最初に、幾つかの“同じ名の神”の記述から引用してみます。これらは、同じ名の神、同じ神、二柱の神、二通り、二つづつ、といった表現で言及されています。
「二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、かみの国の旗印と、の国の旗印と同様であるぞ、であるぞと知らしてあろがな、にも二通りあるのざぞ、スメラの旗印とと申して知らしてあろがな、今は逆ざぞと申してあろがな、このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ、岩戸開けんぞ。よく旗印みてよと申してあろがな」 『風の巻』 第二帖 [353]
「釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。なくなってゐるのざぞ、ないざぞ、でないと、まことできんのざぞ、わかりたか。なきもの悪ざぞ、は霊ぞ、火ぞ、一ざぞ。くらがりの世となってゐるのも、ないからざぞ。この道理わかるであらうがな」 『岩の巻』 第一帖 [366]
「龍神と申してゐるが龍神にも二通りあるぞ、地からの龍神は進化して行くのであるぞ、進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。天からの龍神は退化して行くのであるぞ、この二つの龍神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくつて、神の気入れてつくつたのざと申してあらうがな。天地の御恩 忘れるでないぞ、神の子ぞ、岩戸しめと岩戸ひらきの二つの御用のミタマあると申してあらうがな、ミタマの因縁恐ろしいぞと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第二帖 [613] (※昭和二十六六年版)
「がよろこびであるぞ、もよろこびであるぞ、よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表、裏合せてぞ、は神であるぞ、神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。のもとがであるぞ、キであるぞ、元の元の太元の神であるぞ。であるぞ、から生れ、から生れるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうがな、よく判りたであろう」 『春の巻』 第四帖 [661] (※昭和二十七年版)
「天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをロオコロオコにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ」 『星座の巻』 第一帖 [884] (※第一仮訳)
「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、別天津神五柱と申してあろうがな、五が天であるぞ。五は数であるぞ、転じて十となるなれど、動き栄へるにはとの神が現われねばならん、これが中を取り持つ二柱の神ぞ」 『至恩の巻』 第七帖 [954] (※ここでの「二柱の神」は岡本天明氏の『古事記数霊解序説』によれば国常立神と豊雲野神のことです。しかし、同じ名の神に通じる可能性も考えられるので、念の為に引用しました)
また、直接的な言葉ではないものの、同じ名の神に類する記述は複数あります。
例えば、日月神示で“最初に名が現れた神”は第一巻『上つ巻』第四帖の木花咲耶姫神ですが、この時点で既に同じ名が二度繰り返されています。
「二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りてくれよ。コハナサクヤ姫様も祀りてくれよ」 『上つ巻』 第四帖 [4] (※「二三」は直訳すれば「扶桑」ですが、第一仮訳では文脈を重視した「富士」です)
他にも、“世界の始まりの啓示”である天神の神勅では、夫神と妻神の名が二度繰り返されています。
「是に天神 諸々の尊 以て伊邪那岐命 イザナギノミコトに「是の漂へる国 修理り固め成せ」と詔ちて天の沼矛を賜ひて言依さし給ひき」 『日月の巻』 第十七帖 [190]
「次に伊邪那美命 イザナミノミコトに天の沼陰を賜ひて「倶に漂へる九十国 修理り固め成せ」と言依さし給ひき」 『日月の巻』 第十八帖 [191]
同様に、日月神示の“初発の神示”には、御神名ではないものの同じ言葉が二度繰り返されています。
「戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ」 『上つ巻』 第一帖 [1]
また、夫婦神による“国生みの開始”でも「アウあう」と同じ言葉が二度繰り返されています。
「是に伊邪那岐命 伊邪那美命は 沼矛 沼陰 組み組みて「国生みせな」と詔り給ひき。伊邪那岐命 伊邪那美命 息合はし給ひて「アウあう」と詔らせ給ひて国生み給ひき」 『日月の巻』 第二十四帖 [197]
こういった内容を見ると、“日月神示の創世神話”に同じ名が繰り返されている神霊が登場するのは、極めて暗示的なものが感じられます。
恐らく、神示に「世の元からの仕組がある」や「こうなることは世の元から判っていた」とあるように、同じ名の神の概念は世界の成り立ちに最初から内包されているのでしょう。これは、一の前の〇がとの“二つ”で表現されることや、日月神示の天神の神勅で修理固成すべき対象が、始めから“二つの世界”として認識されていることに繋がります。
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その上で、同じ名の神は、善と悪、表と裏、頭と尻などの表現で“千引岩との関係”が示されています。
「同じ名の神二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分け なかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名 同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ。千引の岩戸開けるぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]
別の箇所には「同じ名の神が二つ揃って三つになること」が“千引の岩戸開き”と書いてあります。
「〔前略〕 この夫婦神が時めぐり来て、千引の岩戸を開かれて相抱き給う時節来たのであるぞ、嬉し嬉しの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つが揃うて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時 来たりなば この千引の岩戸を倶に開かんと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]
他にも「夫婦神が呼吸を合わせて生む」という表現で、実質的に千引の岩戸開きを指す同じ名の神の記述が見られます。
「〔前略〕 素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦 呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]
これらの記述は、夫婦神が千引の岩戸を開いてミトノマグワイを再開することを前提に書かれており、そのことは「同じ名の神を一つにする」と表現されています。
「二つづつある神様を一つにするのであるから、嘘偽ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ。途中から出来た道では今度と云ふ今度は間に合はんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの建直しで末代続くのぢゃから間に合はん道理わかるであらうがな」 『岩の巻』 第二帖 [367]
この内容は「二つが揃って三つになる」と同じであり、いわゆる1+1=3(1)という“三の概念”に通じます。“三の意味”については『地震の巻』第十八帖の中で、春秋や日月や陽陰や“霊人の結婚”に譬えて判り易く語られています。同時に「悪は悪ではない」とのことです。
