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『富士の仕組』は『時節概論』の終章を分離したものです。
今後の更新はこちらで行います。
章、節、項は完結した時点で修正します。
2023年1月31日


富士の仕組

モトモトモトの神は何も彼も終っているのであるぞ
おわりなくはじめなく弥栄へているのぞ
『黄金の巻』 第一帖

目次


終章 一二三

6-3数霊の〇2016/ 6/14
1神は宇宙を創り給わず2016/ 6/14
2前なるもの2016/ 6/15
3ム / ウ2016/ 6/19
4円環2016/ 6/20
6-4二十二の仕組2016/ 9/26
1神界 / 合わせ鏡2017/10/ 7
2数歌としての神経綸2018/ 1/28
3二十二 / 最後の審判2018/ 6/10
6-5富士は晴れたり日本晴れ2018/12/31
1二十二晴れ / 真理2018/12/31
2二本晴れ / 大和2019/ 1/ 2
3善悪の彼岸2019/ 1/ 2
41+1=3(1)2020/ 4/ 9
5の息吹2020/ 7/ 5
6-6画竜2020/11/22
1の概略2021/ 5/25
2九分九厘2021/ 8/ 1
3〇の岩戸開き2021/12/11

更新履歴

終章 一二三

数霊の〇

 日月神示の説くかのととりが内包する意味は【数霊のれい】から見えます。


 しかし、数霊のれいについて論じるのは或る種の困難を伴います。これはれいが基本的に“存在しないであり、からです。それでも このような不明瞭なものに言及せざるを得ないのは、数霊のれいが最大最後の神仕組である“富士の仕組”の中核を形成する概念だからです。

 そして、“概念”“原理”を形成し、現象に対する現象が起きる理由、もしくは結果に対する原因として“神経綸の背景”になっています。それ故、の宇宙観を根幹的な部分から見て行くことによって、より広範な視点から“神の計画パズルを概観できるようになるはずです。

 そこで、本節では【神は宇宙を創り給わず】、【前なるもの】、【ム】と【ウ】、【円環】という風に、日月神示の宇宙観をを使って、れい姿はたらきを浮き彫りにしたいと思います。

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神は宇宙を創り給わず

 日月神示の宇宙観には「始まりの前を重視している」という特徴があります。これは数で表すならはじめの前であり、れいを意味します。

「第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ」 『至恩の巻』 第七帖 [954]

「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も繰り返したのであるぞ、その時はそれはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて修理固成つくりかためなされたのぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 そして、この話に関連するのが、日月神示の宇宙観で最も根幹的な【神は宇宙を創り給わず】という部分です。ここから細かい宇宙観が枝葉のように伸びて、独自の三千世界観が咲き誇っています。


「神は宇宙を創り給はず。神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] 第一仮訳)

「神は宇宙を創り給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切な別れ道で御座るぞ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]

「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 同じ内容が「万物は神の中に存在する」といった言葉で述べられています。

「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]

「人民いくら頑張っても神の外には出られん。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ。このこと よくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと善悪のこと、よく判って来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構」 『月光の巻』 第九帖 [796]

「そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ。思ふさまやりてみて早う得心改心いたされよ」 『月光の巻』 第五十三帖 [840]

「人民は神の中にゐるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのぞ」 『極めの巻』 第十三帖 [940]

 更に同様のことを、日月神示の特徴である“歓喜の宇宙観”と絡めて述べた記述もあります。この宇宙観は三千世界の一切を肯定する非常に高い視座から説かれており、一言で表現するといやさかです。その主旨は「あらゆる存在の本体は歓喜そのものであり、宇宙の全ては喜び合うために生まれた」と要約できます。

「かくして、大神の大歓喜は大いなる太陽と現われる。これによりて新しく総てが生まれ出る。太陽は神の生み給えるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生まれ給うのである。は絶えず繰り返され、更に新しき総ては神の中に歓喜としてはらみ、生まれ出て、更に大完成に向かって進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばならない。されば、そのはたらきに於いては千変万化である。千変万化なるが故に一である。一なるが故に永遠である」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「人の生後、即ち地上人の生活は生前の生活の延長であり、また死後の生活に そのままにして進み行く。立体となり、立々体と進み、弥栄する処に尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化弥栄することにより善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に神の中に神として総てが弥栄するのである」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「地獄はないのであるが、地獄的現われは生前にも生後にも また死後にもあり得る。しかし、それは第三者から そのように見えるのであって真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に総てのものが生長しているためである」 『地震の巻』 第十七帖 [394]

「宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり弥栄であるぞ。そこに生命あり喜びあるのぢゃ。大神の中で宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655]

 ここまでの引用に見られるように、日月神示では「宇宙は神の中に生まれた」という点が強調されています。これを別の言い方にするなら、「一切万物は唯一者の無限の側面の一つである」と表現しても構わないでしょう。そのような視点からの記述も抜粋してみます。

「何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]

「太日月地大神としての この神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。この方一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。はんしんぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ」 『春の巻』 第二十一帖 [678] 第一仮訳)

「宇宙の総ては この神の現れであり一面であるから、そのつかんで拝んでもよいのであるぞ。そのつかんですがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息 通ふているぞ」 『春の巻』 第二十二帖 [679]

「何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太日月地大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ」 『夏の巻』 第四帖 [721] 第一仮訳)

「一神説いて多神説かんのもかた、多神説いて一神説かんのも片輪、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]

「神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。みちばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に総てを見せて飲み込ませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから気長に神求めよ」 『夏の巻』 第十七帖 [734]

「この世は 皆 神の一面の現われであるぞ」 『月光の巻』 第六十一帖 [848]

 以上の内容から見えるように、天之日津久神様は「宇宙の全ては神がもの」と説いています。これが“日月神示の宇宙観の根幹”です。

 そして、神経綸に幾つものひながたが重層的に織り込まれている理由も、上記の宇宙観にあります。

「歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「全大宇宙は神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に宇宙そのものが神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失はず生活するのである。その状態よりもなお一層に そのままであって、何等の変化もないと思へる程である。さなぎちょうになる如く弥栄へるのであって、それは大いなる喜びである。何故ならば大歓喜なる大神の中において、大神の その質と性とを受け継ぎ呼吸してゐるからである」 『地震の巻』 第八帖 [385] 第一仮訳)

「人間が物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、即ち肉体を持ち、霊界に入った時は それに相応した霊体を持つ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である。大宇宙にも頭があり、胴があり、手足があり、目も鼻も口も耳もあり、又 内臓諸器官に対応する それぞれの器官があって常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない」 『地震の巻』 第十六帖 [393]

「神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に自分新しく生むときは、自分と同じかたのものを生む。大神 弥栄なれば、神も弥栄、神 弥栄なれば人民 弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ。道ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

「人間は大神のウズの御子であるから、親の持つ、新しき、古きものが そのまま型として現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]

「人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体の型とし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木のまたや土から生まれたのではマコトの親子ではないぞ」 『秋の巻』 第二帖 [743]

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなってゐるぞ。人間も 又 同様であるぞ。宇宙にあるものは 皆 人間にあり。人間にあるものは 皆 宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のひながたと申してあらう」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年版)

「人民の肉体も心も天地も 皆 同じものから同じ想念によって生まれたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ」 『至恩の巻』 第五帖 [952]

 日月神示では「宇宙は神の中に生まれた」と繰り返されており、世界そのものが“神の形質かたちを受け継いでいるとのことです。これは姿のと同じであり、

森羅万象には神の姿が“型”として表れています。

 そのため、神霊によって生み出された神の計画も、“神のことわり“神の物語”に準じざるを得なかったと思われ、或る意味では次のように表現できるのかもしれません。

しかできない」

 この話を逆から考えてみると、成長を続ける子供が成人した姿、つまり“三千世界の生成化育の終着点”“神の計画の完成形”の予想には、宇宙を生んだが参考になるはずです。何故なら、

“次なるもの”を形作る“前なるもの”の中に既に存在しているからです。

 そして、“神がった姿”が大宇宙であるなら、宇宙が前から存在していたなにかが あらゆる存在のと言えます。“全てのの本体”と呼ばれ“無”と説かれています。

「総てのものの本体は無なるが故に永遠に存在する」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 ただし、「神は人智を超えるので殆ど理解できない」とのことです。

「人間には神は知れんものぞ。神のはたらきのみ やっと知れるぞ。神のハタラきは千変万化、ハタラき見て神そのものと思ふは人間心」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「肉体人に神は直接分らんものぞ。神はハタラき、神の働きの影しか判らんものぞ。神の姿 見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。心に判っても肉体に判るものでないぞ」 『黒鉄の巻』 第三十一帖 [649]

 同様に、神の神たる“大神”や、無の存在に近い“根元神”は更に理解が難しいとのことです。

「神様でも大神様は判らんのであるぞ」 『春の巻』 第五帖 [662]

「人民の智の中に現われてくるときは もはや大神ではないぞ、神であるぞ。大神は人民には判らんと云ふことが判らねばならんぞ。原因の原因は中々見当とれん」 『夏の巻』 第二十帖 [737] 第一仮訳)

「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に また大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とは凝り固まった一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対空は無の始めであり、空の入口であるぞ、そこから無に入れよ、空に生きよ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]

 上の帖に言及がある“無きが如き存在”の始まりの前に在るものであり、はじめの前のはたらきだと考えられます。恐らく、この存在はたらき“数霊のれいに最も近いはずです。

 そして、無きが如き存在という呼び方は「在って無く、無くて在るものであるれいに掛けてあるらしく、その姿はたらきが、辛酉の年の辛酉の日にじょうじゅする“富士の仕組の中核”を形成しているのです。

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前なるもの

 日月神示には“始まりの前に在るへの言及があります。

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

 恐らく、“根元的ななにかが始まりの前の存在であり、数で表すところのれいだと思われます。記号シンボルと御神名の二つの形式で記されており、主に概念的な側面から【前なるもの】と仮称します。この表現は次に引用する『地震の巻』から採用しました。

「生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。。また総てのものの本体は無なるが故に永遠に存在する。地上人は生前に生き、生前に向かって進みゆく。また地上人は地上に生き、地上に向かって進みゆく。また地上人は死後に生き、死後に向かって進みゆく。しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 上の帖で“前なるもの”を軸に展開される内容は、無きが如き存在や数霊のれいを考える上でも参考になるのですが、本項では更に直接的な言及である『空の巻』第三帖を軸に考察して行きます。


 古事記で宇宙に最初にしょうした存在はあめなかぬしのかみです。しかし、日月神示では始まりに至るまでの過程、つまり“天之御中主神の前なるへの言及があります。その内容は『空の巻』に収録されており、まず記号が羅列され、次に御神名がつづられるという特殊な形式になっています。

 最初に『空の巻』第三帖の“記号”から掲載します。

 この記号シンボルの羅列の見方は幾つもあると思いますが、基本的にはが段階的にへ近付いているように見えます。

 また、最後の記号での蔭に隠れる格好になっています。ここでは描写されていませんが、最終的に“現れているもの”だけになったのかもしれません。

 大本系統の宗派においては根元神の象徴シンボルですが、この帖の内容によれば、と同時期にという何らかの因子ファクターが存在したことが窺えます。そして、の蔭に今なお“現れざるもの”として存在するはずです。これが無きが如き存在や数霊のれいはたらきの一面である可能性が高いです。

 次に『空の巻』第三帖の“御神名”を対訳で引用します。

 この帖の御神名は直前に羅列された記号の訓み方らしく、双方の間には“明確な対応関係”が読み取れます。そこで、判り易いように記号と御神名を並べてみます。

 これが、れいが一として現れるまでの過程”を、記号と御神名を使って表現したものだと考えられます。

 なお、番目の天之御中主神に対応する記号が無いのはひとつの中にすべてが入っている」といった意味だと思われます。恐らく、数が十段階を経て繰り上がるように、

十一とは“新しき一”なのでしょう。

 それ故、『空の巻』の記号と御神名はれいと一の一体性の表現”と推測され、神名の数が十一であっても、実際には“一柱の存在”と言えそうです。その点を踏まえた上で、一であるの前なるとして、“あめつち御中ムしの神”“あめつち御中ウしの神”という御神名が明かされています。

 ここからは次の内容が読み取れます。

れいあめつちつかさどる」

 れいてんぶんの一なる状態すがたを意味する数であり、恐らくは御中主神の化生と同時に天と地のが始まったはずです。ただし、天と地が完全にしたのは、伊邪那岐神と伊邪那美神のの時点だと思われ、それまでは実態的にあめつちと呼び得る状態だったのではないでしょうか。

 そして、てんを一体と見るあめつちの言葉は、日月神示では“和合”の意味で使われます。

「善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、アメツチぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

「ひかり教の教旨 書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。 教旨 てん不二、神人合一。あめつちなり、つちあめなり、なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

〔前略〕 分け隔てと云ふ事なく一致和合して神に仕へまつれよ、和合せねば誠のおかげないぞ。先づ自分と自分と和合せよ、それが和合の第一歩、アメツチ心ぢゃぞ、すべては そこから生れ来るものなのぞ」 『青葉の巻』 第六帖 [475]

「世の建替と申すのは、身魂の建替へざから取違ひせん様致されよ、ミタマとは身とたまであるぞ、今の学ある人民 ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。あめつちとき来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

「今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさがあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。清くして富むのがまことぢゃ。地も富まねばならんのぢゃと申してあらうが」 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654]

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、〔中略〕 カミヒトとならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

 ここからは「和合が神のむねである」と読み取れ、それを推進するはたらきれいにあることも明かされています。

と〇であるぞ、の陰にはがあり、の陰にはがある、その和の状態が〇であるぞ、のみでは力ないぞ、だけでは力ないぞ、とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ。〇があってがあり、があって和があるのであるぞ、別のなかぬしあると申してあらう、ここの道理よく得心、合点せよ。は人間にとって直接の喜びでない、がぢきぢきの喜びぞ、も直接ではなく、が直接の喜びであり、その二つが和して嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ」 『白銀の巻』 第五帖 [616] 昭和二十六年版。この帖は昭和三十八年版で大幅に手が加えられ、それが第二仮訳に受け継がれています)

「山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ」 『月光の巻』 第二十五帖 [812] 「ムとウを組んで新しきムとする」は、別の箇所で語られている「奇数と偶数を合わせて新しき奇数を生む」や「陽と陰が和して新しき陽が生まれる」と同じ意味のようです)

「厄も祓はねばならんが福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くにはレイにならねばならんぞ」 『月光の巻』 第二十八帖 [815] 「抱くにはレイにならねばならん」とは「問題の根本的な解決には和合の精神で当たらなければならない」といった意味だと思われます)

 一つ目の引用における「御中主」とは、プラス的なものとマイナス的なものが和合したさん及びひとつを指すと思われます。同時に、

プラスマイナスへいこうしたの状態”れいであることも明言されています。

 この場合、れいプラスマイナスという“三元”アメツチに相当し、あめなかぬしのかみたかのかみかみのかみである“造化三神”の関係のように、“三位一体”を形成するはずです。

「陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ、現れるぞ。 よく見て下されよ、一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 原文U準拠)

 そして、ミチである和合の実現は日月神示で“結び”と称されており、歓喜や弥栄やれいと同一視されています。

「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第十帖 [797]

「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、レイがもとぢゃ、が元ぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ、よく心得なされよ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 それ故、本論では十方世界にれいが加わり、“三千世界の生成化育のの日付であろう2041年11月25日をの日”と仮称しました。

 以上の内容から推察するに、

数霊のれい和合むすびはたらきつかさどる可能性が高いです。

 そういったことが、れいを意味するの前なるもの”から見えて来るのです。

 余談ですが、このようなくうに通じる内容を展開しているので、第二十一巻は『そらまき』と名付けられたのかもしれません。

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ム / ウ

 日月神示がれいである“天之御中主神の前なるに言及していることは前項で述べた通りです。そして、“数霊のれいはたらきは上向きと下向きの三角形で表現される場合が多く、訳文では【ム】と【ウ】の言葉が割り当てられます。

 そういった点を前提にしたと推測されますが、「ムとウがれいに関係すること」を示す好例があります。

「〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳」 『紫金の巻』 第一帖 [980]

一二三曰五六七八九十百千バン 『紫金の巻』 第一帖 [980] 原文X)

 上の帖で岡本天明氏は「」を「れい」と翻訳しました。また、前項で触れたように、はじめの前に在るものは「」や「」で表現されており、それを「あめつち御中しの神」や「あめつち御中しの神」とませています。ここから推察できるように、

ムとウはれいはたらきの表れ”です。

 故に、本項では“ムとウが意味するもの”つまびらかに見て行きます。


 ムとウはの記号で表現されますが、三角形は“方向の情報を内包した記号”として使われる場合が多いです。その点を加味して推測すると、日月神示における三角形は矢印的な意味合いを持つと思われます。そして、矢印とは“指向性”であり“力の向き”を表します。こういった視点から考えると、次のような推論が成り立ちます。

“対偶的な進展力ベクトルである」

 これらは“指向性を持つエネルギーのようなものでしょう。ただし、人間が想像するであることも明かされています。

「天国を動かす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、やみは光明あるが故である。ここで云ふ力とは霊体、天地、陰陽、左右、上下、善悪、真偽の現はれと云ふことであって人間の云ふ力学的力ではない、本来は天国もなければ地獄もなく、ただ歓喜と歓喜の因があるのみであって、これが総てである。因が果にうつり、呼が吸となり行く道程において、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、又 強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼も又 長くなる、ここに平衡が生まれてくる。は常に動いて栄え、は常に動かずして栄え行く、その平衡が浄化、弥栄である。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現はれであることを知らねばならない」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳。「歓喜と歓喜の因があるのみ」の部分は「があるのみ」と言い換えても通じるはずです)

 ここから見える“対偶的なはたらきは或る種のであり、かつようと表現しても構わないでしょう。

 なお、上の帖の天国と地獄、光明と暗黒、天と地、陽と陰、左と右、上と下、善と悪、真と偽の部分に一つだけ補足するなら、“火と水”も対偶的な用に加えても良いと思われます。

 恐らく、“火”が燃え上がるの姿”かたどったものがであり、“水”したたり落ちるの姿”を象ったものがなのでしょう。この点は次の記述からも窺えます。

「世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。くもでて くにとなったぞ。出雲いずもとは このくにの事ぞ。スサナルの神は この世の大神様ぞ。はじめはであるなり、うごいて月となり地となりたのざぞ」 『日月の巻』 第二十八帖 [201]

〔前略〕 無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない」 『地震の巻』 第八帖 [385]

「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

「天は火ぞ、地は水ぞ」 『扶桑の巻』 第九帖 [858]

 こういった例から推察するに、

“対なるものの起源オリジンや総称”なのかもしれません。

 そこで、ムとウの活用はたらきいざなわんとする具体的なを、日月神示の内容から考えてみます。

 まずは“根元的な神の表現”としてのムとウを引用します。

「アメのひつのかとはアメのつきの神で御座るぞ、アメのつきの神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座るおん神様ぞ、つちのひつのおん神様ぞ、つちのつきの御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

 ここでは天之日津久神様がムとウの用に関わるもとがみであることが明かされています。

 日月神示の原文の「一二」や「」は「つき」や「つき」と訓みますが、これはムとウの用がに受け継がれたことを示すのかもしれません。実際に、双方が象徴するものはプラスマイナスに代表される形で、非常に多くの類似点が見受けられます。

 他にも“根元的なはたらきの表現”としてのムとウの記述があります。

「キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キはよろこびざぞ、〔中略〕 ものはキから生れるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ。ムのキ動けばムくるぞ、ウのキうごけばウ来るぞ、どんなでもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ」 『磐戸の巻』 第二帖 [238]

「玉串として自分の肉体の清い所 供へ奉れよ、髪を切って息吹きて祓ひて紙に包んで供へまつれよ、玉串は自分捧げるのざと申してあろがな。お供への始めはムとせよ、ムはウざぞ、誠のキ供へるのざぞ」 『青葉の巻』 第二帖 [471]

 上の帖での「キ」は“根元的な力”“根元に向けた意識”といった意味合いで使われており、極めて深い精神的な作用のようなものだと思われます。この辺りの話は“元のキ”という表現が多用される背景になっています。恐らく、「元のキをよみがえらせること」が天之日津久神様の活動の主体なのでしょう。その意味では、

天之日月ひつく神様の存在や活動そのものが“ムとウの用の現れ”と言えそうです。

 そこで、上の話と内容が通底する“同じ名の神の表現”としてのムとウも引用します。

がよろこびであるぞ。もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表裏合わせてぞ。は神であるぞ。神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。のもとがであるぞ。キであるぞ。元の元の太元の神であるぞ。であるぞ。から生まれ、から生まれるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうが」 『春の巻』 第四帖 [661]

 この記述によると、日月神示の独自の概念である“同じ名の神”もムとウの用に深く関わるようです。また、ムとウは便宜的に二つとして表現されていても、実際には分けることができない“一なるもの”であり、とも切り離して考えることはできないそうです。

 たとえるなら、はゴムひものようなものであり、そこに備わった伸縮力がムとウのはたらきなのでしょう。ゴム紐は引っ張ると性質を持ちますが、逆様の二つの力は“不可分の一体のはたらきとして、宿のです。

「同じ名の神 二柱あるのざぞ、〔中略〕 名 同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]

「同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ」 『星座の巻』 第一帖 [884]

 そのような“表裏一体のはたらきを神格化したものが同じ名の神であり、こちらもムとウの用の現れとしても良いはずです。

 次に“境域的な表現”としてのムとウを引用します。

「三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。〔中略〕 今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。〔中略〕 八つの世界とは、、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考へてよいのぢゃ。キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。その上に 又 霊の霊の個から始まってゐるのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「元の元のからの中界を経て、ウの現界に到ることごとくの世界が 皆 人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂はに通じてゐるのであるから、はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、〔後略〕 『白銀の巻』 第六帖 [617] ムとウを囲むれい“無”れい的な性質”を意味するらしく、本項で後述する五十音の話が参考になるはずです)

「ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。ウもムも同じであるぞ。ムからウ生まれて来ると申してあること、よく心得よ」 『秋の巻』 第二十五帖 [766]

