゝ)して置きなさると、(その)通りが来るのであるから、善き事も悪き事も皆出て来るから、(その)覚悟を致さねば成らぬぞよ。()()から昔攻めて来た折には、()れでも見せしめの為に三人だけは還してやりたなれど、今度 外国が同胞(ひとはら)になりて攻めて来た折には、只の一人も還してはやらんぞよ。日本へ外国の兵隊を一旦 皆 引寄して、(その)後で地震、雷、火の雨 降らして、外国を往生いたさす経綸(しぐみ)であるぞよ」 『大本神諭』 大正六年 旧十一月二十三日

 この中で「一旦は日本へ外国の兵隊を引き寄せて」と書いてあるように、悪神や外国の(たくら)みは日本の神々の(てのひら)の上での出来事なのです。過程がどうであれ、三千世界の物語が幸福な結末(ハッピーエンド)を迎えることに変わりはありませんので、過度な心配は不要です。

 他にも、日月神示には日本の神々が悪神や外国の計画を“お見通し”であることを明かす記述があります。

「何もかも悪の仕組は分りているぞ、いくらでも攻めて来てござれ、神には世の本からの神の仕組してあるぞ、学や知恵でまだ神にかなふと思ふてか、神にはかなはんぞ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]

「戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、向ふの悪神は今度はの元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、その積りでフンドシ締めてくれよ、誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ」 『富士の巻』 第二十六帖 [106]

()んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は(りゅう)(りゅう)仕上げ見てくれよ、此の神はめったに間違いないぞ。三千年 地に潜りての経綸(しぐみ)で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「世の元からの仕組であるからめったに間違ひないぞ、これから愈々臣民にはわからなくなれど仕上げ見て下されよ、何事も神の申すこと聞いて すなほになるのが一等ざぞ」 『磐戸の巻』 第六帖 [242]

「悪の仕組は日本魂をネコソギ抜いてしもふて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか」 『磐戸の巻』 第十帖 [246]

「向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにしてくれよ」 『磐戸の巻』 第十二帖 [248]

「悪は()()が利かん様になったから最後のあがきしてゐるのざぞ」 『松の巻』 第二十帖 [311]

「今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民 心配するでないぞ」 『雨の巻』 第九帖 [343]

「オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、()()に居ても助けてやるぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「日本の人民 ()(じき)にしてやり通すと、悪の神 申してゐる声 人民には聞こへんのか。よほどしっかりと腹帯 締めおいて下されよ」 『風の巻』 第十二帖 [363]

(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事 知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ、判ってゐる守護神殿 早う改心結構ぞ」 『梅の巻』 第二十六帖 [453]

「悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第十四帖 [632]

 以上のように、日月神示では日本の神々が全てを見通していることが繰り返し述べられています。そのため、戦争自体は最終的に「悪神が帰順する」という形で日本が勝利するとのことです。

「神とアクとの力競べぞ。今度はアクの王も神の力には()うしてもかなはんと心から申す所まで、とことんまで行くのざから、アクも改心すれば助けて よき方に廻してやるぞ」 『上つ巻』 第二十八帖 [28]

「今度の戦はとの大戦ぞ。神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、(しも)の神々様にも分らんぞ。何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりて この方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]

()()も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるしてくれと申す様になるのざぞ」 『天つ巻』 第十八帖 [125]

「日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて(かん)(にん)してくれといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「宝の山に攻め寄せ来ると申してくどう気付けておいたでないか。神の国にはどんな宝でもあるのざぞ、(かみ)の国、昔から宝 埋けておいたと申してあろがな。(かみ)の国にも埋けておいてあるのざぞ。この宝は神が許さな誰にも自由にはさせんのざぞ。悪が宝取らうと思ったとて、どんなに国に渡り来ても どうにもならん様に神が守ってゐるのざぞ。いよいよとなりたら神がまことの神力出して宝取り出して世界のどんな悪神も神の国にはかなはんと申す所まで、とことん心から降参する所まで、今度は戦するのざから臣民 余程 見当取れんことに、どんな苦労もこばらなならんのざぞ」 『日月の巻』 第三十三帖 [206]

()()から攻めて来ても神の国には悪神には分らん仕組致してあるから、心配ないのざぞ、愈々と成りた時には神が誠の神力出して、天地ゆすぶってトコトン降参ざと申す処までギュウギュウと締めつけて、万劫末代いふ事聞きますと改心する処までゆすぶるから、神の国、神の臣民 心配致すでないぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]

「外国の悪の三大将よ、いざ出て参れよ、マトモからでも、上からでも、下からでも、横からでも、いざ出てまゐれよ。この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してあるから、いざ出て参りて得心ゆくまでかかりて御座れ。敗けてもクヤシクない迄に攻めて御座れよ、堂々と出て御座れ、どの手でもかかりて御座れ。その上で敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ。学、勝ちたら従ってやるぞ、神の力にカナワンこと心からわかりたら末代どんなことあっても従はして元の神のまことの世にして、改心さして、万劫末代 ()(ぜつ)ない世に致すぞよ」 『磐戸の巻』 第八帖 [244]

 ただし、これらは基本的に()()()()()であって、必ずしも現在の日本国や日本人の勝利を意味していません。また、悪神や悪神の支配下にあるとされる外国が負けると言っても、別に滅亡してしまうわけではないのです。この辺りの背景は日月神示で“神の願い”として語られています。

「外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな」 『上つ巻』 第三十二帖 [32]

「早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ」 『富士の巻』 第二十七帖 [107]

「神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん(とこ)(とは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのが この方の願ひと申してあらうがな」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「悪神の仕組は此の方には判りてゐるから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪 殺して(しま)ふのではなく、悪 改心さして、()()()のうれしうれしの世にするのが神の願ひざから、この道理 忘れるでないぞ」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「日本臣民ばかりでないぞ、()()の国の民でも同様に助けてやるぞ、神にはエコがないのぞ」 『磐戸の巻』 第十一帖 [247]

「悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「悪の総大将よ、早よ改心なされ、悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は()()迄も結構になるのぞ」 『松の巻』 第十四帖 [305]

「悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」 『松の巻』 第二十二帖 [313]

「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と(へだ)て心 悪ぢゃぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ」 『光の巻』 第六帖 [402]

「メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ、外国人も神の目からはないのざぞ。今(ひと)(いくさ)あるぞ。早う目覚めて、け嫌ひいたさず、仲よう御用結構ぞ」 『光の巻』 第七帖 [403]

「今度の建替は敵と手握らねばならんのぢゃ、敵役の神々様人民よ、早う尋ねて御座れ、この方 待ちに待って居るぞ。引張ったのでは、心からでないと役に立たんのぢゃ」 『梅の巻』 第一帖 [428]

「此の方に敵とう御力の神、いくらでも早う出て御座れ、敵とう神 此の方の御用に使ふぞ、天晴れ御礼申すぞ」 『梅の巻』 第二十七帖 [454]

「此の方 悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、悪の御用 結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用 聞きくれよ」 『空の巻』 第十帖 [465]

()(もと)の国を取らうとしても何とだましても、御先祖様には何も彼も世の元からの仕組してこの事判ってゐるのであるから、悪のやり方よ、早う善にまつろへよ、まつろへば悪も善の花咲くのぢゃぞ」 『海の巻』 第九帖 [501]

「悪神よ、今迄は思ふ通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかへりて下されよ。善の神まで捲き入れての仕放題、これで不足はもうあるまいぞ」 『黄金の巻』 第八十帖 [591]

「善でつづくか悪でつづくか、この世に善と悪とがあって、どちらで立って行くか、末代つづくか、得心ゆくまで致させてあったが、もう悪ではつづかんことが、悪神にも判って来るのであるから、今しばらくのゴタゴタであるぞ」 『黄金の巻』 第八十二帖 [593]

 次に引用する記述も同じ内容ですが、全体が七五調の歌として()まれていて、(いん)(りつ)と内容の双方の意味において、非常に格調が高い帖になっています。

(こん)(にち)までの()(おしへ)は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教ぞ、この御教に人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことのおろかさよ、三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々ふへるのみ、悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心は(いや)(さか)ぞ、本来 悪も善もなし、(ただ) ()(ひかり)の栄ゆのみ、()(また)大蛇(おろち)(きん)(もう)も、(じゃ)()も皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪(いだ)きませ善も()き、あななふ所に()(ちから)の、輝く時ぞ(きた)るなり、善いさかへば悪なるぞ、善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ、只 御光の其の中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界 大和して、只 御光に生きよかし、生れ赤児となりなりて、光の神の説き給ふ、誠の道をすすめかし、マコトの道に()(さか)ませ」 『海の巻』 第五帖 [497]

 以上のような神様の想いは、()()「悪を抱き参らせる」という主張と繋がりを持っています。この辺りの“日月神示の善悪観”については追々述べて行きたいと思いますが、要するに、天之日津久神様は悪神を絶対的な悪とは()()していないのです。便(べん)()(てき)に悪や魔や鬼と呼ぶことはあっても、それらの存在は一時的に道を外れているだけであり、「道に立ち返れば善としての本性を現す」とのことです。これは性善説というよりは「宇宙の全ては神が()()()もの」という日月神示の宇宙観に基づいています。

 恐らく、悪神や外国の存在を根本から消し去るような真似をすれば、()()のどこかが欠けてしまうのでしょう。それは残った部分だけでは100()()()()()()()ことを意味しています。そのため、天之日津久神様は()()()()()()()が正道へと(まつろ)うことによる()体の()成、すなわち“完全”こそを望んでおり、その意思が「悪を抱き参らせる」という言葉に集約されています。

 こういった悪神や外国との()()()や戦争の意義を、天之日津久神様は(マツリ)の記号を使って説いています。

ばかりでもならぬ、ばかりでもならぬ。がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民はでありたが、が神国に残りが外国で栄へて、どちらも(かた)()となったのぞ。も片輪、も片輪、と合はせて まことの(かみ)の世に致すぞ。今の戦はとの戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは入れることぞ。も五ぞも五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「外国は、神の国はと申してあるが、は神ざ、は臣民ぞ、ばかりでも何も出来ぬ、ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯してくれと申してゐるのぞ、神 ()けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行はを綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たら この戦は勝つのぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「この道は道なき道ざぞ。(てん)()(こん)(こう)(くろ)(ずみ)も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、(にち)(れん)(しん)(らん)()()も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れてくれよ、この道はぞ、の中に入れてくれと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、入れてくれよ、を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦はの掃除ぞと申してあらうがな、まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな」 『地つ巻』 第十二帖 [149]

のうつりた人とのかかりた人との大戦ぞ、とが戦して、やがてはを中にしてがおさまるのぞ。その時はでなく、でないのざぞ、となるのざぞ、のマツリぞと申してあらうがな。どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組 成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまだまだわるくなるのぞ」 『地つ巻』 第二十二帖 [159] 第一仮訳)

「神は、臣民は、外国は、神の国はと申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国()(なか)。人の真中には神あらうがな」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「人、神とまつはれば()()しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ、と申してあろが、戦もと壊し合ふのでは無いぞ、とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。それには掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]

 このような(カミ)の戦い”こそが、旧九月八日から始まる完成(とどめ)(いくさ)真実(まこと)の姿なのでしょう。

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とどめの戦

 前項で引用した(マツリ)の記述に見受けられるように、(たと)えられているのは日本と外国だけではありません。詳細は次項で解説しますが、旧九月八日の仕組とは基本的ににする仕組」のことであり、そこから派生する多くの出来事を包括する意味を有しているのです。そして、そういった旧九月八日に関わる出来事の総称的な位置付けにある言葉が【とどめの(いくさ)】です。

 これは別に難しいことではなく、要するに、

 (とどめ)(いくさ)とは外国との戦争()()を指しているわけではないのです。

 (いくさ)と言うと戦争の印象(イメージ)が強く、日月神示でも日本と外国の戦争に関する記述が多いので、戦争が三千世界の大立替えの最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)に感じられる場合があるかもしれません。しかし、そのように受け止められるのは天之日津久神様の本意ではないことが多くの記述から判ります。

 まずは、こういった「戦争や天災は立替え立直しや岩戸開きの本質ではない」という点について考察することによって、とどめの戦を論じる上での前提にしたいと思います。

「今度の戦で何もかも(らち)ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも()うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ」 『下つ巻』 第二十五帖 [67]

「臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦すむと思うてゐるのか」 『下つ巻』 第三十四帖 [76]

「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や(わざわい)は見当とれまいがな、()()()第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても()()らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ」 『磐戸の巻』 第七帖 [243]

「人の殺し合ひばかりではケリつかんのざぞ、今度の負け勝ちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの(ところ)まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから()()迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ」 『磐戸の巻』 第十二帖 [248]

「今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界(すみ)(ずみ)まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、(つら)い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。魂は鉄砲では殺せんのざぞ。魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが」 『風の巻』 第十三帖 [364]

「今迄になかったこと今度はするのぢゃから合点出来んも道理ぢゃ道理ぢゃ、始めは(たたかい)で、(いくさ)で世の建替する(つも)りであったが、あまりに曇りひどいから、イクサばかりでは、すみずみまでは掃除出来んから、世界の家々の隅まで掃除するのぢゃから、その掃除中々ぢゃから、(イクサ)ばかりでないぞ」 『梅の巻』 第十八帖 [445]

「この神示よく読んでくれたら何を申さんでも、何を聞かんでも、よいことになるのであるぞ、戦や天災では人の心は直らんと申してあろが、今迄のどんなやり方でも人の心は直らんぞ、心得なされよ」 『海の巻』 第六帖 [498]

「戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ」 『黄金の巻』 第七十五帖 [586]

 このように、日月神示では戦争や天災ばかりに注目しないように警告が発せられています。では、立替えとは何かと言えば、それは“ミタマの立替え”であるとのことです。

「今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

「悪い者 殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では()うにもならんであろがな。元の(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居りながら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、(アメ)(ツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

「世の建替と申すのは、身魂の建替へざから取違ひせん様致されよ、ミタマとは身と(たま)であるぞ、今の学ある人民 ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。(あめ)(つち)(とき)来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ、神示読んでタマ早う掃除せよ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

「世の元から出来てゐるミタマの建直しであるから、一人の改心でも中々であると申してゐるのに、ぐづぐづしてゐると間に合はん。気の毒出来るぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

 恐らく、立替え立直しや岩戸開きの本質とは「人間の意識を神と同じ境地へ高めること」なのであって、戦争や天災は二義的な出来事に過ぎないのでしょう。そのため、日月神示では“人間の内面的な葛藤”(いくさ)と呼んで重視しています。

「戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」 『上つ巻』 第一帖 [1]

「戦 恐れてゐるが臣民の戦くらい、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「掃除 早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「己の心 見よ、いくさまだまだであろが、違ふ心があるから違ふものが生れて違ふことになる道理 分らんのかなあ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

「今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで(さと)りて下されよ」 『海の巻』 第七帖 [499]

「口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ」 『月光の巻』 第五十二帖 [839]

「口先ばかりで、その場限りでうまい事申して御座るが、それは悪の花、心と行が伴わんからぢゃ。(おのれ)自身のいくさが終ってゐないからであるぞ。そなたのもつ悪いくせを直して下されよ、それが御神業ぢゃ」 『極めの巻』 第十二帖 [939]