「〔前略〕 生前は生後であり、死後は又 生前であって、春秋日月の用をくりかへしつつ弥栄へてゐる。従って霊界に住む霊人たちも両性に区別することが出来る、陽人と陰人とである、陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人の為めに存在する、太陽は太陰によりて弥栄へ、太陰は太陽によりて生命し、歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、又 絶えず反してゐる、故に二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、又は結婚と呼び、霊人の結婚とも称えられてゐる、三を生むとは新しき生命を生み且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心を為し、物質として現はれるものである。霊界に於ける春は陽であり、日と輝き且つ力する、秋は陰であり、月と光り且つ力する、この春秋のうごきを又 歓喜と呼ぶのである、春秋のうごきあって神は呼吸し、生命するとも云ひ得る、又 悪があればこそ生長し、弥栄し且つ救はれるのである、故に神は悪の中にも善の中にも、又 善悪の中にも悪善の中にも呼吸し給ふものである」 『地震の巻』 第十八帖 [395] (※第一仮訳)
大本系統では伊邪那岐神が“日の大神”、伊邪那美神が“月の大神”と呼ばれることからも判るように、上の帖の内容は夫婦神の関係に見立てても意味が通ります。つまり、男と女の結婚を“陽と陰の結合”として、神界と幽界や天と地の関係にまで意味を拡大したものが“ミトノマグワイ”なのです。
こうして見てみると、「同じ名の神を一つにする」や「ミトノマグワイで生む」や「千引の岩戸を開く」といった内容は、日月神示の説く“”や“一二三”もしくは“善悪の平衡”を語っているように感じられます。これは同じ名の神が、神示の宇宙観の多角的な表現の一つだからなのでしょう。
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そして、上述の内容と“千引の岩戸開きとの関連”については、同じ名の神の“善と悪”としての側面から考えれば実像に近付き易いはずです。ただ、日月神示の善悪観を本格的に論じると本章の題目から逸脱するので、“夫婦神の世界の関係”に繋がる内容に絞って述べて行きます。
最初に引用するのは「悪にも二つある」という記述です。
「同じ名の神二つあると申してあろ、同じ悪にも亦二つあるのぢゃ、この事 神界の火水ぞ、この事 判ると仕組 段々とけて来るのざぞ、鍵ざぞ」 『青葉の巻』 第十三帖 [482]
上の記述は日月神示の説く善と悪が二つづつであることに関わります。天之日津久神様によるとの道には“正道”と“外道”の二つがあり、正道と外道にも二つあるそうです。具体的には、正道の善、正道の悪、外道の善、外道の悪の四つを指しており、先に要点をまとめると、
善悪の存在は“二面性と二重構造”を有します。
そして、正道の善と正道の悪が均衡した“調和の状態”が、新生を意味する三番目の状態、即ち“三”です。この場合、正道の善と正道の悪が一般的な意味での“善”であり、“三を外れたもの”である外道の善と外道の悪が一般的な意味での“悪”になります。
そのため、正道の悪は“御用の悪”と呼ばれており悪ではありません。同じように外道の善も善ではないらしく、「善も悪もない」や「善も改心する必要がある」と語られています。
「神が この世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者 沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ」 『上つ巻』 第二十帖 [20]
「今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、〔中略〕 悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]
「悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」 『松の巻』 第二十二帖 [313]
「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな」 『雨の巻』 第三帖 [337]
「悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪 憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ」 『空の巻』 第八帖 [463]
「此の方 悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、悪の御用 結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用 聞きくれよ」 『空の巻』 第十帖 [465]
「今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ」 『海の巻』 第七帖 [499]
「大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]
「何も彼も存在 許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから、善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]
「平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず」 『春の巻』 第四十三帖 [700]
「善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあれば地の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、此度の岩戸は立体に入る門ぞ」 『五葉の巻』 第十一帖 [974] (※第一仮訳)
同様の見解に基づく“悪の定義”らしき記述もあります。
「悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりと くどう申してあること未だ判らんのか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]
「悪とは我よしのこと」 『青葉の巻』 第八帖 [477]
「悪とはカゲのことであるぞ、斜に傾くから影 出来るのぢや、影が主人でないこと忘れるでないぞ」 『黒鉄の巻』 第二十四帖 [642] (※昭和二十六年版)
この辺りの日月神示の善悪観は、千引岩が開いた後の“十方世界の在り方”に関わって来る話であり、そういった二つづつの見方の重要性を“一方”や“一つ目”の言葉で言及した記述も見られます。
「一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう」 『春の巻』 第三十帖 [687]
「何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、その心が、我が強いから、一方しか見えんから、世界のためにならん。人類の為にならんぞ。洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ」 『秋の巻』 第十五帖 [756]
「人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申してあろうが。見極めた上にも見極めねばならんぞ。霊の目も一方しか見えんぞ。霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]
「今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸開きの御用は中々ぢゃ、早う改心して この神について御座るのが一等であるぞ。外国の方が早う改心するぞ、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。神の目からは世界の人民、皆わが子であるぞ。世界中 皆この神の肉体ぞ、この神には何一つ判らん、出来んと申すことないのぢゃ。どんなことでも致して見せるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934]