 上の引用では、ムの用とウの用の影響が強いものの代表例として、“霊界”“現界”が挙げられているように見えます。

 また、ほぼ同様の意味を持つものとして、“無と有の表現”或いは“無限と有限の表現”としてのムとウの記述があり、に対応することも判ります。

がよろこびであるぞ。またはムでもあるぞ。内から外に向かって行くのがのやり方、外から内に向かって行くのが、がいこくのやりかた。からに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。元わからんで生きのいのちの判るはずないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。から出てにかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、また有限に動くのがマコトのやり方であるぞ」 『夏の巻』 第二帖 [719] 第一仮訳)

が無なればなるほどは有となるであるぞ」 『夏の巻』 第十一帖 [728]

「ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになつて動くのであるぞ、ウム組みてと、申してあろうがな、今の人民の智では中々解けん。ウの中心は無であるぞ、ムの廻りはウであるぞ、中心は無であるぞ、ムの廻りはウであるぞ、中心は無限、周辺は有限であること知れよ」 『夏の巻』 第十三帖 [730] 昭和二十七年版)

「無限のものと有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭はかくウになりがちぢゃぞ」 『夏の巻』 第二十三帖 [739]

「中は無、外は有であるぞ。中になる程 無の無となるのぢゃ」 『秋の巻』 第二十六帖 [767]

「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるから、つまらんことでつまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。〔中略〕 元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばならんぞ、そこから正さねば、外側からばかり清めても何もならん」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]

 ここでのムとウの記述は、“霊と物質の性質”“内と外の在り方”“元と末の関係”を語っているらしく、前出の霊界と現界をムとウと見る記述と意味が通底します。

 以上の内容から見えるように、ムとウのはたらき“対偶性”との関連が深く、主に“天と地”“霊と体”の関係として語られる場合が多いです。

 そこで、その関連性を解説するために、日月神示の“霊体一致の原則”を引用して行きます。

「天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は存在しない」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「多くの地上人は霊界を知らない。霊界には地上世界に顕現せる総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しない。霊人は又、霊物を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない」 『地震の巻』 第十四帖 [391] 昭和三十一年版)

「生長し、考慮し、行為するものの本体は自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。霊の自分は物質世界にあっては物質の衣をつける。故に物質的感覚は、その衣たる物質的肉体の自分なりと錯覚する場合が多いのである。しかし肉体をすてて霊界に入ったからと云って物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまふのではない。死後といえども物質界とは極めて密接なる関係におかれる。何故ならば物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界のいずれもが不離の関係におかれてたがいに呼吸し合っている」 『地震の巻』 第十七帖 [394] 第一仮訳)

「霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従ふもの。このこと判れば、この世のこと、この世とあの世の関係がはっきりするぞ」 『黄金の巻』 第四十八帖 [559]

「人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。又 物質界は霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆ど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「そなた達は神をまつるにも、祖先をまつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それは正しい事ぞ。なくてならんことぞ。物質をはなれて霊界のみの存在はないのであるぞよ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 第一仮訳。第二仮訳では文意が逆様になっています)

 次に引用する記述も同じ内容ですが、日月神示の宇宙観を考える上で参考になるかみの譬えが出て来ます。これは表裏一体を意味しており、上述の同じ名の神との関連が想起されます。

「木にも草にも石にも道具にも それぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理」 『月光の巻』 第十三帖 [800] 第一仮訳)

 更に、霊体一致の原則の中でも、ムとウの“指向性”に合致した記述も見られます。

「霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである」 『地震の巻』 第四帖 [381]

「神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を、形は霊を求めて御座るのぢゃ。人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 これらは「ム的なものほどウ的なものを希求し、ウ的なものほどム的なものを希求する」といった主旨であり、この点が前出の「からが生まれ、からが生まれる」の記述の背景になっています。譬えるなら、ゴム紐は引っ張る力に比例した引っ張られる力をようなものです。

 こういった内容から見えるてんの一体性”が、前項で解説した「れいあめつちつかさどる」と話が繋がっています。

 上記のように、ムとウで表現される“対偶”“対偶の和合むすびの考え方は、自然界の多くの事象に当て嵌めることができます。その理由は、“始まりの前のなにか性質すがたが宇宙に受け継がれたからだと考えられます。

「歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「全大宇宙は神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に宇宙そのものが神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「人民の肉体も心も天地も皆 同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、〔後略〕 『至恩の巻』 第五帖 [952]

 少し意味が違う譬えになるかもしれませんが、何らかの企画プランを実行する前に、基本的な規格フォーマットを定めるようなものでしょうか。何事もそうですが、始める前に大筋の“枠組”“方針”を決めなければ、計画を実行段階に移すことはできないのです。

 恐らく、日月神示で“始まりの前”が重視されるのは、宇宙という“子のを真に理解するためには、根元神やれいという“親の性質すがたを知る必要がある、ということなのでしょう。

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

 こそが概念や原理として“三千世界の生成化育の原則”と呼び得るものであり、時節や神経綸の背景になっているのです。

 その上で、始まりの前という“隠れ”と、始まりの後という“現れ”は、日月神示でに譬えられており、そこでの“概念的な表現”にもムとウが使われています。

にアエオイウざぞ。昔の世の元ぞ。、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。サタナハマからあるぞ。一柱、二柱、三柱、五柱、九柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。五十九の神、七十五柱これで判りたか。ざぞ。には裏表上下あるのざぞ」 『日月の巻』 第二十六帖 [199] 原文U準拠。傍点は原文Uと基本訳と第一仮訳のままです)

「人民が正しく言霊すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ。始め言葉の元があるぞ、ヽヽヽヽヽアと現はれるぞ、神の現はれであるぞ、言葉は神をたたへるものぞ、マコトを伝へるものぞ、トモになり、倶に栄えるものぞ」 『星座の巻』 第二十帖 [903] 第一仮訳)

 この二つの記述ではムとウを囲うまるが徐々に開いて行きます。まるは胎児を包む“卵の殻”などの皮膜コーティングに類するもののはずです。これは“宇宙が生まれつつある状態すがたれいの性質が薄まって行く様子”描写しているように見えます。

 また、こういった描写の仕方は、れい“無”に通じ、“現れざるもの”という意味を持つことに掛けてあるようです。そのことは次の記述から判明します。

「五十九柱と申してあるが、その中の九柱は隠れた柱ぢゃ。ぞ。ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの隠れた九柱、心して大切申せよ」 『月光の巻』 第十六帖 [803]

 上の帖は“現れたもの”であるいんいんに対する、“隠れたもの”であるいんを指すようです。詳細は省きますが、の数”である数霊のれいらちがいことばである父音には共通点があるのです。

 他にも、極めて意味が似ている五十あらわれかくれの関係”を説く記述も見られます。

「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ。〔中略〕 それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これが妙であるぞ、奇であるぞ、天の父の教であり地にうつした姿であるぞ」 『極めの巻』 第九帖 [936]

 ここでの「その中にれいがある」とは、「根元的なはたらきは全ての存在に浸透している」といった意味ではないでしょうか。

 譬えるなら宇宙は“粘土細工”であり、どのような存在かたちを与えても、全ての存在かたちが粘土であることに変わりはありません。故に「粘土であること」という意味かたちなき意味かたち“元のは全ての存在かたちに備わっており、取り除くことができないようなものです。

 この話は事象あらわれを貫く原則かくれがある」ということを意味し、それを「その中にれいがある」と語っているように見えます。

 そして、原則は概念イデア原理ルールとして、全ての事象を統御する“道”になるのでしょう。こういったことが、「なにかの性質は宇宙に受け継がれている」や「根元を知る必要がある」というの主張と話が繋がっています。

 以上の内容を前提にして、ムとウの用によっていざなわれる具体的な“方向”を簡単にまとめてみます。

 上図のように、ムとウの用はてん的指向”的指向”と呼び得る方向性を持ちます。これについては“霊的指向”“物質的指向”と言い換えた方が判り易いかもしれません。

 ちなみに、図が二つ並ぶのは“作用”“反作用”の表現であり、。前出の引用に「ムがウを生み、ウがムを生む」とあるように、動きには常にのです。

 その上で指向性ベクトルが二つである理由」存在理由レーゾンデートルとして明かされています。

「歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をとする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 また、このような「二つに分けることによって善やエネルギーや歓喜を生み出すこと」を「ムとウを組む」という観点から見た記述もあり、それらは「世の元に返す」ウムれいに化すこと」に相当するそうです。

「ムからウ生まれ、ウからム生まれると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生まれるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。ムがウざぞ。世の元に返すのぞと申してあろが。ムに返れば見えすくのざぞ」 『松の巻』 第二十五帖 [316]

「善と真のはたらきを完全にするには、善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ、とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、区別することによつて結ばれるのであるぞ、すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。大き喜びとなるのであるぞ。このこと日月の民には判るであらうな、道は三つぞ。合点ぢやなあ。小の中に大あるぞ。無の中に有あるぞ。もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。ウムよく見て下されよ。愛はそのまま愛でないぞ、真はそのまま真でないぞ、善はナマでは善でないぞ、智はナマでは智でないぞ、結んで解けてヨロコビとなるのざ、ヨロコビ生命ぞ、宇宙の総て生命であるぞ」 『白銀の巻』 第二帖 [613] 昭和二十六年版)

「山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ」 『月光の巻』 第二十五帖 [812]

 なお、ここには一つの注意が必要です。それは、は あくまでもを表現する用”であって、実体や本体ではないという点です。なにかとして表現することによって、なにかカミであることが判る」とでも言えば良いのでしょうか。

 これは、特定の方向性を以て表さなければ、根元的なナニカであることに似ています。譬えるなら意味かたちを与える前の粘土”が判り易く、では“泥の海”と称されます。

 そして、こういった表現あらわれ活用はたらきの話を別の視点で見れば、次のように言えます。

「全ては進展うごきの中にある」

 その意味において、は変化、連続、生成、エネルギーなどを象徴化した“動的な記号シンボルであると本質的に同じなのかもしれません。

「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。〔中略〕 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、は そのはたらきである」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 他にも、うずまき記号で判り易いものを抜粋します。

みぎりに行かんとする者と左りに行かんとするものと結ぶのがの神様ぞ、の神様とはなるの大神様ざぞ、このおんはたらきによりて生命あれるのぞ、力 生れるのぞ、がまつりであるぞ、神国の祀りであるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ」 『日の出の巻』 第五帖 [218] スサナルの原文は「」の場合が多く、あめつち御中ムしの神が柱、あめつち御中ウしの神が柱であることや、『上つ巻』第十三帖の「元の人人、その下に人」と繋がりがあるはずです)

〔前略〕 始めなき始めのの真中の真空にいますが故に、終りなき終りのの外の無にいまし、中間に位する力のの中に生命し給うのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体のうごきをなす」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 また、には“内向きの進展力ベクトル“外向きの進展力ベクトルの二つの側面があることも、の一体性”に通じると言えそうです。同時に、見方によっては、

ムとウの中心まんなかに向かうあめつち指向”としてとも言えます。

 故に、総体的にの如く認識されることは、の神”である“総体の統治神の姿”からも判ります。

「天国は限りなき団体によって形成されてゐる、そして その統治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである、統治するものは一人であるが二人であり三人として現はれる、三人が元となり、その中心の一人はによって現はされ、他の二人はによって現はされる、は左右、上下二つの動きのを為すところの立体からなってゐる、統治者の心奥のは更に高度にして更に内奥に位する中のによって統一され、統治され、立体をなしてゐる。天国では このをスの神と敬称し歓喜の根元を為してゐる。スの神はアの神と現はれ給ひ、オとウとひらき給ひ、続いてエとイと動き現はれ給ふのである、これが総体の統治神である、三神であり二神であり一神である」 『地震の巻』 第十九帖 [396] 第一仮訳)

 恐らく、あめつちの状態からムとウによっててんに分離した三千世界は、その身内に統合むすびの力”としてのウとムを蓄え続けて来たのでしょう。

 そして、てんが分離した状態が極限に至り、蓄積されて来た“二つのかえしの力”が、に向かう“二つで一つの三つの力”として開放される時が来ました。

 そうやって、三千世界はてんぶんの一なる状態すがたよりもてんの一なる状態すがたとしてのです。

「建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ」 『キの巻』 第八帖 [265]

「元の根本の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用 出来んぞ」 『風の巻』 第八帖 [359]

「三千年の昔に返すと申してあらうがな。〔中略〕 この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、もとの神代よりも、も一つキの光輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。〔中略〕 この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし世にするのぢゃと申してあること愈々ざ」 『岩の巻』 第二帖 [367]

 “より強い結び”“より強い歓喜”をウムことと同じであり、それこそが宇宙の根本的な目的である“歓喜の増大”、即ちいやさかです。

 言うなれば、分離は更なる統合を実現するはたらきであり、かみから離れる無神論や唯物主義や科学万能の風潮の蔓延も、大局的には“最後の逆転の力”を大きくして、の必要な措置なのです。

 このてんかいびゃくからの“神律”と呼び得る“神の呼吸リズムであり、次のように要約できます。

「一と在り、二と分け、三と結ぶ」

 即ちです。これを更に言い換えてみます。

「対なるものは結ばれて新生する」

 結局の所、神の計画とは“宇宙の呼吸や脈拍の発露”です。故に、「全ては一二三の一面である」とすら言え、ことが判ります。言わば、

“一二三”は概念や原理として三千世界を貫く“道”なのです。

 以上が、宇宙を生んだ“前なるもの”の姿から見えて来る内容であり、“対偶”“対偶の和合むすびというれいはたらきの表れ方として、“ムとウが意味するもの”と言い得るのではないでしょうか。

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円環

 日月神示によると、四季が巡るように宇宙にも“循環的な周期サイクルが存在し、天と地の関係ですら そのことわりの中にあるそうです。これは宇宙が脈動する姿であり“神の呼吸リズムと言えます。このように一定の周期や順序を経て“元の姿”に還らせようとするはたらきが、神経綸の背景の一つである【えんかん】の概念です。

 そのことを、天之日津久神様はれいから出てれいに至る」と表現しています。


「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん。〔中略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

 同様の意味合いで「世の元も末もれいである」とも語られていますが、原因のれいから結果のれいに至る過程的な動きは“二つ”として現れ、総体的にはを含む“三つ”として円環ひとつの動きを形成するようです。

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893] この帖の内容はれいえんたままるなどの複数の意味を持たせてあるようです)

は常に動いて栄え、は常に動かずして栄え行く、その平衡が浄化、弥栄である」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

「道は三つと申してあろう、〔中略〕 中の中には中の道あるぞ、中の中は無であるから動きないぞ、動きないから無限の動きぢや」 『春の巻』 第三十九帖 [696] 昭和二十七年版)

ナカイマと申すことは今と申すことであるが、は無であるぞ、動きなき動きであるぞ、真中うごくでないと申してあろう、うごくものは中心でないぞ、その周囲が動くのであるぞ」 『秋の巻』 第十九帖 [760] 第一仮訳)

 円環は元々“ドーナツ状の形態”を指す言葉ですが、「どの方向に進んでも元の位置に戻る」という性質や状態の表現としても使われます。それとは別に「同じことを繰り返す」という意味で、単にループと形容する場合も見受けられます。

 円環の動きを図形的に表現すればえんになります。また、日月神示では円環の「常に動いている」及び「元に還っても以前と完全に同じではない」という側面を重視してらせんと表現する場合も見られます。他にも、は円環的な動きの原因や結果であるちゅうしんについて説いており、両者が組み合わさった全体像としてのへの言及があります。

 これらの記号シンボルは非常に抽象的ですが、要は“宇宙の在り方や動き”象徴化シンボライズしたものです。そこに内包される意味は広く深く多く、色々な分野に当て嵌めることができます。

 ちなみに、『地震の巻』第十三帖では高度な霊人が数字と記号を文字として多用することが明かされています。これは上述の点に理由があるらしく、日月神示の宇宙観を突き詰めれば、最終的に数霊論と記号論に行き着くはずです。

 そこで、日月神示で“円環の概念”が読み取れる記述を引用してみます。

「お太陽まるいのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ、人も円いのが良いのではないぞ、息してゐるから円く見えるのざぞ、はたらいてゐるから円く見えるのざぞ、皆 形無いものいふぞ、息してゐるもの皆 円いのざぞ。神の経済この事から生み出せよ、大きくなったり小さくなったり、神の御心通りにはたらくものは円いのざぞ、円い中にもしんあるぞ、神の政治、この事から割り出せよ、神はまつりごとの姿であるぞ」 『日の出の巻』 第十四帖 [227]

「世はクルクルと廻るのざぞ」 『磐戸の巻』 第十七帖 [253]

「行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上 述べた処によって、これら霊人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである」 『地震の巻』 第五帖 [382] 第一仮訳)

「四季はめぐる。めぐる姿はウズであるぞ。は働き、上れば下り、下れば上る」 『黄金の巻』 第九十五帖 [606]

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 第一仮訳)

「曲がって真っ直ぐと申してあらう。動きは正円形、正円球でないぞ。えん、楕円球であるぞ、大き動きと それぞれの各々の動きと組み組みて曲がれるのであるぞ、また真っ直ぐになるのであるぞ」 『秋の巻』 第十三帖 [754] 昭和二十七年版)

「この神は現在もなお、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理 判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ」 『星座の巻』 第七帖 [890]

 また、円環の概念を説きつつも「前と次は完全に同じではない」と強調する記述があります。

「守護神守護神と申してゐるが、魂の守護神は肉ぞ。肉の守護神は魂ぞ。くるくる廻って 又 始めからぢゃ。前の始と始が違ふぞ」 『黄金の巻』 第十二帖 [523]

「皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。始の始と始が違ふぞ。皆 始めヒからぢゃ。赤児になりて出直せよ」 『春の巻』 第一帖 [658]

「一切のものはウズであるぞ。同じこと繰り返しているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな」 『春の巻』 第十帖 [667]

「よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。始の始と始が違ふぞ。後になるほどよくなるぞ。終りの中に始めあるぞ」 『夏の巻』 第十四帖 [731]

 このような円環やループを象徴する絵としては“ウロボロス”が有名です。これは自分の尾に噛み付く蛇や竜の姿であり、そういった円環の概念が持つ循環性や永続性を、日月神示は「始まりも終わりも無い」と表現しています。

「神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに地上人としては割り切れない程の神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、そのへいこうを破るようなことになってはならない。その平衡が神のむねである。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。左手は右手によりて生き、動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿が それである」 『地震の巻』 第十五帖 [392]

「元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終りなく始なく弥栄えてゐるのぞ」 『黄金の巻』 第一帖 [512]

「神心には始めも終りも無いのぢゃ、総てがあるのであるぞ。世界見よ、三千世界よく見よ、総てがぢゃ」 『黒鉄の巻』 第九帖 [627] 第一仮訳)

 他にも、円環的な動きを時節に絡めた記述も存在します。これは或る意味での本質”を明かしていると言えます。

「春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節ほど結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神のハタラキであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ」 『月光の巻』 第五十八帖 [845]

 要するに、はマラソン競技に似ていて、出発点スタート到着点ゴールが同じ場所なのです。それ故、極言すれば立替え立直しは「単なる必然リズムである」と言い得る側面があります。

 そう考えれば、日月神示が“元”を重視する理由が見えて来ます。こそが神の呼吸の行き着く先であり、全ての存在の“本来の状態”、即ち、これからやって来る“ミロクの世の姿”なのです。

 ただし、未来は過去と完全に同じではありません。恐らく、“数の進み方”のように、同じことを繰り返しつつも違いが生じ、違いが生じながらも同じことを繰り返しているのでしょう。で三千世界の生成化育や神経綸の進展段階が“数”で表されるのは、この辺りにも理由があると思われます。

 その上で、きたるべき世界”は円環の概念を背景として生まれることが強調されています。

〔前略〕 かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も各々その最後の審判的段階に入るまでは真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に新天新地の来るまで真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生まれ、より大なるものより、より小なるものが生まれ、より新しきものより、より古きものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人は かくして生まれ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである」 『地震の巻』 第八帖 [385]

 上の帖に書いてあるように、円環的な動きによって表現される“一と二と三の関係”が宇宙の呼吸リズムであり、その姿はたらきと呼び得るのです。

「世の元と申すものは泥の海でありたぞ。その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

「一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。故に、これらの総ては無にして有である」 『地震の巻』 第五帖 [382]

の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。道は一で、二で、三であると申してあらう、一も二も三も同じであり、違つて栄えるのざ、一二三であるぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 そして、この宇宙観から見えるのは「次なるものを形づくるは前なるものの中に既に存在している」という点です。これはたねからなった実の中に宿のと一緒です。

 その種子が存在する故に、生んだものと生まれたものはしゅの同一性”を保ったまま連綿と続いて行きます。それは、親が子として、子が親として新しく生まれ続けて行く“継承の宇宙観”に他なりません。これは「無くなることなく受け継がれて行く」という意味において徹底した未来指向であるのと同時に、過去と現在と未来の一切万物を祝福する“肯定の宇宙観”と言えるのではないでしょうか。

 このような宇宙観を背景として、日月神示は未来の行き着く先が過去であることを説いています。要するに、が示す“三千世界の物語の最後むすびは、宇宙を生んだ状態すがたに還ることなのでしょう。

〔前略〕 個の弥栄は全体の弥栄である、個がその個性を完全に弥栄すれば全体は益々その姿を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明かになれば、その結合は益々強固となるのが神律である霊界と物質界はかくの如き関係におかれてゐる。其処にこそ大生命があり、大歓喜が生れ、栄え行くのである。更に極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界が又映像される、極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である、極内は極外に通じてを為す、すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない、かくして大神の大歓喜は大いなる太陽と現はれる、これによりて新しく総てが生れ出る。太陽は神の生み給へるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生れ給ふのである、は絶えずくりかへされ、更に新しき総ては神の中に歓喜としてはらみ、生れ出で、更に大完成に向って進み行く。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出づるのであることを知らねばならない。〔中略〕 神が生み、神より出で、神の中に抱かれてゐるが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜する。歓喜に向ふとは親に向ふことであり、根元に通ずることである」 『地震の巻』 第三帖 [380] 昭和三十年版)