 こういった“心の戦”が重視されている理由の一つは、世界の現状は人間の意識が反映した結果であり、その点から根本的に改めなければ、一時的に世界を革正しても再び以前の状態に戻ってしまうからだと考えられます。この辺りの「世界は人間の心のままになる」という記述は次の通りです。

「天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。この道理わかるであろがな」 『磐戸の巻』 第二帖 [238]

〔前略〕 世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか 〔後略〕 『磐戸の巻』 第七帖 [243]

「この世界は浮島であるから、人民の心通り、悪くもなりよくもなるのざぞ」 『松の巻』 第十三帖 [304]

「此の世の事は人民の心 次第ぞ」 『雨の巻』 第九帖 [343]

「此の(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心 悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「世界の戦争、天災、皆 人民の心からなり」 『マツリの巻』 第十四帖 [418]

「天災地変は人間の心のままと申してあらう。豊作、凶作 心のままぞ」 『黄金の巻』 第九十二帖 [603]

「宇宙は人間の心のままと申してあらうが」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655]

 また、日月神示には“根本的ではない立替え”を断行しても以前の状態に戻ってしまったことが、昔話の一つとして明かされています。

「これまでの改造は(こう)(やく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ」 『松の巻』 第十二帖 [303]

 そのため、今回は人間の意識を根本的に変えるために、神様は大局的、長期的、本質的な“永遠”の視座から人間に働き掛けるとのことです。

「よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ」 『黄金の巻』 第七十六帖 [587]

「神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ」 『春の巻』 第三十四帖 [691]

「天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。永遠弥栄の生命、早う体得結構」 『春の巻』 第四十九帖 [706]

「今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

「長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ」 『月光の巻』 第四十六帖 [833]

「天界での出来事は必ず地上に移りて来るのであるが、それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなればおそくもなり、時によっては順序も違ふのであるぞ、人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。寸分の間違ひもないのであるぞ、これが間違ったら宇宙はコナミジン、神はないのであるぞ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

「現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな」 『紫金の巻』 第十四帖 [993]

 このような視座は、今回の立替えが地上世界だけではなく、心や魂や神の領域である“霊界”を含めて行われることを背景としています。その辺りの“霊の永遠性”について述べられた部分も引用してみます。

「物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである」 『地震の巻』 第八帖 [385]

「霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである」 『地震の巻』 第十四帖 [391]

「肉体の事は何とか分るであろが、タマは判るまい、()()にタマは生き通しであるから、タマの因縁の判る所は()()()でより他にはいくらさがしてもないのざぞ」 『海の巻』 第十二帖 [504]

「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604]

「気長にやれと申してあろう。長い苦心なければ よいもの出来ん。この世で出来終らねば、あの世までもちつづけても やりつづけてもよいのぢゃ。そなた達はあまりにも気が短いぞ。それではならんのう。マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。これないものは宗道でないぞ」 『春の巻』 第二十九帖 [686]

「人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ」 『春の巻』 第三十二帖 [689]

「見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。(ミチ)にいそしめ。(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ」 『春の巻』 第五十四帖 [711]

「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]

 つまり、()()()()()()根本的な立替えであるが故に、地上世界で起きる局所的、短期的、表層的な現象である戦争や天災は、立替え立直しや岩戸開きの本質には成り得ないのでしょう。

 以上が本項の前提となる考察です。以降は上記の内容に基づいて“とどめの戦”を論じたいと思います。

 前項でも触れましたが、“終わりの始まりの日”である2016年の旧九月八日は“とどめ”と深く関わっています。それは次の記述からも明らかです。

「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]

 同じ内容のことは大本神諭の頃から明かされています。

「二度目の世の立替の(とゞ)めを刺すのが近う成りて来たぞよ。何も経綸(しぐみ)通りに致すぞよ。〔中略〕 世の(しまい)(とゞ)めと世の始りとの境の筆先であるぞよ」 『大本神諭』 大正六年 旧十月十六日

 他にも、日月神示の時節に関連しているかもしれない記述が伊都能売神諭にあります。

「十方世界の(とゞ)めを刺して(ちり)(あくた)をサルの年」 『伊都能売神諭』 大正八年四月二十三日 2016年は申年です)

 こういった内容からも判るように、終わりの始まりや旧九月八日とは「とどめを刺すこと」と殆ど同義であることが見て取れます。そこで、日月神示の“とどめ”に関する部分を引用してみます。

「あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後のトドメざぞ、今度こそ(ゆう)()ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神示判る臣民二三分できたなら、神 愈々のとどめのさすなり」 『マツリの巻』 第六帖 [410]

「このままにしてほっておくと戦済んだでもなく、とどめもさせん、世界中の大難となるから早う改心結構ぞ。悪の上の守護神、中の守護神、下の守護神の改心出来ん者はいくら可愛い子ぢゃとて、ようしゃは出来んぞ、愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]

「建直しの仕組 立派に出来てゐるから心配いたすでないぞ、建替延ばしに延ばしてゐる神の心 判らんから、余り延ばしては丸つぶれに、悪の罠に落ちるから(とど)めの 〔中略〕 (ふた)あけるから、目開けておれん事になるぞ」 『梅の巻』 第九帖 [436]

「とどめ(かみ)なり」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

「今迄は白馬と赤馬と黒馬とであったなれど、岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄の馬が飛び出してくるぞ、キが元ぞと申してあろうが、トドメの馬であるぞ、黄金の馬であるぞ、救ひの馬であるぞ、このこと神界の秘密でありたなれど時来たりて人民に伝へるのであるぞ、今迄は白馬に股がって救世主が現れたのであるが、いよいよの救世主は黄金の馬、キの馬にのって現われますのであるぞ」 『紫金の巻』 第六帖 [985]

 次に、とどめと関連の深い“終わり”の記述を引用します。

「何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん()()()()()()()修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ」 『上つ巻』 第三十四帖 [34] 「四あけ」は「夜明け」と「仕上げ」の双方の訓み方ができます)

「いよいよ世の終りが来たから役員 気つけてくれよ。神代 近づいてうれしいぞよ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ」 『星座の巻』 第八帖 [891]

「神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ、今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前、神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。人民の中と外も同様ぞ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

 次に、終わりと殆ど同じ意味で使われている“最後”の記述を引用します。

「この世が元の神の世になると云ふことは、何んなかみにも分って居れど、何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、かみにも分らんこと人にはなほ分らんのに、自分が何でもする様に思ふてゐるが、サッパリ取り違ひぞ。やって見よれ、あちへ外れ こちへ外れ、いよいよ何うもならんことになるぞ、最後のことは この神でないと分らんぞ」 『上つ巻』 第二十九帖 [29]

「神の最後の仕組と申すのは入れることぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、世界ところどころにその事 知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは()の神でないと分らんぞ」 『下つ巻』 第二十三帖 [65]

〔前略〕 されど日本は神の国。最後の仕組 神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。夜明けの御用つとめかし。晴れたる富士のすがすがし」 『松の巻』 第二十七帖 [318]

〔前略〕 岩戸開けたり御光の、()()()の花どっと咲く、御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越しくれよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし」 『風の巻』 第四帖 [355]

「まだのみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、でなくてはならん、と申してだけでもならんぞ、が元ぢゃ、内ぢゃ、は末ぢゃ、外ぢゃ、から固めて下されよ、はおのづから出来てくる、ふさはしいが出来てくるのぢゃ。〔中略〕 今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ」 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

 この他にも、より直接的に“とどめの戦”の内容について述べられた記述があります。

「今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本の天子様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。」 『下つ巻』 第二十帖 [62]

「メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな」 『富士の巻』 第三帖 [83]

「世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、学と神の力との大戦ぞ、(かみ)(ぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ」 『富士の巻』 第二十三帖 [103]

「人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。悪神よ。日本の国を()()までよくも(けが)したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。学問と神力の とどめの戦ざぞ」 『松の巻』 第十八帖 [309]

「世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生神様 (おん)(ひと)(かた) 御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、神力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生神様の御息吹きどんなにお力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ」 『梅の巻』 第十二帖 [439]

 ここまでの内容から考えると、基本的には、

最後(とどめ)の戦とは神と学の戦いである」

と見て良いようです。故に、日月神示の説く“神の力”“学の力”が何を意味しているかを考察することよって、とどめの戦の意味するものが見えて来ると思われます。ただし、神の力については次項で詳細を述べますので、本項では学の力を主体として論じます。

 日月神示での“学”とは基本的に「神の心に()わぬ()()という主旨であり、非常に広範な意味を含んでいます。これを包括的な表現に置き換えれば、

からが抜けてになっている()()

という風にも言えるはずです。そして、こういった(カミ)に基づかない()()の筆頭として挙げられているのが“現在の人間の意識”であり、より具体的には「物質世界()()を前提とした考え方」のことになります。それが最も判り易いのは次の記述だと思われます。

「悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 このような“悪”は日月神示の中で、学、智、知恵、理屈、(われ)()しなどと呼ばれて手厳しく批判されており、遠くない将来に行き詰まると断言されています。それらの記述は非常に多いので、“学”“知恵”に関する主要な記述に絞って抜粋してみます。

「人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けてくれと申しても間に合わんぞ」 『下つ巻』 第十六帖 [58]

「神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか」 『富士の巻』 第十八帖 [98]

「今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ」 『富士の巻』 第二十一帖 [101]

「世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん(とこ)(とは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいが」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ」 『地つ巻』 第十五帖 [152]

「学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ」 『地つ巻』 第二十七帖 [164]

「神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ」 『地つ巻』 第三十帖 [167]

「神が道つけて楽にゆける様に嬉し嬉しでどんな戦も切抜ける様にしてあるのに、臣民 逃げて眼塞いで、懐手してゐるから苦しむのぞ。我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。嬉し嬉しで暮らせるのざぞ」 『日月の巻』 第三十九帖 [212]

「神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、学で幾ら極め様とて()()りはせんのざぞ、学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ」 『日の出の巻』 第六帖 [219]

「戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ」 『磐戸の巻』 第九帖 [245]

「建替の事 学や智では判らんぞ」 『松の巻』 第十二帖 [303]

「金や学や智では大峠越せんぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。判らんと申して余りでないか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「悪と学は長うは続かん事、そろそろ判りて来るぞ」 『マツリの巻』 第十九帖 [423]

「時節到来してゐるに未だ気付かんか、人民の物と云ふ物は何一つないのざぞ、未だ金や学で行けると思ふてゐるのか、愈々の蓋あいてゐるに未だ判らんか」 『空の巻』 第九帖 [464]

「見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「学や智や金がチラチラ出る様では、マコトが磨けては居らんのぢゃ」 『海の巻』 第十五帖 [507]

「学問や金を頼ってゐる内は、まだまだ改心出来ないぞ」 『黄金の巻』 第八十二帖 [593]

「マボロシとは人間智慧のこと。理屈のことぢゃ。理屈とは悪の学のことぢゃ。理でなければならぬ」 『黒鉄の巻』 第十帖 [628]

「人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、神界のことは神界で()()せねば判らんのぢゃ。判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、愈々になりたら道ないことぞ。学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。気の毒ぢゃなあ」 『黒鉄の巻』 第十九帖 [637]

「人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]

(にせ)の愛、(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓 早うひらけよ」 『星座の巻』 第十六帖 [899]

「わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは()をすてること、学をすてることぢゃ、すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」 『極めの巻』 第三帖 [930]

「今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ」 『極めの巻』 第二十帖 [947]

 このように、日月神示には現在の人間の意識を批判する記述が非常に多いです。ただし、良い意味での学である“神の学”も存在するとのことです。

「知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

「学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ」 『雨の巻』 第九帖 [343] 「ンプ」とは好運と非運を意味する「(うん)()」のことだと思われます)

「科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったら神に尋ねと申してあること忘れるなよ」 『梅の巻』 第十五帖 [442]

「神から伸びた智と愛でないと、人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。やりてみよれ。根なし草には実は結ばんぞ」 『黄金の巻』 第六十四帖 [575]

「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ」 『月光の巻』 第三十四帖 [821]

「判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]

 そして、天之日津久神様は学を超えて神の学に到るために()()を読むことの重要性」を繰り返し説いています。

「この世のやり方、わからなくなったら、この()()()をよましてくれと云うて、この知らせを取り合ふから、その時になりて慌てん様にしてくれよ」 『上つ巻』 第九帖 [9]

「神示よんでくれよ、神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな」 『地つ巻』 第二十九帖 [166]

「どうしたら お国の為になるのぞ、自分はどうしたら好いのぞと取次にきく人 沢山出て来るなれど、この神示読めば、どうしたらよいか判るのざぞ。その人相当にとれるのぞ」 『日月の巻』 第三十四帖 [207]

「神示読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局(りんどまり)ぞ。(われ)(われ)ががとれたら判って来るぞ。慢心おそろしいぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

「此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。従ふ所には従はなならんぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、()()探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示 肚にはいれば()() 見え透くのざぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「此の神示よく見て この先 ()うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事 計画しておいでますと云ふ事 判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「此の神示 読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん此方(こちら)でくづれぢゃ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「此の方の神示 元と判りながら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「世界の人民 皆 青くなって、どうしたらよいかと何処(たず)ねても判らん事近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、神の心が九分通り臣民に判りたら、神の政治 判るのぢゃ」 『マツリの巻』 第七帖 [411]

「早う神示読んで神の心 汲み取って、ミロクの世の礎 早う固めくれよ。(そろ)(ばん)のケタ違ふ算盤でいくらはじいても出来はせんぞ、素直にいたしてついて御座れ、見事 光の岸につれて参って喜ばしてやるぞ」 『梅の巻』 第二十七帖 [454]

「己の知では分らん、大神様とはアベコベのこと考へてゐては逆さばかりぢゃ、神示よく読んで誠の仕組 仕へ奉れよ」 『青葉の巻』 第二十二帖 [491]

「まことに求めるならば、神は何でも与へるぞ。与へてゐるでないか。御用は神示見んと判らん道理 判らんか。誰にも知れんこと知らして、型して見せてあるでないか」 『黄金の巻』 第三十六帖 [547]

「今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。神示よめよ。()(フミ)世界にうつせよ。早ううつせよ。早ううつせよ。人間の智のみでは世界はよくならん」 『春の巻』 第十五帖 [672]

 以上のように、日月神示には とにかく「()()を読め」や「()()(はら)に入れよ」といった記述が多いのですが、その理由の一つは()()を読むことによって学を超えられる」という点にあると推測されます。

 この推測の背景となる部分について少々補足しますと、これは日月神示で詳細な“霊界論”が展開されていることに(たん)を発しています。ただし霊界論には、天と地、霊と物質、神と人間、そして根元神と森羅万象の関係なども(ほう)(がん)されていますので、実質的に展開されているのは“三千世界論”です。言うなれば、

日月神示には“三千世界の全体像”が提示されているのです。

 これらは“全と個”“全体と部分”の関係としても言及されており、日月神示では物事の全体像を把握することの重要性が説かれています。

「全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

 そして、()()を読んで“天地の概要”を知ることは、現在の人間の意識の大半を占める、部分的、限定的、(せつ)()的な「物質世界()()を前提とした考え方」を矯正することに繋がります。それは人間()()の知恵の限界を悟り、(かみ)(まつろ)うことに他なりません。