四つ目の帖の「逆の世界」とは“幽界”のことであり、基本的には伊邪那美神の世界である“九十国”を指します。ただし、逆様の世界が決して悪の世界ではないことも強調されています。
「さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]
そして、このような「逆様のものへの認識や理解が欠けていること」を、現在までの人間や一部の神々が「善の善としての側面や悪の悪としての側面しか見ない」や「同じものを別々のものとして認識する」という“片輪の見方”であったことに掛けて、片一方や一つ目の表現が使われているようです。
また、そういった一方的な見方が“千引の岩戸閉め”に関係することも明かされています。
「夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]
具体的に述べると、これまでの世の中は“正道の悪たる善”を悪と断じて排除し、“外道の善たる悪”を善と信じて助長して来たので、善の力が弱まって悪の力が強まり、結果的に“強い者勝ち”や“我善し”の世に成り下がってしまったそうです。
このような現状は、天や神や魂である“霊性”を忘れ、地や人や肉体である“物質性”だけを追い求めて来た“八方世界での地上人の意識”として描写されており、それこそが悪であるとして手厳しく批判されています。
「〔前略〕 善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」 『地震の巻』 第九帖 [386] (※『地震の巻』の善悪論は“正道の善と正道の悪の平衡”を軸にしています)
同時に、来たるべき新世界、即ちミロクの世である“十方世界”では「悪を悪として憎む想念は無くなる」と告げられており、岩戸開きと共に地上人の意識が刷新されるとのことです。
「〔前略〕 限られたる智によって、このうごきを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もあるのであるが、これこそ善を生かして更に活力を与へ、悪を浄化して御用の悪とし、必然悪として生かすことであり、生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく暗はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない、これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。〔中略〕 来るべき新天新地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし それが最高の理想郷ではない、更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ」 『地震の巻』 第七帖 [384] (※第一仮訳)
こういった内容が、立替え立直しの本質的な側面である“ミタマの立替え”や“善悪の平衡”に話が繋がっています。つまり、“反対の存在”は新しき三を生み出すための“対の用”なのであって、本質的に悪ではなく善に属するのでしょう。要するに、
性質が異なるから互いに活かし合うことができるのです。
言うなれば、正道の善と正道の悪は“互いの行き過ぎを是正し合う関係”にあり、異なるものを排除する独善的な外道の善や外道の悪とは全くの別物なのです。それで「二つの善と二つの悪を混同してはならない」或いは「二つの善と二つの悪を混同してはならない」と語られているようです。
そして、この話は天と地、陽と陰、日と月、神と人、霊と肉、神国と外国などの関係にも話が通じており、同時に“伊邪那岐神の世界と伊邪那美神の世界の関係”でもあります。
何故なら、異なるものとは“九十なるもの”を意味しており、物事の二面性や二重構造を排して一方的な見方に偏ることを数霊や神話で表現したのが、日月神示の「現在の世界は九十である沼陰が欠けている」という千引の岩戸閉めの物語だからです。
故に、性質が逆様の世界との一体化、即ち、平面世界から立体世界への遷移である“反対の世界との合流”が、夫婦神によるミトノマグワイの再開であり“岩戸開き”と呼ばれます。
「岩戸のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]
「反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次 輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ」 『碧玉の巻』 第一帖 [865]
「気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らしてあろうがな、今度は合わんものと合せるのぢゃ、岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ」 『碧玉の巻』 第二帖 [866]
「いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方から お互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十一帖 [958]
これらの点について少し補足すると、伊邪那岐神の世界である“神界”と伊邪那美神の世界である“幽界”は、本来ならば正道の善と正道の悪として共に善に属します。しかし、現在は岩戸閉めによって両神の交流が中断しており、どちらの世界も一方的になって“三”を生み出せなくなっています。つまり、現状の二つの世界は共に外道的な悪の性格を帯びていると言えます。ここから推察できるように、
道を外れると神界も幽界になります。
単純な「神界だから無条件に善、幽界だから無条件に悪」という話ではなく、独善に陥り、三にまつろわぬなら善も悪に転じるのです。
それもあってか、善と悪や神界と幽界は、正道と外道という“道”を基準に判断すべきものであることが窺えます。
「道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ」 『地つ巻』 第二帖 [139]
「天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢゃぞ」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540]
「幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな」 『白銀の巻』 第六帖 [617]
「道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道 多いのう」 『春の巻』 第三十九帖 [696]
「悪にくむでないと申してあろう、悪にくむは外道の善であるぞ。外道とは上からの光が一度 人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる、それが幽界と申してあろう、その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ、善にも外道あるぞ、心得よ」 『春の巻』 第四十一帖 [698] (※昭和二十七年版)
「善にも外道の善あるぞ。心せよ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]
結局の所、天神の神勅で伊邪那美神の九十国は最初から存在を認められているように、正道にまつろえば どちらの世界も“善”です。ただし、正道を外れるなら どちらの世界も“悪”であり、
“対の存在”を受け入れなければ、同じものが“逆様の存在”に転じます。
だから“同じ名の神”と呼ばれるのでしょう。互いに認め合うなら“中心に向かう用”ですが、認めなければ やがては“中心から遠ざかる用”に すり替わるのです。その観点から ここまでの内容をまとめます。
一見して判るように、日月神示の宇宙観で尊ばれているのは正道である“調和”の方です。
「宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]
「善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり」 『青葉の巻』 第十一帖 [480]