 或る意味において、

神の計画とは根元的ななにか“自分自身を取り戻して行くみちのりなのかもしれません。

 それは、生まれたものが生んだものにことであり、その状態すがたを表現した言葉が、れいひとつを意味するあめつちなのでしょう。

 これが“始まりの前”が重視される理由や、「れいから出てれいに至る」及び「世の元も末もれいである」と語られる背景と言えます。

 そして、あめつちてんの世界や、てんの世界を指し、その姿は“一なるの世界”と表現できます。同時に、全体の流れをかんすれば、ウロボロスの如くひとつが完成する様子が見えて来ます。つまり、

の仕組とは“始点と終点を結ぶ仕組”なのです。

 故に、の概念に基づく“神の計画の概要”は、次のように要約できます。

「全てをはじめに還す」

 これこそが、十方世界に和合むすびはたらきを司るであろうれいを加えた“〇一二三四五六七八九十の世界”、即ちの世”の実現であり、最大最後の神仕組たる【二十二フ  ジの仕組】です。

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二十二の仕組

 日月神示の説くかのととりの意味は数霊のれいから見えますが、数学史におけるゼロの発見”の如く、れいが登場するのはになります。

 れいが最後にしか見付けられないことや、天之日津久神様が三千世界の生成化育や神経綸を“数字”で表現していることには理由があり、

神の計画が数であることが“最後の仕組の伏線”になっています。

 ただし、最大最後の神仕組たる【二十二フ  ジの仕組】は難解であり、具体的かつ現実的な話を展開することは困難です。故に、富士の仕組の考察はちゅうしょう的な“観念論”にならざるを得ません。

 そのため、本節の内容は判ったような判らないようなものに感じられるかもしれませんが、富士の仕組に関しては「構造の多面的な分析から実態を予想する」という形でしか接近アプローチできないのです。

 そこで、ここでは本節の各項の要点を“富士の仕組の概要”として先に述べてしまいます。これだけでも、富士の仕組が一面的な視点では論じられないことが推察できるはずです。


 まず、神経綸のれいの段階に相当する“富士の仕組の現象面”についてですが、

富士の仕組とは“神界と一つになる計画”です。

 この内容は“鳴門の仕組の現象面”が、神経綸の九と十の段階に相当する“幽界と一つになる計画”であることとついになっています。

「富士とは火の仕組ぞ、うずうみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ」 『天つ巻』 第三十帖 [137]

「宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、の世界、元の世界を知らんからさうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人、と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

 また、“火の霊界”たる神界との一体化は、現界と“水の霊界”たる幽界が一体化した十方世界の実現の後なので、の仕組は“三界の一体化のとしての側面も有します。

「富士は晴れたり世界晴れ。三千世界一度に晴れるのざぞ」 『松の巻』 第一帖 [292]

 これに簡単な補足を加えると、フジの仕組とナルトの仕組は二つとも“天と地を一つにする仕組”なのですが、その“最後の一手”が前者になるので、

狭義の意味では、二十二フ  ジの仕組が“三千世界を一つにする仕組”になります。

 このように、みつの仕組、みつの仕組、富士と鳴門の仕組と呼ばれる計画により、立替え立直しが成就して天と地がします。

 これは“三千世界の生成化育の完了むすびを意味しており、日月神示では記紀神話の修理つくり固成かための物語を前提として、「漂える修理固成かための終わりの仕上げ」などの表現で言及しています。

「何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん修理固成かための終りの仕上げであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ」 『上つ巻』 第三十四帖 [34]

「今度は今までにない、ふみにも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富やきんを返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始はぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148] ここでの「三つの道」とは神界と幽界と現界を指す意味が強いようです。また「終は始ぞ、始はぞ」は「終は始ぞ、始はぞ」の訳を当てることも可能です)

 ここでの“修理固成”“火と水”の関係は、次の記述が判り易いでしょうか。

「火と水と組み組みてつちが出来たのであるぞ」 『松の巻』 第十六帖 [307]

レイがもとぢゃ、がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 上の帖は「作っては壊し、壊しては作るを納得が行くまで何度も繰り返した」といった意味であり、そのために「火と水を活用した」と語られているようです。

 つまり、水がを流動させるはたらきなら、火はを固定するはたらきです。今回の大立替えも、一先ずを崩して作り直してから“新しいを固着するのです。これが次の記述の背景です。

「火と水で岩戸開くぞ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

「動かん富士の仕組、ひらけて渦巻く鳴門ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらき二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894] 第一仮訳)

 更に、同様の意味合いの“天地まぜまぜ”の記述も引用してみます。

「一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ」 『富士の巻』 第十九帖 [99]

「神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。こわすのでないぞ、練り直すのざぞ。世界をすりばちに入れてね廻し、練り直すのざぞ」 『日月の巻』 第一帖 [174]

「一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

「天地まぜこぜとなるぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「天地まぜまぜになったら、まだまだなるのである。彼れ是れ、何が何だか判らんことになると申してあらうが」 『黄金の巻』 第六帖 [517]

「下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ」 『秋の巻』 第十六帖 [757]

「天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ」 『紫金の巻』 第五帖 [984]

 ですから、

フジナルトの仕組を要約すれば水で溶かして火で固める計画”と表現できます。

 この場合のつちが、霊と物質の両面によって成り立つ“あらゆる存在かたちであり、神と人や霊と肉体にとどまらず、天地万有を意味します。

 そして、富士と鳴門の仕組によって神界と幽界と現界の“三界の関係かたちを完全に作り直してしまうので、ミツの仕組はみつの仕組として、三千世界の“岩戸開き”“立替え立直し”と同義なのです。

「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代のとどめの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ」 『黄金の巻』 第七十五帖 [586]

「大グレン目の前、日本のみのことでないぞ、世界中のことであるぞ、今度は三千世界が変るのであるから今迄のようなタテカヘではないのであるぞ」 『扶桑の巻』 第一帖 [850]

「今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ」 『極めの巻』 第二十帖 [947]

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、の誠であるぞ、合せて二十二、富士であるぞ。神示の始めに示してあろう。は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]

 故に、旧九月八日や鳴門の仕組がの始まり”なら、辛酉や富士の仕組はになります。

「喜びの歌 高らかに、ナルトの仕組 にうつるぞ」 『黒鉄の巻』 第十四帖 [632]

 その上で、日月神示には富士の仕組の背景バックボーン“概念”から語る記述が存在します。

 二十二フ  ジの仕組とナルの仕組を概念的な側面から見れば、両方ともせんの仕組”です。ただし、厳密な意味でマコトの遷移”と呼び得るのは二十二フ  ジの仕組の方です。

は元のキぞ。ナルトとは その現れのはたらき」 『秋の巻』 第三帖 [744]

 具体的な例を挙げて説明すると、成十の仕組に関わる一二三四五六七八と九十が連続しているのに対し、二十二の仕組に関わる一二三四五六七八九十とには或る種の“隔絶”があるのです。

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、二二ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳)

「なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 上の帖からは「十の次がれいであり二十二であること」が読み取れるのと同時に、ナル“連続的”であるのに対し、二十二フ ジ“非連続的”であることが判ります。だだし、視点によっては、十の次が二十二であることはのですが、その辺りの話は後で詳述します。

 そして、成十の仕組が比較的単純シンプルな足し算や“正攻法”であるのに対し、二十二の仕組はひとひねりが加えられているので“奇策”のような側面があります。ここからは、富士の仕組と鳴門の仕組が一体の仕組でありながら、別の仕組でもある理由が見えて来ます。二つの仕組は“天と地を一つにする仕組”として概念的にはであっても、対象と方法が全くのなのです。

 また、富士の仕組は一面において非常に強引なちからわざなのですが、見方を変えれば極めて巧妙スマート優雅エレガント痛快ハッピーなやり方”に見えなくもありません。ただ、地上人には規則ルールらちがいにある手法”として反則技の如く目に映り、

二十二フ  ジの仕組はばんがいからの一撃”のように感じられるはずです。

 それ故、が詳細を正確に認識することは困難だと推測され、うちゅうを自らの内に生んだ“元の神”“直系の眷属神”くらいしか手が付けられないようです。

「天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ」 『キの巻』 第七帖 [264]

「天の御三体の大神様とのお土の先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ」 『雨の巻』 第四帖 [338] 第一仮訳)

「今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、なかからの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ」 『風の巻』 第三帖 [354]

「元のキのことは、元のキのすじでないと判らんのぢゃ」 『マツリの巻』 第十二帖 [416]

 ちなみに、成十の仕組の意味が垂直軸たる“九十度”に象徴されるのに対し、二十二の仕組の意味は角度が無いれい度”“死角”に内包される格好になっています。そのことがばんがいの数”であるれいと意味的に繋がっており、或る意味において、

二十二フ  ジの仕組は“盲テンを利用する仕組”らしいのです。

 例えば、日月神示には次のような記述が見られます。

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士と鳴門の仕組いよいよぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 ここでの十種の神宝とテン“十方世界とれいの暗喩”になっています。そこで、上の帖の内容を判り易く言い換えてみます。

「十方世界にれいたるを加える計画が二十二フ  ジの仕組である」

 故に、れいの考察が二十二フ  ジの仕組を論じる上での中心軸になるのですが、そこには“共通する一つの言葉”があります。結論から言えば、

富士の仕組の鍵言葉キーワード“無限”です。

 簡単に解説するなら、十方世界にれいを加える計画は“無限へのいざない”であり、と同義らしいのです。これを更に別の表現に置き換えてみます。

モトの神のすそを掴む」

 もしかしたら、の仕組”は宇宙を生んだ存在に接近アプローチするための仕掛けなのかもしれません。

 以上が“富士の仕組の概要”になります。上述の内容からは富士の仕組が非常に“多面的”であり、考察も一筋縄では行かないことが御理解いただけると思います。

 そのため、本節は基本的に“観念論”としてしか展開できないことを、あらかじめ御了承ください。

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神界 / 合わせ鏡

 日月神示はてんを結ぶことによるあめつちの実現を富士と鳴門の仕組と呼んでおり、その中でも、特に【神界】との一体化に関する部分が二十二フ ジの仕組”に該当します。

 この辺りの話を“三界の構造”や天と地の【合わせ鏡】としての側面から述べることによって、次項からの二十二フ ジの仕組の数霊面の解説に繋げたいと思います。


 前もって断りを入れると、日月神示には「神界は人間には判らない」とあり、神々の世界を地上人が正確に理解することは極めて難しいそうです。

「神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ」 『地つ巻』 第二十一帖 [158]

「神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角 申さずと、神の神示 腹に入れて身魂磨いて素直に聞いてくれよ」 『日月の巻』 第三十六帖 [209]

「神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、学で幾ら極め様とてりはせんのざぞ」 『日の出の巻』 第六帖 [219]

「人間の智で判らんことは迷信ぢやと申してゐるが、神界のことは神界で呼吸せねば判らんのぢや、判らん人間ざから何と申しても神にすがるより、愈々になりたら道ないことぞ、未だ判らんのか。学に囚はれてまだめさめん気の毒がウヨウヨ、気の毒ぢやなあ」 『黒鉄の巻』 第十九帖 [637] 第一仮訳)

〔前略〕 総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

 とは言え、人間が理解できずとも全く言及しないわけにも行かないらしく、天之日津久神様は三千世界を“三界”に区分し、その内の一つとして神界の名を挙げる場合が多いです。

「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいにちり一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度はまでもきれいさっぱりと建替するのざぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

〔前略〕 時、所、位による美醜、善悪、又 過去、現在、未来観、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ」 『地震の巻』 第五帖 [382] 第一仮訳)

〔前略〕 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相反し、力し、力を生じ、又 常に相通じて力を生み行く。これは平面的頭脳では中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば神 幽 現 三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。〔後略〕 『地震の巻』 第十帖 [387] 第一仮訳)

「三界を貫く道ぞ誠なり、誠の道は一つなりけり。神界の誠かくれし今迄の道は誠の道でないぞや。鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ」 『マツリの巻』 第六帖 [410]

「ひかり教の教旨 書き知らすぞ、〔中略〕 教旨 てん不二、神人合一。あめつちなり、つちあめなり、なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。〔中略〕人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。〔後略〕 『青葉の巻』 第三帖 [472]

〔前略〕 道とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

〔前略〕 奥山はあってはならん無くてはならん存在であるぞ。善人の住むところ、悪人の休む処と申してあろう、奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ」 『紫金の巻』 第十四帖 [993]

 ただし、三界は便べん的な区分であって、実際の霊的な世界には“無限の段階”があるそうです。

「天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある」 『地震の巻』 第十三帖 [390]

〔前略〕 霊界に入った霊人たちは、総て生存時と同じ想念をもっている。為に死後の最初の生活は生存時と殆ど同一であることが判明するであろう。故に、其処には地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている」 『地震の巻』 第十六帖 [393]

「霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである」 『竜音の巻』 第九帖 [917]

 これは「波長が違う世界が無数に隣り合っている」ということであり、差異の小ささを連続的かつに見れば、「区分できない」や「分けることに意味は無い」とも言い換えられます。

 故に「霊界は神界と幽界に大別される」「高い視点では区分は無い」の見方が並立するそうです。

「〇(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又 神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ」 『竜音の巻』 第四帖 [912]

 そして、便宜的に三界に区分する視点では、神界と幽界がついの関係”にあることは、天国と地獄の話から判ります。

〔前略〕 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

 以上の点を踏まえた上で、三界を一界、二界、三界、と見る記述を引用します。

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなつてゐるぞ、人間も又 同様であるぞ、宇宙にあるものは皆 人間にあり、人間にあるものは皆 宇宙にあるぞ、人間は小宇宙と申して、神のヒナカタと申してあらう。霊の世界は三つに分れて見えるぞ、霊の霊界は神界、それに霊界と幽界であるぞ、その他に半物質界、半霊界、半神界、半幽界と限りなく分け得るのであるぞ。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ、霊界を感知するために超五官器あるぞ、神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ、霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ、幽的自分が副守護神ぢや、本守護神は大神の歓喜であるぞ、神と霊は一であつて、幽と現 合せて三ぞ、この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ、故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もないのであるぞ。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申すぞ、幽界を経て又 幽界より来る想念を外流と申すぞ、人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動き、必ずあるのであるぞ、故に人間の肉体は霊のいれものと、くどう申してあるのぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 原文Uに収録された訳文。昭和二十七年版の時点で脱字があります)

 上の帖では、神界と幽界の二界をに分けた上で現界を加え、“四界”として説明しています。この内容を、各界に対応すると推定される神霊と数霊を付記して一覧にします。

 日月神示に明言は無いものの、主に特質的な観点から、天の御先祖である御三体の大神と、地の御先祖である国常立神は、各界のに見えます。

 ここで注意が必要なのは“神界の区分”です。先の引用では神界を三界の一つと見る視点と、四界の一つと見る視点が明かされており、そこからは次の内容が窺えます。

「神界の定義は一つではない」

 例えば“広義の神界”は、伊邪那岐神のと伊邪那美神の幽界が融和した姿や、てんが和合したあめつちなどを含みます。これは、前出の引用の「神界は五官と超五官を和して知り得る」と通底する“無限世界”などが該当します。

「広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢや。無限の喜び得ること出来るのぢや。無限世界とは物と霊との大調和した限りなき光の世界ぞ。信仰に入ることが無限を得ること。まことの神をつかむことぞ」 『春の巻』 第九帖 [666] 昭和三十八年版)

 つまり、ついなるものが和合して新生した状態すがたを、“神の御心のままの世界すがたといった意味で“神界”と呼ぶ場合もあるようです。

 この話は、神々の世界であり、天上界であり、場合によっては宇宙全体であるたかあまはらを、岡本天明氏が『古事記数霊解序説』第三章で“最も高度なと説明していることに通じており、日月神示にも同じ意味合いの記述が見られます。

「腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ、高天原ぞ」 『地つ巻』 第七帖 [144]

〔前略〕 此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]

 以上のように、日月神示で使用される神界の意味は一つではないため、常に“視点”に留意しながら読む必要があります。

「神界と現界の事この神示よく分けて読みて下されよ」 『松の巻』 第二十帖 [311]

「此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。神界 幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが」 『夜明けの巻』 第十三帖 [333]

「此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ」 『雨の巻』 第十六帖 [350]

「神界、幽界、現界、見定めて神示読まねば、表面うわつらばかりでは何もならんぞ、気つけて結構ぞ」 『マツリの巻』 第十九帖 [423]

「この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与へてあるのぢゃ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

 また、これらは「視点によってと言い換えても構いません。

「神から見た世界の民と、人の見た世界の人とは、さっぱりアベコベであるから、間違はん様にしてくれよ」 『上つ巻』 第三十二帖 [32]

「上から見ると皆 人民ぢゃ。下から見ると皆 神ぢゃ」 『秋の巻』 第二十四帖 [765]

 簡単に言うと、現界から見れば神界も幽界も“霊の世界”であるのに対し、

神界から見れば現界も“肉の世界”なのです。

 この話を更に詳しく述べるために、“相対的な認識”を背景とする“霊の霊”の記述を引用します。

〔前略〕 八つの世界とは、、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。〔中略〕 その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。その上に又 霊の霊の個から始まってゐるのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの生命しかない。真の生命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう」 『黒鉄の巻』 第三十二帖 [650]

「人間は肉体をもってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んで居り、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ」 『黒鉄の巻』 第三十三帖 [651]

「自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、霊の霊を知り、神にとけ入つたならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ」 『黒鉄の巻』 第三十四帖 [652] 第一仮訳)

「神と金と二つに仕へることは出来ん、そのどちらかに仕へねばならんと、今迄は説かしてゐたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ、〔中略〕 神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ、嬉し嬉しとは そのことであるぞ、神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ、まつれるのであるぞ、これが、まことの正しきマコトの信仰であるぞ。〔後略〕 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654] 第一仮訳)

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなつてゐるぞ、〔中略〕 霊の世界は三つに分れて見えるぞ、霊の霊界は神界、それに霊界と幽界であるぞ、〔中略〕 霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ、霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ、それは霊なるが故にであるぞ、霊には霊の霊が感応する」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年版)

 このような霊の霊と霊と体の話は、“心と肉体の関係”としても語られています。

「おもひの世界が天ぞ、にくの世界が地ぞ、おもひは肉体と一つぞ、二つぞ、三つぞ。おもひ起つて肉体動くぞ、肉体動いておもひ動くぞ、生れ赤児の心になつて聞いて下されよ、何も彼も、ハッキリうつるぞ、〔中略〕 各々の世界の人間が その世界の神であるぞ、この世では そなた達が神であるぞ、あの世では、そなた達の心を肉体としての人間がゐるのであるぞ、それがカミと申してゐるものぞ、あの世の人間をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人間であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであつて限りないのであるぞ、裏から申せば、神様の神様は人間様ぢやぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 昭和二十六年版)

「霊人は人間の心の中に住んでゐるのであるぞ。心を肉体として住んでゐるのぢゃ。その中に又 住んでゐるのぢゃ。ひらたう説いて聞かしてゐるのぢゃ。霊人と和合してゐるから、かみかかりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのぢゃぞ。神界のことも判る道理ぢゃ。幽界のことも判る道理ぢゃ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。その中に又 心あり、又 中に心があるのぢゃ。心は神界ぞ。霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ」 『黒鉄の巻』 第二十二帖 [640]

「死と申すのは人間の物質的の最外部をすてて、よりよき霊的の体をつくり、更によりよき霊の霊と生き、弥栄することぞ、一段と上の自分となるわけぞ、生きてゐるときの霊を体とし一段高い霊を霊とすることであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 第一仮訳)

 以上の内容を前提に“各界の視点”をまとめます。

 これらの話が神経綸に どのように関わるのかと言えば、ナルの仕組がたる幽界との一体化として、“半霊半物質の世界の実現”であるのに対し、

現界と幽界の一体化は“物質世界の完成”に過ぎないのです。

 だから、幽界との一体化によって実現する十方世界を“十方的と呼ぶ場合があるのでしょう。

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸ひらきぢゃ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

 以上の内容から、現界を一つにするナルの仕組が、視点によっては“地上界を完成させる仕組”であることが判るはずです。

 そして、こういった視点を持つことによって富士と鳴門の仕組への理解が進むので、天と地の関係を更に掘り下げます。

 天と地を一つに完成させる二十二フ ジの仕組への理解を深めるためには、“順序”に注目する必要があります。そのために、天と地の“合わせ鏡”の関係から解説して行きます。

の国、霊の国と この世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ」 『地つ巻』 第二十四帖 [161]

「天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地 合せ鏡と聞かしてあろがな」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならんぞ」 『キの巻』 第六帖 [263]

「世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。合せ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ」 『黄金の巻』 第五十九帖 [570]

「喜びの本体は あの世、現はれは この世、あの世と この世 合せて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。あの世と この世と合せ鏡。神は この世に足をつけ衣とし、人は あの世をとして、心として生命しているのぢゃ」 『春の巻』 第六帖 [663]

 日月神示の数霊論ではが一二三四五六七八を司り、が九十を司るので、は一二三四五六七八、幽界は九十に対応すると思われます。その上で、霊的な天と物質的な地が合わせ鏡の関係であることや、鏡面の“反転”の性質から、地と天は“順律と逆律”の関係にあると推察されます。

 この話は、九十が司るはたらき“逆の力”である点に通じています。

〔前略〕 八つの世界とは、、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。〔中略〕 その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 「逆の力」や「九と十」の部分は昭和三十八年版で追記されたものであり、原文にはありません。ただし、全般的な整合性は高まっています)

「岩戸のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、〔中略〕 さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままに どんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]

「反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、ぜん輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ」 『碧玉の巻』 第一帖 [865]

「今迄 世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢや、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢや、早う改心して この神について御座るのが一等であるぞ。外国人の方が早う改心するぞ、外国人とは逆の世界の人民のことであるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934] 第一仮訳)

「いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方から お互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十一帖 [958]

 ですから、イザナギたる一二三四五六七八の反対はイザナミたる九十であり、両者の関係をで見ると、一二三四五六七八九十の反対は十九八七六五四三二一もしくはれいになります。

 これは、逆のはたらきの本質が“それ”に対する“それもの”であることと通底しており、岡本天明氏は『古事記数霊解序説』第十四章で、「九と十はれいに通じる性質を持つ」と指摘しています。この視点が、九と十とれいとしてひとくくりにされることや、〇一二三四五六七八九十の世を“二十二”とする数え方の背景なのです。