 恐らくは、こういった形で()()境地(こころ)に近付いて行くことが学を超えることであり、人間の意識を高めることなのでしょう。それが、戦争や天災よりも重視されている“ミタマの立替え”の基本路線であると思われます。つまり、

神と学の“とどめの戦”は人間の心の中で()行われているのです。

 その戦いに勝利する最も適切な手段として推奨されているのが神の心を知ること、即ち()()を読むこと」なのです。

()()は神の息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

 上記の内容は、一見すると単なる精神論に感じられるかもしれません。しかし日月神示によれば、このように神の心に近付こうとすることこそが、“神経綸の最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)の準備になるそうです。そして、その出来事によって(カミ)の力”が現れ、これまでの物質世界や人間の意識は最後(とどめ)を迎えるとのことです。

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神懸かり

 日月神示では立替えに際して起きる外国との戦争において、日本が一方的に負けることが伝えられています。しかし、最後は“神の力”によって勝利することも力強く断言されています。そのための“逆転の秘策”であり、“立替え立直しの方法論”として用意されている仕組が【(かみ)()かり】です。

 なお、立替えの方法論的な側面は次項で考察しますので、本項では神の力に焦点を当てて論じます。

 前々項の最後で引用した(マツリ)の記述をよく読んで頂くと判ることですが、(たと)えられているのは神国と外国だけではなく、“神”(しん)(みん)も含まれています。

 臣民とは「天皇を(ほう)(たい)する民」という意味であり、戦前までは一般的に使用されていました。日月神示での臣民には非常に深い“神経綸上の(みつ)()が込められているようですが、それは この第三章の総論で論じますので、本項では神霊に対する“人間”及び“肉体”としての側面を取り上げています。

 そして、日月神示は()()()()の段階において、“元の神”である天之日津久神様が『因縁の五十九の身魂』と称される人々を筆頭とする()(たま)の磨けた人間”に神懸かり、立替え立直しや岩戸開きが遂行されることを明かしています。

「元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいてくれよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ」 『上つ巻』 第十三帖 [13]

「イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ 〔中略〕 カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな」 『磐戸の巻』 第一帖 [237]

「此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

 次に「神が()かる」「神が取り()かる」の二重の意味が込められていると思われる記述を引用します。

「いづれは(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は(はげ)しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、よくとことん掃除せねば御かかり難しいぞ」 『地つ巻』 第三十六帖 [173]

「いよいよ あめの日津久の神様おんかかりなされるぞ」 『水の巻』 第十四帖 [288]

「愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]

 この他にも「神が懸かる」と同じ意味で使われている「神が()()()という記述があります。

「臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ」 『下つ巻』 第三十四帖 [76]

「いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりてくれよ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]

「人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいてくれよ。世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ」 『地つ巻』 第三帖 [140]

「今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時 近づいたぞ。力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ」 『キの巻』 第七帖 [264]

「神だけでは この世の事は成就せんと申してあらうがな。神がうつりて成就さすと申してあろうがな。こんなこと これまでにはなかりたぞ」 『岩の巻』 第三帖 [368]

「今の人民はマコトが足らんから、マコトを申しても耳に入らんなれど、今度は神が人民にうつりて、又 人民となりてマコトの花を咲かす仕組、同じことを百年もつづけてクドウ申すと人民は申すなれど、判らんから申してゐるのであるぞ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

 日本語の「うつる」には、(うつ)る、(うつ)る、(うつ)(うつ)る)などの意味がありますが、日月神示では基本的に全ての意味を包括する形で使われているようです。ちなみに「うつる」という表現は霊界と現界の関係を背景としていますが、その辺りの解説は本項では省略します。

 そして、正念場における神懸かりは決して特別なことでなく、一定の水準(レベル)まで身魂を磨いた日本人であれば「誰でも神懸かる」とのことです。

「掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ」 『上つ巻』 第十九帖 [19]

 また、直接的ではないものの、同じ意味合いの記述は他にもあります。

「神が真中で取次ぎ役員いくらでもいるぞ、役員はみな神柱ぞ。国々、ところどころから訪ねて来るぞ、その神柱には みつげの道知らしてやりてくれよ、日本の臣民みな取次ぎぞ、役員ぞ」 『下つ巻』 第三十八帖 [80]

「臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、(こと)に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「日本の臣民は何事も見えすく身魂授けてあるのざぞ、神の御子ざぞ。掃除すれば何事もハッキリとうつるのぞ」 『日月の巻』 第三十九帖 [212]

「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「皆々 心の鏡 掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ」 『風の巻』 第九帖 [360]

「皆々 神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ」 『光の巻』 第三帖 [399]

 それ故、日月神示では神懸かりとなるために、心と体を綺麗にする“掃除”“洗濯”“身魂磨き”が非常に重要視されているのですが、これらの記述は数が多過ぎるので、神懸かりに関連していることが明言されているものに絞って抜粋してみます。

「いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いてくれよ」 『上つ巻』 第一帖 [1]

「神に目を向ければ神がうつり、神に耳向ければ神がきこえ、神に心向ければ心にうつる、掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。掃除出来た方から神の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ」 『上つ巻』 第十帖 [10]

「洗濯すれば神かかるぞ、神かかれば何もかも見通しぞ、それで洗濯洗濯と、臣民 耳にタコ出来るほど申してゐるのざ」 『上つ巻』 第二十六帖 [26]

「神様と臣民 同じ数だけあるぞ。それぞれに神つけるから、早う身魂みがいてくれよ、みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

「身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ」 『地つ巻』 第二十二帖 [159]

「神は一人でも多く救ひ()さに夜も昼も総活動してゐる事 ()()るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ、身魂せんだくするぞ、神かかりと申しても(きつね)()きや(てん)()()きや行者の様な(かみ)(かか)りでないぞ、誠の(かみ)(かか)りであるぞ」 『日の出の巻』 第十一帖 [224]

「これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除してくれよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]

「神が見て、これならと云ふミタマに磨けたら、神から直々の守護神つけて、天晴れにしてやるから御用 見事に仕上げさすぞ、臣民ばかりでは出来ん、三千世界の大洗濯、誰一人 落したうもない神心、皆 揃ふておかげやりたや、喜ぶ顔見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心 汲みとれよ」 『マツリの巻』 第四帖 [408]

 こういった身魂磨きの結果、神懸かった人々は“千人力”を与えられるとのことです。

「早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりてくれよ。一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]

「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ」 『天つ巻』 第二十三帖 [130]

「神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが」 『日月の巻』 第二十三帖 [196]

「今度は千人万人力でないと手柄出来んと申してあろがな」 『日月の巻』 第三十一帖 [204]

「今度は十人並のおかげ位では誠の信心とは申されんぞ、千人万人のおかげを取りて下されよ、千人力与へると申してあろが」 『海の巻』 第十帖 [502]

「一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ」 『黄金の巻』 第九十四帖 [605]

「因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。知らしてからでは味ないぞ。十人並ぞ。今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]

 このような人々が文字通りの“一騎当千”の活躍をすることによって、日本は苦境を跳ね返して逆転するとのことです。恐らく、これが とどめの戦における最も具体的な形での“神の力の顕現”だと思われます。

 余談になりますが、第十巻『水の巻』第三帖には「千万いやさかのおはたらき」とあります。この祝詞は『ミロクの概略』でも触れたように出口なおの祝詞を再構成(アレンジ)したものであり、元々は「千騎一騎の御働き」という言葉であったことから推察すると「千人力や万人力の御働き(力添え)という意味だと思われます。これは後で引用する第十九巻『マツリの巻』第三帖の祝詞も同様です。

 また、上で引用した記述には「一人改心すれば千人助かる」とありますが、日月神示の千人力や万人力の表現は日本語の(いち)(りゅう)(まん)(ばい)に意味が引っ掛けてあるようです。この場合の(ひと)(つぶ)に相当する“種”については、次項で触れてみたいと思います。

 日月神示には“神の力”“神力”という言葉が五十箇所ほど出て来るのですが、殆どが具体的とは言えない内容なので、参考として、ここまでに論じた要素の多くが盛り込まれている“元の神の仕組”についての帖を引用してみます。

「世の元の()()の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに難しい仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除してくれと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうしてくれよ。今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いてくれよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか難しいぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面 間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひてくれよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いてくれよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ」 『上つ巻』 第二十一帖 [21]

 この記述によると、日月神示の説く神の力とは基本的に“元の神の力”であるようです。実際に、本項の最初の引用では神懸かるのは元の神だと明確に書かれていますし、同じ内容の記述は他にもあります。そして、世の元の大神の仕組であるが故に、人間はおろか「神々にも判らない仕組である」とのことです。

「神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、(しも)の神々様にも分らんぞ。何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりて この方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]

「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、()(かく)申さずと、神の神示 腹に入れて身魂磨いて素直に聞いてくれよ。それが第一等ざぞ」 『日月の巻』 第三十六帖 [209]

「新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ」 『夜明けの巻』 第六帖 [326]

「今度の御用は此の()()読まいでは三千世界のことであるから、()()探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ」 『風の巻』 第三帖 [354]

「元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ」 『風の巻』 第八帖 [359]

「元のキのことは、元のキの血統でないと判らんのぢゃ、判る者は判らなならんぞ、判らんものは判らんのがよいのぢゃぞ。何事も人民に判りかけ致さな、物事遅れるぞ、十年おくれると申してあるが、おくれると益々苦しくなるから、おくれん様 結構したいなれど、大層な肝腎かなめは神々様にも申されんことであるが、今の内に判って貰はねば、知らしてからでは十人並ぢゃ、それまでは神のもとのコトは申されんぞ、元の身魂に輝くぞ」 『マツリの巻』 第十二帖 [416]

「日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな。この神示 肚に入れて居ればどんなことあっても先に知らしてあるから心配ないのざ、ソレ出たとすぐ判るから胴すわってゐるから何事も結構におかげ頂くのざ」 『梅の巻』 第十一帖 [438]

「途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ」 『梅の巻』 第二十一帖 [448]

「中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな」 『海の巻』 第七帖 [499]

「何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの(こと)を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「今迄のこと ちっとも交らん新しき世になるのであるから、守護神殿にも判らんことするのであるから、世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢゃ」 『黄金の巻』 第十八帖 [529]

 以上の内容から考えると、神懸かりや神懸かりから派生する出来事を“とどめの戦の最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)に位置付けても良いと思われます。それは、戦争や天災はいつの時代にもありますが、根元的な神々が直々に現れて指図するような「神さえ判らん仕組」は、恐らく前例が無いからです。

 そして、元の神による前例の無い仕組が遂行された結果、神様は「臣民に手柄を立てさせて御礼を申す」とのことです。

「闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからは お手柄さして、とことはに名の残る様になるぞ」 『上つ巻』 第二十五帖 [25]

「細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして親から御礼申すぞ」 『上つ巻』 第二十七帖 [27]

「どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「神は天からと宙からと地からと(ちから)合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民(いち)()もないのざぞ。神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「世の元からの仕組であるから臣民に手柄立てさして上下揃った光の世にするのざから、臣民見当取れんから早よ掃除してくれと申してゐるのぞ」 『日月の巻』 第十四帖 [187]

「御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めてくれよ、皆のものに手柄さし()いのぞ」 『日の出の巻』 第十七帖 [230]

「この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、()()までも、死んでも頑張りて下されよ、()()まで見届けねば、この方の役目 果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処までも貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ」 『磐戸の巻』 第十九帖 [255]

「いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。」 『水の巻』 第十一帖 [285]

「神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名 残して世界(うな)らすのざぞ」 『雨の巻』 第五帖 [339]

「人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ」 『雨の巻』 第十六帖 [350]

「役員 皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ」 『雨の巻』 第十七帖 [351]

「時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ」 『風の巻』 第五帖 [356]

「ミロク世に出づには神の人民お手柄致さなならんぞ、お手柄 結構々々」 『空の巻』 第九帖 [464]

「神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。自分でびっくり」 『春の巻』 第五十七帖 [714]

 これらの記述で重要なのは手柄ではなく“御礼”の方です。何故、神様が人間に対して御礼を述べることになるのかと言うと、

神懸かりとは肉体(じぶん)を神に捧げることだからです。

 そのことを、日月神示は神道での()(もつ)の一種である(たま)(ぐし)として表現しています。

「玉串 神に供へるのは(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理 分りたか」 『天つ巻』 第十三帖 [120]

「玉串として自分の肉体の清い所 供へ奉れよ、髪を切って息吹きて祓ひて紙に包んで供へまつれよ、玉串は自分捧げるのざと申してあろがな」 『青葉の巻』 第二帖 [471]

 現在では、玉串は小枝に飾りをつけて神前に供えたものや、(さかき)を指す場合が多いです。榊については「神棚に供えられている葉っぱ」と言われた方が判り易いかもしれません。ちなみに、日月神示では“松”も玉串としています。

「火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、(つち)(まん)(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ。マツはもとのキざぞ、松 植へよ、松 供へよ、松ひもろぎとせよ、松 玉串とせよ、松おせよ、()()も変らん松心となりて下されよ。松から色々な物 生み出されたのぞ、松の国と申してあろが」 『松の巻』 第十六帖 [307]

 ただし、本来の玉串とは神霊が宿る(より)(しろ)の全般を指していた可能性が高いそうです。依代とは神霊が(うつ)()に顕現するための(ばい)(たい)になる()()のことで、中身を(こぼ)さずに(とど)めるための“容器”や、()(じゅう)を受け止めるための“足場”のような性質を有しています。ちなみに、この依代の概念を物質だけではなく、人間の行為や自然界の事象にまで範囲を拡大したのが(ひな)(がた)の概念です。

 こういった依代の概念は、出口王仁三郎が人間のことを「神の霊が(とど)まるから(ひと)()()である」と言っていたのに通じる概念です。案外とどめには(とど)める”の意味も掛けてあるのかもしれません。

 要するに、立替えに際して“神の依代”として()()を提供するからこそ、神様から御礼を言われるような手柄に成り得るというわけです。

 また、依代という言葉こそ使われていないものの、()れ物”“宮”“衣”という言葉を使って、意味的に同じことを説いた記述もありますので、主なものを抜粋してみます。

「早く(モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト心になりてくれよ、神頼むぞよ。(めくら)が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりてくれよ」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「お宮も一時は無くなる様になるから、その時は、みがけた人が神のお宮ぞ。早う身魂みがいておけよ、お宮まで外国のアクに壊されるやうになるぞ。早くせねば間に合わんことぞ」 『上つ巻』 第三十七帖 [37]

「神のゐる場所塞いで居りて お蔭ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが」 『下つ巻』 第三十七帖 [79]

(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。」 『地つ巻』 第二十四帖 [161]

「タマの中に仮の奥山移せよ、急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ 〔中略〕 臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事 仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ 〔中略〕 奥山 ()()に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行っても この方の国ぞ、肉体ぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]

「いれものキレイにして居りたら この方がよきに使ふぞ」 『空の巻』 第十帖 [465]

「人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理 判るであらうが」 『黒鉄の巻』 第二十一帖 [639]

「神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をとして、心として生命しているのぢゃ。(かみ)(ひと)と申してあろうがな。この(ドー)()よくわきまへよ。この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。これが得心出来ねば どんなによいことをしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ」 『春の巻』 第六帖 [663]