それ故、日月神示では逆様の世界や反対の世界や九十の国と称される幽界は、抹殺するべき対象ではなく抱き参らせるべき対象として語られており、最終的に「幽界は神界の一部になる」と語られています。
「〔前略〕 念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん」 『春の巻』 第四十六帖 [703]
ここでの神界と幽界は、“神界と幽界”及び“正道と外道”として読む方が文意を正確に把握できるはずです。他にも、同じ意味合いの記述を もう一つ引用してみます。
「〔前略〕 外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神の御旨であるからぞ。〔後略〕」 『春の巻』 第四十二帖 [699]
これらは「正道の神界と正道の幽界が“新しき神界”になる」ということであり、三が生み出されることを意味しています。つまり、
幽界は無くならずとも幽界は無くなるのです。
また、この点を考える上で非常に重要な指摘だと思われる“幽界”についての記述があります。ただ、この帖は昭和三十八年版と第二仮訳では一部の文章が欠落して文意が変わっているので、重要な箇所に傍点を振った上で昭和二十六年版を引用します。
「曲って世界を見るから、大取り違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ、其処に幽界 出来るのぢゃ、有りてなき世界、有ってならん、無くてならん世界、一番下の天国と この世と隣り合せの世界ぢゃぞよ」 『黄金の巻』 第九十四帖 [605] (※昭和二十六年版)
上の帖では「幽界は存在してはならない世界だが、存在しなければならない世界でもある」と語られていますが、その意味は上述の正道と外道の考え方によって判ると思います。“外道”は無くさなければならずとも“正道の幽界”は必要なのです。
そうであればこそ、日月神示では伊邪那岐神が治らす神界も伊邪那美神が治らす幽界も、共に新しき世界を生み出すための不可欠な因子と見做されています。それ故、“正道と外道”は相容れない関係であっても、“正道の神界と正道の幽界”は敵対的な対立軸の関係ではないのです。
そして、ここまでに述べた“善と悪”や“善と悪”への見方が、非常に簡素に表現された記述があるので、それを引用して、本章で要点のみに触れた“善悪の平衡”の締めにします。
「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理 分りたら それが善人だぞ」 『天つ巻』 第二十三帖 [130]
以上の内容からは「名は同じでも用は逆」とされる同じ名の神が、神示の善悪観や宇宙観に基づく概念であることが判ります。その内容は、「同じ名の神が一つになり三つになること」が“千引の岩戸開きの核心”のように書かれている背景なのです。
◆
ここで話が創世神話に繋がります。何故なら、「今までは同じ名の神が別々の存在と思われていたこと」や「これから同じ名の神が一つになること」を数で表現しているのが日月神示の創世神話だからです。
そのことを解説するために、復縁を誓い合った上で千引の岩戸を閉めた直後に、伊邪那岐神と伊邪那美神が交わした言葉を引用します。これが“日月神示の創世神話の最後”です。
「是に妹伊邪那美命 「汝の国の人草 日に千人 死」と曰し給ひき。伊邪那岐命 宣り給わく。「吾は一日に千五百 生まなむ」と曰し給ひき」 『日月の巻』 第四十帖 [213]
この部分は古事記で「千頭 絞り殺す」と「千五百の産屋を建てる」となっていますが、基本的な意味は変わりません。また、古事記の表現を踏襲した記述も見受けられます。
「日に千人食い殺されたら千五百の産屋建てよ。かむいざなぎの神のおん教ぞ」 『水の巻』 第六帖 [280]
記紀には他にも“千五百”の数が登場します。例えば、伊邪那美神が率いた黄泉軍の数、高御産巣日神が生んだ子の数、日本の古い美称などであり、修辞的な日本語としては“三千”に似た意味です。
しかし、神示の数霊論によると、夫神の数である“千五百”と妻神の数である“千”の本質は“3:2”という比率にあるそうです。同時に、この比率が“創世神話の総括”になっています。
その理由は、創世神話の百柱の中で同じ名が繰り返されていない神が“六十柱”であるのに対し、同じ名が繰り返されている神は“四十柱”であり、両者の比率も3:2だからです。
この点を詳しく説明するために、日月神示で“3:2の比率”について書かれた部分を引用して、簡単な一覧にしてみます。
「天に神の座あるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。七の印と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、天は三であり、地は四であると今迄は説かせてあったなれど愈々時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、伊邪那岐三となり、伊邪那美二となりなりて、ミトノマグハイして五となるのであるぞ、五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はいろはであるぞ」 『扶桑の巻』 第一帖 [850]
「千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又 地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが」 『至恩の巻』 第九帖 [956]
伊邪那岐神 | 1500 | 天 | 父 | 数霊 | 216 | 3 |
伊邪那美神 | 1000 | 地 | 母 | 言霊 | 144 | 2 |
ミトノマグワイ | ── | ─ | ─ | ── | 360 | 5 |
日月神示の説く“天の数216”と“地の数144”は、円の角度である360を3:2の比率で表現したものであり、凸と凹を組んで余る処も足りない処も無くなった姿を○に見立てています。
ちなみに、天であるタカアマハラの六音と地であるオノゴロの四音の比率も3:2ですが、これらは基本的に“陽と陰の比率”と考えられます。
神示には「陽と陰と和して新しき陽が生まれる」や「奇数と偶数を合わせて新しき奇数が生まれる」などと書いてありますが、「退歩と進歩によって初めて一歩を得る」の意味でしょうか。この場合、二と三の差分であり分割できない数である“一”には、実際は二つの用が内包されていると見ることができ、数霊の〇やムとウの概念との関連も想起されます。
同時に、日月神示では陽や奇数の方が“中心”や“本質”として語られており、基本的には“それ”を活かしたり新生させるために、“反対の用”である陰や偶数といった“それではないもの”が存在すると言えます。こういった内容が、正道の悪や御用の悪という善への考え方や、同じ名の神の概念などに通じているのでしょう。
その上で注目されるのは、前出の引用の中の「今までは天は三であり地は四であると説かせてあった」と、「これから伊邪那岐神が三となり伊邪那美神が二になってミトノマグワイをして五になる」です。この部分が創世神話の最後の言葉と直接的に関わっています。
簡単に述べるなら、同じ名の神を別々に数えると「40×2=80」で八十柱になります。この場合、60:80の比率は“3:4”であり、「今までは同じ名の神を別々に認識していた」と符合します。逆に同じ名の神を一柱として数えると四十柱であり、60:40の“3:2”の比率になり、「これから同じ名の神を一つにする」と符合するのです。ここからは次の内容が読み取れます。
「日月神示の創世神話には“神界の秘密”や“岩戸開きの鍵”が数で盛り込まれている」
天之御中主神から意富加牟豆美神までの物語は、御神名という“言霊的な側面”が前面に出ているので気付きにくいのですが、実際には“数霊的な側面”も極めて重視した上で書記されています。
このことは、前出の引用の「天は数であり地はイロハである」の解説として、岡本天明氏が“秘鍵”と言って力説しています。