 また、〇一二三四五六七八九十の世という“十一番目の状態すがた“十二の卵”たとえられており、その帖では、鏡像のの性質に通じる“レンズ”ひねり”の言葉が使われます。

「岩戸しめの始めはナギ、ナミの時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも云へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874] 第一仮訳)

 こういった天と地の“合わせ鏡の関係”と前述の“複数の視点”が、富士と鳴門の仕組を考察する上での予備知識であり、そこから導き出される結論の一つを先に要約します。

ナルの仕組は神界と幽界の間でである」

 この話は、合わせ鏡の像は一方が変わると もう一方も同じ変化を遂げることに端を発しており、日月神示では「霊界の出来事が地上界へ移写する」と説明されています。

「霊界には山もあり、川もあり、海もあり、又もろの社会があり、霊人の生活がある、〔中略〕 そして これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが地上人の世界である」 『地震の巻』 第十五帖 [392] 第一仮訳)

「人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ」 『星座の巻』 第十二帖 [895]

「天界での出来事は必ず地上に移りて来るのであるが、それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなればおそくもなり、時によっては順序も違ふのであるぞ、人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。寸分の間違ひもないのであるぞ、これが間違ったら宇宙はコナミジン、神はないのであるぞ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

 映る、写る、移る、それら全ての意味をほうせつする意味で、古来より地上界はうつと呼ばれ、肉体をうつと称します。

 つまり、伊邪那岐神の世界であると、伊邪那美神の世界である幽界は、天において既に岩戸開きを経て一つになっていると推測され、その事象が合わせ鏡たる現界に写ったものが、これから起きる現界とゆうかいの一体化であり、立替え立直しです。

 そうであるが故に、現界と幽界がいこくの一体化の開始を告げる神国にほんと外国の戦争は“天で既に起きた出来事”として言及されているのでしょう。

「神界では もう戦の見通しついてゐるなれど、今はまだ臣民には申されんのぞ」 『上つ巻』 第三十九帖 [39]

「メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界では その戦の最中ぞ」 『富士の巻』 第三帖 [83]

「今は善の神が善の力 弱いから善の臣 民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、〔中略〕 神の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世は戦 済んでゐるぞ」 『富士の巻』 第六帖 [86]

「神界の都にはアクが攻めて来てゐるのざぞ」 『富士の巻』 第三帖 [83]

「岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。今度はみづ逆さにもどるのざから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。時待てと申してあろが」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

「神界の立替ばかりでは立替出来ん。人民界の立替なかなかぢゃナア」 『秋の巻』 第二十七帖 [768]

 『地震の巻』や『竜音の巻』で語られていますが、霊的な世界の無限の段階は、周波数の異なる電波の如く、同一の場所に存在しても基本的に交流はできないそうです。そうすると「神界の都に悪が攻めて来た」は奇妙な話になります。

 しかし、の岩戸に先んじての岩戸が開いた」ならつじつまが合います。

「天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我いち力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍してくれと何んな臣民も申すぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

 同じ内容を示唆する“三千世界連邦”の記述も見受けられます。

「宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、他の世界、元の世界を知らんから さうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

「世界連邦と申してゐるが、地上世界のみの連邦では成就せん。片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンぢゃ。心して下されよ。何故に霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのか。いらぬ苦労はせぬものぢゃ」 『月光の巻』 第三十二帖 [819]

「一切と手をつながねばならん。人民のみで世界連邦をつくろうとしても、それは出来ない相談、片輪車と申してあろうが、目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、タテのつながりつけねばならん道理、人民同士の横糸だけでは織物にはならんぞ。天は火ぞ、地は水ぞ、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗ぢゃ、ヒミツの経綸であるぞ」 『扶桑の巻』 第九帖 [858]

 そこで、三界を交わらせるための接点いわとの位置”を図示してみます。実際には無限の段階があるので下記の図ほど単純ではないでしょうが、日月神示で三千世界を三界と表現することにならって簡略化すれば、次のようになるはずです。

 本項の内容を前提に上図を、三つの接点いわと開きの全てが“天と地を一つにする仕組”であることが判ります。同じでありながら違い、違いながらも同じなのであり、神界と幽界と現界の「同じことが繰り返される」のです。

「同じこと二度くり返す仕組ざぞ、この事よく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

 ちなみに、神経綸の進展と天から地にうつる順序が「九→十→九→十」ではなく「九→九→十→十」なら、図のT、U、Vの接点いわと開きと九、十、れいの岩戸開きが対応する可能性も考えられます。

 このような内容が“天と地の合わせ鏡の関係”から見えて来るのです。

 そして、天でのナルの仕組によって神界と幽界が一つになり、地でのナルの仕組によって現界と幽界が一つになり、最後に三界はまことの意味で不二ひとつになります。これが“富士と鳴門の仕組の順序”です。

「喜びの歌 高らかに、ナルトの仕組 にうつるぞ」 『黒鉄の巻』 第十四帖 [632]

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢや、012345678910がと申してあろうがな。裏表で二十二ぢや」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳。「まこと」の原文は「〇九十」です)

〔前略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 こういった“三界の立替え立直し”が実現するのでしょう。

「今度は今までにない、ふみにも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

 以上のように、天と地をにする計画を全体と順序からがいかつすれば、ナルの仕組の位置付けはならし”であり、

三界をの御心のままの世にするための二十二フ ジの仕組です。

 そこで、次項からは本項の内容を前提に、れい接点いわと開き”であり、の意味での“天地和合”と呼び得る二十二フ ジの仕組の詳細を、“数霊的な観点”から見て行きます。

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数歌としての神経綸

補注
本項は前節の『数霊の〇』の各項と同じく、
掲載を取り止めた『始終神』を加筆修正したものです。
『始終神』の内容は時節概論の終章の構想から抽出したのですが、
収まりが悪かったので元の場所に戻す格好になりました。
内容の精度は今回掲載したものの方が遥かに高いです。

 天之日津久神様は三千世界の生成化育や自らの計画を“数”で表現しています。それらが“歌の韻律リズムを持つことを考察したものが【かずうたとしてのかみけいりん】です。

 こういった話を、十の次の段階を“十とひとつ及び“十とふたつとして認識する日月神示の数霊論から見て行きます。この特殊な数え方が、一二三四五六七八九十と数霊のれいの関係を軸とする二十二フ ジの仕組の背景”になります。


 最初に、日月神示で特に重要視されるあめかずうたを例示します。

 天の数歌は大本教から受け継がれましたが、原型と呼び得るものは『せんだいほん』が初出です。

つきついたちかのえとらのひのみこと殿みあらかのうちあまのしるしみつたからいはひまつる。みかどきさきためたま崇 鎮しづめまつり、寿 祚みいのちさきはひ祈祷のみいのる。所謂いはゆ御 鎮 魂 祭みたましづめのまつりこれよりはじまれり。

 すべの、あまつみづは、のみこと先 考はじめのをやにぎはやのみことあめよりうけきたれるあまつしるしみづたからぐさこれなり。所謂いはゆる、をきかがみひとつ、かがみひとつ、つかのつるぎひとつ、いくたまひとつ、たるたまひとつ、よみかへしのたまひとつ、がへしのたまひとつ、をろちのひとつ、はちのひとつ、品 物くさぐさのもののひとつ、これなり。

 あまつかみをしへてのたまはく 「し、いたむところあらこの十 宝とぐさのたからて、ひとふたいつむつななここのたりいひこのごとくこれすれしにびと返生よみがへりなむ」 とのたまふ。すなはこれ言本ことのもとなり。所謂いわゆる御鎮魂みたましづめのまつり、これそのことのもとなり。

 その鎮 魂 祭みたましづめのまつりは、さるのきみもものうたひきいて、その言本ことのもとあげ神楽みかぐらうたひまふは、もっとこれそのことのもとなり」 『先代旧事本紀』 巻第七 『天皇本紀』

 この内容を簡単に説明すると、神武天皇が従属させた部族に伝わる十個の神宝には、数歌を唱えることによって死者すら甦らせる力が有り、その儀式が、あめのみことの子孫が神前で歌と踊りを披露する様式スタイルの始まりになった、という話です。

 ここから「天照大神の岩戸隠れの際に天之宇受売命が数歌を奏上して岩戸を開いた」という俗説が生まれ、日月神示にも同様の記述が見られます。

あめうづの命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。その時は それで一応よかったのであるなれど、それは限られた時と所でのことで永遠のものではないぞ」 『至恩の巻』 第三帖 [950]

「この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、死者も甦る程の力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、これだけでは役にたたんことになって来たのぞ。岩戸開きの鍵であったが、今度の岩戸ひらきには役にたたんようになったのであるぞ。始めにがなくてはならん、は神ぞ」 『至恩の巻』 第四帖 [951]

「四と八によってなされたのであるから、森羅万象のことごとくが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、二二ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳)

 このような形で、では一二三四五六七八九十の数歌が、三千世界の生成化育の進展段階や十方世界の暗喩として使われるのですが、上の引用では「十でも足りない」と書かれています。

 少し判りにくいですが、世界が十の段階で完成することに間違いはないものの、“違う方向ベクトルでの次”があるのです。完成の更に次が存在するのは奇異に見えるかもしれませんが、これは“円環の概念”れいの性質”に基づいており、十での完成と十一の存在は矛盾しません。

 そして、れいが意味するもの”は以下の記述が判り易いでしょう。

「一二三、四十九柱、五十九柱、神代の元ざぞ。あめつちなかムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ムしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あめつち御中あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめの御中ヌしの神。あめつちはじめ 『空の巻』 第三帖 [458] 原文U準拠。この記述は直前に羅列された記号の訓み方です)

「〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳」 『紫金の巻』 第一帖 [980]

一二三曰五六七八九十百千バン 『紫金の巻』 第一帖 [980] 原文X)

 ここでは、はじめである天之御中主神のの存在が、「あめつち御中しの神」や「あめつち御中しの神」と呼ばれています。同様に、数歌の「」が「れい」と翻訳されたことから推察できるように、

れい活用はたらき表現あらわれです。

 この点がれいの特殊な数え方”の背景であり、日月神示の数霊論では、

一の前や十の後を、れいと見る場合はひとつで数え、と見る場合はふたつで数えます。

 また、れいの対応は、旧事本紀に準拠したくさかんだからとして明示されています。

くさとおあまりふたくさかむたからおきかがみかがみつかのつるぎここのつかのつるぎつかのつるぎいくたままがるがへしのたまたるたまがへしのたまおろちのひはちのひくさぐさのひであるぞ。ム、ひとふたいつななここたり、ウ、であるぞ。ウ、たりここなないつふたひと、ム、であるぞ。唱えよ。り上げよ」 『月光の巻』 第五帖 [792]

 上の帖の前半では、十種の神宝には無い握剣と握剣を加えた“十二種の神宝”という独自の説が展開されています。それに対応しているのが後半の“ムとウを加えた数歌”です。そこにはなるものという意味で、一二三四五六七八九十に対するが含ませてあるらしく、れいと九と十の共通性”を垣間見ることができます。

 同時に、内容的に同じものが“順律”“逆律”まれており、こういったが、日月神示の説く霊体一致の原則や、天と地の合わせ鏡の関係に通じます。

 そして、順律と逆律やに通じる“二つの指向性ベクトルは、“竜神”たとえて説明されています。

「竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化を嘘ざと思ふは神様迷信ぞ。天からの竜神は退化して行くのであるぞ。この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくって神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。天地の御恩 忘れるでないぞ、神の子ぞ。岩戸閉めと岩戸開きの二つの御用のミタマあると申してあらうがな。ミタマの因縁 恐ろしいぞと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第二帖 [613] 昭和二十六年版)

 この記述は、霊体一致の原則の一環である「霊は体を求め、体は霊を求める」と同じ意味です。何故なら、「求める」とは目的に向かって進んで行くを指すからです。

「霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである」 『地震の巻』 第四帖 [381]

「神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を、形は霊を求めて御座るのぢゃ。人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 以上の内容に基づき、を加えた数歌”を記号が内包する指向性の情報、即ちうえした方向ベクトルを崩さないように図示します。

 指向性を基準に考えると、地が一二三四五六七八九十の律になり、天が十九八七六五四三二一の律になるらしく、そのことが「地からの竜神は化し、天からの竜神は退化する」に繋がるようです。

 恐らく、は天へ昇るの用として“火が燃え上がる姿”かたどり、は地へ降りるの用として“水が滴り落ちる姿”を象るのでしょう。天は高きに在るので降りようとし、地は低きに在るので昇ろうとする、とも言い換えられるかもしれません。

 故に、天はきわみなので最も強大なへの希求うごきを内包し、地はの極なので最も強大なへの希求ちからを内包します。ですから、は切り離して考えることはできません。

 こうして見ると、前出のムとウを加えた数歌は「同じものを逆様に辿たどっている」ことが判ります。また、辿る方向は逆でも「十段階を経てはじめに還る」という意味では、どちらも“12345678910”です。そして、全体的に見ればれいから始まって“十一段階目”で再びれいに戻っています。ただし、れいには、文字通りのなので、実際の十一になるのは“新しきはじめです。

 そして、指向性を敢えて考慮に入れず、一二三四五六七八九十の どの位置からたるらちがいを眺めても、“同じもの”としてしか映りません。故に、「一二三四五六七八九十のほかふたつが在る」及び「一二三四五六七八九十のほかというひとつが在る」の認識が並立するのです。

 上記の“十段階とムとウの関係”については、日月神示の数霊論で“十二”もしくは“十と二”の表現で言及されています。

「今度は八のくまでは足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。そのほかに隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

 この帖で「隠れた二つの神」や「二つの隈」と呼ばれるくまとは、はしかたすみ、奥まった場所、物陰などの意味であり、日月神示では、はな、境界、転換点、限界、上限などの意味で使われます。これがムとウのはたらきであり数霊のれいを指します。より具体的に言えば、

三千世界の大立替えにおける数霊のれいが司る事象は接点いわとです。

 他にも、二つの隈は“玉”“卵”の言葉を使って説明されています。

「十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。この二つが天晴れ世に出る時 近づいたのであるぞ」 『秋の巻』 第二十一帖 [762] 昭和二十七年版)

「岩戸閉めの始めはの時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉よもつくにに入られたのが そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも云へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道に はまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

 また、ムとウの二つを一体として見る数霊の記述もあります。この場合は“十一”もしくは“十と一”の表現になっています。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりてみ栄ゆる仕組、十と一の実のり、と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳)

 上述の内容と照らせば、「十二人が一人欠けて十一人となる」とは「ふたつひとつと認識する視点」を指すことが判ります。その上で「一二三四五六七八九十とひとつが二十二である」と明言されていることが非常に重要です。

 ここまでの考察から判るように、日月神示では接点いわと開き”を、五、十、十二もしくは十一の数で表現しています。これらの数が、九の岩戸開き、十の岩戸開き、れいの岩戸開きと対応関係にあります。

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八のくまからひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

 この三つの数が現在の八方世界に加わり、十方世界を経て一二三四五六七八の世界になるというのが、日月神示の説く立替え立直しでありです。

いよいよが来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 いよいよたる一四一四は、数的に十方世界を指す印象イメージが強いですが、実際には十一たるの世も含まれています。それらの計画の総称が二十二フ ジナルの仕組”であることは、ここまで本論を読み進めた人には納得して頂けるでしょう。

 以上の内容を踏まえた上で、世界の始まりである“天之御中主神のしょう、日月神示で時代の転換点として説かれている“五度の岩戸閉め”、本論で仮定する“時節の節目”を照らし合わせてみます。

 こうして見ると一目瞭然ですが、はじめの世でありひとつの段階でありあめつちであった“元の世”が、イザナギイザナミの別離によりてんに分かれ、再び元の状態すがたに戻るまでの過程が、そのまま“数歌”になっています。

 そして、こういった“数字的な対応関係”からは一つの結論が導き出せます。

「三千世界の生成化育は“天の数歌”ひながたとして計画されている」

 の原則は“数の順序”なのでしょう。

 その上で、“神の計画の最も本質的シンプルな表現”である天の数歌を、前項の最後で図示した接点いわとの位置”と組み合わせてみます。

T 成十の仕組(天)一二三四五六七八九十
U 成十の仕組(地)一二三四五六七八九十
V 二十二の仕組一二三四五六七八九十百千万

 更に、この組み合わせを言葉で表現します。

最初に、神界と幽界の間の接点いわとが開かれて“完全なてんになります。
次いで、幽界と現界の間の接点いわとが開かれて“完全なになります。
最後に、現界と神界の間の接点いわとが開かれて“完全なあめつちになります。

 恐らく、“天”でのの世界である神界と、の世界である幽界の一体化を表現しているのが、一つ目の一二三四五六七八九十です。

 その現象は合わせ鏡である“地”に映り、現界と幽界および日本と外国が一つになります。それが二つ目の一二三四五六七八九十であり、天の鏡と地の鏡の双方でナルが実現します。

 そして、本節の最後の項にて詳述しますが、百千万には「十にれいを加える」という側面があり、三つ目の一二三四五六七八九十一二三四五六七八九十の世を指します。即ち二十二フ ジの実現です。

 この一連の流れが“三界の再編”である立替え立直しや接点いわと開きとして、“秘密の仕組”みつの仕組”と呼ばれる富士と鳴門の仕組を表しています。また、の霊界たる神界との一体化や、の霊界たる幽界との一体化として、活動うごきに掛けてあるようです

 以上のように、は基本的に“数歌”であり、神の計画の最も簡素シンプルな表現として“最も本質的な祝詞のりとの側面を有します。

天の数歌は三千世界の生成化育の進展と成就をこと“最も純粋な祈りのことばです。

 同じような話は出口王仁三郎も力説しており、更に詳しく天の数歌を解説しています。また、そういった“意味と力”を数歌が秘めることは、日月神示にも書いてあります。

「素直になれば其の場から其の場 其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。ひとふたいつむゆななここのたりももよろず授け申して神人となるぞ」 『雨の巻』 第六帖 [340]

 冒頭で引用したように、天之宇受売命が天照大神に奉った巻物には「一二三四五六七八九十」と書いてあったらしく、としてのれいが欠けているものの、当時は“岩戸開きの鍵”だったそうです。

 このことに関連するのかは判りませんが、前節の第二項『前なるもの』で引用した『空の巻』第三帖では、の御神名に対応するの記号が羅列されており、或る意味において「一二三四五六七八九十」もしくは「〇一二三四五六七八九十」と書いてあります。

 その記号の訓み方が、あめつち御中しの神、あめつち御中しの神、ひとつ象徴シンボルたる天之御中主神であることは、決して偶然ではないでしょう。

 これはの原文がであることにも関係するはずですし、神の計画が数歌であることとの関連は言うまでもないです。それらが天之日津久神様の語るのキ”の一面なのかもしれません。

「他で判らんこんぽんのキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ」 『雨の巻』 第十三帖 [347]

は元のキぞ。ナルトとは その現れのはたらき」 『秋の巻』 第三帖 [744]

「自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(珠)の道でなくては立ちて行かん、動かん富士の仕組、ひらけて渦巻くナルぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらき二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894] 第一仮訳)

 日月神示には他にも“元のキ”に関する記述がありますが、

真理や叡智や神力などの“神の智”と呼び得るものには、想像以上に深く“数”が関わるのでしょう。

 以上が、数歌と神経綸の対応関係から見えて来るものです。そこで、次項では本項までの内容を前提とする二十二フ ジの仕組”を詳しく解説します。

 本項での数歌の解説は上記の通りですが、最後にあめかずうたの呼び方”への注意を付記します。

 日月神示の信奉者の間では「一二三四五六七八九十」を二度唱え、三度目に「百千万」を加える様式スタイルが数歌の基本です。この様式は昭和二十六年の『神示』の巻末に付録として収録された祝詞の中に見え、そこでは「あめつちの数歌」と題されています。

 しかし、の源流である大本教では、幾つかの派生バリエーションは存在するものの、「一二三四五六七八九十百千万」を一度だけ唱える様式が天の数歌と呼ばれます。その意味では、あめつちの数歌は日月神示の独自の様式と言えるかもしれません。

 ちなみに、昭和二十六年版の付録の祝詞集は、昭和三十八年版と第二仮訳で『黒鉄の巻』の第三十九帖になりました。ですから、本来の『黒鉄の巻』は全三十八帖であり、第三十九帖の祝詞は厳密にはではありません。それ故、あめつちの数歌という呼び方は基本的に俗称です。

 どのような経緯であめつちの数歌の様式と呼称が成立したのかは判りませんが、岡本天明氏らが以下の指示を検討した結果であるように見えます。

「旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りにももよろずれよ」 『松の巻』 第二十一帖 [312]

「礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、〔中略〕 又キ整へてひとふたいつむゆななここのたりこと高くのれよ、〔中略〕 終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十ももよろずこと高くのれよ、〔後略〕 『雨の巻』 第十七帖 [351]

「旧九月八日からの当分の礼拝の仕方 書き知らすぞ、〔中略〕 一拝二拝八拍手、数歌三回、〔中略〕 次に神々様には一ゆう、一拝二拝四拍手、数歌三回のりて、〔中略〕 タマの宮には一揖一拝二拍手、数歌一回、〔後略〕 『マツリの巻』 第十五帖 [419]

「旧五月五日からの礼拝の仕方 書き知らすぞ。〔中略〕 神々様には二拝四拍手。「ひふみゆらゆら、 。」 天の数歌三回唱へ。〔中略〕 霊の宮には一拝、二拍手、天の数歌一回 〔後略〕 『空の巻』 第十三帖 [468]

 推測の域を出ませんが、天の数歌が一回の場合は大本教と同じ様式で唱え、三回の場合は独自の様式で唱えるようになり、二つを区別する際にあめつちの数歌と呼ぶことにしたのではないでしょうか。

 神経綸との絡みにおいて、天の数歌とあめつちの数歌を区別するべきかは判断が難しいのですが、無理に分けて予期せぬ問題が発生しても混乱を招くだけなので、本論では全ての数歌を“天の数歌”と呼んでいることを御理解ください。

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二十二 / 最後の審判

 日月神示では三千世界が最終的に行き着く状態すがたであり、十の次たる十一の段階を“十とひとつ及び“十とふたつとして説明しています。そして、の数霊論において十一と十二は共に【二十二】を指します。