「肉体は霊の衣と申してあらう。衣が霊を自由にしてはならんぞ。衣には衣の約束あるぞ。衣ぢゃと申して粗末してはならん。何れも神の現れであるぞ」 『秋の巻』 第二十八帖 [769]

「人間の肉体に他の霊が入って自由にしてゐるのだと、多くの霊覚者やサニワが信じてゐるなれど、事実そう見へるなれど、それは誤りであるぞ。人間の肉体は原則として真理の宿り給ふ神の(いき)(みや)であるから、下級霊は中々に入ることは出来ん」 『竜音の巻』 第十帖 [918]

 同じ内容のことをの記号を使って説いた記述もあります。以下は(マツリ)の記述からの更なる抜粋です。

「神の最後の仕組と申すのは入れることぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「今度の行はを綺麗にする行ぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦はの掃除ぞと申してあらうがな」 『地つ巻』 第十二帖 [149]

「戦もと壊し合ふのでは無いぞ、とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。それには掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]

 つまり、完全なになるためには、臣民というに、神という(とど)める必要があり、そのためにはである人間や肉体を浄化する必要があるということです。日月神示はを神や霊や魂や生命(いのち)に譬える場合がありますが、このの関係は、いわゆる()(りょう)(てん)(せい)の考え方に通じるものがあります。

 こういった内容から判るのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということです。()()にも次のように書いてあります。

「どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れてくれよ、この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ。もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ」 『風の巻』 第十帖 [361]

「人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか」 『黄金の巻』 第十三帖 [524]

「自分すてて他力なし。人民なくて此の世の仕事出来ん。人民は道具ぢゃ。神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。道具だけでならん」 『春の巻』 第二十四帖 [681]

 一般的に神霊や精神的なものに興味を持つと、肉体や物質的なものを軽視してしまう傾向がありますが、日月神示では霊と同じく肉体を大切にすることの重要性が繰り返されています。それは()()“天地不二”“神人合一”の宇宙観に基づいているのですが、「元の神の仕組には肉体(にんげん)が不可欠だから」という理由もあるのでしょう。

神様には人間(あなた)が必要なのです。

 どうか、このことを お忘れなきよう お願い申し上げます。

 以上の内容を踏まえて、神懸かりが旧九月八日の仕組に含まれる根拠となる第十九巻『マツリの巻』第三帖の祝詞を、重要な部分に傍点を振って引用してみます。

「旧九月八日からの(ちかひ)の言葉 知らすぞ。五三体の大神様 五三体の大神様、天之日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、(クニ)の日月の大神様、世の元からの生神様、()()の神様の大前に、日々弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業、弥が上にも、千万弥栄の御働き祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民一時も早く改心いたし大神様の御心に添ひ奉り、()()()()()()()()()()()()(まっとう)き務め果たします様 (なに)(とぞ) 御守護願ひ上げます。そがため()()()()()(タマ)()()()()()()()()使()()()()()()()、何卒三千世界の神々様、臣民人民が知らず知らずに犯しました罪、(けがれ)(あやまち)は、神直日大直日に見直し聞き直し下さいます様、特にお願ひ申し上げます。元つ神えみためえみため」 『マツリの巻』 第三帖 [407]

 わさわざ「旧九月八日から」と指定してあるのは、この日から本格的に“神懸かりの仕組”が始まるからだと思われます。つまり、この祝詞(のりと)は正念場の際に、自らの身も心も“玉串”として捧げることを天地に向かって表明する“神への宣誓”なのです。

 また、この祝詞の最後には「元つ神」という言葉が盛り込まれています。『ミロクの構図』でも引用しましたが、日月神示を降ろした天之日津久神様は自らが“元神”であることを明かしています。

「アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの(つき)()の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの()(つき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。それでよう(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

 同時に、臣民は(くに)の日月の神”と呼ばれています。

(くに)の日月の神とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ、今の臣民も掃除すれば()()()(つぎ)の神様となるのざぞ、自分いやしめるでないぞ、皆々神々様ざぞ」 『光の巻』 第一帖 [397]

「人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 (くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな」 『光の巻』 第三帖 [399]

「万物の長とは神の臣民の事であるぞ、世界の人民も 皆 万物の長であるが、この世の神は臣民ぢゃぞ、神に次いでの良き()(たま)ぞ、臣民は(くに)の日月の神様ざぞ」 『梅の巻』 第十二帖 [439]

「待てるだけ待ってゐるが世を潰すわけには行かん、人民も磨けば神に御意見される程に身魂に依ってはなれるのざぞ、(くに)の日月の神と栄えるのざぞ、何より身魂磨き結構」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

 つまり、元の神である天之日津久神様が神懸かるから、身魂の磨けた臣民は()()()()()()日月の神”の地上世界における顕現、即ち()()()()()日月の神”であるというわけです。地の日月の神という表現は、単に人間の本性が非常に尊いことが強調されているだけかもしれませんが、神懸かりの仕組を背景にした表現と見ても間違いではないはずです。

 恐らく、日月神示を読み、普段の想念と言動を“神の心”に近付けて行けば、殆どの人間が地の日月の神として取り立てて頂けるのでしょう。たとえ遅い歩みに見えるとしても、()()の内容を少しづつ()()()ことが、地上世界に“神の力”を現すための最も確実な方法であると思われます。

 次に、やがては神懸かって(くに)の日月の神となる人間、いわゆる日月(ひつく)の民”“因縁の身魂”と呼ばれる人々について補完したいと思います。()()によると、これらの方々は現在の社会的地位から見ると基本的に落ちぶれているとのことです。

「神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢してくれよ、その代り御用つとめてくれたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな」 『下つ巻』 第三十七帖 [79]

「今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、(あっ)(ぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな」 『磐戸の巻』 第十八帖 [254]

 これは主に身魂を磨くための試練だと思われますが、“神様側の事情”もあるようです。

「愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よく この()()読んでおいて下されよ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所 無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと()ぐ心で判るのぢゃぞ」 『空の巻』 第十二帖 [467]

「今迄は大地の先祖の大神様の血統を落して(しも)ふて途中からの代りの神でありたから、まぜこぜしたから世が乱れに乱れて了ふたのぢゃぞ、知らしてあらうがな、よくなっとくしてくれよ、人民 皆その通りになってゐるのぢゃ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

「大事な御先祖様の血統を皆世に落して(しも)ふて無きものにして了ふて、途中からの代へ身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、今の有様は何事ぞ、まだ判らんのかなあ、人民もぐれんぞ」 『海の巻』 第十帖 [502]

 他にも、日月(ひつく)の民が落ちぶれている事情が、更に詳しく述べられた記述があります。

「この方 悪神、(たたり)(がみ)と人民に云はれてトコトン落されてゐた神であるぞ、云はれるには云はれるだけの事もあるのぢゃ、此の方さへ改心いたしたのであるぞ、改心のおかげで此の度の御用の立役者となったのぢゃぞ、誰によらん改心致されよ」 『海の巻』 第十帖 [502]

「この方 世に落ちての仕組であるから、落して成就する仕組」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]

 「()(ほう)」とは天之日津久神様の一人称なのですが、上の記述では立替え立直しの総指揮を()るとされる“国常立神”か、()(ぜい)(しん)に位置付けられている“素盞鳴神”を指す意味が非常に強いです。そして、日月神示には両神を同一神的に説く記述があります。

(おお)(くに)(とこ)(たち)(のかみ)(おお)()()(なるの)(おお)(かみ)様なり」 『黄金の巻』 第三十四帖 [545]

 詳しくは記紀神話と一緒に解説しますが、大本系統の神話では、この二柱の神様は(えん)(ざい)を着せられて蔭から世界を守護なさっていると言われています。それ故、両神と(えにし)が深い人々は一時的に(おとし)められる場合があるとのことです。これは国常立神の肉体とされる日本列島に住まう人間、つまり“日本人”も同様です。それが正念場において日本が苦しむ理由の一つになっていると思われます。日月神示には次のようにも書いてあります。

「神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国々もその通りざぞ、神には()()無いのざぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]

「つらい役は因縁のミタマに致さすぞ。心得なされるがよいぞ」 『梅の巻』 第十四帖 [441]

「いやな事は我が血統に致さすなり、()(にん)傷つけてはならんなり」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

「その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。判りたか」 『春の巻』 第二十四帖 [681]

 因縁の身魂が落ちぶれていたり、正念場で日本が苦しむのは、「辛い義務は身内に負わせる」という神様の方針の現れなのでしょう。

 以上のように、()()()()の時に活躍する人々は、現在は非常に苦しい環境にあると思われますが、それを乗り越えて“尊き因縁”に基づく“御用”を果たされることを、神様は望んでいらっしゃいます。

「いくら金積んで神の御用さしてくれいと申しても、因縁のある臣民でないと御用出来んぞ。御用する人は、()んなに苦しくても心は勇むぞ」 『上つ巻』 第七帖 [7]

「今度の御用は結構な御用ぞ、いくら金積んでも、因縁ない臣民にはさせんぞ」 『上つ巻』 第三十一帖 [31]

「今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。人のようせん辛抱さして、生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみざから、みごと御用つとめ上げてくれよ。〔中略〕 この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ」 『下つ巻』 第四帖 [46]

「因縁の身魂はどんなに苦しくとも勇んで出来る世の元からのお道ぞ。七人に知らしたら役員ぞ、神が命ずるのでない、自分から役員になるのぞと申してあろがな、役員は神のぢきぢきの使ひぞ、神柱ぞ」 『下つ巻』 第三十三帖 [75]

「この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと()く聞いて得心出来たら、(はら)の底から改心してマコトの御用 結構につとめあげてくれよ」 『磐戸の巻』 第十三帖 [249]

「この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って 又 始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。ここの役員は 皆 因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ」 『松の巻』 第九帖 [300]

「三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は(いや)でも(おう)でも致さすのであるから、今度の御用は此の()()読まいでは三千世界のことであるから、()()探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「村々に一粒二粒づつ因縁身魂 落してあるぞ、芽生へて来るぞ」 『マツリの巻』 第十一帖 [415]

「因縁ある身魂が、人民では知らん結構を致すぞ」 『空の巻』 第十一帖 [466]

()()()通りにすれば、神の云ふ事聞けば、神が守るから人民の目からは危ない様に見へるなれど、やがては結構になるのざぞ、疑ふから途中からガラリと変るのざぞ。折角 縁ありて来た人民ぢゃ、神はおかげやりたくてうづうづざぞ、手を出せばすぐとれるのに何故 手を出さんのぢゃ、大き器 持ちて来んのぢゃ」 『青葉の巻』 第十二帖 [481]

「今度はしくじられんのざぞ、神の仕組 間違ひないなれど、人民しくじると、しくじった人民 可哀想なから、くどう申しつけてあるのざぞ、よう分けて聞きとりて折角のエニシと時を外すでないぞ、〔中略〕 尊い身魂と、尊い血統、忘れるでないぞ」 『青葉の巻』 第十三帖 [482]

「縁あればこそ、そなた達を引寄せたのぢゃ、此の度の二度とない大手柄の差添へとなって下されよ、なれる因縁の尊い因縁をこわすでないぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「此の道は因縁なくしては判らん難しい道であれど、此の道つらぬかねば、世界は一平にならんのぢゃ、縁ある人は勇んで行けるのぢゃ、神が守るからおかげ万倍ぢゃ、神の帖面 間違ひないぞ」 『海の巻』 第十八帖 [510]

「因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのであるから、浮いた心で参りて来ても御役に立たん。邪魔ばかりぢゃ。因縁のみたまは()んなに苦しくても心は春ぢゃ。心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢゃ」 『黄金の巻』 第八十五帖 [596]

「人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。因縁判ってうれしうれしで御用結構。うれしおそろしくなる仕組」 『春の巻』 第五十一帖 [708]

「そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。真理に苦の花さくのであるぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]

 最後に、元の神の手足となって岩戸開きの御用をする因縁の身魂の方々が、困苦に負け、自らを(いや)しめ、尊き因縁を忘れることが無いように、天之日津久神様が(くに)の日月の神々様の勇気を()()した『三千年の歌』を引用して、本項の結びとさせて頂きます。

「三千年、三千世界 乱れたる、罪やけがれを身に()いて、此の世の裏に()れしまま、此の世構ひし大神の、みこと(かしこ)み此の(たび)の、岩戸開きの御用する、身魂は(いづ)れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし(かみ)(ぐに)の、まことの身魂 (あま)駈けり、国駈けります元の種、昔の元の(おん)種ぞ、今 落ちぶれてゐるとても、(やが)ては神の()(たみ)とし、(あめ)(つち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民()よ。今(ひと)苦労(ふた)苦労、とことん苦しき事あれど、()へ忍びてぞ次の世の、まこと(かみ)()(いしづへ)と、磨きてくれよ(かみ)身魂、いやさかつきに栄えなむ、みたまさちはへましまさむ」 『日月の巻』 第二帖 [175] この歌の最初の六音は七五調の韻律から外れているので、「(さん)(ぜん)(ねん)」は歌の表題(タイトル)である可能性があります)

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正念場の情景

 日月神示では“正念場”と呼ばれる期間に日本人が非常に苦労することが詳しく述べられており、これを()の花”()の花”と表現する場合があります。この最も()しい神経綸()の期間に具体的に何が起きるのかを【正念場の情景】として考察してみたいと思います。

 正念場における苦労の内容は“肉体的な苦労”“霊的な苦労”の二つに大別できますが、前者は外国との戦争に負けた結果として起きる出来事であり、後者は霊界と現界が交わり始めた結果として起きる出来事です。これらは()の苦労”(タマ)の苦労”と言い換えても構わないと思います。

 前者の範囲に属する“戦争の結果”は日月神示で数多く描写され、敗戦後の準備を怠らないように注意を喚起する記述が多いです。ですが、この出来事は旧九月八日の仕組の本質的な側面ではないので敢えて割愛します。本項で主に論じるのは霊的な苦労に属する“神懸かりの結果”についてであり、そこから、

「何故、半霊半物質の世界へ移行する必要があるのか?」

という根本的な疑問についても考察してみます。その過程で、神懸かりの仕組が“立替え立直しの方法論”として用意されていることが明らかになると思います。

 それと、これは前もって述べておく必要のあることですが、本項で論じている霊的な現象は、神経綸九の段階では限定的なものに(とど)まる可能性があります。

 簡単に説明しますと、神経綸九の期間は岩戸が()()()()()段階であって、岩戸が()()()()()段階ではないからです。例えるなら、扉が半分しか開いていない状態と完全に開いた状態では、扉を(くぐ)れるものの総量が全く違うようなものです。ちなみに、これには「大きいものほど後になる」という側面もあります。

 つまり、本項で取り上げている霊的な現象は、十方的世界へ完全に移行(シフト)して“総神懸かり”の状態になり、“天変地異としての神力”が発動する2024年の旧十月八日に向けて徐々に強まって行くはずなのです。

 こういった「人間には見当が取れなくなる」という事態に(おちい)るのが“戦争の途中”からであることは、何箇所かで暗示されています。

「今度の戦で何もかも(らち)ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも何うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ」 『下つ巻』 第二十五帖 [67]