「〔前略〕 古事記は大要 右の如きものであって開巻第一行から実に難解極まるもので、これを読解するには高度な智性と高度な霊性が必要とされます。為めに古来幾多の先覚者が それの立場から開明せんと努力したが、未だ決定的なものは見受けられない。その理由の一としては、殆んどの研究者が、未解決な点に「言霊の鍵」をあてて開明せんとした為めではないかと思はれる。勿論、古事記を解く鍵の一つが言霊であることに異論はないが、それのみでは絶対に目的を達し得られない、と私は固く信じて居ります。古来、深く秘められてゐる「数霊」による古事記の解釈が不可欠なものとなって来る。別言すれば「古事記の数読み」が忘れられ、判らなくなってゐるのであります。世界の各国語を通じて、言葉の裏には数があり、数の裏には必ず言葉がかくされてゐるのであります。〔中略〕 以上の如く世界の重要な古典は必ず「数と言」とによって示されてゐるのであります。前に述べた古事記が「邦家の経緯」と云ふのは、言(ヨコ)数(タテ)のことをも意味してゐるようで、日本語では父のことを数(カゾ)母のことを言(いろは)と申します。要するに古典を真解するには右の如き意味をもつ「数霊と言霊」の鍵が必要でありますが、この鍵は深く秘められて居り、ピタゴラス、釈迦、聖徳太子、天武天皇以降、その運営が判らなくなって 只 数のみが残されたと云った形のようであります」 『古事記数霊解序説』 第一章 (※昭和三十七年版)
「古事記は単なる伝記や神話ではなく、道の大源として限りなき神秘を内蔵し、宗教的にも科学的にも、更に超現実的にも、恐らく永遠に生命し、呼吸しつづけるであろう。われわれの先祖は この神秘を開明する一つの方法として前記の如く二つの秘鍵を残してゐる。一は数霊であり、一は言霊であります。古記を見ますと、父のことをカゾ(数)と云ひ、母のことをイロハ(言)又はイロと申して居ります。旧事本紀には「──夫れ父母の既に諸子に任して各々その境を有たしたまふ──神祇本紀」と示されて居ります。古事記には屡説する如く、この意味に於ける父母、天地、陰陽、上下等のあり方を、そして その用の基本を示されてゐるのでありますが、表面的には言霊的な面が強く現われて居りますので、兎角 数霊面は忘られかちであります」 『古事記数霊解序説』 第四章 (※昭和三十七年版。昭和四十七年版では第五章)
天明氏が語っているように、言霊だけではなく数霊からも考えることによって、“天神の秘策”と呼ばれる“千引の岩戸開きの真実”に迫ることができるのではないでしょうか。その内の一つが“同じ名の神”であり、そうであればこそ、日月神示の創世神話は言霊的な意味以上に数霊的な意味の方が本命とすら感じられるのです。
上記の内容からは、「同じ名の神が二柱づつ存在し、これから一つになる」という“神界の計画の概略”が、数で明かされていることに気付きます。同時に、一見すると唐突に感じられる夫婦神の数を主体とする会話が、実際には極めて正確な“創世神話の総括”であることも判ります。
恐らく、数霊だけでは説けないものを言霊で説き、言霊だけでは説けないものを数霊で説くことによって、一方的な視点では見えないものを伝えようとしているのが、日月神示の創世神話なのでしょう。
◆
以上のように、日月神示では物語と数が一体的に展開されていますが、創世神話に秘められた数霊は他にもあります。結論から言えば、これは“数霊の二十”であり“二十麻邇”を意味します。
本論の第三章で簡単に触れましたが、伊邪那岐神と伊邪那美神が天の御柱の周囲を廻る際に、天神に伺いを立てて“規範”としたものがフトマニです。その結果、ミトノマグワイは滞りなく進んで国生みが上手く行きました。
フトマニは鹿の肩の骨を焼いて入った罅の形から吉凶を占う古代の祭儀であり、古事記では「布斗麻邇」、日本書紀では「太占」の表記です。日月神示では“大宇宙の鉄則”として説かれ、数霊と一緒に言及される場合が多いです。また、“大摩邇”や“摩邇の宝珠”という独自の別称も使われています。
「ひふみにも二十、五十、いろはにも二十、五十、よく心得なされよ。何彼の事ひふみ、いろはでやり変へるのぢゃ、時節めぐりて上も下も花咲くのぢゃぞ」 『青葉の巻』 第七帖 [476] (※第一仮訳では「ひふみにも二通り五通り、いろはにも二通り五通り」です)
「神の御座のまわりには十の宝座があるぞ、十の宝座は五十と五十、百の光となって現れるのであるぞ、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、五十種の光、五十種の色と申してあろうがな、光の中に百億の化仏ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであるぞ、今迄は四の活物と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であるぞ」 『扶桑の巻』 第十四帖 [863]
「マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇の宝珠であるぞ、五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第五帖 [869] (※「摩邇の宝珠」は仏教で「全ての願いが叶う宝」とされる“摩尼宝珠”を意識した表現のようです)
「総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882] (※玉には一つの面しかありませんが、見方を変えれば「無限の面を持つ」とも言えます。それを「無限角度」と表現しているのかもしれません)
「〔前略〕 神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、 〔後略〕」 『竜音の巻』 第三帖 [911]
「三千世界の岩戸開きであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ」 『極めの巻』 第二十帖 [947]
「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、〇九十の誠であるぞ、合せて二十二、富士であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]
こういった“フトマニ”については岡本天明氏が詳しく論じています。
「古事記──ここに二柱の神はかりたまひつらく、今 吾うめりし子ふさはず、猶 天神の御所に白すべしとのたまひて、即ち共に参上りて、天神の命を請ひたまひき、ここに天神の命以て布斗麻邇(太占にあらず)にうらへて詔りたまひつらく、女を、言先だちしによりてふさわず……。この一節中 最も重大であり且つ古事記中の核的文字の一つであるフトマニとは果して如何なるものであろうか。この場合の天神とは全大宇宙の生みの親であり、中心であり、絶対神であります。従って全大宇宙は、天神そのものの現われであり、天神の御想念のままになされて いささかの間違ひもなく、且つ それが当然のことである。故にナギ、ナミ二神の御質問に対しては、御心のままに“かくかくせよ”と御命じになればよいわけであるのに、大神は左様になされず一応フトマニにうらへて後、はじめて「女を言先だてたのが誤りである」と申されたのであります。別言するならばフトマニなるものは絶対神と雖もこれに違反することを許されない、絶対永遠不動なる大宇宙間の大神律、根本秩序、基本方則と云った風なものを何等かの形(霊的にも物的にも)に於て現わしたものと考へられるわけであります。果して然りとするならば、これは大変な事であって、その一端でも解明出来たならば、大宇宙の大法則の一端にふれるわけであって、われわれ人類にとっては此上なき大歓喜であり、古事記その他の古典解明の最貴、最高の目的は これでなくてはならないと信ずる次第であります。日本書記には このフトマニを太占と書き、祝詞中には大兆と書いたのもありますが、これはやはり布斗麻邇でなくてはならぬと思います」 『古事記数霊解序説』 第十四章 (※昭和三十七年版。昭和四十七年版では第十六章)
日月神示や天明氏によると、宇宙には神さえも従わねばならぬ鉄則があるそうです。そして、フトマニを数で表すなら“五十”や“百”が適切であることは前々章や前章の数霊論で詳述した通りですが、もう一つだけ“フトマニの基本単位”と呼び得る数霊が存在します。それは“数霊の二十”です。
「百は九十九によって用き、五十は四十九によって、二十は十九によって用くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ」 『碧玉の巻』 第十九帖 [883] (※「根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん」は伊勢神宮の“式年遷宮”のことです)