 二十二は十方世界の次の一二三四五六七八九十の世と同一視されており、数霊のれいを意味するものとして、“三千世界の生成化育の最後トドメに位置付けられます。

 この見方の背景バックボーンが、前々項で述べた“天と地の合わせ鏡の関係”です。その上で、一二三四五六七八九十と十九八七六五四三二一は“反転して映る一つの像の姿”であるが故に、元々は一つなのですが、既に一つのものを更に一つにすることはできないようです。

 しかし、真っ当な遣り方では実現できないことを成し遂げられる、言わば“矛盾を超える方法”があるらしいのです。これは「平面から立体へ遷移する」という風に語られており、“次元”つかさどることも明かされています。

「一聞いて十さとらねばならんぞ。今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、ハラでさとりて下されよと申してあろう」 『春の巻』 第三十六帖 [693]

 同時に、“次元の違いによって実現する内容”についても言及されており、或る意味で、次の記述の詳細な解説が本項の内容になります。

〔前略〕 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘のはたらきが生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。〔後略〕 『地震の巻』 第二帖 [379]

 そこで、こういった“一なるもの”を実現する“立体的神秘”を、富士と鳴門の仕組や【最後の審判】と絡めながら、抽象的な観念として論じます。


 最初に、本項の予備知識である本節の第一項と第二項の内容を簡単に繰り返しながら、二十二の仕組の“審判的な側面”を解説します。

 日月神示はれいひとつとして数えると二十二になることを説いています。これは“〇一二三四五六七八九十”とも表現され、に基づきます。

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳)

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、その裏は十九八七六五四三二一〇で、合わせて二十二であるぞ」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 また、れいひとつで数える視点は、れいふたつで数える視点とそうです。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

 これらの視点は、天と地、霊と体、神と人の関係が“合わせ鏡”であることを背景としており、少しだけ切り口を変えた「守護神と人間は同じ数」との表現も見られます。

「神様と臣民 同じ数だけあるぞ。それぞれに神つけるから、早う身魂みがいてくれよ、みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

「人民一人に一柱づつの守護神つけあるぞ」 『マツリの巻』 第十四帖 [418]

「世界の人民一人に一柱の守りの神つけてあるぞ」 『黄金の巻』 第二十三帖 [534] 第一仮訳)

〔前略〕 どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。の中にがあり、その中に又があり、限りないのざと知らせてあらうが。そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] この帖の人数の部分は、原文に忠実な昭和二十六年版が昭和三十八年版で書き換えられました。これは五十黙示の数霊論との整合性は高めるために天明氏が行ったようです)

 こういった合わせ鏡の内容は前々項で詳述したので、ここでは総論的な記述のみを引用します。

「喜びの本体はあの世、現はれはこの世、あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ、あの世とこの世と合せ鏡ぞ。神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をとして、心として生命しているのぢや、神人と申してあろうがな、この道理よくわきまへよ、この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの、くどいようなれど、このこと肚の中に、得心なされよ、これが得心出来ねば、どんなによいことをしても、まこと申してもなにもならん、ウタカタぢやぞ、時節来たのぢやから、今迄のように一方だけの教ではならんぞよ」 『春の巻』 第六帖 [663] 昭和二十七年版)

 上の引用の「あの世とこの世合せて真実マコトの世となる」が富士と鳴門の仕組を言い表しており、最終的にはあめつちの実現のである富士の仕組を指すように書いてあります。

 それと言うのも、〇一二三四五六七八九十の“十一”で数える二十二フ ジの仕組は、合わせ鏡に映る反転した二つの像を一つにすること」だからです。つまり、

二十二フ ジの仕組とは“鏡の中の自分と結ばれる仕組”なのです。

 このようにして、永きに渡ったてんかりそめの分離状態”が終わり、あめつちという“三千世界の真実マコトの姿”が現れます。これが、いわゆる“最後の審判”と呼ばれるものの実態です。

〔前略〕 かく弥栄、進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない、新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰返されてゐるのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更に一となることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云ふことを理解するに苦しむのであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのであるこれは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る、新天新地新人はかくして生れ呼吸し、弥栄える」 『地震の巻』 第八帖 [385] 第一仮訳)

 恐らく、二十二の仕組による最後の審判は、「自分に自分が与えられる」という形で全てが清算されることになります。これはが語る“神との結婚むすび及び“消えざるの大歓喜”に相当します。

「はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。いずれも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。喜びは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。悲しみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃが これは外の喜び、肉体の喜びぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、驚きを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりでは身につかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし驚きと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となりはな婿むことなるのぢゃ。人民ははなよめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花婿は幾ら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。永遠に続く結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬ驚きぞ。喜びぞ。花婿どのが手を差し伸べてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。何とした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがマコトの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ」 『月光の巻』 第三十八帖 [825]

 ここから想像するに、

日月神示の説く最後の審判の的な“神との結であるはずです。

 そして、どのような神霊と結ばれても、それは“自身の姿が映った結果”でしかありません。与えられるもの、即ち自らと合一する神霊を より良きものにしたければ、鏡に映る自身の姿を変える“身魂磨き”を行うしかなく、結局はのです。

 そのような決着の仕方が、不平や不満や不当を誰にも訴えることができない“平等なる裁きのであり、天地の始まりからの個々の身魂の行為カルマへの“最終的な審判”として成立するのでしょう。

 これらの話から推察できるように、

二十二の仕組が成就するかのととり“最後の審判の日”です。

 このことを受けて語られているのが、次に挙げる“辛酉”の記述です。

かのととりはよき日、よき年ぞ」 『下つ巻』 第三十帖 [72]

「辛酉はよき日と知らしてあろがな」 『富士の巻』 第十八帖 [98]

「辛酉、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ」 『天つ巻』 第八帖 [115]

「辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事 少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ」 『日月の巻』 第十帖 [183]

 なお、上述の内容は、旧九月八日から身魂の程度に応じた神霊との感応が強まる現象を、ものであり、富士の仕組と鳴門の仕組が“天と地を一つにする仕組”として、ことに気付くはずです。

 では、「鏡の中の自分と結ばれる」や「天と地を一つにする」が どのように行われるのかと言えば、具体的には判りません。ただし、抽象的な観念としてなら想像イメージできます。

 簡単に述べると、ナルの仕組が足し算をするのに対し、二十二フ ジの仕組はひとひねり”をします。

「岩戸しめの始めはの時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874] 第一仮訳)

 上の引用での十と十二と五の卵の数が、十とれいと九のに対応しており、そこに込められた意味は、“八方”“九十”の言葉で説明されています。

「一神のみで生む限度は七ない八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十方十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956] 第一仮訳)

 仏教では世界の全容を、四方と四隅に上下を加えて“十方世界”と呼びます。ですから、八方とは四方と四隅のことであり、日月神示では“平面”“上限”を指します。また、上下である九と十は“垂直軸”を表し、“立体”“上限の突破”を指すことが判ります。

 この仏教に由来する“十方世界”と殆ど同じ呼び方は、日月神示でも使われています。

「死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象のことごとくが皆 同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的考へ方、八方的想念や肉体では生きては行けんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ」 『至恩の巻』 第十三帖 [960] 第一仮訳)

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

 故に、四方に九十の片割れを加えた“五”“九の岩戸開き”を意味し、八方に九十の両方を加えた“十”“十の岩戸開き”を意味し、日月神示では数霊的な側面を含ませてと呼称します。

 当然のように“十二”れいの岩戸開き”を意味しており、十一番目に現れるれいで見る“十とふたつの視点で書かれています。なお、この視点の詳細は本項で後述するので、先に十方世界にれいが加わることの意味から解説します。

 まず、日月神示では天と地の関係を“合わせ鏡”として説きますが、同時に“紙”でもあるそうです。

「木にも草にも石にも道具にも それぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理」 『月光の巻』 第十三帖 [800] 第一仮訳)

 ここでの紙は表裏一体や不可分の象徴であり、の意味が強いです。ただし、一枚の紙は表面と裏面を“二枚”です。

 その上で、二枚を真の意味で一枚にするために、表面と裏面を繋ぐことが、一二三四五六七八九十と十九八七六五四三二一を結ぶれいはたらきであり、“二十二の成就”になります。

 具体的には「全体にひねりを加えて両端を結ぶ」ことによって、表面と裏面は一つにできます。即ち、

二十二フ ジの仕組とは天と地の関係カタチ“メビウスのにすることです。

 メビウスの輪は細長い形で描かれることが多く、ひもおびと呼ばれる場合もあります。この輪は全体を捻って二辺を繋げた紙であり、四辺の全てを捻って繋げたものは“クラインのつぼと呼ばれます。

 これらは表面おもてを辿り続けるとに行き着き、裏面を辿り続けると表面に行き着く特質を持ち、表と裏の区別やが無いことから、“円環”“無限”“永遠”“一なるもの”象徴シンボルとして扱われる場合が多いです。

 ちなみに、ほぼ同じ意味合いを持つ象徴シンボルに、自らの尾に噛み付く蛇や竜である“ウロボロス”や、東洋の“太極図”などがあります。

 そして、紙の表面と裏面という、本来なら交わらないものを交わらせることができるが、両端を結ぶであるひねり”であり、重要なのは次の点です。

「捻りには実体が無い」

 にもかかわらず、がなければ、表と裏が真の意味で一つに結ばれることはありません。このような性質を表す意味も含めて、和合むすびはたらきである捻りを表現する数は、「在って無く、無くて在るもの」たるれいなのでしょう。

 その上で、実体が無いれいは表と裏の全てを影響下に置くことになり、「全体の在り方を規定する」という形で実質的に一切を統御します。ここから、“番外”“無”であるれいは「全ての部位に浸透している」と認識しても構いません。

 これはれいへんざいもしくは“無の遍在”と言え、或る意味で次のように表現できるはずです。

「万象万物を以てれいの実体とする」

 逆から見れば、万象万物の中のとは特定できない故に、れいや無は“無きが如きなのかもしれません。また、このはたらき“元の神”に最も近いのは以下の記述から推察でき、「無と立体に関係があること」も明かされています。

「総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する」 『地震の巻』 第一帖 [378]

「大歓喜にまします太神のは、そのままで成り成りて鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的 無の存在なるが故である」 『地震の巻』 第二帖 [379] 第一仮訳)

〔前略〕 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である、極内は極外に通じてを為す、〔中略〕 は絶えずくりかへされ、更に新しき総ては神の中に歓喜としてはらみ、生れ出で、更に大完成に向って進み行く。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出づるのであることを知らねばならない。されば その用に於ては千変万化である、千変万化なるが故に一である。一なるが故に永遠である。〔中略〕 さればの中のの中なるの中なるは一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが大歓喜そのものであって、神はこのに弥栄し給へるが故に、最外部のの外にも弥栄し給ふことを知覚し得るのである。始めなき始のの真中の真空にゐますが故に終りなき終りのの外の無にゐまし、中間に位する力のの中にも生命し給ふのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 恐らく、岡本天明氏が『古事記数霊解序説』で「数の実体は0の中に秘められておる」と語ったのも、こういった無や元の神の在り方が背景にあるのでしょう。

 そのようなれいはたらきにより、表面おもて“一つのおもてになります。これが次の記述の第一義的な意味だと思われます。

「なりなりて なりあまれるところもて、なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。このよのくにうみは一つおもてでしなければならん。みとのまぐはひでなくてはならんのに、おもてを一つにしてゐないではないか。それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ」 『月光の巻』 第一帖 [788] ミトノマグワイとは男女の交接を意味する古語であり、夫神イザナギが象徴するてん妻神イザナミが象徴するの合一の意味が含まれます)

 この状態こそがてんが和合したあめつちの姿”であり、として“三千世界の真実マコト状態すがたに位置付けられているのでしょう。

「天地和合してとなった姿が神の姿ざぞ。こころざぞ。あめつちではないぞ。アメツチざぞ。アメツチの時と知らしてあろうが」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

「善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、アメツチぢゃと くどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

〔前略〕 今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさがあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。〔後略〕 『黒鉄の巻』 第三十六帖 [654]

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、〔中略〕 カミヒトとならねば生きては行かれんのぢゃ、てんがアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

 本論で度々言及している「十方世界が完全な世界でありながら更にうえがある」とは このような意味であり、おもてうらつぎが存在する」のです。

「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に又 大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とはコリ固った一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対空は無の始めであり、くうの入口であるぞ、其処から無に入れよ、空に生きよ。いよいよのとなるぞ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]

 日月神示では伊邪那岐神の治らす界や伊邪那美神の治らす幽界のに、“霊の霊の世界”である“神界”が在ることを説いていますが、その世界が元の神や大神の領域であり、“立体”及び“立体の立体”を実現するれいや無やはたらきを司る可能性が高いです。

 恐らく、最も狭義の神界のはたらきにより、最も広義の神界であるの御心のままの世が現出するのでしょう。これらの内容から想像が付くように、

の仕組とは元の神が“三千世界をひとひねりにする仕組”です。

 その象徴となる数が、二十二、れい、十一、十二、であり、広義には九と十も含まれます。

 日月神示や岡本天明氏はれいと九と十に共通性があることを説いていますが、ナルの仕組と二十二フ ジの仕組は どちらもによって、基準を平面から立体および立体の立体へせんさせる“次元の上昇”を目的とします。

 こういった遷移の内容は、ナルの仕組を単純化することによって、格段に意味を把握し易くなります。

 つまり、一枚の紙である二つの平面に半分だけ捻りを加えて“九十度”の立体軸を作ることがナルの仕組なら、更に捻りを加えて“百八十度”にするのが二十二フ ジの仕組なのです。

 この場合、“二度目の捻りトドメである百八十度の状態はれい度”と同じであり、角度的にはのですが、実際には格好になります。その時点で、セカイの上で暮らすは捻りを直接的には認識できなくなりますが、実態は全くの別物に生まれ変わっています。

 そして、日月神示が立替え立直しを説く際に使う“引っ繰り返す”とはであり、既存の世界をナルの仕組で引っ繰り返し、二十二フ ジの仕組で更に引っ繰り返し、の世界へ遷移シフトします。

「同じこと二度 繰り返す仕組ざぞ、この事よく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

「岩戸開きの九分九厘でひっくり返り、又九分九厘でひっくり返る」 『黄金の巻』 第十五帖 [526]

 以上の内容からは、ナルの仕組と二十二フ ジの仕組の“共通性”が窺えます。大本系統のしんで二つの仕組が一体視される場合が多いことには、明確な理由があるのです。

 また、ここまでの話からは、三千世界の立替え立直しが基軸の転換パラダイムシフトの計画であるがために、ことが示唆されています。故に、

二十二フ ジの仕組は“盤外からの一撃トドメと形容できるはずです。

 そのため、既存のてん規則ルールに基づく戦争や天災は、今回の立替え立直しにおいて二義的な意味しか持ち得ません。

 そして、このような尋常ならざる手段を行使し得るのは、の全てを自らの内に生んだ元の神と、直系のけんぞく神くらいであろうことが容易に想像できるのです。

 さて、ここまでは「三千世界を一捻りにする」という観点で富士の仕組を説明しましたが、その際に重要になるのは、天之日津久神様が二十二フ ジである十一番目の状態を“十とふたつと認識している点です。

 この在り方はれい接点いわととして認識すること」によって理解が進みます。簡単に述べると、

数霊のれいという“一つの接点”には“二つの端点”の側面があります。

 これは“入口”“出口”ようなものであり、“始点”“終点”と言い換えても構いません。つまり、一つの接点を得るのは二つの端点を繋ぐのと同じであり、

始点はじめ終点おわり結合むすび二十二フ ジの仕組の一面になります。

 そのことの意味は、次の記述の「れいから出てれいに至る」と「世の元も末もれいである」が判り易いです。

「岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]

 ただし、れいによって三千世界が一捻りにされ、始点と終点であるはし同士が結ばれて不二ひとつおもてになっても、

 「表と裏が厳然と区別されながら表と裏の区別が全く無い」というのは矛盾です。しかし、れいや上位の次元に矛盾を超越する手段があることは、メビウスの輪やクラインの壷の例から判ります。

 そして、十段階の どこからでもれいに至ることができるわけではなく、はじめの前”おわりの後”に接触できないのです。

 このことを、日月神示では“二つのくまと表現します。

「今度は八のくまでは足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。その他に隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

「十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。この二つが天晴れ世に出る時 近づいたのであるぞ」 『秋の巻』 第二十一帖 [762] 昭和二十七年版)

 同じ内容は、旧事本紀に登場する天照大神から賜った“十種の神宝”に、数霊のれいの別の表現であるを加えた数歌を使って語られます。

くさとおあまりふたくさかむたから〔中略〕 ム、ひとふたいつななここたり、ウ、であるぞ。ウ、たりここなないつふたひと、ム、であるぞ。唱えよ。り上げよ」 『月光の巻』 第五帖 [792]

 日月神示が三千世界の生成化育や神経綸を“数”に見立てる中で、一二三四五六七八“十一”と、一二三四五六七八九十“十二”と、〇一二三四五六七八九十と十九八七六五四三二一〇の二十二フ ジは、同じものを別の角度から見ています。

 そして、十種の神宝に見立てた数歌で、一二三四五六七八九十が“二つのれいに挟まれるように、れいである、反対側の十段階とは繋がれません。少し言い方を換えれば、

れいの中にすべてが入っているのです。

 故に、十方世界にれいたるひとつを加えた十一番目の段階は、十とふたつであるのと同時に、反対側の十も加わった“二十二”になります。

「太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士と鳴門の仕組いよいよぞ、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963] 

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりてみ栄ゆる仕組、十と一の実のり、と輝くぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳)

 ここでれいを意味する「ひとつ」は、「無がとの密意を含ませる形で“最小のを使っているのでしょう。これは無を空白で示すと意味が伝わらなくなることもあります。同時に、“全体を規定するもの”といった意味でのの表現”として、などを兼ねるようです。

 それを踏まえて、上の引用の「太陽は十の星を従える」は、数歌と対応する十種の神宝の所有者が太陽神アマテラスであることに通じるらしく、

れい“太陽”に通じるものがあるようです。

 或る意味で、水の霊界でありである幽界との一体化がへの道を開く仕組”ならば、火の霊界でありである神界との一体化は“太陽への道を開く仕組”なのかもしれません。

「宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、の世界、元の世界を知らんからさうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人、と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489] 第一仮訳。「の世界」は「の世界」と訳すことも可能です)

 また、太陽と月は地球から見れば殆ど同じ大きさですが、実際の大きさは“桁違い”なので、フジの仕組の影響はナルトの仕組よりも遥かに大きい可能性が高いです。

 そして、一二三四五六七八九十の世である月のは幾ら明るくとも闇のに属し、月光も太陽光の反射なので、真に光の世と呼び得る“日の出の御代”は、フジの仕組によって到来する〇一二三四五六七八九十の世を指すのでしょう。

「待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、いろはの世はたちにけり」 『雨の巻』 第六帖 [340]

「これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護とあい成ったから物事 誤魔化しきかんのぞ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]

 同時に、日の出は“キ”と密接な関係があるそうです。

「この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリヰの神と現はれるぞ」 『キの巻』 第三帖 [260]

「イシはイにかへるぞ。であるぞ。 であるぞ。ヰであるぞ。イーであるぞ。であるぞ。であるぞ。キと働くのざぞ。わかりたか」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

「日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

 大本系統で“日之出の神”と呼ばれるのかみは、太陽神アマテラスの孫であるのかみと、富士山の神霊であるこのはなのかみの子であり、燃え盛るうぶの中で生まれ、のみことやまさちひこの別名を持ちます。

「ひのでの神とはひこのかみ 『水の巻』 第十帖 [284]

 これらの神霊は太陽や火や山に関わっており、の仕組の性質”を暗示しているようです。その中でも、日之出の神の父であるノミコトには直接的な言及があります。

「ニニギのみことお出ましぞ、ニニギとはのキの御役であるぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]

 ここでの「のキ」が何を指すのかは正確には判りません。恐らくは複合的な意味があるのでしょうが、の如くのようなもの”として認識すれば、数霊的な解釈の一つには辿り着けます。

 そのことを、二十二やれい意味すがたを伝えると思われる“二二の二の五”から考察してみます。

「二二の二の五つの今あけて、よろづゐんねん出づる時来ぬ。天の理が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が甘露台ぢゃ」 『星座の巻』 第二十三帖 [906]

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、二二ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第二仮訳では「二二の五ぢゃ、二二は晴れたり日本晴れぞ」という風に脱字があります)

 日月神示で二二の二の五への言及は二箇所ありますが、本論では原文と第一仮訳を参照した上で、天明氏の数霊論と二十二の仕組の内容を前提に、「二二のふたつの五」と訳します。

 この二二の二の五は岡本天明氏が展開した数霊論に通じるように見えるので、まずは『古事記数霊解序説』の第七章の第六図を引用します。

 数字は0123456789の十段階を繰り返す形で、始点はじめ終点おわりが繋がっており、最後おわりから最初はじめに戻る際にれいを経過します。この“円環”の性質と、前後の数を足すと当該の数の“倍数”になることに注目して、天明氏はれいの中に五が存在する」という独自の説を展開していました。

〔前略〕 以上の如く、0とは何もないものではなくて、中に数が存在しておるのであります。そして、その数は、5であると言うことは、右のような説明ではなく、誰にでもすぐ理解できる方法があります。それは、第6図の如き考え方であります。この図は、0から9までの数であるが、この中の任意の数3なら3、5でも6でも、いずれでもよく、一つの数をとりあげて、その前後の数を合わせると、その任意数の倍数となるのであります。例えば3ならば、その前後は2と4で合計6となり、6ならば5と7で12となり、各々倍数となります。ところで、第6図の0はどうなるであろうか。その前後数は、9と1であるから10となり、0の中には、5が存在するわけであります」 『古事記数霊解序説』 第七章

 ただ、天明氏は言及していませんが、9は前後の数を足しても倍数にはなりません。これを他の数に合わせようとすれば「8+=9×2」にする必要があり、必然的に「=10」になります。