「も少し戦すすむと、これはどうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになると知らしてあろが、さうなってからでは遅いからそれ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ、役員の大切の役目ざぞ、われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神 強く頼むぞよ」 『磐戸の巻』 第二十帖 [256]

 恐らく、旧九月八日に向けて準備をしていた人や、霊的に鋭敏な体質の人から順を追って“霊現交流”の影響が出始めるのであって、すぐに霊的な現象が頻発するわけではないのでしょう。この点を認識した上で以後の考察を お読み下さい。

 正念場における“霊的な苦労”の内容を把握するには、日月神示の説く霊界論、いわゆる“霊界の法則”を予備知識として持っている必要があります。これは、霊的な苦労とは霊界と現界が交わり始めた結果として起きる出来事だからです。

 霊界の法則は幾つもありますが、その全てを本項で論じることは難しいので、立替え立直しの要となるものに絞って述べてみます。その一つが「霊界では自分の本性を偽ることができない」という法則です。

〔前略〕しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。〔中略〕 (しか)して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。〔中略〕この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している」 『地震の巻』 第四帖 [381]

「霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。地上人と(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない」 『地震の巻』 第四帖 [381]

「人間が、一度 死の関門をくぐり、肉体をすてた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それは直ちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである」 『地震の巻』 第十六帖 [393]

「死後の世界に入る時に、人々は先ず自分の中の物質をぬぎすてる。生存時に於ては物質的な自分、即ち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、且つ自分自身であるかの如くに感ずるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。生長し、考慮し、行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である」 『地震の巻』 第十七帖 [394]

 これによると、霊界では精神と霊体の容貌という“心身の状態”が完全に一致しており、いわゆる“虚偽”は行い得ないことが述べられています。このような霊界の法則が地上世界に加わった後の結果は、日月神示で何種類かの言葉を使って描写されていますので、主要なものを順番に論じて行きます。

 まずは“獣”“四つん()い”という言葉について考えてみます。これらは「神と獣が分かれる」という表現が使われている場合が多いです。

「この方 祀るのは(あめ)のひつくの家ぞ、祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、臣民の(しょう)(らい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ」 『下つ巻』 第二十三帖 [65]

「獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代のことぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、臣民よくこの()()よみておいてくれよ」 『富士の巻』 第四帖 [84]

〔前略〕 これで神国の民と申して威張ってゐるが、足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震かみなりばかりでないぞ、臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ」 『富士の巻』 第十九帖 [99]

「牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、〔中略〕 神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ」 『天つ巻』 第五帖 [112]

「今に臣民 何も言へなくなるのざぞ、神烈しくなるのざぞ、目あけて居れんことになるのざぞ。四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになるのざぞ、のたうち廻らなならんのざぞ、土にもぐらなならんのざぞ、水くぐらなならんのざぞ。臣民 可哀さうなれど、かうせねば鍛へられんのざぞ、この世始まってから二度とない苦労ざが、我慢してやり通してくれよ」 『天つ巻』 第二十五帖 [132]

「今に(やまい)(がみ)の仕組にかかりてゐる臣民 苦しむ時 近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。この方の()()よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ」 『地つ巻』 第十六帖 [153]

「神の臣民と獣と立て別けると申してあろうが」 『地つ巻』 第三十六帖 [173]

「今の世の(さま) 見ても未だ会得らんか。神と獣とに分けると申してあろが」 『日の出の巻』 第十二帖 [225]

 上の記述によれば、本格的な立替えが始まると“人面獣心”だった人間は“獣の様相”を呈するとのことです。これについては、旧約聖書のネブカドネザル王の逸話が判り易いかもしれません。

 次に“逆立ち”という言葉について考えてみます。

「大峠の最中になったら、キリキリまひして、助けてくれと押しよせるなれど、その時では間に合わん、逆立してお詫びに来ても、どうすることも出来ん、皆 己の心であるからぞ、今の内に改心結構」 『碧玉の巻』 第八帖 [872]

「改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。〔中略〕 この仕組 判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方 申すのざ」 『磐戸の巻』 第十八帖 [254]

「月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空はちの色となるぞ、流れもちぢゃ。人民四つん()ひやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ」 『紫金の巻』 第五帖 [984]

 立替え中に起きる逆立ちとは、()()()()()()()()()()()()に起きる現象であるようです。つまり、自然界の摂理と真逆のことを思い、神の心に沿わぬことを正しいと信じている人間は、正念場の際に逆立ちをすることになるらしいのです。このような状態に陥る人は意外と多いらしく、日月神示では、現在の社会や人間の意識が“逆様”であることが繰り返し述べられています。

「逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、上にゐては足も苦しからうがな、上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、足はやはり下の方が気楽ぞ、あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、この道理分りたか。岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ。〔中略〕 手は手の役、うれしかろうがな、足は足の役、うれしかろうがな、足はいつまでも足ぞ、手はいつまでも手ぞ、それがまことの姿ぞ、逆立して手が足の代りしてゐたから よく分りたであろうがな」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「臣民の思う通りにはなるまいがな、それは逆立してゐるからぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

「今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ」 『下つ巻』 第三十七帖 [79]

「大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、()うにもならんから、いつ気の毒 出来ても知らんぞよ」 『富士の巻』 第二十五帖 [105]

「逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ(とき)()が来たぞ」 『天つ巻』 第六帖 [113]

「戦も病の一つであるぞ、国の足のうら掃除すれば国の病 直るのぞ、国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除してくれよ」 『天つ巻』 第二十九帖 [136]

「大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ」 『磐戸の巻』 第三帖 [239]

「悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「己の知では分らん、大神様とはアベコベのこと考へてゐては逆さばかりぢゃ、神示よく読んで誠の仕組 仕へ奉れよ」 『青葉の巻』 第二十二帖 [491]

「改心 早う結構ぞ。道 知るのみでは何にもならん。道 味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

がよろこびであるぞ。またはムでもあるぞ。内から外に向って行くのがのやり方、外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。からに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ」 『夏の巻』 第二帖 [719]

「神が主であり人民が従であると申してあろう。これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。結果あって原因あるのでないぞ。今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ」 『秋の巻』 第二十三帖 [764]

 こういった“物事が正しく見えない状態”のことを、日月神示は汚れや垢や歪みのように表現しており、それを元の状態に戻すことが身魂磨きの基本になります。繰り返しになりますが、その最初の行動は神の心を知ること、即ち「()()を読むこと」に尽きます。

 次に“裸”という言葉について考えてみます。

「裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ」 『富士の巻』 第二十五帖 [105]

(いや)でも(おう)でも裸にならなならんぞ、裸ほど結構なもの無い事 始めて()()りて来るぞ」 『日の出の巻』 第一帖 [214]

「上が裸で下が(はかま)はくこと出て来るぞ。神が化かして使うてゐるのざから、出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことかと皆がびっくりするのざぞ」 『磐戸の巻』 第十七帖 [253]

「ものは、はなすからこそ掴めるのぢゃ。固く握って戸しめていてはならんのう。扉あけておけと申してあろうが。着物ぬいで裸体となること つらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になって そなたを抱いて下さるぞよ」 『春の巻』 第十帖 [667]

 これらの内容は、立替えが始まると霊界の法則が地上世界にも加わって「心が丸裸になってしまう」ということを表現しているようです。また、「嘘がつけない」や「隠しごとができない」や「偽りがない」といった裸の状態の方が、最終的には“楽”であることに気付くとも述べられています。

 このような“丸見え”の状態になることを暗示していると思われる記述は複数あります。

「いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐてくれよ、地獄の三段目に入ることの表は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ」 『富士の巻』 第九帖 [89]

「神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、〔中略〕 悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ」 『天つ巻』 第二十帖 [127]

「今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

「時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にしてくれよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神 暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ」 『磐戸の巻』 第十八帖 [254]

「いざとなれば昔からの生神様 総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ」 『磐戸の巻』 第二十帖 [256]

「我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時 近付いたぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「あれこれとあまり穢れてゐる(はらわた)ばかりぢゃから、一度に引出して、日に干してからでないと、洗濯出来ん様になりて御座るぞ。ひぼしこばれん人民あるから、今のうちから気付けてゐるのぢゃぞ」 『風の巻』 第八帖 [359]

「今の人民 少しは神示 判って居らんと恥づかしい事 出来て来るぞ、なさけない事 出来てくるぞ、くやしさ目の前ぞ」 『梅の巻』 第十七帖 [444]

「今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

 そして、今回の立替え立直しは()()()()()()()()()()()()()という平等なる審判(さばき)()()(ゆだ)ねられるが故に、「誰も逃げられない」とも述べられています。

「一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて()(ろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ」 『富士の巻』 第十九帖 [99]

「これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひてくれよ、方便の世は済みたのざぞ」 『地つ巻』 第十帖 [147]

「すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れようとてのがれる事 出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ」 『キの巻』 第十七帖 [274]

「今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事 出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ」 『水の巻』 第十四帖 [288]

「行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組」 『月光の巻』 第三十六帖 [823]

「今迄の、のがれ場所はヤマであったが、今度はヤマに逃げても駄目、カミの御旨の中であるぞ」 『極めの巻』 第十七帖 [944]

「大地震、ヒの雨降らしての大洗濯であるから、一人のがれようとて、神でものがれることは出来んぞ、天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ」 『紫金の巻』 第五帖 [984]

 その上で、ここまでの内容を踏まえて書かれていると思われるのが、「金や富や学は役に立たなくなる」という記述です。

「知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けてくれと申しても間に合わんぞ」 『下つ巻』 第十六帖 [58]

「富や(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘 役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ」 『日の出の巻』 第二十三帖 [236]

「メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひであるぞ。早う神の申すことききて下されよ。世界の何処さがしても、今では()()より他に、神のマコトの道 知らす所ないのざぞ」 『磐戸の巻』 第十帖 [246]

「勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々」 『水の巻』 第四帖 [278]

「金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ」 『松の巻』 第五帖 [296]

「金や学や智では大峠越せんぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「時節到来してゐるに未だ気付かんか、人民の物と云ふ物は何一つないのざぞ、未だ金や学で行けると思ふてゐるのか、愈々の蓋あいてゐるに未だ判らんか」 『空の巻』 第九帖 [464]

「真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ、今は神を見下げて人民が上になってゐるが、さうなってから神に助けてくれと申しても、時が過ぎてゐるから時の神様がお許しなさらんぞ、マコトになってゐれば何事もすらりすらりぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「学や智や金がチラチラ出る様では、マコトが磨けては居らんのぢゃ、今の法律でも、教育でも、兵隊でも、宗教でも、この世は建直らんぞ、新しき光が生れて世を救ふのぢゃ、新しき光とはこの神示ぢゃ、この神ぢゃ」 『海の巻』 第十五帖 [507]

 結局の所、ミロクの世では“心が全て”になるので、金銭や所有物や学識や地位などは()()を決定付ける第一義的な要素にはならなくなるのでしょう。最も重要になるのは()()的な“徳”、いわゆる“マコト”だと思われます。これは正念場においても同様であり、マコトこそが日本の苦境を跳ね返す“神風”になることも明言されています。

「人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいてくれよ。世界中が攻め寄せたと申しても、(まこと)には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒 出来るか分らんから、くどう気つけておくのざぞ」 『地つ巻』 第三帖 [140]

 なお、これらの記述は「心根にマコトがなければならない」という主旨であって、金銭や学識が害悪であったり不要になるという意味ではありません。

 以上の内容からは、天之日津久神様が“身魂磨き”を繰り返し説いている理由の一つが判ります。それは子である人間が苦しんだり恥ずかしい思いをしないようにと願う“親心”なのでしょう。子であれば親の心を汲み取って、少しでも身魂を磨くのが宜しいかと思います。これは何よりも自分自身のためでもあります。

 ここまでは身魂の磨けていない人間に起こり得る出来事を中心に取り上げましたが、これは霊界と現界が交わり始めた結果の半面の出来事に過ぎません。そこで、ここからは身魂の磨けた人間に起こり得る出来事を、天之日津久神様の説く“新しき武器”を中心に考察したいと思います。

 この武器の背景になっているのが「霊界では自分の思った通りの出来事が実現する」という法則です。

〔前略〕 霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。〔後略〕 『地震の巻』 第二帖 [379]

「天国がうつって地が出来てゐるのぢゃから、霊の国は更に立派、微妙ぞ。天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違ひあるだけぢゃ。その時の状態によって変化するが、総ては神が与へたのぢゃ、現界同様、与へられてゐるのぢゃと知らしてあらうがな。時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。同じ状態にあれば同じ処に住み、変化すれば別の所に住むのであるぞ。見ようと思へば、念の中に出て来て、見ること、語ること出来るのぢゃ。見まいとすれば見えんのぢゃ。自分で見、自分で語るのぢゃぞ。時、所、位、総てが想念の中、想念のままに現はれて来るのであるぞ」 『白銀の巻』 第七帖 [618]

「霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]

 日月神示によると、霊界では想念と発言と行動が完全に一致していて分離することができないそうです。

 これは「意思した内容が即座に反映される」ということです。その結果、ミロクの世では人間の意思である“念”が極めて強い力を持つようになるとのことです。

「人間の念力だけでは何程のことも出来はせんぞ。その念力に感応する神の力があるから人間に判らん、びっくりが出て来るのざぞ」 『黄金の巻』 第七十四帖 [585]

「思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねばネンとはならんぞ」 『春の巻』 第四十帖 [697]

「念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ」 『春の巻』 第四十四帖 [701]

「天のこと地にうつすときは、地の力出るように、地の息吹き通ふように、弥栄するように、念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。邪気入ってはならん」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

「今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。神界の裏打ちある武器でなくてはならん。まことの武器ぞ。ヒックリであるぞ。念からつくり出せよ。その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、この世の力と現はれるぞ」 『春の巻』 第四十六帖 [703]

「念が新しき武器であるぞ。それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。ものごとには順と時あるぞ。もとのキから改めて下されよ。尊き御役」 『春の巻』 第四十七帖 [704]

「念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。実在であるぞ。喜びであるぞ。喜びは神ぞ。弥栄」 『春の巻』 第四十八帖 [705]

 これらの記述によれば、“正しき心”が身魂の磨けた人間にとっての“武器”になるそうです。正念場における苦労は、この念を身に付けるための修練としての側面もあるのでしょう。日月神示の説く身魂磨きは単なる修身論や精神論に見える場合もあるかもしれませんが、実際には、

「身魂磨きはミロクの世での()()()()()()()を得るための準備作業である」

と言えそうです。恐らく、ミロクの世になって“神懸かり”が常態になると、身魂の磨けた人間ほど高級な神霊との繋がりが強まり、より強力な“念”を行使できるようになるはずです。それは神の心に近い人ほど栄えて行くことを意味しています。

 こういった内容からは、天之日津久神様が“心の戦”を非常に重視している理由が判ると思います。人間の内面で日々起きている()()は、立替え立直しの成否を左右する最も重要な()()なのです。それ故、自分の内面を見つめて改めるという地道な作業を続けている“マコトの人”は、立替え中に大きな影響力を持つことになると思われます。その代表格が前項でも言及した“日月の民”です。

「日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人ばかりでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