一般的にフトマニのフトは美称とされますが、日月神示によると数霊的な意味があり、“二十マニ”と表現するのが相応しいとのことです。また、“二十の活用”である十九が“十九立”、即ち“国常立神”と一体的な関係にあるようです。その上で注目されるのは次の点です。
これは、本章で述べた六十柱と四十柱の3:2の比率や、同じ名の神を別々に数えた際の六十柱と八十柱の3:4の比率から見えて来る内容です。つまり、「60÷3=20」、「40÷2=20」、「80÷4=20」ということであり、60と40及び60と80の差分も20です。また、六十柱と四十柱や3:2の総体は百や5ですが、こちらも「100÷5=20」です。
ちなみに、岡本天明氏は「〇の中に五がある」という数霊論を展開していましたが、その説に二十マニを掛け合わせて展開したものが日月神示の創世神話の一面である可能性もあります。何故なら「100=5×20」だからです。五十音図を前提に5を五つの母音と見るなら、20は十個の父音の順律と逆律でしょうか。案外と百には数に入らない二十が隠れているのかもしれず、〇の中に五と十と二が在るようにも見えます。
その上で、“二十マニ”の意味については、天明氏が『古事記数霊解序説』で先達の考察を参考にしながら論を進めています。
「このフトマニに対する古来の学説を総合すると、フトマニのフトとは太の義で、マニとは神の命のマニマニと云ふことである。太古は何事を為すにも先づ御神意を伺ってから行ったもので、その方法は、普通は牡鹿の肩骨を焼き、その割れ目の形によって判断したものである…と云ふことになり、神道の一部で用ひられてゐる形がマニの原形であると云ふ説もある。その中で最も優れてゐるのは伴信友の説であります。その説によると「はマチを現はしたもので、始めはマニとも云われた。元来形は田畠を区劃した。その畦道の形から出来上ったものだ」と云ふのであります。古来 田畠をかぞへるのに一マチ二マチと呼んでゐるのは、こうした所から出て来たものと思はれる。辞書を調べて見ると「町(マチ)とは畦(アゼ)であり区劃である」と書かれて居り、又 畦とはウネであり五十畝のことを云ふとも見へるが、要するに、マチ(マニ)の古義は区劃することであり、境界をつくることであります。更にフトとは太である半面、これを数霊的に見るならば、明かに二十(フト)であり、古事記に太占を用ひないで布斗麻邇なる文字を用ひた理由の一面は この辺にあるようであります。尚 太玉串、布刀御幣、太襷をはじめ、大祓祝詞中 最も重要なるフトノリトコトのフトも二十の裏打があって始めて真義が解明されるのであります。以上、要するにフトマニとは「二十に区劃する」ことであって、以下 順を追って詳述することと致しましょう」 『古事記数霊解序説』 第十五章 (※昭和三十七年版。昭和四十七年版では第十七章)
ここには「フトマニとは二十に区画すること」と書いてありますが、実際に、創世神話の“神の比率”は同じ名の神の概念によって二十に区分されています。その意味では次のように言えます。
これは日月神示の創世神話、延いては古事記の内容がフトマニを展開した物語である可能性を示しています。岡本天明氏が天武天皇による古事記の編纂を“千古の偉業”と讃え、「永久に生きて呼吸し続ける」と語ったのは、そのことを直感的に見抜いていたからなのかもしれません。
◆
そして、同じ名の神と二十の関係に気付くと別の比率が見えて来るので、ここからは日月神示の創世神話の神名の“最大数”とも言える“百七十”について追記します。
百七十は六十柱と八十柱を合わせた百四十柱に、伊予之二名嶋から天之尾羽張までの二十二柱の神霊が有する“三十の別名”を加えた数です。
なお、別名には本来の名称として扱われるものも混じっていますが、古事記や日月神示では通称に見える名の方が数える際の基準なので、ここでは便宜的に一括りにします。
別名も古事記と殆ど同じですが、迦具土神の扱いには相違があります。神示では迦具土神という名が通称の位置付けであり、古事記と違って火之夜芸速男神の正式な別名には含まれない模様です。従って、古事記の別名の合計が三十一であるのに対し、日月神示は三十になります。
百、六十、四十、八十、二十に対して、三十という“限の良い数字”であることから推察できるように、別名も“比率”によって内包された意味が見えて来ます。結論を先に述べると、
日月神示の創世神話の百七十の名は“天神の十七段階”と対応する可能性が高いです。
第一章と第二章で触れたように、岡本天明氏は天之御中主神から伊邪那美神までの化生を“天神の完成”と呼び、同一の存在の十七段階と認識していました。神示にも そのように読める記述があります。
「人民の肉体も心も天地も皆 同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、〔後略〕」 『至恩の巻』 第五帖 [952]
同時に、上の帖では“百七十と十七柱の関係”を考える上で、非常に重要な点が示唆されています。
これらの詳細を解説するために、天之御中主から伊邪那美までの“十七柱の尊称”を一覧にしてみます。
古事記での十七柱の尊称は全て「神」ですが、日月神示ではミコト、尊称無し、カミの三種類に区別されており、その内訳が創世神話の百七十の名と対応するらしいのです。
具体的には、六柱のミコトと六十柱、八柱の尊称無しと八十柱、三柱のカミと三十の別名が比率的に対応しているので、内容を順に解説して行きます。
十七柱の内の“ミコト”は正確には五柱であり、何故か高御産巣日に尊称がありません。しかし、同じように尊称が無い四組八柱の対偶神と同列の神格とは考えにくく、造化三神としての一体性から天御中主尊や神産巣日尊と一緒の集団に含まれるはずです。
この場合、六柱と対応する六十柱は、実際には五十柱と十柱と見ることもでき、五十音と父音の関係性を連想させます。もしかしたら、尊称を無しにすることよって、父音の隠れの性質を表現しているのかもしれません。
次に“尊称無し”の八柱と八十柱の対応ですが、これは非常に判り易いです。古事記では対偶の二柱の神を一柱で数えるように指示しているので、同じ名の神を一柱として数えた場合の四十柱と尊称無しの四組が対応し、別々に数えた場合の八十柱と尊称無しの八柱が対応します。
また、ここで伊邪那美~に配偶神の接頭語である「妹」が無い点も極めて重要です。古事記の該当箇所は「妹伊邪那美~」なのですが、日月神示では「伊邪那美~」であり、十七柱の括りの中では他の四柱の配偶神と区別する意図が感じられます。
当然ながら、残る“カミ”の三柱が三十の別名と対応することになります。
以上のように比率から考えると、天神と創世神話の対応的な関係が読み取れます。恐らく、
日月神示の創世神話は“根本の存在を象った物語”なのでしょう。
即ち“天神の象形”です。これは次のように言い換えられます。
「三千世界はの神の写しである」
そのことを前出の帖では「天地は同じもの同じ想念から生まれた故に同じ型や同じ性を持つ」と語っているようです。この点が神示の宇宙観の中核を成す「大神の中に宇宙を生んだ」と話が通底します。
「歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える」 『地震の巻』 第二帖 [379]
「全大宇宙は神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に宇宙そのものが神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である」 『地震の巻』 第五帖 [382]
「〔前略〕 地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失はず生活するのである。〔中略〕 蛹が蝶になる如く弥栄へるのであって、それは大いなる喜びである。何故ならば大歓喜なる大神の中に於て、大神の その質と性とを受け継ぎ呼吸してゐるからである」 『地震の巻』 第八帖 [385] (※第一仮訳)
「神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に自分新しく生むときは、自分と同じ型のものを生む」 『夏の巻』 第七帖 [724]
「人間は大神のウズの御子であるから、親の持つ、新しき、古きものが そのまま型として現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]