 ですから、岡本天明氏の数霊論を補完するなら、「れいの中に五と十が存在する」が正確ではないでしょうか。この話は上述の「れいの中にすべてが入っている」にも通じます。

 また、十は五の倍数なので「れいは単独で全体と同じ特質を有する」とでも言えるのかもしれません。

 なお、天明氏は『古事記数霊解序説』の第八章で、「五柱の別天神が二柱の神を通して十柱の夫婦神として現れる」という「5×2=10」の説を展開しているので、れいの中の根元的な因子が表出するためには、最初に“五と二と十”が展開することには気付いていたはずです。

「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、ことあまかみ五柱と申してあろうがな、五が天であるぞ。五は数であるぞ、転じて十となるなれど、動き栄へるにはの神が現われねばならん、これが中を取り持つ二柱の神ぞ」 『至恩の巻』 第七帖 [954] 天明氏は「」をプラスマイナスで解釈しており、「中を取り持つ二柱の神」に国常立神と豊雲野神を当て嵌めています。これらがはたらきの上ではムとウに相当します)

 この数と記述もあります。

「百は九十九によってハタラき、五十は四十九によって、二十は十九によってハタラくのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、ハタラきは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ」 『碧玉の巻』 第十九帖 [883]

 ここでは大宇宙の鉄則たる“フトマニ”に、でありである百と五十と二十が深く関わることが明かされていますが、これらは十と五と二の桁を繰り上げたものであり、「比率の観点では同じ関係にある」のかもしれません。

 それを展開したものが、天之御中主神から伊邪那美神までの五柱と二柱と十柱の“天神の十七段階”である可能性が考えられます。この同一の存在の十七段階を、天明氏は「れい神」や「数神」や「天神の完成」と呼んでいました。

 もしかすると、十七はれいした数”なのかもしれず、時節の節目である“神経綸がする日”に十七日が選ばれた背景と言って良いでしょう。その最たるものが十七年と十七日である神経綸十であり、この期間の最終日に“新しき世界”が生まれるのは、極めて暗示的です。

 そして、こういった天明氏の数霊論を前提にすれば、二二の二の五の一面を説明できるので、表の十段階と裏の十段階を、れいを基点とする“二十二の配置”として図示します。

 図の真ん中の接点がれいであり、“始点”“終点”の二つの役割は。故に、れいひとつでありながら“二つのとして機能しており、双方の流れはれいに到達した時点で反対側に移ります。

 他の特徴としては、0から9の数字を円環的に配置すれば、対角の数字の差分が常に5になることが挙げられます。その意味ではれいの中の五は全体の中央に位置する」と言えます。恐らく、接点であるれいによってという“二つのれいの中に存在する“二つの五”姿のでしょう。

 そのことを「二二の二の五の今」という風に、接点いわとを意識した表現”を使っているように見えるのです。

 ちなみに、五の対角の解はれいか十の二つがあります。これはれいの中の五を順律と逆律の二つで数える」「十が上位のでのれいであること」が背景にあり、「れいの中に五と十が存在する」の裏付けと言えるかもしれません。

 このようなれいとの絡みから、天明氏は“五”“根本数”に位置付ける数霊論を展開しており、日月神示にも同様の記述が見られます。

「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、〔中略〕 五色の竜神とは国常立尊の御現われのヒトツであるぞ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

「マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、であるぞ、〔後略〕 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

 また、内容的に同じ五の話が“指”に絡めて展開されています。

「イシもの言ふぞと申してありたが、イセにはモノ言ふイシがあると昔から知らしてあろうがな、五のがもの言ふのであるぞ、ひらけば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ」 『扶桑の巻』 第一帖 [850]

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「元は5で固めたのぢゃ、天のあり方、天なる父は5であるぞ。それを中心として、ものが弥栄えゆく仕組、それを人民は自分の頭で引き下げて4と見たから行き詰って世界のなんぢうであるぞ。手や足の指は何故に5本であるか、誰にも判るまいがな」 『極めの巻』 第八帖 [935]

 他にも、少しだけ注意を要する“五と指”の記述があります。

「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ、神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、この交叉弥栄は限りなし、これを五鎮と申すのであるぞ。上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ。東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す。裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのぢゃが、それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これがみょうであるぞ、であるぞ、天の父の教であり、地にうつした姿であるぞ」 『極めの巻』 第九帖 [936] 二十五有法は『先代旧事本紀大成経』からの転載であり、大成経も何かの書物から転載したらしいです)

 二十二の配置では差分が5であるが五つあるので、「5×5=25」になります。また、順律と逆律の二つの流れで「25×2=50」になり、そのことを「五本の指を五度折って二十五有法とし、五十をもとにした」と表現しているのでしょう。

 余談ですが、1から8の数字を円環的に配置すると、差分が4になるが四つでき、“親指が無い状態”が出来上がります。この配置は方位的な意味を内包する四方八方と同じであり、日月神示では“平面の象徴”です。

 これを反時計回りで見ると最後の8はうしとらに対応し、国常立神の鎮座地や“立体軸が位置”などの意味があるはです。

 さて、前出の引用にも「の数を合わせると五と五十である」や「中心に五があり周辺が五十となる」や「根本の型」とありますが、霊的な密意において、

二十二は“大神の指の配置”かもしれません。

 また、二十二はれいによって初めて姿を現すので、そのことを「それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ」と書いてあるように見えます。

 そうであればこそ、親指に対応する九番目と十番目だけではなく、「十一番目のれいに含まれる」と語られているのでしょう。

「いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 上記の話からは、れいの中の二つの五が“全体のとして機能する姿が見えて来ます。このような内容が、円環や数霊の観点から見た“二二のの一面であると思われます。

 恐らく、れいの中の二つの五によって表と裏や始まりと終わりを一つに結ぶことが、“日の出”“キの出”としてことであり、の御心のままの世の現出”に繋がるはずです。同じようなことは岡本天明氏が既に指摘しています。

〔前略〕 かくして前記の如き重大なる意義をもつ千引岩をひらいて、ナギ、ナミ夫婦神の交流、和合、合歓、大和と云ふ段取りとなり、されてゐる所の国を生み、万物を生み、天つ神が最初の御想念のままなる弥栄大和の世界が現出することとなるのであります。私が十数年 来叫びつづけて来た「人類歴史にない程の大異変」とは、この岩戸がひらかれることであって、私は「転位」と云ふ言葉で表現しようとしたのであります。多くの宗教書、予言書等に示された“人類さいの日”とは この岩戸ひらきのことであって、数霊的に申せばに移行することであります。しかし、これは頭初に述べました天つ神の最初のあり方、想念であり、発展たるものの成り鳴りて成りやまぬ進展を意味するもので、天つ神のただ一回の御神勅たる「コレノ、タダヨヘルクニヲツクリカタメナセ」の実現でありまして、一般に伝へられるものは二義的のものであります」 『古事記数霊解序説』 第十三章 昭和三十七年版。昭和四十七年版では第十五章)

 要するに、表面と裏面が接点で結ばれた時に初めてれいの中の二つの五”が現れるので、プラスマイナスのみならず、れいを含む真の全体”を、二二の二の五と呼んでいるように見えるのです。

と〇であるぞ、の陰にはがあり、の陰にはがある、その和の状態が〇であるぞ、のみでは力ないぞ、だけでは力ないぞ、とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ。〇があつてがあり、があつて和があるのであるぞ、別の御中主あると申してあらう、ここの道理よく得心、合点せよ」 『白銀の巻』 第五帖 [616] 昭和二十六年版)

 ここでれい“和”御中主まんなかと同一視されているように、これらは日月神示で同義に扱われる場合が多いです。

 そして、故に、“接点”たる数霊のれいが司るちから和合むすびなのでしょう。

「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第十帖 [797]

「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、レイがもとぢゃ、が元ぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ、よく心得なされよ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 上述の内容から見えるように、

れい“三界の結び目”です。

 また、断定はできませんが、

結びのはたらきの本質は“接点の拡縮”のように見えます。

 恐らく、このはたらきは統合と分離のを自由に変化させられるものであり、接点いわと開き”接点いわと閉め”の活動を内包します。そこから推察するに、

接点いわとが全体の在り方を既定しています。

 それは、天と地を統御する万象万物の中心として、信仰的には“神の意向こころが最も近い表現であり、象徴化シンポライズするとカミココロになります。

 これは、れいや無の存在である“元の神”による全体の統御と同じ意味であり、ことが、“立体的な動き”“岩戸開き”に通じると言えそうです。

「反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から復立体に、復々立体に、立立体にと申してあろう、ぜん輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ」 『碧玉の巻』 第一帖 [865]

「岩戸と申しても天の岩戸もあれば地の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、〔中略〕 このたびの岩戸は立体に入る門ぞ」 『五葉の巻』 第十一帖 [974] 第一仮訳)

 本項の冒頭で引用したように、日月神示は立体の密意が次元であることを明かしていますが、それらの中でも、文字通りが違う接点の拡大”が二十二の仕組です。その意味において、

二十二の仕組は“最大最後の接点いわと開き”と言えます。

 また、ナルの仕組はなので、以下の“十方世界”“元神の神策”の記述には、二十二フ ジの仕組も含まれると見て良いでしょう。

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸ひらきぢゃ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

 もしかすると、厳密な意味で“末代に一度の大岩戸開き”と呼び得るのは、二十二フ ジの仕組だけなのかもしれません。

 これにより、十段階の表と裏が一つになり、てんあめつちに生まれ変わります。

 こういった形で始点はじめ終点おわりという二つの端点が結ばれ、三界にはが無くなります。そのことの意味を次のように表現してみます。

「三千世界を“無限のの世界”にすることが二十二フ ジの仕組である」

 上の言葉は“無限のの世界”と言い換えても良く、二十二フ ジの仕組によって、立体の実現である調が限りなく積み重なる世界が出現することになるのでしょう。

 以上が、接点いわととしてのれいから見える十一や十二や二十二フ ジや二二のふたつの五の意味すがたであり、日月神示の説く「二つの隈を生み育てねばならない」とは、このような内容を伝えたいのだと思われます。

 ここまでが、二十二の仕組の主要な部分の解説であり、基本的には観念論としてしか展開できないことが判ると思います。

 なお、富士の仕組の背後にあるものやは次節から論じるので、本項の最後は、ひねりという“立体的な結合むすびの深層における繋がりを、日月神示での富士の仕組の形容詞である不動うごかんと一緒に考えてみます。

 まず、鳴門の仕組はうずうみの仕組とも呼ばれ、日月神示での“動的な象徴シンボルである記号シンボルで言い表されます。これは、渦や海が“止まらざるもの”だからです。

 対照的に、山は“動かざるもの”として静的な“不動の象徴”であることから、富士の仕組は“動かん”と形容される場合が多いです。

「動かん富士の仕組の鳴門の仕組」 『黄金の巻』 第二十帖 [531]

「不二の仕組とは動かん真理、ウズウミのナルトの仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

「自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(珠)の道でなくては立ちては行かん、動かん富士の仕組、ひらけて渦巻く鳴門ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつところ、この岩戸ひらき二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894] 第一仮訳)

 ちなみに、日月神示には「真ん中は動くな」や「中心は無」とあるので、台風の目が無風であるが如く、不動や静的な象徴にはの記号が適切なはずです。故に、鳴門がの仕組”なら、富士はの仕組”と呼べるかもしれません。また、は複数のの集合であり、富士と鳴門の仕組にはの仕組”の側面があることになります。

 上述の背景から、神典研究者の間では、富士と鳴門の仕組は“静と動の仕組”“火と水の仕組”と受け止められています。他にも、みつに掛ける格好のみつの仕組”も、基本的には富士と鳴門の仕組を指すのでしょう。

 大まかな流れとしては、ナルトの仕組で一時的にしたセカイが、改めて関係カタチを整え直し、フジの仕組によってして、新しい意味カタチを持つ世界への道が開けるようです。

 この過程は、幼虫が身体からだを溶かすさなぎの状態を経て「蝶として羽化する」のと同じであり、内包する本質的な意味は、“新たなる陽光”が射しめるが如き“大いなる喜び”なのです。

〔前略〕 かく弥栄、進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない、新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰返されてゐるのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更に一となることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云ふことを理解するに苦しむのであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのであるこれは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る、新天新地新人はかくして生れ呼吸し、弥栄える。しかし新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失はない。只その位置を転換されるのみである、地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失はず生活するのである。その状態よりも尚一層に、そのままであって何等の変化もないと思へる程である。さなぎが蝶になる如く弥栄へるのであって、それは大いなる喜びである」 『地震の巻』 第八帖 [385] 第一仮訳)

「喜びの歌 高らかに、ナルトの仕組 にうつるぞ」 『黒鉄の巻』 第十四帖 [632]

 こういった「セカイを水で溶かして火で固める」という仕組は、“火の霊界”たる神界と“水の霊界”たる幽界との一体化も包含するので、広義にはフジナルト接点いわと開き”と同義なのでしょう。

「火と水で岩戸開くぞ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

 この一連の流れは、伊邪那岐神と伊邪那美神による国生み神話である修理固成つくりかための物語”を受け継いでおり、ナルトで一時的にカタチを崩すことが立て壊しや修理つくりであり、カタチを整え直したセカイフジで固着することが立直しや固成かために相当します。

 上の論法が成り立つのは、日月神示で「今回の立替え立直しは修理固成の仕上げである」と明言されているからです。

「何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん修理固成か た めの終りの仕上げであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ」 『上つ巻』 第三十四帖 [34]

「これまでの改造はこうやく張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、ふみにも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富やきんを返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

 本格的な神話論を展開すると長くなるので要点だけ述べますが、日本神話を背景に考えると、

フジナルトの仕組は修理固成つくりかためです。

 その中でもに相当するのがフジの仕組というわけです。

 また、日本語では物事の最後を“結び”と表現する場合があります。これは物を一つに束ねる作業の最終行程が、行為であったことに由来します。そのため、結びには、封じる、締める、固めるなどの意味が含まれており、“動かん”が富士の仕組の形容詞であることに通じています。

 そして、上のような流れで、国生み神話や三千世界の生成化育や個々の身魂の「結末が決まる」のでしょう。これは最高裁判所で判決が下るのと同じであり、のです。

 そこからは、富士の仕組が審判”と呼び得る側面が強いことが判ります。ただし、西洋の一神教での恐ろしい印象イメージとは対照的に、

日月神示の説く最後の審判には“三千世界の完成むすびというがあります。

 何故なら、富士と鳴門の仕組であり、天と地を一つにする“立体的な結び”とは、無限よろこびの世界へのいざない”だからです。

〔前略〕 歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである」 『地震の巻』 第二帖 [379]

「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604]

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 第一仮訳)

「自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、霊の霊を知り、神にとけ入つたならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ」 『黒鉄の巻』 第三十四帖 [652] 第一仮訳)

「広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との調和した、限りなき光の世界ぞ。信仰に入ることが無限を得ること。まことの神をつかむことぞ」 『春の巻』 第九帖 [666] 昭和三十八年版)

「そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、現実界では その通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ」 『月光の巻』 第六十二帖 [849]

 そのような“霊と物が調した世界”に歩みを進めることを、日月神示は“立体の道”“正中の大道”と呼んでおり、片一方だけでは解決が困難な問題に対処できるそうです。

「現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰りのない道、新しき世界への道である。平面のみでは どうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか」 『月光の巻』 第十八帖 [805]

「そなたは右を歩きながら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に復立体、復々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ。世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。我をすてて素直になされよ。三千年の秋が来てゐるのであるぞ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]

 例えば、旧九月八日から身魂磨きが加速するように、何らかの問題は単独へいめんではない方が解決し易い場合があります。その理由は、複数りったいなら“組み合わせ”が行えるからです。

 恐らく、物質界の問題点を解決し、霊界の問題点を解決することによって、三界が上手く回るようにする算段なのでしょう。

 これらは、一二三四五六七八と九十、一二三四五六七八九十とれいのように、“異なるものの組み合わせ”であり、双方がことに繋がります。言うなれば、

富士と鳴門の仕組の成就はの世界の実現”です。

 このことを、日月神示は真ん中”を意味する御中主”と表現しています。

「陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ、現れるぞ。 よく見て下されよ、一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 原文U準拠)

 こういった内容は、分かれていたてんあめつちとして生まれ変わる“三番目の一なるの出現”と言い換えてもよく、その背景バックボーンに相当する概念を、天之日津久神様は「三を生む」と表現しています。

〔前略〕 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。〔中略〕 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である」 『地震の巻』 第五帖 [382]

「太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し、歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、又 絶えず反している。故に二は一となり三を生み出すのである。〔中略〕 三を生むとは新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である」 『地震の巻』 第十八帖 [395]

の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。道は一で、二で、三であると申してあらう、一も二も三も同じであり、違つて栄えるのざ、一二三であるぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 これが、の根本的な目的やの原理である“歓喜の増大”であり、の道やの大道に通じるカミココロの在り方”です。

「大歓喜にまします太神のは、そのままで成り成りて鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的 無の存在なるが故である」 『地震の巻』 第二帖 [379] 第一仮訳)

「道は三つと申してあろう、三とは三であるぞ、3でないぞと申してあろう、無限であるぞ、〔中略〕 中の中には中の道あるぞ、中の中 は無であるから動きないぞ、動きないから無限の動きぢや、そのの外の中は人民にも動きみゆるぞ、この道は中ゆく道ざと申してあろうが、行く道、動く道であるぞ、の外の中であるぞ、中の道は太神の道、中行く道が神の道、人の道ぢや、判りたか」 『春の巻』 第三十九帖 [696] 昭和二十七年版)

「道とは三界に貫く道のことぞ。宇宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 また、日月神示の原文では「三」と書いて「道」と訓ませる例が非常に多く、「三が二十二フ ジの一面である」とも明かされています。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

 恐らく、

二十二フ ジの仕組の本質はによって最大のヨロコビを生むこと」です。

 それこそが、おもてうらが一つの天地おもてになるの世界”であり、“元の神の意向こころと呼び得るのです。

「道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「天地和合してとなった姿が神の姿ざぞ。こころざぞ。あめつちではないぞ。あめつちざぞ。あめつちの時と知らしてあろうが」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

「御心とは三つの御心ぞ、一と十ととであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界 光り輝く、あなさやけ」 『雨の巻』 第八帖 [342]

「道は一つ二つと思ふなよ、三つであるぞ。新しき道 ひらいてあるに、何故 進まんのぢや」 『黄金の巻』 第十八帖 [529] 第一仮訳)

「今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、の守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

 この結果として、

三界の全てがの御心のままの世として“神界”に生まれ変わります。

 それが、天地和合であり、神人合一であり、あめつちであり、新しき生みであり、修理固成つくりかための仕上げであり、立替え立直しであり、富士と鳴門の仕組と呼ばれるカミの計画の実態”ではないでしょうか。

 くして、“元神の神策”の全ては“立体的神秘”に行き着きます。

〔前略〕 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。〔後略〕 『地震の巻』 第二帖 [379]

 そのための“最大最後の一撃トドメ二十二フ ジの仕組であり、三千世界の完成むすびによって歓喜よろこびが充ち満つ世界を迎えることは、“全ての存在いのちいやさかとして、紛れもなく救済すくいなのです。

「取られたり 取り返したり ね回し 終わりは神の 手によみがへる
 世の元の みず湧きに 湧く所 やがて奥山 移さなならんぞ
 判る 臣民二三分 できたなら 神いよいよの トドメ刺すなり
 三界を 貫く道ぞ なり の道は 一つなりけり
 神界の 隠れし 今迄の 道はの 道でないぞや
 鬼大蛇おろち 草木動物 むしけらも 一つにらぐ 道ぞぞ」  『マツリの巻』 第六帖 [410]

 さて、本節では二十二の仕組の概要を論じましたが、この仕組には他にも語るべきことが多く残っています。そこで、次節では“神の想いの集大成”とも言える【富士は晴れたり日本晴れ】を詳述します。これにより、二十二フ ジの意味がことでしょう。

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富士は晴れたり日本晴れ

 前節までの解説では、三千世界の生成化育や神の計画が、最終的に二十二フ ジの仕組として結実することを述べました。本節では、日月神示の多面的かつ重層的な読み方の一環として、“富士の仕組の背後にあるを考察します。


 この概要を簡単に説明すると、今回の天変地異や戦争などの“表層的な事象”は、天と地の和合を目的とした神の仕組に起因しますが、その更に内奥には概念や原理といった“事象の真相”が存在します。

「神代になりたら天地近うなるぞ、天も地も一つになるのざぞ、今の人民には分るまいなれど、神も人も一つ、上も下も一つとなって自づから区別出来て一列一平上下出来るのぢゃ。この世はほって置いても自然にどうにか動いて行くものざと上に立つ守護神逃げて居るが、そんな事でまつりごと出来ると思ふてか、自然には動かんのぞ、その奥の奥の奥の のキのイキから動いてゐること判るまい、人民の思ふてゐることは天地の違ひざぞ、の中に又があり、そのがあり 限り無いのざぞ」 『梅の巻』 第十六帖 [443]

 こういった見方に基づけば、立替え立直しや岩戸開きにおける個々の事象が、表層ににじみ出た“湧き水”に過ぎず、深層の膨大な“水源”で一つに繋がっていることに気付かされます。

 これがに相当するの領域”であり、全ては“同じから流れて出ています。もう少し詳しく説明すると、

ぜんたいが展開したものであるが故に、には全体すべてが入っているのです。

 故に、優れた書物はに目的や結論や主題テーマなどの最も伝えたい、即ち“全体を集約した言葉”を持って来る場合が多く、日月神示も同様の構成になっています。

 そして、日月神示におけるには以下のものが含まれます。

神の象徴シンボルである
の訳文のである
を降ろした神霊のである日月ひつくのかみ
の創世神話のであるあめつちとき
世界のことであるあまつかみしんちょく
数のである“数霊のれい”。

 その上で、上記の言葉と同様の位置付けにあるのが“日月神示の冒頭の一節”であり、

【富士は晴れたり日本晴れ】は“神の計画こころ総括むすびになっています。

 これらの言葉は同じを別の角度から表現しており、“共通する要素”を拾い出せば“事象の起源オリジンを浮き彫りにできます。結果として、天之日津久神様が最初はじめの言葉”に、文字通りことが判るでしょう。

 このようにして、「富士は晴れたり日本晴れ」に凝縮された“神の想い”を見極めることにより、神の計画こころ結実むすびたる二十二フ ジの仕組”への理解を更に深められます。