 この記述には「大和魂の種」という言葉が出て来ますが、これは日月の民の役割を示唆した呼び方であるようです。そこで“種”に関する記述も引用してみます。

「この()()腹の中に入れて置いてくれと申すに、言ふ事きく臣民 少ないが、今に後悔するのが、よく分りてゐるから神はくどう気つけて置くのぞ、読めば読むほど神徳あるぞ、どんな事でも分かる様にしてあるぞ、言ふこときかねば一度は種だけにして、根も葉も枯らして仕まうて、この世の大掃除せねばならんから、種のある内に気つけて居れど、気つかねば気の毒出来るぞ」 『富士の巻』 第二帖 [82]

「本 清めねば末は清まらんぞ、根 絶ちて葉しげらんぞ、元の(たね)が大切ざぞ、種はもとから()り分けてあるのざぞ」 『地つ巻』 第二十帖 [157]

「一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の世の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。それで神がくどう申してゐるのぞ。種は落ちぶれてゐなさる(かた)で守られてゐるぞ。上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ。種は百姓に与へてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ」 『日月の巻』 第六帖 [179]

「この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、〔中略〕 天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種 隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「何も知らん臣民に、知らんこと知らすのざから、疑ふは無理ないなれど、曇りとれば、すぐうつる、もとの種もってゐるのざから、早うこの神示読んで洗濯してくれよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ、神の道は無理ない道ざと知らしてあろが」 『磐戸の巻』 第十七帖 [253]

「三千世界一度に晴れるのざぞ。世の元の一粒種の世となったぞ。松の御代となったぞ」 『松の巻』 第一帖 [292]

「ここは種つくるところ、種は人民でつくれんぞ。神の申すやう、神の息 戴いて下されよ」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540]

 前項の最後で引用した歌の中でも、日月の民と呼ばれる因縁の身魂は「元の種」や「神代の(いしずえ)」と表現されていますが、これはという種を植えて芽吹かせ、として花を咲かせるのが、神の手足となって働く人々の役割であるからだと考えられます。

 この場合の(たね)とは神の心や神の道のことであり、次の世の(コア)になるもののことです。

 種は植えられ、芽吹き、花咲き、実り、同じ種を宿します。そして、増えた種を別の場所に植えることを繰り返して行けば、いずれは何倍もの成果を生み出します。日月神示は身魂磨きという“最初の一粒”が、自分だけではなく多くの人々を助けられる可能性があることを示していますが、それは、ちっぽけに見えたものが後で多大な成果を上げる“一粒万倍の(はたらき)と言えます。

 恐らくは、これこそが「一人改心すれば千人助かる」という言葉に込められた意味であり、神より与えられる“千人力”ではないでしょうか。同じ(たね)を持つ人々は一致和合して協力し合えるはずですから。

 以上の内容が、正念場における身魂の苦労のあらましであり、日月神示が説く“苦の花”“九の花”が指すものだと思われます。このような出来事によって身魂の修練が行われ、各人がミロクの世の住人として相応(ふさわ)しい人間に磨き抜かれて行くのでしょう。

 最後に、本項の総論として“正念場の結果”について考察したいと思います。これは身魂の苦労を経て(いちじる)しい変化を遂げるであろう人間の意識や社会の様相のことです。例えば、日月神示には次のような記述があります。

「今度は規則きまりたら、昔より難しくなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、(カミ)(タマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ」 『磐戸の巻』 第十三帖 [249] 「まけられん」は「負けられん」と「曲げられん」の訳し方が可能であり、どちらでも意味が通ります)

 この記述は自他の心が丸見えになることによって、心の中の“悪”の矯正を先延ばしにできなくなることを指していると思われます。恐らく、ミロクの世では「自分自身の弱い心に負けられなくなる」という意味なのでしょう。それは()()()()()()()()()()()()ということです。

 故に、ミロクの世では「誰かに喜んで貰うこと」を積極的に行うようになるはずです。これは“よいこと”に対する感性や欲求が、半ば強制的とも言える形で上昇することであり、人間の意識が神の()(むね)に沿うように急速に高まって行くことを意味しています。

(すなわ)“ミタマの立替え”です。

 こういった形で、ミロクの世では「互いに喜ばせ合うこと」が各自の行動の基本原理になって行くと思われます。そのような境地に到った人間の意識や社会の様相は“歓喜の好循環”と形容するのが相応しいでしょう。これがミロクの世の基本的な在り方であり、恐らくは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()になっていると考えられます。

 そして「世界は人間の心のままになる」のですから、他者を喜ばせようとする人間が増えて行けば、世の中は必然的に素晴らしくなるに違いありません。そのような理想的な世界を実現する能力が人間にあることを、天之日津久神様は力強く断言なさっています。

「臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事 出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

「天も変るぞ地も変るぞ。此の方等が世 建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世 建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は(かくり)()に、人民 表に立ちて此の世 治まるのざぞ」 『雨の巻』 第十七帖 [351]

「新しき世とは神なき世なりけり。人、神となる世にてありけり。世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ」 『風の巻』 第十四帖 [365]

 以上の内容によって、旧九月八日からの“霊現交流”の神懸かりの仕組は、「人間の心を立て直すこと」が本質的な側面であることが御理解いただけると思います。戦争でも天災でも変わらないとされる人間の心は、霊的な“神の力”によって立て替えられるのです。

 そして、「世界は物質世界だけではない」と気付いた人々は、神霊や霊界を含めた()()()()()()から物事を見つめるようになると思われます。それは、現在の人間の意識や社会の主流を占める物質世界()()を前提とした考え方、いわゆる“学”が終わりの時を迎えることに他なりません。これが意味するのは、

 最後(とどめ)の戦における“神の勝利”です。

 恐らく、こういった形で今までの物質世界や人間の意識を()()()()()ことが、「とどめを刺す」という言葉に込められた意味であり、(カミ)の計画”が成就するまでの基本的な道筋であると推測する次第です。

 なお、正念場の期間は日本人にとって非常に苦しいものになると思われますが、これは より良き状態に至るために(つみ)(けがれ)(あやまち)を洗い落とす(みそぎ)(はらい)なのであって、本質的には肯定的な意味を持っています。ですから、無闇に心配することなく“嬉し嬉し”の気持ちで正念場を迎えるのが宜しいでしょう。神の心と自分の心に(たが)うところが無ければ何も恐れる必要はなく、神様は人間の心の底まで見抜いた上で計画を立てていらっしゃるのですから。

「人の心のむつかしさ計り知れん程であるなれど、見て御座れ、見事なこと致して見せるぞ」 『扶桑の巻』 第六帖 [855]

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九月

 日月神示では神の計画の進展段階が数字で表現されており、正念場である“神経綸九”の段階に対応しているのが【九月】です。この言葉は“旧九月八日”と同じ意味で使われている場合が多く、計画の他の段階と比べても言及の量が突出しています。

 まずは“九月”が重視されている記述から引用します。ただし、これらの記述には旧九月八日や神経綸九の期間が重要である具体的な理由については触れられていません。

「九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ」 『上つ巻』 第十八帖 [18]

「八と十八と五月と九月と十月に気つけてくれよ」 『富士の巻』 第二十七帖 [107]

「七月になると上の人民番頭殿、顔の色 悪うなって来るぞ、八九月となれば愈々変って来るぞ、秋の紅葉の色変るぞ」 『梅の巻』 第八帖 [435]

 次に、前項でも論じた“神”“獣”に関わる旧九月八日の記述を引用します。

「旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「()()()のりとコト」入れてのれよ。忘れずにのれよ。その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]

「旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心 獣ぞ。神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとはその事ざぞ」 『松の巻』 第三帖 [294]

 これは、霊現交流の影響により「自分の本性を偽れなくなる」という意味と、外国との戦争の開始と敗北によって「体裁を取り(つくろ)う余裕が無くなる」という二重の意味が込められているようです。

 次に、霊現交流が始まって“心”の重要性が増すことが述べられた旧九月八日の記述を引用します。

「心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ(ばか)りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組 近ふなったぞ」 『キの巻』 第十四帖 [271]

「己の心 見よ、いくさまだまだであろが、違ふ心があるから違ふものが生れて違ふことになる道理分らんのかなあ。世界の愈々のメグリが出て来るのはこれからであるぞ、九月八日の九の仕組 近付いたぞ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

 二つ目の帖で旧九月八日の仕組との関連性が示唆されている(めぐ)り”とは、仏教やヒンズー教でいう(カルマ)のことで、日月神示では次のように説明されています。

「めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

 (カルマ)には良いものも悪いものもありますが、日月神示では悪い方を指す場合が多く、主に“魂の負債”という意味で使われています。そして、立替え中の様相は“メグリ”が密接に関係しているらしく、負債(メグリ)を完済する(しゃく)(せん)()し”の重要性が強調されています。

「祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中 借銭なし、何しても(たい)(もう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ」 『地つ巻』 第八帖 [145]

「人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭()しの時となりたのぞ、改心第一ぞ、〔中略〕 神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭()しがはじまってゐるのぞ、()ましたら気楽な世になるのぞ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ」 『日月の巻』 第十六帖 [189]

「めぐりだけの事は、今度は()うしても借銭無しにするのざぞ」 『日の出の巻』 第十帖 [223]

「日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ、まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る(ところ)も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ。それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ」 『日の出の巻』 第十二帖 [225]

「心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ」 『磐戸の巻』 第十一帖 [247]

「魂にめぐりあると何してもグラリグラリと成就せんぞ。めぐりのままが出て来るのであるぞ。心のよきもの、神にまつりて、この世の守護神と現はすぞ」 『黄金の巻』 第七十四帖 [585]

「損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ」 『黄金の巻』 第八十三帖 [594]

「行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組」 『月光の巻』 第三十六帖 [823]

 同時に「メグリの清算を迫られる理由」も明かされています。

「今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「借銭()うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則 定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ」 『キの巻』 第八帖 [265]

「神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬよう、根本から心入れかへてくれよ」 『水の巻』 第十四帖 [288]

「神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ」 『松の巻』 第四帖 [295]

「今度は借銭()しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ」 『夜明けの巻』 第十三帖 [333]

「天の規則 地でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ」 『紫金の巻』 第七帖 [986]

 これらの記述によると、ミロクの世の住人になるためには「メグリが無いこと」が条件の一つであるようです。この辺りの考え方については次の記述が参考になると思われます。

「この神の(もと)へ来て信心さへして居たらよい事ある様に思ふてゐるが、大間違ひざぞ。この方の許へ参りて先づ借銭なしに借銭払ひして下されよ。苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民 遠慮いらん、帰りてくれよ。そんな軽い信心は信心ではないぞ。結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。しかと褌締めてついて御座れよ。此の方 悪神とも見えると申してあらうがな」 『岩の巻』 第七帖 [372]

 言うなれば「幸せになりたければ、まず借金を返しなさい」ということなのでしょう。実際、日月神示を読み始めると最初は悪いことや苦しいことが起こるのは他でも述べられています。

「今度 ()()へ神が引寄せた者は、みなキリストぢゃ。(しゃ)()ぢゃぞと申してあらう。磨けば今迄の教祖にもなれるミタマばかりぞ。それだけに罪深いぞ。岩戸あけて、めぐり果たせたいのぢゃ。このこと(はら)によく判るであらうが」 『黄金の巻』 第三十三帖 [544]

「この道に入って始の間は、却って損したり馬鹿みたりするぞ。それはめぐり取って戴いてゐるのぞ。それがすめば苦しくても()()かに光見出すぞ」 『黄金の巻』 第四十八帖 [559]

「いくら信仰しても借銭なくなる迄は苦しまねばならん。途中でへこたれんやうに、生命がけで信仰せねば借銭なし難しいぞ。途中で変る紫陽花(アジサイ)では、御用 難しいぞ」 『黄金の巻』 第八十帖 [591]

「この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ」 『月光の巻』 第四十四帖 [831]

 そして、「メグリが無い人間は居ない」とも断言されています。

「神業奉仕すれば自らめぐり取れるのぢゃ。めぐりないもの一人もこの世には居らん」 『黄金の巻』 第三十七帖 [548]

 恐らく、旧九月八日の仕組には霊的な負債の返済を(うなが)す側面があり、どんなに苦しくとも、ミロクの世の実現のためには“必要な()()なのでしょう。

 こういった内容を踏まえた上で、旧九月八日は「結構で恐い日」と書かれています。

「九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事 少しは判りたか。何事も()()通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ」 『日月の巻』 第十帖 [183] 「九、十月八日」は「旧十月八日」とも訳せます)

 旧九月八日は、身魂が磨けていない人には“自分の本性が(さら)される日”であり“借金の返済を迫られる日”でもありますが、身魂が磨けている人にとっては、元の神から三千世界を完成させるための御用を与えられる“光栄ある大使命が始まる日”です。このことを「恐くて結構な日」と表現していると思われます。

 それ故、旧九月八日までに身魂磨きをはじめとする色々な“準備”を整えておく必要があるそうです。

「九月になったら用意してくれよ」 『上つ巻』 第十五帖 [15]

「旧九月になったら、いそがしくなるから、それまでに用意しておかんと悔しさが出るぞよ。いざとなりて地団太ふんでも間に合はんぞ。餅()くには、搗く時あるのざぞ、それで縁ある人を引き寄せてゐるのざぞ、神は急けるのぞ」 『地つ巻』 第三十一帖 [168]

「旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。心引かれる事 残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな」 『夜明けの巻』 第三帖 [323]

 なお、上の記述を読むと旧九月八日までに身魂を磨いておかなければ「間に合わない」という風に感じられるかもしれませんが、これは神の手足となって御用をする“因縁の身魂”と呼ばれる人々に対してのことであって、大多数の日本人は2024年の旧十月八日までに身魂を磨けば充分に「間に合う」と言えます。ですから、神経綸九の期間は目先の困苦に負けて(じん)(りん)を踏み外さないようにすることが肝要です。

 また、旧九月に(から)んだ因縁の身魂に関する記述は他にもあります。ちなみに、以下の記述は日月神示が降りた当時の役員に対しての指示も兼ねていたようです。

「旧九月になればこの()()に変りて(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、初めの役員それまでに引き寄せるぞ、八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ」 『地つ巻』 第二十七帖 [164]

「天明は神示書かす御役ぞ、蔭の役ぞ、この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。旧九月までには その御方お揃ひぞ」 『地つ巻』 第二十九帖 [166]

「旧九月八日で一切りぢゃ、これで(はじめ)の御用は済みたぞ、八分通りは落第ぢゃぞ、次の御用 改めて致さすから、今度は落第せん様 心得なされよ」 『マツリの巻』 第八帖 [412]

 そして、これらの記述の中の「八分」や「二分」の表現と掛けてあると思われるのが、

「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]

という記述です。その理由は日月神示に次のような記述があるからです。

()()判る臣民二三分できたなら、神 (いよ)(いよ)のとどめのさすなり」 『マツリの巻』 第六帖 [410]

「神の仕組の判る人民二三分出来たら、いよいよにかかるぞ」 『黄金の巻』 第七十四帖 [585]

 同じことを逆の視点から見た記述もあります。

「さあ今の内に神徳積んでおかんと八分通りは獣の人民となるのざから、(ふた)(また)(こう)(やく)ではキリキリ舞するぞ、キリキリ二股多いぞ。獣となれば、(はら)(から)食ふ事あるぞ。気付けておくぞ」 『夜明けの巻』 第四帖 [324]