「宇宙にあるものは 皆 人間にあり。人間にあるものは 皆 宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神の雛形と申してあらう」 『冬の巻』 第一帖 [770] (※昭和二十七年版)
上のように根本の存在が自らを移写して宇宙が形成される様相を、同じもの、同じ想念、同じ型、同じ性などの言葉で表現しているらしく、そこからは次の見解を導き出せます。
「天神を展くと創世神話や三千世界になり、三千世界や創世神話を畳むと天神になる」
この間柄は“親神と日本と世界の関係”と全く同じです。
「日本の国は世界の雛形であるぞ」 『地つ巻』 第十七帖 [154]
「日本の国は この方の肉体であるぞ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]
「日本の国は此の方の肉体と申してあろがな」 『日の出の巻』 第八帖 [221]
「神の国は神の肉体ぞと申してあるが、〔中略〕 それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中の国であるからぞ」 『夜明けの巻』 第二帖 [322]
「神の国は真中の国、土台の国、神の元の鎮まった国と申してあらうがな。神の国であるぞ」 『岩の巻』 第八帖 [373]
「日本つかむことは三千世界をつかむことぞ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]
「日本が変って世界となったのぢゃ」 『春の巻』 第十四帖 [671]
「新しきカタは この中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん」 『春の巻』 第四十二帖 [699]
「国常立大神の この世の肉体の影が日本列島であるぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]
「日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、おのづから相違あるぞ」 『極めの巻』 第一帖 [928]
「日本が秘の本の国、艮のかための国、出づる国、国常立大神がウシトラの扉をあけて出づる国と言うことが判りて来んと、今度の岩戸ひらきは判らんぞ」 『極めの巻』 第四帖 [931]
断定はできませんが、“霊的な対応関係”において、
記紀や日月神示の創世神話は“日本そのもの”なのかもしれません。
そこから岡本天明氏の言う“秘鍵”を見付け出せば、“秘の本の国の扉”を開くことに繋がり、国常立神という“光”が世に出るようにも感じられます。それが三千世界の立替え立直しにおける“出づる国の姿”の霊的な一面として、神示の冒頭の一節の意味になるのでしょうか。
「富士は晴れたり、日本晴れ。神の国のマコトの神の力をあらはす代となれる」 『上つ巻』 第一帖 [1]
そして、元の神が万物を生む姿や、比率的な対応関係に見られる“移写拡大の様相”の一端は、日月神示で“数”を使って明示されています。これは成十の仕組に代表される“数を一つづつ進める遣り方”に対する“数の桁を繰り上げる遣り方”を指します。
「一が十にと申してありたが、一が百に、一が千に、一が万になるとき いよいよ近づいたぞ」 『下つ巻』 第二十四帖 [66]
「八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ」 『天つ巻』 第五帖 [112]
「五つの色の七変はり八変はり九の十々て百千万の神の世 弥栄」 『雨の巻』 第十七帖 [351]
「イシもの言ふぞと申してありたが、〔中略〕 五の一四がもの言ふのであるぞ、ひらけば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ、このほうを五千の山にまつれと申してあろうが」 『扶桑の巻』 第一帖 [850]
「大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、〔中略〕 光の中に百億の化仏ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであるぞ」 『扶桑の巻』 第十四帖 [863]
「五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]
「そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島を均し八尋殿を見立てられたのであるぞ、これが この世の元、人民の頭に東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万となりなるのであるぞ」 『至恩の巻』 第五帖 [952]
ちなみに、この展開の方法は“〇を加える遣り方”とも言い換えられ、その代表例が“二十二の仕組”になります。
これらは実数に対する“比率”のように「どれだけ拡縮しても全て同じ」という特徴があり、日月神示では「神は宇宙を創り給わず」や「神の外には出られない」などの独特の表現で説明されています。
「神は宇宙を創り給はず。神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] (※第一訳)
「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]
「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]
「人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]
「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]
「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ」 『月光の巻』 第九帖 [796]
「そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ」 『月光の巻』 第五十三帖 [840]
「人民は神の中にゐるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのぞ」 『極めの巻』 第十三帖 [940]
結局の所、日本の国土が世界の大陸の縮図であるように、全ての事象には“中核”が存在します。そういった一種の規格が全体を統括する“宇宙の枠組”になっており、そこからは出られないのです。
「宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]
その上で、中心は「それをそれたらしめているもの」として特性や原点や“本質”と呼び得ます。これは「常に展開の中心軸に位置して総体を統御する」という観点から見れば原理や“統べるもの”であり、信仰的にはや“の”と表現できる元の神との繋がりです。
そして、神の心や歓喜は、宇宙の秩序、形式、性質、呼吸、進展と切り離せない関係にあり、根本の存在たる天神は大宇宙の鉄則としての“二十マニ”と究極的には一体です。このことは“天神の移写”であろう創世神話に二十が隠れている点からも推察できます。
「総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神も その法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]
恐らく、同じものや同じ想念から生まれて同じ型や同じ性を有するという意味において、大宇宙の全ては天神なのであり、その生成化育の基軸となる“天神の波長を明かしたもの”として、
日月神示の創世神話は“根本原理の展開図”と呼び得るのでしょう。
また、創世神話の百七十の名が、岡本天明氏の言う“天神の完成”たる十七柱と対応するなら、
日月神示の創世神話は“天神の神勅の完遂に必要なもの”かもしれません。
千引の岩戸開きであり、新しき世界生みであり、三千世界の立て替え立直しであり、“修理固成の完了”である今回の大変動を、天明氏が“天神の秘策”と呼称していたのは、この辺りの内容と霊的な繋がりを持つ可能性があります。