 そういったことを、【二十二晴れ】と【真理】、【二本晴れ】と【大和】から言及し、その背景に相当する概念を【善悪の彼岸】と題して論じます。そして、概念と一体である原理的な側面を【1+1=3(1)】の認識を中心に展開し、最後に、全ての事象の内奥に存在する【の息吹】に触れたいと思います。

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二十二晴れ / 真理

 日月神示は“七五調の歌”である「富士は晴れたり日本晴れ」から始まります。富士の原文は「二二」の場合が多いですが、どちらかと言えば“二十二”の方が正確な表現です。

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、の誠であるぞ、合せて二十二、富士であるぞ。神示の始めに示してあろう。は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]

 ここでは、二十二フ ジ真実マコト或いは至誠マコトと極めて密接な関係を持つことが明かされており、そうであるが故に、とのことです。

「富士は晴れたり、日本晴れ。神の国のマコトの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて、しち難しい御苦労のない代が来るから、身魂を不断に磨いて一筋の誠を通してくれよ。今一苦労あるが、この苦労は身魂を磨いて居らぬと越せぬ、この世 始まって二度とない苦労である。この結びは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、〔後略〕 『上つ巻』 第一帖 [1]

 それほどまでに重要な意味を持つ二十二フ ジの内容は、“結び”を軸に考えることによって或る程度までは推測できることが、前節の内容で御理解いただけたと思います。

 そして、本項では富士が晴れ渡る【二十二フ ジ晴れ】の意味を、次の点と一緒に見て行きます。

「天之日津久神様は二十二フ ジを【真理】と呼んでいる」

 こういった前節では論じきれなかった部分を中心にして、二十二フ ジの考察を更に深めたいと思います。


 日月神示では二十二フ ジ“真理”と称する記述が散見されます。

「不二の仕組とは動かん真理、ウズウミのナルトの仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

「日本の、世界あけたり。あなスガスガし、日本晴れぞ。は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 ここで「二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」と書かれているように、合わせ鏡や紙の表と裏の統合むすびが、ツキほうせつしたミチ“新しき不二ひとつになります。

 そのような両面を活かす“三番目の一なるの実現を、三千世界の真実まこと状態すがたとしての道と呼ぶのかもしれません。

 また、上の引用で「富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」とあるように、

日月神示では富士晴れや真理が“新しき太陽ひかりと同一視されます。

 この点については、“大神の大歓喜”の現れとしての“太陽”の記述が判り易いでしょう。

〔前略〕 大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜としてはらみ、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

〔前略〕 かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

 これらの内容は、三が“新しきひとつであるのと同時に、いちという分割できない数が“不二や陽の象徴”という点が背景にあります。つまり、一は陽として陽”を意味しており、更に、二十二たる十一番目の段階が“新しき一の段階”を兼ねることにも掛かっています。

 そのことを受ける形で、奇数たるプラスと偶数たるマイナス結合むすびによって、“新しきプラスが生まれることも語られます。

「きすうときすうをあはしても、ぐうすう、ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。きすうとぐうすうをあはしてはじめて、あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ」 『月光の巻』 第二帖 [789]

「何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ」 『月光の巻』 第五十二帖 [839]

「男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、一つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すのは或る時期に於ける教ぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

「陰と陰と、陽と陽と和しても陰ぢゃ、陽と陰と和して始めて新しき陽が生れる、陽が本質的なもの」 『極めの巻』 第六帖 [933]

 そして、二十二の状態や段階を、ひとつミチや奇数や太陽に位置付けることは、神経綸の九と十がに相当するの時代であるのと対照になっています。

 同様に、日月神示がが欠けた八方世界を“闇の世”と呼び、九十が加わった神経綸十の段階ですら“暗闇時代”と呼ぶのは、そういった点が背景にあるのでしょう。

 故に、二十二たる〇一二三四五六七八九十の世が、まことの意味での“日の出の御代”であるはずです。

「待ちに待ちし日の出の御代となりにけり」 『雨の巻』 第六帖 [340]

「これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]

 その上で、には“日の出”カミ道理ひかりあまねく広まる情景」を象徴化したと思われるの記号が見受けられます。

「天地和合してとなった姿が神の姿ざぞ。こころざぞ。あめつちではないぞ。アメツチざぞ。アメツチの時と知らしてあろうが」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

おうの世 おうの世にせなならんのざぞ、今はをうの世ざぞ、わうの世 の世となりて、おうの世に入れておうの世となるのざぞ。タマなくなってゐると申してあろがな、タマの中に仮の奥山移せよ、急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ、当分 宮なくてもよいぞ。やがてはの花咲くのざぞ、見事が鎮まって、世界治めるのざぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事 仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ。花咲く御代近づいたぞ。用意なされよ、用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ。の世輝くととなるのざぞ、と申して知らしてあろがな」 『風の巻』 第一帖 [352]

 このの記号から読み取れる意味は複数あり、その内の一つを ここで述べます。

 恐らく、物質に偏重した逆様の認識のの世”が、ナルの仕組で引っ繰り返っての世”となり、霊現交流によって神のたまが人の中に鎮まっての世”となり、それが身魂の磨けた人間や日本だけではなく、世界の国々や三界にも浸透して輝く様子をの世”と描写したと考えられます。

 ここでのの威光が世界に浸透する様子を、光が放射状に広がる姿に見立てているようです。また、放射状の広がりは、花の蕾が開く、岩戸が開く、太陽が昇る、なども意識されており、特に“闇を祓う光”としての“旭日”の意味が強いと思われます。

 そして、二十二フ ジの仕組が成就した姿の象徴シンボルであるならば、上の引用の「富士に木の花が咲く」や「富士に鎮まって世界を治める」には、、単なる情景描写以上の意味が込められていることになります。そうであればこそ、

新しき太陽ひかりを意味する天地一体や神人合一の姿は、“光のと同一視されるのでしょう。

「ひかり教の教旨 書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。 教旨 てん不二、神人合一。あめつちなり、つちあめなり、なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国 実現を以って教旨とせよ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

 推測ですが、神の意向こころとしてのまことの道理の提示”は、基点、基準、指針、目的、希望として機能し得るものであり、無明の中にあって“新しき光明ひかりを指し示す“大道”と同じなのです。

「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ」 雨の巻 第一帖 [335]

「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの、三千世界の大道ぞ。教でないぞ」 黄金の巻 第二帖 [513]

「マコトに生きる大道に目ざめてくれよ」 紫金の巻 第十四帖 [993]

〔前略〕 おしえはみな方便ぢや。教ではどうにもならん。ぎりの世となってゐるのぞ。道でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、〔中略〕 道とは三界に貫く道のことぞ。宇宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

 その真実マコトの最たるが、おもてうら和合マツリした天地ミチ“新しきであり、その状態すがたを実現する二十二の仕組を指すように見えるのです。

 そして、天と地や神と人という表面おもてが一つのおもてになった“三番目の不二ひとつ状態すがたを、日月神示ではと呼びます。

「五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないから そのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ」 『碧玉の巻』 第十五帖 [879]

 天地人の“大和の姿”を象徴する数が“三つの六”である理由は判然としませんが、三界がになることを、数を三つ並べることによって表現したようにも見えます。

 また、を六で表現しているのは、この数が最初の数”だからかもしれません。数学の分野では約数の和が自身と等しい数を完全数と呼び、一つ目の完全数である六は「6=1+2+3」で表されるので、六を“一二三の異なる表現”として用いた可能性が考えられます。

 他にも、日月神示の数霊論で、天の数とされる216が6×6×6であること、1から36の総和が666であること、完全の象徴になり得る円が360度であること、360の内訳が216と144であること、216が36×6であり144が36×4であること、216と144の比率が3:2であること、6と4の比率も3:2であること、といった事例と関連があると思われます。

 正確なことは判りませんが、これらの数には何らかの数理的な意味があり、それを踏まえた上で、六六六の表現が使われているのでしょう。

 後は、別の見地から六六六の参考になりそうな記述が『伊都能売神諭』にあります。

「天も水(六)中界も水(六)下界も水(六)で世界中の天地中界三才が水(六)計りで在りた世に一番の大将神の御位で御出遊ばしたので六(水)を三つ合せてミロクの大神と申すのであるが、天の水の(六)の中からヽの一霊が地に下りて五(火)と天が固まり地の六(水)にヽの一霊が加はりて地は七(地成)となりたから、世の元から申せばミロクは六六六なり、今の世の立直しの御用から申せばミロクは五六七と成るのであるから、六百六十六の守護は今までのミロクで、是からのミロクの御働きは五六七と成るので在るぞよ」 『伊都能売神諭』 大正八年二月十八日

 確実ではありませんが、日月神示と照らし合わせると「六六六から六六六に還る」といった流れに見えます。そこで「六六六がマコトのミロクの世である」の背景を、「意図的にという観点を交えながら考えてみます。

 ミロクの世の言葉から真っ先に想起イメージする“理想世界”“地上天国”を指すのは、つのが並ぶの方です。

 そして、旧九月八日から始まるミロクの世は、“五六七のミロクの世”であることを示すために、天子様がヶ月の日付が選ばれたはずなので、必然的に二十二たるの世が“六六六のミロクの世”に該当します。

 その上で「666となり又六六六とならねばならんぞ」とは、二十二の仕組で天と地が“メビウスの輪”になることを前提に語られているようです。

 メビウスの輪は「表と裏が存在しないが存在する」という形態であり、そういった「同一でありながら相違し、相違しながら同一である」といった在り方が、666と六六六の“同じでありながら違う数”で表現されています。

 また、五六七という“動”を意味し、六六六という“不動”を意味するらしく、鳴門の仕組が“動”であり、富士の仕組が“静”であることと意味が通底します。

 ただし、「六六六では動きないぞ」や「動きがないから そのままでは弥栄せんのぢゃ」とあるように、完全に固定した状態には相応の問題が生じるそうです。その問題を解決するために、表から裏へ、裏から表へとことを、「666となり又六六六とならねばならんぞ」と言っているのでしょう。

 そういった“666と六六六の関係”の説明と言える内容が“五と五”です。

「人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ」 『月光の巻』 第五十二帖 [839]

「和すには5と5でなくてはならんが、陽が中、陰が外であるぞ、天が主で地が従ぞ、男が上、女が下、これが正しき和ぞ、さかさまならん、これが公平と申すものぢゃ」 『極めの巻』 第六帖 [933]

 五と五の関係は表現するのが難しく、「対等であっても同格ではない」とでも言えるでしょうか。天と地は一体の関係でも、あくまで、天、神、霊、陽、奇数の方が上位にあり、大本系統では“霊主体従の原則”と称します。逆に、地、人、体、陰、偶数を上位に置くのは“体主霊従”と呼ばれて、上下関係が引っ繰り返った間違った在り方とされます。

 ちなみに、五と五については、掛け算と面積に譬えた大本系統の神典研究者が居ました。簡単に言うと、全体を10として二つに分割して掛け合わせた場合、5×5=25がを生むことができるのです。それがを生む配分として尊ばれている」という説明です。他の配分には、6×4=24、7×3=21、8×2=16、9×1=9がありますが、どれも5×5の結果には及びません。

 この話は、日月神示の説く“足らず余らず”に通じます。

「山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆 何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、足らぬと思ふてゐるが、余ってゐるではないか、かみの役人どの、まづ神祀れ、神祀りて神心となりて神の政治せよ、戦など何でもなくけりがつくぞ」 『富士の巻』 第八帖 [88]

「そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、心と行と口と三つそろはねばならん。三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。拝む所へ ものは集まってくる。神も集まってくる。足らぬものなくなるぞ。余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。清富ぢゃ」 『月光の巻』 第六十帖 [847]

 古来からの格言に「過ぎたるは及ばざるが如し」とありますが、物事を“対偶性”を軸に認識した場合、ので、余剰や不足は必然的にペアの無い存在が生まれる」という情況に陥ります。故に、全体の内部に“死蔵”されてしまう部分が生じるので、“不完全な状態”と言いたいのでしょう。

 逆に言えば、足らず余らずの五と五の状態は、全体が十全に“活用”される理想的で“完全な状態”せます。そのような認識が、六六六や五と五の在り方に通じると考えられます。

 ただし、五と五という完全な均衡バランスを実現した“完成”に至ると、ので活力エネルギーが減じて行くらしく、これはこれで問題があるそうです。

 それ故、動いてエネルギーを生むために、という均衡バランスを乱す手法”を取る場合もあるとのことです。

「五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ」 『雨の巻』 第九帖 [343]

「五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除ばかりしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

〔前略〕 差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない」 『地震の巻』 第九帖 [386]

「善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり」 『青葉の巻』 第十一帖 [480]

 この乱した場合に生まれるペアが無い余剰や不足が、かすとしてつみけがれあやまちなどの因子になるらしく、いわゆる“悪の温床”を生むのでしょう。

 故に、今までのの八方世界は力強くはあるものの、非常に不均衡アンバランスで悪的な“闇の時代”であったらしく、それが、天と地の合一により均衡バランスを実現した世界が訪れることによって終わるようです。

 なおつ、均衡バランス不均衡アンバランスのがの世の姿であるとのことです。そのことを暗示しているのが、“ミロクの世の在り方”及び“来たるべき世界”の記述です。

「白と黒とを交ぜ合せると灰色となる常識はもう役にたたんぞ。白黒交ぜると鉛となり鉄となり銅となるぞ、更に銀となり黄金となるぞ、これがミロクの世のあり方ぞ、五と五では動きとれん。そなたの足許に、来るべき世界は既に芽生へてゐるでないか」 『星座の巻』 第九帖 [892]

 同様のことを“新しき段階に入る門”“次の世の在り方の根本”と表現した記述もあります。

の次にがあり、その次にがあり、あると申してあろう。立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。と和せばとなるぞ。複立体であるぞ。が複々立体、が立立体ぞ。がその元であるぞ。判りたか。となれば超自由、超自在、超無限ぞ。それだけに又 超完成であるぞ。超未完成でもあるぞ。神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。難しいようなれど、このことよく判りて下されよ。新しき段階に入る門ぞ」 『春の巻』 第三十八帖 [695]

「総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

 日月神示によると、善的な均衡パランスと悪的な不均衡アンバランスを超越した世界があるらしく、六六六のミロクの世は「666から六六六になる」という風に、「完全に均衡しながら自由に動ける」といった格好で、既存の世界の枠組を飛び越えた“上位概念の世界”になるのでしょう。

 そういった可能性を予感させるのが、“光の世”の様相です。

「悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」 『松の巻』 第二十二帖 [313]

「今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のおつちの御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国と神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。〔中略〕 悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、たまから改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、アメツチぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

〔前略〕 天の教ばかりではならず、地の教許りでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度上下揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教と光り輝くのざぞ」 『青葉の巻』 第十九帖 [488]

 このような既存の常識に当て嵌まらない世界の様相を、六六六の記述では「新しき世の姿よく心得よ」と語っていると思われ、新しき世、光の世、岩戸開き、などの言葉が、基本的に“新しきタイヨウと同じ意味を持つことが推察できます。

「今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか」 『五葉の巻』 第十二帖 [975]

「愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、〔後略〕 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 こういった六六六や五と五の考え方が、天地不二や一つのおもてに掛けてあることは言うまでもなく、それらが“新しき世の姿”として、世を救う“新しき太陽ひかりに相当するのでしょう。そうであればこそ、

既存の世界の対立や矛盾を超越するの世の姿”は、の道と呼び得ます。

 天之日津久神様が伝えたい二十二フ ジ“真理”とは、そのような内容指すのではないでしょうか。

 余談ですが、一九九九年に日月神示の時節について考えていた折、神経綸が“数歌”になっていることに気付きました。

 そして、旧十月の次の節目が新暦の“11月”であり、数霊の“二十二”だった点から、二十二フ ジの仕組を「天と地をメビウスの輪にすること」と推察しました。

「なりなりて なりあまれるところもて、なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。このよのくにうみは一つおもてでしなければならん。みとのまぐはひでなくてはならんのに、おもてを一つにしてゐないではないか。それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ」 『月光の巻』 第一帖 [788]

「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962]

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 そこから「のだから、旧暦でもになる日が選ばれているではないか?」と推測して、2041年11月25日の旧暦を調べてみると、予想通りでした。

 これは、神経綸に幾つもの“雛型”ことの一例です。

 天之日津久神様は意識的に“多面的な見方”を行っており、神の計画も“重層構造”を目指して立案されたらしく、どうも神々は常に“相乗効果”を狙っているふしが感じられます。

 ですから、一つの側面だけを見ても全体像は判らないので、並列的な観点から“共通点”を浮き彫りにして、相互に意味を補完する必要が生じます。例えば「日月神示では時節論が数霊や神話によって補完される」ことなども、その例証と言えましょう。

 同様に、あめつち二十二フ ジ、真理、新しき太陽、六六六、五と五、光の世なども同じ構成になっているので、日月神示はジグソーパズルを組み上げる如く、或いは読む必要があるのです。

 さて、ここまでの内容に共通するのは「物事の両面を活かすことが総体が輝く神の道理である」といった内容であり、それこそが“天と地の和合マツリになるそうです。

「顕斎のみでも迷信、幽斎のみでも迷信、二つ行っても迷信ぞ。二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽、両斎を外としてまつるのが大祭りであるぞ」 『黄金の巻』 第二十一帖 [532]

「人間の智のみでは世界はよくならん。裏側だけ清めても総体は清まらん。神にめざめねばならん」 『春の巻』 第十五帖 [672]

「木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理」 『月光の巻』 第十三帖 [800]

〔前略〕 今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、〔後略〕 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

「何事もはらい清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違ふもの同士和すのがマコトの和であるぞ。8迄と910とは性が違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

「和すには5と5でなくてはならんが、陽が中、陰が外であるぞ、天が主で地が従ぞ、男が上、女が下、これが正しき和ぞ、さかさまならん、これが公平と申すものぢゃ、陰と陰と、陽と陽と和しても陰ぢゃ、陽と陰と和して始めて新しき陽が生れる、陽が本質的なもの、この和し方がはらひきよめ」 『極めの巻』 第六帖 [933]

 同時に、両面をことがとして物事のになるので、それを“三千世界の立替え立直し”という“洗濯”“大掃除”に掛けてあるようです。

 ですから、天と地、神と人、霊と体、陽と陰、善と悪、君と臣、自分と他人などの双方すべてを活かすこと」が、の姿や“世の元の大神の心”であり、新しき太陽が昇る“光の世への道筋”なのでしょう。

「人間心にはがあるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。天子様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ。建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。天子様の輝く御代とする事ぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

 このような非常に高度な意識に基づく“神と人が融け合って光り輝く姿”が、“富士は晴れたり日本晴れ”の意味の一つであるそうです。

「この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばしてくれよ、臣民喜べば神も喜ぶぞ、神喜べば天地光りて来るぞ、天地光れば富士晴れるぞ、富士は晴れたり日本晴れとは この事ぞ。このやうな仕組で この道ひろめてくれよ、それが政治ぞ、経済ぞ、ぞ、分りたか」 『下つ巻』 第三十一帖 [73]

 恐らく、“神と人が共に歩む道”時代の到来が、「真理の世に出づこと」になるのでしょう。これも“富士晴れ”の意味になります。

「日本の、世界あけたり。あなスガスガし、日本晴れぞ。は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

 先の引用にも「六六六は天地人のの姿である」とありましたが、そういったいなる合の実現”が天と地が光り輝き、新しき太陽が昇る二十二フ ジ晴れの仕組の一面”として、三千世界の立替え立直しと意味が通じているようです。

 また、だい大和やまととも言って、古来から日本の国の異称です。そこで、次項ではことを、更に深く見て行きます。

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二本晴れ / 大和

 前項では、二十二フ ジの仕組の「両面を結んで全体を弥栄させる」という考えが、二十二フ ジ晴れ”の根底に流れており、それが日月神示での道に位置付けられていることを解説しました。

 そして、深い部分において二十二フ ジ晴れとのが、【ほん晴れ】と【だい】です。そのことを、本項でつまびらかにします。


 結論を先に言うと、天も地も、神も人も、霊も体も、陽も陰も、善も悪も、両方を活かす立て”の計画が晴れ”の意味であり、の神の仕組”であるそうです。

は晴れたり日本晴れ、二本のお足であんよせよ、二本のお手手で働けよ、日本の神のおん仕組、いつも二本となりてるぞ、一本足のさん、今更 何うにもなるまいが、一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ、二本のお手手 打ち打ちて、神おろがめよ あめつちに、響くまことの柏手に、日本の国は晴れるぞよ、は晴れたり日本晴れ、は晴れたり、岩戸あけたり」 『天つ巻』 第七帖 [114]

「一本足では立てん。二本足がよいぞ。やがては明くるの朝、は晴れたり、日本晴れ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604] 「二三」の第一義的な意味は、日本の異称である「そう」だと思われ、第一仮訳でもそう訳されています)

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりてみ栄ゆる仕組、十と一の実のり、と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳。この帖の「日本晴れ」は「二本晴れ」と表記する方が実態を掴み易いです)

 足は出さなければ上手く前へ進めませんし、手は柏手は打てません。一つの目的のためにことが、神の目から見た和合マツリマコトなのでしょう。

 こういった二本立ての在り方が神国にほんの姿”と繋がっており、いては日本の異称である大和やまとに通じるというのが、日月神示の主張です。

 そして、ニホンやヤマトに通じるだいへの言及もあり、その中で最も本質に近いであろう記述を引用してみます。

かしわは元の大神様のまったうおん働きぞ、タカミムスビとカミムスビの御働きぞ、おんおとぞ、和ぞ、だいのことぞ、言霊ぞ、喜びぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ」 『キの巻』 第一帖 [258] 原典に基づいて第一仮訳と第二仮訳の誤植と脱字を修正しました)

 上の帖では柏手に使う二本の手が、三位一体の神霊の左と右を司り、“ムスビ”の名を持つたかのかみかみのかみに相当することが明かされています。同時に、両神の和合的な活動によって新しく生まれた音は、“大和”を祓うに位置付けられます。

 そのことを背景として、神の御用は“二人一組”が推奨されます。

「世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか」 『雨の巻』 第十三帖 [347]