 これらの記述によると、旧九月八日の時点で二割から三割の日本人には“改心”の見込みが立っているようです。また()()()()“とどめ”が基本的に同一視されていることも判ると思います。

 そして、こういった人々に対して推奨されているのが「神を(まつ)ること」であり、“旧九月八日からの祭祀”については非常に詳細に述べられています。

「旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「()()()のりとコト」入れてのれよ。忘れずにのれよ」 『水の巻』 第九帖 [283]

「旧九月八日からの(ちかひ)の言葉 知らすぞ。五三体の大神様 五三体の大神様、天之日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、(クニ)の日月の大神様、世の元からの生神様、()()の神様の大前に、日々弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業、弥が上にも、千万弥栄の御働き祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民一時も早く改心いたし大神様の御心に添ひ奉り、地の日月の神と成りなりて、(まっとう)き務め果たします様 (なに)(とぞ) 御守護願ひ上げます。そがためこの身この(タマ)はいか様にでも御使ひ下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が知らず知らずに犯しました罪、(けがれ)(あやまち)は、神直日大直日に見直し聞き直し下さいます様、特にお願ひ申し上げます。元つ神えみためえみため」 『マツリの巻』 第三帖 [407]

「旧九月八日から、まつり、礼拝、すっくり変へさすぞ、神代までにはまだまだ変るのぢゃぞ。祓は祓清めの神様にお願いして北、東、南、西、の順に柏手四つづつ打ちて祓ひ下されよ」 『マツリの巻』 第十四帖 [418]

「旧九月八日からの当分の礼拝の仕方 書き知らすぞ、大神様には、先づ神前に向って静座し、しばし目つむり、気しづめ、一揖、一拝二拝八拍手、(かず)(うた)三回、終りて「ひふみ」三回のりあげ、(あめ)の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませ、(くに)の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませとのりあげ、終って「誓の言葉」ちかへよ。終りて神のキ頂けよ、三回でよいぞ、終りて八拍手、一拝、二拝、一揖せよ、次に神々様には一揖、一拝二拝四拍手、数歌三回のりて、()()(もろ)(もろ)の神様 弥栄ましませ弥栄ましませ、と、宣りあげ、終りて「ちかひの言葉」ちかへよ。終りて四拍手、二拝一揖せよ。(タマ)の宮には一揖一拝二拍手、数歌一回、弥栄ましませ弥栄ましませと宣り、二拍手、一拝一揖せよ、各々の霊様(おのもおのもみたま)には後で「ミタマのりと」するもよいぞ」 『マツリの巻』 第十五帖 [419]

「旧九月八日迄にすっくりとまつりかへてくれよ。真中に御三体の大神様、御三体の大神様、天之日月の大神々様、地の日月の大神々様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、弥栄祀り結構ぞ、其の左に仏、基、マホメットの神様、世の元からの生神様、百々の神様、産土様、よきにまつり結構致しくれよ、その右に地の日月の神々様、(たま)(もろ)(もろ)の神様 厚く祀りくれよ」 『マツリの巻』 第十八帖 [422]

 旧九月八日からの祭祀に関しては他にも記述があります。

「旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りに(もも)()(よろず)()れよ。お()(やま)作る時は、何方(どちら)からでも拝める様にしておけよ。一方から拝むだけの宮は我れよしの宮ぞ。何もかも変へて仕舞ふと申してあろうが。神徳貰へば何事も判りて来るのざぞ」 『松の巻』 第二十一帖 [312]

 この記述には「一方」という言葉が出て来ます。前後の文章の意味が繋がっているとすれば、旧九月八日からは数霊でいう九十の世界、つまり()()()()の国”が交わり始めて()()()()()()()()()()()ので、お宮や御神体は「どの方向からでも拝めるようにして欲しい」ということなのかもしれません。

 そして、旧九月八日から()()()()()()()()()()が一つになり始めることや、天と地が交わり始めることを述べていると思われるのが、次に引用する旧九月八日の記述です。

「日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、月の神ばかりでもならず、そこで月の神、日の神が御一体となりなされて「ミロク」様となりなされるなり、日月の神と現はれなさるなり。「みろく」様が日月の大神様なり、日月の大神様が「みろく」の大神様なり、()の御先祖様 九二の御先祖様と御一体となりなされて大日月の大神様と現はれなさるなり、旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ」 『青葉の巻』 第十七帖 [486]

「めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]

 以上が、日月神示に記されている九月の全文です。

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外国 / 幽界

 ここまでに論じたように、日月神示が説いている旧九月八日の仕組には非常に多くの側面があります。しかし、本節では樹木での“幹”に相当する部分を論じることに留め、枝葉や根の部分は割愛しています。これは「ミロクの仕組の予備知識として旧九月八日の仕組を解説すること」が本節の主旨だからです。そのため、前項までの内容は旧九月八日の仕組や神経綸九の全容ではないことを御了承ください。

 ちなみに“枝葉”に相当する部分は旧九月八日の仕組()前提としている、引っ繰り返る、びっくり箱、花火、秋の空、(すり)(ばち)()ぜる、()ね廻す、練り直す、水、泥、海、嵐、、鳴門などの“隠喩的な表現”であり、“根”に相当する部分は旧九月八日の仕組()前提としている日月神示の宇宙観、いわゆる“概念的な背景(バックボーン)のことです。これらについては追々述べて行きますので、本項では旧九月八日から起きる個々の仕組の“相関関係”に言及して、本節を終わりたいと思います。

 旧九月八日の仕組の複数の側面を相互に繋げているのは()()()()()()であり、数霊的に表現するところの“九十の国”です。そして、日月神示の創世神話を注意深く読めば、

「九十国は()()()()()()()登場している」

という点に気が付くと思います。この()()は一見すると抽象的に見えるかもしれませんが、日月神示にバラバラに配置されている鍵言葉(キーワード)(じゅ)()(つな)ぎにして読めば、明確な意味が判るように書かれています。

 まずは()()(みこと)()らす()()を引用します。

「いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十一帖 [958]

 次に“逆の力”を引用します。

〔前略〕 日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。岩戸がひらけると更に九、十となるぞ。〔中略〕 その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

 次に“逆様の世界”を引用します。

「岩戸のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、逆様の世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]

 次に“逆の世界の人民”を引用します。

「外国の方が早う改心するぞ、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。」 『極めの巻』 第七帖 [934]

 次に“外国”を引用します。

「神の国は元のキの国、外国とは、幽界(がいこく)とは生まれが違ふのぢゃ」 『岩の巻』 第五帖 [370]

(カミ)()()()()()()()()()()() ()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()() 『一八のキ』 第五帖 [370]

「外国とは(ゆう)(かい)の事ぞ、外国と手握るとは(ゆう)(かい)と手握る事ざぞよ」 『青葉の巻』 第二帖 [471]

()()()()()()(ユー)()()()()()() ()()()()()()()()()()()(ユー)()()()()()()()()()()()() 『ア火八のキ』 第二帖 [471]

 以上の記述から判るように、日月神示の説く伊邪那美の世界や九十の国とは【(がい)(こく)】もしくは【(ゆう)(かい)】を指しています。このような()()()()()()()()が、多面的に見える旧九月八日の仕組が一つに繋がっていることを理解する手助けになります。

 そこで本項では、最初に幽界の基本的な内容を述べ、次に幽界と外国の関係や霊的な意味を論じ、最後に旧九月八日の個々の仕組の相関関係について言及して、ミロクの仕組の解説への繋ぎにしたいと思います。

 一般的に幽界とは死者の(おもむ)く世界のことであり、()()(かくり)()(かくり)()()()黄泉(よもつ)(くに)(めい)()(ゆう)(めい)(かい)(とこ)()などと呼ばれます。この中の“黄泉国”は日月神示にも登場する言葉ですが、やはり伊邪那美神が()らす世界だと語られています。

「岩戸閉めの始めは()() ()()の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが、そもそもであるぞ、〔中略〕 (おっと)(がみ)(つま)(がみ)、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉(よもつ)(おお)(かみ)となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、()(びき)の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

 この幽界に対して(しょう)(じゃ)が住む世界は、()()(うつし)()(げん)(かい)(げん)(かい)(げん)()()(じょう)(てん)()(あめ)()(した)などと呼ばれます。

 一般的な日本語としての幽界は、いわゆる“霊界”と殆ど同じ意味であり、特に否定的な意味は有りませんが、日月神示では幽界を「霊界の中でも極めて否定的な側面を持つ世界である」という風に位置付けています。その辺りの背景になっている“幽界の成り立ち”が説かれた記述を引用します。

「誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取り違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。()()に幽界 出来るのぢゃ。有りてなき世界、有ってならん」 『黄金の巻』 第九十四帖 [605]

「天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が 又 天に反影するのであるが、まだまだ地には(でこ)(ぼこ)あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「凸凹あるから力あらはれるのぞ。凸凹あるため、善のみでも呼吸し、又 (シン)のみでも()()するのであるぞ。偽善者も真を語り、真を伝へ得るのであるぞ。愛を云ひ得るのであるぞ。幽界と申すのは凸凹のうつしの国と申してあらうがな。地獄ではないのざ」 『白銀の巻』 第四帖 [615]

「幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな。地獄無いと申してあらうがな。このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「人間の死後、自分の命の最も相応しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の(むね)に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]

〔前略〕 外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。〔後略〕 『春の巻』 第四十一帖 [698]

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなってゐるぞ、人間も 又 同様であるぞ、宇宙にあるものは皆 人間にあり、人間にあるものは皆 宇宙にあるぞ、人間は小宇宙と申して、神のヒナカタと申してあらう。霊の世界は三つに分れて見えるぞ、霊の霊界は神界、それに霊界と幽界であるぞ、その他に半物質界、半霊界、半幽界と限りなく分け得るのであるぞ。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ、霊界を感知するために超五官器あるぞ、神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ、幽界的自分が副守護神ぢゃ、本守護神は大神の歓喜であるぞ。神と霊は一であって、幽と現 合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年板)

「又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな」 『冬の巻』 第一帖 [770]

(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又 神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ」 『竜音の巻』 第四帖 [912]

 このように、幽界は“歪んだ想念の世界”“道を外れた世界”であるとされ、地獄ではないものの地獄的に()見える霊界であることが述べられています。また、幽界的な歪みには誤解や錯誤といった“迷信”も含まれるとのことです。

「幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き(はず)のものを生み出し それが 又 地上界に反影してくるのであるから心して下されよ」 『竜音の巻』 第五帖 [913]

 言うなれば、迷信とは逆様(あべこべ)の認識”です。それ故、正神でありながら祟り神や荒ぶる神という風に誤解されていた神々は、逆様の世界である幽界に隠れていたことが、次に引用する“九と十の世界”の記述に書かれています。

「国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地にゆかりのある神々は皆、九と十の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は地の神が()らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千引の岩戸はひらかれて、これら地にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ」 『至恩の巻』 第十帖 [957]

 そのような間違った認識が連続する幽界的な“想念の悪循環”のことを、日月神示は(がい)(りゅう)と呼んでいます。また、神界的な“想念の好循環”(せい)(りゅう)と呼ばれます。

「神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て 又 幽界より来る想念を外流と申すぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。間違へてならんぞ。正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。何れも大神の現れであること忘れるなよ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 他にも、こういった内容を背景とする“幽界の性質”的な側面が述べられた記述もあります。

「この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪がこの世にうつる」 『黄金の巻』 第三十八帖 [549]

「天界に住む者は一人々々は力弱いが和すから無敵ぞ。幽界に住む者は一人々々は強いが孤立するから弱いのぞ。仲よう和してやれと申す道理 判りたか」 『黄金の巻』 第七十二帖 [583]

「人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのであるぞ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「天国がうつって地が出来てゐるのぢゃから、霊の国は更に立派、微妙ぞ。天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違ひあるだけぢゃ」 『白銀の巻』 第七帖 [618]

「天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る」 『黒鉄の巻』 第十五帖 [633]

「天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇であるぞ。闇の門はとざされ、光の門は開かれてゐるぞ。天界は昇り易く、幽界にはおちにくいぞ」 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654]

「幽界と霊線つなぐと自己愛となり、天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ」 『秋の巻』 第五帖 [746]

〔前略〕 肉体霊、外部霊、副守護霊等の想念は、時によって動物的、幽界的となるものであるから、それと同一波調の動物的霊が感応する 〔後略〕 『竜音の巻』 第十帖 [918]

「幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それは(ただ)申すだけであるぞ。悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ、よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん」 『竜音の巻』 第十四帖 [922]

 そのため、幽界との霊的な繋がりは極めて“否定的”に説かれています。

「心に凸凹あるから幽界のものに取りつかれて、つまらんことになるのぞ。つまらんことをひろめて亡びるぞ」 『黄金の巻』 第八十一帖 [592]

「霊人は人間の心の中に住んでゐるのであるぞ。心を肉体として住んでゐるのぢゃ。その中に又 住んでゐるのぢゃ。ひらたう説いて聞かしてゐるのぢゃ。霊人と和合してゐるから、かみかかりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのぢゃぞ。神界のことも判る道理ぢゃ。幽界のことも判る道理ぢゃ。人間の云ふかみかかりとは幽界のカミかかりぢゃ。ろくなことないのぢゃ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ」 『黒鉄の巻』 第二十七帖 [645]

「口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ」 『月光の巻』 第五十二帖 [839]

「今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ」 『竜音の巻』 第五帖 [913]

 また、次に引用する記述は“神界との対比”によって幽界の否定的な側面を浮かび上がらせています。

「思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねばネンとはならんぞ」 『春の巻』 第四十帖 [697]

「いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。〔中略〕 天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は(カミ)(ヒト)共でつくり出されるのざ」 『春の巻』 第四十二帖 [699]

「霊的良識は、神示や神典類によって、又 体験によって養はれ、又 高度な科学書も参考となるものぞ、科学を馬鹿にしてはならん。幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが難しいぞ。初歩のサニワの誤り易いところであり、又 霊眼するものの誤り易いところ、注意しなければならん、例へば霊光の如きものも強く大きくて中々にサニワ出来ないぞ」 『竜音の巻』 第六帖 [914]

「仙人と申すものは如何に高度なものであっても、それは幽界に属す、仙人界には戒律があるからぞ、神界には戒律なし、戒律ある宗教は亡びる、マコトの宗教には戒律はないぞ。しかし神界にも仙人的存在はあるぞ」 『竜音の巻』 第七帖 [915]

「竜体をもつ霊は神界にも幽界にもあるぞ、竜体であるからと申して神界に属すると早がってんならん」 『竜音の巻』 第八帖 [916]

 更に“霊界”という言葉が実質的に幽界のことを指している記述もあります。

「むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ」 『春の巻』 第二十六帖 [683]

「心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。我の病になって来るぞ」 『月光の巻』 第三十帖 [817]

 上記の内容から考える限り、幽界とは基本的に()()()の世界”と言っても差し支えないと思われます。このため、メグリの清算には幽界との繋がりを絶つことが重要であり、そうしなければ“ガイコク行き”になってしまうとのことです。