そういったことを伝えるために、日月神示には古事記に準拠した創世神話が展開されているように感じられるのです。
同時に、天之日津久神様は永年の歴史の中で古事記から失われた部分を現代に復活させるべく活動していらっしゃるように見えます。もしかして、
“古事記の真解”を伝えるための天啓が日月神示なのでしょうか。
この説が正しいかは何とも言えませんが、創世神話の精緻な構成に触れると、仮説の裏付けの片鱗くらいは感じ取ることができるのです。
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以上が本章における“同じ名の神”と“二十マニ”に関する考察ですが、日月神示の創世神話から見えて来るものは他にもたくさんあります。
例えば、高御産巣日に尊称が無いことにより、百柱の内の及びか三が六十柱、カミ以外が四十柱になり、ここでも3:2の比率が見られます。他にも、天明氏が神々の化生と“元素の周期表”の対応関係に注目するなど、日月神示の創世神話には まだまだ多くの意義が秘められているようです。
ただ、それらを一つづつ取り上げると限がないので、ここまでは言及しなかった創世神話の言霊的な側面、いわゆる“祝詞としての創世神話”に触れて本論を終えたいと思います。
日月神示の第六巻『日月の巻』に収録された創世神話は、意図的に文体が変えられていることから判るように“特別な詞”です。既に指摘している大本系統の研究者が居られますが、『日月の巻』の十一の帖に分散した創世神話は、全体を一つに繋げて奏上する“日月神示 最大の祝詞”として書記されています。そのことを考える上で参考になるのが“音読”の記述です。
「シッカリ神示読んで、スキリと腹に入れてくれよ、よむたび毎に神が気つける様に声出してよめば、よむだけ お蔭あるのぞ」 『下つ巻』 第二十七帖 [69]
「この神示 心で読みてくれよ、声出して読みてくれよ、病も直るぞ、草木も この神示よみてやれば花咲くのざぞ」 『地つ巻』 第二十三帖 [160]
「神示よんで聞かしてくれよ。声出して天地に響く様のれよ」 『日月の巻』 第二十一帖 [194]
「神示 声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ」 『キの巻』 第十七帖 [274]
「この神示 声出して読みあげてくれよ。くどう申してあろがな。言霊高く読みてさえおれば結構が来るのざぞ」 『水の巻』 第五帖 [279]
「この神示読めよ、声高く。この神示 血とせよ、益人となるぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]
「悪神は如何様にでも変化るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]
また、天之日津久神様は“元の神”に極めて近い存在らしく、多くの神々すら知らぬことを御存知だそうです。それ故、日月神示には「人間だけではなく神々や守護神にも伝えて欲しい」という記述があり、そこからも音読の重要性が判ります。
「この神示 皆に読みきかしてくれよ。一人も臣民 居らぬ時でも声出して読んでくれよ、まごころの声で読んでくれよ、臣民ばかりに聞かすのでないぞ、神々さまにも聞かすのざから、その積りで力ある誠の声で読んでくれよ」 『下つ巻』 第八帖 [50]
「臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、中々大層と申すのぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]
「この神示 言波としてよみてくれよ、神々様にもきかせてくれよ、守護神どのにも聞かしてくれよ」 『天つ巻』 第十一帖 [118]
「此の神示 声立てて読みて下されと申してあろがな。臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かすのぞ、声出して読みてさへおればよくなるのざぞよ」 『日月の巻』 第三帖 [176]
「守護神も曇りてゐるから神々様にも早う この神示読んで聞かせてやれよ」 『キの巻』 第九帖 [266]
「この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせてくれよ」 『水の巻』 第十四帖 [288]
「澄んだ言霊で神示よみ上げてくれよ、三千世界に聞かすのぢゃ、そんな事で世がよくなるかと人民申すであらうなれど神の申す通り、判らいでも神の申す通りにやって下されよ、三千世界に響き渡って神々様も臣民人民様も心の中から改心する様になるのざぞ、世が迫って居ることは、どの神々様人民にもよく判ってゐて、誠 求めて御座るのぢゃ、誠 知らしてやれよ」 『梅の巻』 第八帖 [435]
つまり、祝詞を奏上する本人が深い意味を知らずとも、その声を聞き届けた縁ある神霊には、日月神示の創世神話に秘められた“秘密”や“鍵”が何なのか判るのかもしれず、霊的かつ大局的には立替え立直しや岩戸開きの一助に成り得る可能性があるのです。
ちなみに、日月神示には他にも“特別な詞”があり、その一つが三つの重複音を除いて五十音を奏上する“一二三祝詞”です。言うまでもなく、御神名には特別な意味と力があり、その名は“音”である“カナ”によって構成されます。一般的にカナは「仮名」の字を当てますが、日月神示によると本来の意味は“神名”とのことです。
「仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、仕まひには その仮名に頭下げて来ねばならんぞ、かなとはの名ぞ、神の言葉ぞ」 『下つ巻』 第二十八帖 [70]
例えば、『水の巻』第二帖の一二三祝詞の原文は“神代文字”で書かれており、極めて特別な祝詞であることが強調されています。ここからも天之日津久神様が“神の名”を重視していることが判ります。
古来より「名は体を表す」と言いますが、神の名は神の体を凝縮したものです。故に“百柱の神名の物語”を広く天地に響き渡らせることは、必ずや八百万の神々に お喜び頂けるでしょう。何故なら、
日月神示の創世神話は“天神の太祝詞”とでも称すべき“神名の神髄”なのですから。
もしかしたら、創世神話や日月神示の音読には、伊邪那岐神が歪みや曇りに“百の神”を投げ付けることと同じ用があるのかもしれません。一種の雛型であり“浄化の神業”です。
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以上のように、神示の説く創世の物語は“神霊と数霊と言霊の集大成”及び“根本原理”としての側面が見え隠れしています。恐らく、
日月神示の創世神話は“神界の秘儀の精華”なのでしょう。
しかし、日月神示は予言的な部分に注目が集まりがちであり、神話は軽んじられる傾向があります。ですが、本論で見て来たように、立替え立直しや岩戸開きに関する内容は“神の物語”から答えを得られる場合が非常に多いのです。このことからも“神に向かう重要性”が判ります。
そして、最初は拙くとも少しづつで良いから神に向かい続けていれば、いずれは“神の気”や“神の光”が頂けることを、天之日津久神様は力強く断言なさっています。
「神に向ってゐると いつの間にか神の気いただくぞ、神の光がいただけるのぢや」 『春の巻』 第三十帖 [687] (※第一仮訳)
これは「神の意向を知ること」と同義であり、そのための最も適切な“道標”になり得るのが、日月神示であるのと同時に、伊邪那岐と伊邪那美の夫婦神を軸にして織り成される“世の創の物語”なのです。
「神漏岐、神漏美の命 忘れるでないぞ。そこから分りて来るぞ」 『地つ巻』 第七帖 [144]
そうであればこそ、「日月神示を理解するためには神から考える必要がある」と言えましょう。
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このように、日月神示の創世神話では“神霊と数霊と言霊”を三位一体的に展開しています。そこからは千引の岩戸開きが、三千世界を根元から支える“三元”と“一二三”の概念や、二十マニの一環であることが見えて来ます。
無論、“宇宙の原理の全容”は人間に理解できるものではないでしょうが、その端緒に触れ得る可能性は示されています。
それがなにであるのかはわかりません。ですが、なにかはここにあります。
そう感じさせるほどに、百柱の神々が織り成す創世の物語は、日月神示の中でも“特別”なのです。