幽界(がいこく)行きは外国行きぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへてくれよ」 『水の巻』 第十四帖 [288]

「神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「外国行きとは幽界行きの事ぞ」 『海の巻』 第十二帖 [504]

()()()()()()()()(ユー)()()()()()()()() 『三のキ』 第十二帖 [504] にはラ行の五音が優先して当てられる翻訳の原則から考えると、原典の「一」は「レーカイ」と読む可能性があります。なお原文Uでは「一」であり「霊界」もしくは「魔界」と訳すことも可能です)

 以上が()()の説く幽界の基本的な内容ですが、このような世界が国生みの前から登場している理由については“日月神示の善悪観”と一緒に後述したいと思います。

 ここまでに引用した記述から判るように、外国と幽界は同一的に語られている場合が多いです。このことから、日月神示でのガイコクには基本的に二つの意味があることが判ります。一つは“日本ではない国”という意味であり、もう一つは“神界ではない霊界”という意味です。

 ()()の説くガイコクが外国と幽界のどちらを指すのか、或いは両者を共に指しているのかは文脈によって判断する必要があり、こういった“多義的な読み方の重要性”が説かれた記述もあります。

「此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ」 『雨の巻』 第十六帖 [350]

「此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。神界 (ゆう)(かい)のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。取違ひ慢心一等恐いと申してあろが」 『夜明けの巻』 第十三帖 [333]

「神界、(ゆう)(かい)、現界、見定めて神示読まねば、表面(うわつら)ばかりでは何もならんぞ、気つけて結構ぞ」 『マツリの巻』 第十九帖 [423]

 このような読み方の背景になっているのは、「天と地は互いに()()()合う“合わせ鏡”の関係にある」という日月神示の主張です。

の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ」 『地つ巻』 第二十四帖 [161]

「天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「道場開き結構でありたぞ、皆の者 御苦労ぞ、知らしてある様に道開いて下されよ、天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならんぞ」 『キの巻』 第六帖 [263]

「世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。合せ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ。迷信であるぞ」 『黄金の巻』 第五十九帖 [570]

「悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。善に向って働いても、善はビクともせんのぢゃ、ビクつくのは、悪に引込まれるのは、己に悪あるからぞ。合せ鏡と申してあらうが。悪の気断ちて下されと申しておらう。心の鏡の凸凹なくなれば悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ」 『白銀の巻』 第四帖 [615]

「喜びの本体はあの世、現はれはこの世、あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。あの世とこの世と合せ鏡。神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をとして、心として生命しているのぢゃ。神人と申してあろうがな。この(ドー)()よくわきまへよ」 『春の巻』 第六帖 [663]

 そして、天と地の合わせ鏡としての関係が、日月神示で使われている「うつる」という言葉の背景になっています。元々日本語の「うつる」には「映じる」や「転じる」や「伝わる」や「()する」などの意味が含まれていますが、()()では天と地の関係を背景として、これらの殆どの意味を包括する意味で使用されている場合が多いようです。また、文脈的に「宿る」や「判る」の意味で使われている箇所もあります。

 そこで、霊界と地上界の関係を「うつる」という言葉で説明している記述を幾つか抜粋してみます。これらは「霊界と現界が合わせ鏡と言っても完全に同じ現れ方をするわけではない」という点を主眼に述べられているものが多いです。

「地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである」 『地震の巻』 第七帖 [384]

「霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。〔中略〕 そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である」 『地震の巻』 第十五帖 [392]

「大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ。今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

「この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ」 『黄金の巻』 第八十三帖 [594]

「天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ」 『春の巻』 第四十一帖 [698]

「氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

「地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ」 『星座の巻』 第十二帖 [895]

「天界での出来事は必ず地上に移りて来るのであるが、それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなればおそくもなり、時によっては順序も違ふのであるぞ、人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。寸分の間違ひもないのであるぞ、これが間違ったら宇宙はコナミジン、神はないのであるぞ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

「天人天使の行為が人民にうつるのであるなれど、人民の自由、能力の範囲に於ける行為は 又 逆に、天界に反影するのであるぞ、日本とカラ(支那中国)と土地が違ふように、日本人とカラ人とは違ふ、天界のうつり方も違ふのであるぞ。同じ日本人でも時と所によって違ふ。肌のこまかい絹と荒壁にうつる映画は同じでも少しづつ違ふようなもの、違ってうつるのがマコトであるぞ、同じ数でも123と一二三は違ふのであるぞ、判りて下されよ。新しき世界に進む大切ことぢゃ」 『極めの巻』 第十九帖 [946]

 また、古語では「姿が見えること」や「現世に生きていること」を「うつし」とも言うので、此の世のことを“うつし世”“うつし国”と呼び、肉体のことを“うつし身”という風に呼びます。数は少ないですが、これらの言葉は日月神示でも使われています。

集団(まどい)つくってよいぞ。強くふみ出せよ、〔中略〕 うつし世のそれの御用、結構ひらけ輝くぞ」 『マツリの巻』 第十七帖 [421]

「始めは形あるものを対象として拝むもよいが、行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。タテのつながりを見ないからであるぞ。死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。霊界と霊と、現界と(うつし)()とのことはくどう説いてあろうが。神示よめよめ。大往生の(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。内と外、上と下であるぞ。取りちがいせんようして下されよ」 『夏の巻』 第二十一帖 [738]

「新しき御代のはじめの()()の年、あれ出でましぬ かくれゐし神。かくり世も うつし御国の一筋の光りの国とさきそめにけり」 『紫金の巻』 第九帖 [988]

 そして、こういった呼び方は、彼の世という目に見えない世界を「かくり世」と呼ぶのと対の表現になっています。これは死ぬことを「姿が見えなくなる」という意味で「隠れる」と表現するのと同じです。

 それらの内容を踏まえて考えると、地上界における外国とは“幽界の()()()の国”であると位置付けられます。また、日本は“神界の()()()の国”です。ただし、これは「基本的な傾向においてはそうなっている」という大枠的かつ概念的な位置付けであって、細部のうつり方まで完全に同じわけではありません。

 例えば、日月神示の説く日本や神国や神の国とは「神の心に添う()()という意味を含む場合が多く、必ずしも現在の日本国を指しているわけではないのです。参考として、そのような意味で“日本”が使われている記述を引用します。

「日本の人民の()(たま)が九分九分九厘まで悪になりてゐるから、外国を日本の地に致さねばならんから、日本の地には置かれんから、どんなことあっても神はもう知らんぞよ」 『マツリの巻』 第十帖 [414]

「外国を日本の地面にせなならん、日本とにほんと取違ひすな」 『梅の巻』 第十四帖 [441]

 この内容は「神の心に添わぬ()()を神の心に添う()()にする」という意味であって、地上界における領土的な区分での日本と外国ではありません。

 これらは、日月神示に「高い段階から申せば善も悪も神界も幽界もない」と書かれているように、読み手の段階的な理解を助けるための表現であり、神々の視点からは「日本も外国もない」とのことです。

「神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ」 『地つ巻』 第十五帖 [152]

の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

 以上の内容から、日月神示における日本や外国といった表現は、霊的な意味が多分に含まれていることが判ります。それが、多義的な読み方をするように促されている理由なのでしょう。

 故に日月神示では、日本人であることは必ずしも外国人ではないことを意味せず、同様に、外国人であることは必ずしも日本人ではないことを意味しません。そのことが述べられている記述も引用します。

の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ」 『上つ巻』 第十五帖 [15]

「神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、心の内は幽界(がいこく)(じん)沢山あるぞ」 『下つ巻』 第十六帖 [58]

「一家揃って皆 改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心 悪ぢゃぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神の国の元のミタマと外国のミタマとスッカリ取換へられてゐるのにまだ眼覚めんのか。神の国は真中の国、土台の国、神の元の鎮まった国と申してあらうがな。神の国であるぞ、我さへよけら、よその国、よその人民どうなってもよいといふ程に世界の臣民、皆なりてゐるが、表面(うわべ)ばかりよい事に見せてゐるが、中は極悪ぢゃ」 『岩の巻』 第八帖 [373]

「メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ、外国人も神の目からはないのざぞ」 『光の巻』 第七帖 [403]

「日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな」 『梅の巻』 第十一帖 [438]

 こういった見地に基づき、神様は「日本人や外国人の分け隔てなく助ける」とのことです。

「外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな」 『上つ巻』 第三十二帖 [32]

「外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

幽界(がいこく)(じん)よ、日本の国にゐる幽界(がいこく)(たま)の守護人よ、愈々となりて生神の総活動になりたら、死ぬことも生きることも出来ん苦しみに一時はなるのざから、神から見ればそなた達も子ざから早う神の下にかえりてくれよ」 『磐戸の巻』 第十四帖 [250]

「神の目からは世界の人民、皆わが子であるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934]

 その結果、外国や幽界は()()()に帰順することになるそうです。

「何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるしてくれと申す様になるのざぞ」 『天つ巻』 第十八帖 [125]

「富士と鳴門の仕組わかりかけたら、いかな外国人でも改心するぞ、それ迄に神の国の臣民 改心して居らぬと気の毒出来るぞ」 『磐戸の巻』 第九帖 [245]

 これらの内容は、日月神示が悪や悪神と呼ばれる存在を根本的には排さないのと同じ背景から来ています。それは、より高い段階から見れば外国や幽界は あくまでも神界(にほん)だからです。

「悪を意志して善を理解すること許さんぞ。悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。悪を意志して悪を理解する処に、善としての悪の(はたらき)うまれるのざ。幽界も(また) 神のしろしめす一面のこと」 『黒鉄の巻』 第十三帖 [631]

「念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん」 『春の巻』 第四十六帖 [703]

 以上の内容から、日本と外国の戦争である“とどめの戦”が、地上界のみに限定されているわけではないことが判ると思います。

 外国との戦争には“幽界との戦い”も含まれているのです。

 これが正念場において“心の戦”が重視されている理由の一つになっています。

 そして、この戦いの結果、悪神は“人間の歪んだ心”という霊力の供給源や地上界で活動するための足場を失い、幽界的な想念の循環である“外流”が減って力が弱まるはずです。そこから神界的な想念の循環である“正流”が増えて、とどめの戦は正神の勝利へと急速に傾いて行くと思われます。

 つまり、旧九月八日から始まる戦争やミタマの立替えとは、外面的かつ物質的には外国を、内面的かつ霊的には幽界を調(ちょう)(ぶく)する(ぶっ)(しん)両面から幽界(がいこく)を抱き参らせる仕組”でもあるのです。

 以上の内容から、伊邪那美の世界や九十の国とは、霊的には“幽界”“人間の歪んだ想念”のことであり、地上界的には“外国”“幽界との繋がりが強い人間”を指していることが判ると思います。

 それを踏まえた上で旧九月八日の仕組を見ると、伊邪那岐神と伊邪那美神の交わり、現界と幽界の交わり、日本と外国の交わり、神霊と人間の交わりという それぞれの内容が、相互に同調(シンクロ)していることが読み取れます。「互いに互いの雛型になっている」とでも言えば良いのでしょうか。どれが先とも後とも言い難い関係にあるのです。

 このことから知り得るのは、旧九月八日から始まる複数の調和(マツリ)である、日の大神と月の大神の和合、天と地の和合、神国と外国の和合、神と人の和合、正神と悪神の和合などが、“対偶的な存在の和合”として明確な相関関係を持っているということです。

 恐らく、神様の目には旧九月八日の個々の仕組が“同じ概念上の()(しょう)として映っているのでしょう。そのため、どれか一つが変化すると、本質的な意味を共有する()()は同種の変化を遂げてしまうのだと思われます。何故なら、これらはにする」という意味において紛れもなく“同じ()()だからです。

 そうであればこそ、日月神示では岩戸開きが()()()()()()()()の物語として語られている側面が有ると思われます。それと言うのも、(イザナギ)を、(イザナミ)を象徴する意味を持つ記号(シンボル)だからです。

 これは後々言及することですが、は男性の精子を、は女性の卵子を、そしては精子が卵子に入って新しき生命(いのち)として新生した“受精卵”を視覚的に象徴化(シンボライズ)した記号でもあるのです。日月神示で“宇宙の雛型”とされている人体や男女の関係に(なぞら)えてみれば当たり前の話ですが、()()()()()()()()()()()()()

 この辺りのことを、日月神示は“片輪”“一方”という言葉で説いていますので、判り易いものを抜粋してみます。

ばかりでもならぬ、ばかりでもならぬ。がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民はでありたが、が神国に残りが外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。もかたわもかたわ、と合はせて まことの(かみ)の世に致すぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ」 『地つ巻』 第五帖 [142]

「天の教ばかりではならず、地の教ばかりでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度上下揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教と光り輝くのざぞ」 『青葉の巻』 第十九帖 [488]

〔前略〕 今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさがあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。〔後略〕 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654]

「この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。これが得心出来ねば どんなによいことをしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ。時節来たのぢゃから、今迄のように一方だけではならんぞよ」 『春の巻』 第六帖 [663]

「宇宙のすべてがつながりであるぞ。〔中略〕 一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう」 『春の巻』 第三十帖 [687]

「地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。先づ霊の世界のうごき大切。霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ」 『夏の巻』 第六帖 [723]

「何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、その心が、我が強いから、一方しか見えんから、世界のためにならん。人類の為にならんぞ。洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ」 『秋の巻』 第十五帖 [756]

「世界連邦と申してゐるが、地上世界のみの連邦では成就せん。片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンぢゃ。心して下されよ。何故に霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのか。いらぬ苦労はせぬものぢゃ」 『月光の巻』 第三十二帖 [819]

「人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申してあろうが。見極めた上にも見極めねばならんぞ。霊の目も一方しか見えんぞ。霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]

「一切と手をつながねばならん。人民のみで世界連邦をつくろうとしても、それは出来ない相談、片輪車と申してあろうが、目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、タテのつながりつけねばならん道理、人民同士の横糸だけでは織物にはならんぞ。天は火ぞ、地は水ぞ、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗ぢゃ、ヒミツの経綸であるぞ」 『扶桑の巻』 第九帖 [858]

「今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して この神について御座るのが一等であるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934]

 各々の仕組の相関関係に注目した上で読めば、これらの記述が、旧九月八日の仕組という“元神の神策”を踏まえて書かれていることが見て取れると思います。

 そして、(カミ)の計画”を男女の関係に譬えれば、旧九月八日の仕組とは別離していた夫神(イザナギ)妻神(イザナミ)が再び抱き合い、“受精”あるいは“陣痛”が始まって十方的世界を“赤子”として生むことを意味しています。これは新しき(イノチ)()れ出ずるための“生みの苦しみ”の期間であり、不完全だった世界が完成に向かって(まい)(しん)する“新しき()()生み”の時代なのです。

 こう考えることにより、神経綸九が“正念場”と称されていることの背景が鮮明になると思います。それは、日月神示の予言的な内容の大半が この期間に集中している理由でもあるのでしょう。

 以上が、この概論で仮定している旧九月八日の仕組の概要になります。そして、正念場の具体的な内容が見えて来ることによって、日月神示の説く【ミロクの仕組】の詳細が論じられるようになります。次節ではこの内容を、大本系統で“ミロクの大神”とされている【撞賢木厳之御魂天疎向津媛命】を中心に考察してみたいと思います。

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