〔前略〕 世界の民の会二人でやれよ、一人でしてならんぞ、くどう気つけあらうがな」 『青葉の巻』 第四帖 [473]

「二人でせよと申してあるのは裏表合せて一つぞ。二人で一人でせねばならん。統一ないところちから生れんぞ」 『黄金の巻』 第三十九帖 [550]

 これらの話からは次の内容が読み取れます。

役割はたらきまっとうすることが“二本や大和の在り方”である」

 そういった点がほん大和やまとに掛けてあり、日月神示の説く“日本の神の仕組”の国の在り方”日本まんなか精神”に話が繋がって行きます。

 故に、日月神示では大和やまと魂”“神の魂”も、二本や大和と同様の意味を有します。

「この道の役員はおのれが自分でおのづからなるのぞ、それが神の心ぞ。人の心と行ひと神の心に融けたら、それが神の国のマコトの御用の役員ぞ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。神と臣民 融け合った大和魂でないと勝てんことぞ」 『松の巻』 第十八帖 [309]

〔前略〕 皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。〔後略〕 『光の巻』 第三帖 [399]

大和やまとだましいとは神の魂ぞ、だいたまぞ、マツリの魂ぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

 そうであればこそ、だい大和やまと魂や神の魂の本質的な側面は和合マツリにあるとのことです。

「天子様を拝めよ、天子様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ」 『富士の巻』 第二十一帖 [101]

「悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、ことごとく中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

「この道開くには誠ぢゃ、誠とはごとぢゃ、仕事ぢゃ、まつりぢゃ、あなないぢゃ、しめ松ぢゃ、むすびぢゃ。わけへだては人間心、〔中略〕 分け隔てと云ふ事なく一致和合して神に仕へまつれよ、和合せねば誠のおかげないぞ。先づ自分と自分と和合せよ、それが和合の第一歩、アメツチ心ぢゃぞ、すべては そこから生れ来るものなのぞ」 『青葉の巻』 第六帖 [475]

「マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリ致して居らうがな。霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。二二のマツリ、出船の港ぢゃ」 『春の巻』 第二十一帖 [678]

「タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ」 『春の巻』 第五十六帖 [713]

 上記の内容は「神と同じ境地こころに至る」と受け止めても良く、「想念と発言と行動に神の意向こころたがう所が無い」という意味において、“神懸かり”惟神かんながらに区分されます。

〔前略〕 神カカリとは惟神かむながらの事ぞ、これが神国のことの臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]

「一たべよ、二たべよ、食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ、神にそなへてからかむのざぞ、かめばかむほど神となるぞ、神国ぞ、神ながらの国ぞ。かみながら仕事してもよいぞ」 『水の巻』 第六帖 [280] この帖では、食物を咀嚼して食べることを、常に神を生きるという意味で、「噛むながら」と「神ながら」を掛けてあります。また、『水の巻』第十五帖では、上顎と下顎が立てに相当することが暗示されています)

惟神かんながらの道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神かんながらとは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらのとなるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の神に捧げるのざぞ、神のとなること嬉しいであろがな、惟神かんながらのミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神かんながらの道と申すぞ」 『紫金の巻』 第十二帖 [991]

 恐らく、大和、大和魂、神の魂、和合マツリ、神懸かりとして語られる天地一体や神人合一のの姿は、“神と同じ境地すがたを指しており、

惟神かんながらの道”とは合わせ鏡の、映し合うすがたことを指します。

 そのような状態すがた「心に神が満ちること」であり、ツキを包摂したミチの意味の一つになります。

「道とは臣民に神が満ちることぞ、神の国の中に神がみちみつることぞ」 『下つ巻』 第一帖 [43]

「道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「道とは三界に貫く道のことぞ。宇宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

 そうやって“正しい因果めぐりを確立し、人の心が、他のものはらしく、心の光が不安の雲に遮られることがない状態が、“富士晴れ”“日本晴れ”の一面です。

「此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理 判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事 聞いてくれよ」 『日月の巻』 第三十六帖 [209]

〔前略〕 神 激しく臣民 静かな御代となるのざぞ、にち毎日 富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ」 『日の出の巻』 第四帖 [217]

「めぐりあるから心配あるのぞ。めぐり無くなれば心配なくなるぞ。心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ」 『水の巻』 第九帖 [283]

〔前略〕 神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとは その事ざぞ」 『松の巻』 第三帖 [294]

「皆々不足なく、それぞれに嬉し嬉しざぞ、不足ない光の世 来るぞ」 『梅の巻』 第二十三帖 [450]

「損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ」 『黄金の巻』 第八十三帖 [594]

「めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組。そなたの心配 一応は無理ないなれど、何処で、どんなことをしてゐても、みたま磨けてさへ居れば、心配なくなるぞ。心配は、磨けて居らぬ証拠ぞ。そなたはものに不足するとこぼして御座るなれど、ものに不足するのは、心に足らぬ所があるからぞ。心いたれば ものいたるぞ」 『月光の巻』 第三十六帖 [823]

 結局の所、晴れとは天地一体や神人合一と同じ意味であり、本質は「役割はたらきまっとうすること」にあります。これは“持ちつ持たれつ”であり、卑近な言い方をすれば“心と体の均衡バランスになります。

「何もかも持ちつ持たれつであるぞ、臣民喜べば神も喜ぶぞ」 『下つ巻』 第三十五帖 [77]

「何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが、善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。悪でない悪とあなないてゐるのざぞ。此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ」 『日月の巻』 第九帖 [182]

「人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。神は光ぞと申してあらうが」 『風の巻』 第九帖 [360]

〔前略〕 今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。〔後略〕 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「天使と云ひ、天人と申すも、みなそれぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、この道理判りたら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、もちつもたれつであるから、三千世界であるから、地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、遠くにあるのでないぞ。同じ所にあるのであるぞ」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

「霊ばかりよくてもならん。体ばかりよくてもならん。もちつもたれつの世であるぞ」 『黒鉄の巻』 第十七帖 [635]

「宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。〔中略〕 一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう」 『春の巻』 第三十帖 [687]

 このような均衡バランスの取れた状態を尊ぶ意識がほんの仕組の根底”に存在し、神々の目から見て神国にほんは、霊性と物質性の平衡バランスを保ちながら発展を遂げて来た、非常に模範的な国であるそうです。

「心とは神民の申す心でないぞ、身魂とは神民の申す身魂でないぞ、身魂とは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、神の神民 身と魂のわけ隔てないぞ、身は魂、魂は身ぞ、外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり、神は身魂の別ないぞ、この事分りたら神の仕組みが ぼつぼつ分るぞ」 『上つ巻』 第十四帖 [14]

「臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆 何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ」 『富士の巻』 第八帖 [88]

「神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「神の国は元のキの国、外国とは、幽界とは生れが違ふのぢゃ」 『岩の巻』 第五帖 [370]

 そのことを受けて、カミの国”たる日本は、「神の助力が無ければ立ち行かない国であること」も明言されています。

ばかりでもならぬ、ばかりでもならぬ。がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民はでありたが、が神国に残りが外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。もかたわもかたわ、と合はせて まことのかみの世に致すぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「外国は、神の国はと申してあるが、は神ざ、は臣民ぞ、ばかりでも何も出来ぬ、ばかりでも この世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯してくれと申してゐるのぞ、神けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行はを綺麗にする行ぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ」 『地つ巻』 第六帖 [143]

「神は、臣民は、外国は、神の国はと申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国 真中。人の真中には神あらうがな」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ、人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ。タマとコト合はしてまつり合はして真実マコトと申すのぢゃ。をまつりたものぢゃ、物無くてならんぞ、タマなくてならんぞ、マコト一つの道ざと申してあろがな、わかりたか」 『風の巻』 第六帖 [357]

「神国は神力受けねば立ちては行けんぞ、神なくして神力ないぞ、神なくなれば丸潰れざぞ」 『光の巻』 第八帖 [404]

 そういったニホンの国の在り方”が、神たるまんなかに繋がった状態として、まんなかの在り方”なのです。

 この在り方は、天と地、神と人、霊と体、陽と陰、善と悪などの、清浄で正常な真実マコト状態すがたに通じ、全体を形成する部分的な要素の一切を包括した中間まんなかの状態”として、大和魂と同義の日本まんなか精神”と呼ばれます。

「まだのみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、でなくてはならん、と申してだけでもならんぞ、が元ぢゃ、内ぢゃ、は末ぢゃ、外ぢゃ、から固めて下されよ、はおのづから出来てくる、ふさはしいが出来てくるのぢゃ。今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、気つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、くどう申してゐるのぞ」 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

 上の帖には「日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ」とありますが、不変にして不動の的な原理をに見立てる側面と、を両立した状態をに見立てる側面の両方を含める形で、と呼んでいるようです。

 そのことを、“真理に立脚した在り方”“神の意向こころを中心に据えた生き方”として、日本人が歩むべきほんたることを説き、日本精神と称しているのでしょう。これらが意味するものは、大和、大和魂、神の魂、和合マツリ、神懸かり、惟神かんながらと何ら変わりません。

 同様に、こういった末代動かぬ精神や真中精神は、天と地の“正中の大道”“中行くとしても語られます。

「この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ」 『地つ巻』 第四帖 [141]

「右行く人、左行く人とがむるでないぞ。世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ」 『磐戸の巻』 第七帖 [243]

「この道は中行く道と申してあろがな」 『磐戸の巻』 第九帖 [245]

「此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ」 『松の巻』 第十一帖 [302]

「世の元からの仕組、中行く仕組、あっぱれ三千世界 結構であるぞ」 『雨の巻』 第八帖 [342] 第一仮訳)

「三エスのかんだからと、スリーエスの神宝とあるぞ、〔中略〕 一方の3Sより判らんから、人民 も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな」 『雨の巻』 第九帖 [343]

「光る仕組、中行く経綸しくみとなるぞ」 『風の巻』 第六帖 [357]

「大層が大層でなくなる道が神の道ざぞ、この道 中行く道、読みて早うガテン結構ぞ」 『空の巻』 第十一帖 [466]

〔前略〕 この道は中ゆく道ざと申してあろうが、行く道、動く道であるぞ、の外の中であるぞ、中の道は太神の道、中行く道が神の道、人の道ぢや、判りたか」 『春の巻』 第三十九帖 [696]

「そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩きながら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。正中の大道あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]

 上記の中行くの内容は、一般的な言い回しでの“第三の選択”に似ており、日月神示では“立体”の言葉で言及される場合が非常に多いです。またなかには、内、奥、元、始、上、などの意味も含まれるので、の道”の道”とも言い換えられます。

 こういったことをちゅうしん的な原理を奉じること”ぜんたい意向こころに沿うこと”として、真ん中精神や日本精神という言葉に含ませてあるらしく、極言すれば、

日月神示の説く二本とは“真ん中”を意味します。

 故に、そのような道理を奉じるカミの国の“真の旗印”は、を加えたであるそうです。

「見渡す限り雲もなく、富士は晴れたり日本晴れ、海は晴れたり日本晴れ、港々に日の丸の旗 ひるがえる神の国」 『水の巻』 第一帖 [275]

とは外国の事ぞ、が神国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ」 『雨の巻』 第二帖 [336]

「魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ」 『雨の巻』 第五帖 [339]

「二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、かみの国の旗印と、もとつかみの国の旗印と同様であるぞ、であるぞと知らしてあろがな、にも二通りあるのざぞ、スメラの旗印とと申して知らしてあろがな、今は逆ざぞと申してあろがな、このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ、岩戸開けんぞ。よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ」 『風の巻』 第二帖 [353]

 これらの記述は、“赤”の補色や太陽ひかりの残像が“緑”であることから、物事はと言いたいのでしょう。

 そして、日の丸は一見するとの旗”ですが、には気や霊や神や概念や原理などの“見えないとして存在し、が見える者にとってはの旗”になります。そのことを理解すれば、上の帖のひのまるの意味は読み解けるはずです。

 要するに、二本立ての仕組の目的は、的な要素と的な要素が和合マツリしたまんなかを生み出すこと」にあり、本質的な側面はのです。

 そのような“密意”を前提にすれば、次の表現が可能になります。

富士は晴れたり日本晴れとは「三界を日本まんなかにする」という宣言です。

 なお、ここでの日本は均衡バランスが取れたカミココロに沿うという意味であり、前項までに論じた“広義の神界”“六六六のミロクの世”と全く同じです。この点は誤解を招き易いので、日月神示でも注意を喚起しています。

「神の目には外国もヤマトもないのざぞ。みなが神の国ぞ」 『地つ巻』 第十五帖 [152]

「神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ。虫けらまで、天子様の御光に集まるよろこびの世であるぞ」 『松の巻』 第十一帖 [302]

「日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「外国を日本の地面にせなならん、日本とニホンと取違ひすな」 『梅の巻』 第十四帖 [441]

「世界から見るから日本が日本ぞ、も一つ上の世界から見れば世界は日本ぞ、神国ざぞ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの、三千世界の大道ぞ。教でないぞ。八分の二分はマコトの日本人ぢゃ。日本人とは世界の民のことぢゃ。一度日本すてよ。日本がつかめるぞ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]

 これらの意味は「神の心に沿わぬを神の心に沿うにする」という意味であり、国家的、領土的、民族的な日本のことではありません。それを受ける形で「日本人とは世界の民のことぢゃ」と書いてあるのでしょう。

 そのような意味が込められた“世界晴れ”の記述も見受けられます。

「富士は晴れたりせかいばれ、岩戸あけたりばれぞ」 『キの巻』 第十七帖 [274] 第一仮訳も第二仮訳も同じ振り仮名です)

 とは言え、世界の大陸の縮図ひながたであるの国”は、今回の立替え立直しにおいて、特別な役割をにないます。これは、天と地、神と人、神界と幽界、霊界と物質界だけではなく、だからです。

「神の国は神の肉体ぞと申してあるが、〔中略〕 それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、なかの国であるからぞ」 『夜明けの巻』 第二帖 [322]

の国 真中に神国になると申してあろがな」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「神国の誠の因縁 判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天子 天下平げて、誠の神国に、世界 神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]

「神の国は真中の国、土台の国、神の元の鎮まった国と申してあらうがな。神の国であるぞ」 『岩の巻』 第八帖 [373]

「神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、しもの神々様にも分らんぞ。〔中略〕 神の国は神の力で世界の親国になるのぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]

「神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ」 『下つ巻』 第二十六帖 [68]

「臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「日本の国は世界の雛形であるぞ、雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけて居りてくれよ」 『地つ巻』 第十七帖 [154]

「今に日本の国の光 出るぞ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ」 『日の出の巻』 第八帖 [221]

「何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「いざとなれば昔からの生神様 総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ」 『磐戸の巻』 第二十帖 [256]

「外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん」 『春の巻』 第四十二帖 [699]

「二二の二の五つの今あけて、よろづゐんねん出づる時来ぬ。てんが地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国がかんだいぢゃ」 『星座の巻』 第二十三帖 [906] 甘露台とは奈良の天理教の言葉であり、大雑把に言えば“神の御用に使われる道具や人間”のことです)

 このように、日本人が神の御用に使われて、最終的に日本は“国常立神の御神体”“世界の霊的中枢”として相応ふさわしい輝きを発するそうです。そのことはもとの国”出づる国”の言葉を使って言及されています。

「日本が秘の本の国、ウシトラのかための国、出づる国、国常立大神がウシトラの扉をあけて出づる国と言うことが判りて来んと、今度の岩戸ひらきは判らんぞ、こんなことを申せば、今のエライ人々は、古くさい迷信ぢゃと鼻にもかけないなれど、国常立命がウシトラからお出ましになることが岩戸ひらきぞ、今の学では判らんことばかり」 『極めの巻』 第四帖 [931]

 恐らく、日本人が神の御用をまっとうし、世界に先駆けての在り方”を体現することによって、

日本の国は“新しきたいようが昇る国”として光り輝きます。

 それがカミが表に出ること」なのでしょう。

「一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中 救ふのであるぞ」 『地つ巻』 第三十帖 [167]

「向ふの国いくら物ありても、人ありても、生神が表に出て働くのざから、神なき国は、いづれは往生ざぞ。この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、腹帯しっかり締めてくれよ。重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、守護神殿にたのむぞよ」 『磐戸の巻』 第十九帖 [255]

「世に落ちておいでなさるおんかたおんひとかた、竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ」 『キの巻』 第十三帖 [270]

「いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国 光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ」 『水の巻』 第十一帖 [285]

 そして、が光り輝く姿”を象徴化した記号が、であると思われます。

「日本は別として世界七つに分けるぞ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ」 『下つ巻』 第二十六帖 [68]

「天地和合してとなった姿が神の姿ざぞ。こころざぞ。あめつちではないぞ。アメツチざぞ。アメツチの時と知らしてあろうが」 『夜明けの巻』 第一帖 [321]

おうの世 おうの世にせなならんのざぞ、今はをうの世ざぞ、わうの世 の世となりて、おうの世に入れておうの世となるのざぞ。〔中略〕 の世輝くととなるのざぞ、と申して知らしてあろがな」 『風の巻』 第一帖 [352]

 手順的には、逆様に引っ繰り返ったの世”が、元に戻っての世”になり、国々にが鎮まっての世”になり、世界中の国がの世”になるのでしょう。

 この場合、真ん中に鎮まって全てを繋ぐは、“神の心”と呼ぶのが適切であるはずです。

「口と心と行と三つ揃ふたら今度は次に入れて下されよ、は神ぢゃ、神示ぢゃ、神示元ぢゃ、と申してあろが、三つ揃ふても肝腎の神示 肚に入って居らんと何にもならん事になるぞ」 『梅の巻』 第八帖 [435]

「神示は神の息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

「人民なくて此の世の仕事出来ん。人民は道具ぢゃ。神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。道具だけでならん」 『春の巻』 第二十四帖 [681]

 そのようなが入った世界”の姿を説く記述は他にもあります。

「人、神とまつはればしうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実まことの神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ、と申してあろが、戦もと壊し合ふのでは無いぞ、とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]

「何も彼も、神の国に向って集まる様になってゐるのざぞ。神の昔の世は、そうなってゐたのざぞ。磁石も神の国に向く様になるぞ。北よくなるぞ。神の国おろがむ様になるのざぞ」 『夜明けの巻』 第二帖 [322]

「この世は一つの神で治めんことには治まらんぞ、でくくるのぢゃぞ、人民の力だけでは治まらんのぢゃぞ、一つの教となってそれぞれの枝葉が出て来るのぢゃ、今では枝から根が出て大切なミキがなくなって居るのぢゃぞ、中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな、神と人と一つになって一つの王となるのぢゃ、上下揃ふて一つになるのぢゃ、善も悪もあななひて、一つの新しき善となるのぢゃ、王となるのぢゃぞ」 『海の巻』 第七帖 [499]

「ミロクの世となれば世界の国々が それぞれ独立の、独自のものとなるのであるぞ。ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又 自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ」 『秋の巻』 第九帖 [750]

「統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう」 『秋の巻』 第十六帖 [757]

 恐らく、ミロクの世では五大陸の縮図ひながたである日本が、カミココロを真っ先に体現したまんなかの国”として、名実共に“世界のへそになると思われます。そこに見られる、

“天地人が一つに連携する姿”だいであり、大和やまとの在り方”と言えましょう。

 その様相の呼び方が、カミの国、なかの国、光の国、出づる国、二本の国などであり、世界の全ての国が元の神の御心に沿う神国にほんになった姿は、“日本晴れ”の意味の一つであるはずです。

「富士は晴れたり日本晴れ。神の国のマコトの神の力をあらはす代となれる、〔中略〕 神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るは神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、皆 神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いてくれよ。〔中略〕 口と心と行と、三つ揃うたマコトをみことといふぞ。神の臣民 皆 みことになる身魂、掃除身魂 結構」 『上つ巻』 第一帖 [1]

「この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばしてくれよ、臣民 喜べば神も喜ぶぞ、神喜べば天地光りて来るぞ、天地光れば富士晴れるぞ、富士は晴れたり日本晴れとは この事ぞ。このやうな仕組で この道ひろめてくれよ、それが政治ぞ、経済ぞ、ぞ、分りたか」 『下つ巻』 第三十一帖 [73]

「天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

「岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ」 『日月の巻』 第二十八帖 [201]

「日本の、世界あけたり。あなスガスガし、日本晴れぞ。は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

 日月神示の始まりである「富士は晴れたり日本晴れ」は、長閑のどかな日本の風景を詠んでいるように見えますが、実際にはカミココロとしてのの道が三界にあまねく浸透した情景」ことぐ、非常に奥深い歓喜よろこびの歌”なのです。

 以上の内容から、日月神示では一つの言葉が、常に“重層的”な意味を有することが判ります。そこで、次項では二十二晴れや二本晴れに共通する背景バッボーンとして、の善悪観”を掘り下げます。

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善悪の彼岸

 前項までに論じた二十二フ ジ晴れや二本晴れの共通点として見えて来るのは、新しい理想の状態を生み出すための“物事の重要性”です。

 ここでの両面には“合わせ鏡”である天と地を筆頭に、陽と陰、霊と体、神と人など、極めて多くの事例が含まれます。これらは上に対する下、左に対する右、前に対する後、表に対する裏のように、片方が生まれると“対偶の概念”です。

 基本的に対偶はので、そのことが日月神示の説く「善悪はあるがの背景になっています。

「神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬはずぞと申す者 沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ」 『上つ巻』 第二十帖 [20]

〔前略〕 この世の悪も善も皆 御用と申してあろが。身魂相当の御用致してゐるのざぞ」 『キの巻』 第十七帖 [274]

「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな」 『青葉の巻』 第十一帖 [480]

「大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ」 『黄金の巻』 第三十帖 [541]

「善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。マコトの天国には喜びのみが生きてゐるのであるぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614]

「今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様であるぞ、取違いせぬように、悪と申しても魔ではないぞ、アクであるぞ」 『碧玉の巻』 第八帖 [872]

 この点を踏まえて、

神示では対偶の全般をと総称します。

 それもあってか、の説く善と悪は、プラスマイナスの関係にある“日と月”や、天と地と殆ど同じ意味であるれいたいを念頭に置いて語られる場合が非常に多いです。そのため、

日月神示を降ろした神霊がつきのかみと名乗るえんげんぜんあくの関係”にあります。

 故に、日月神の名に秘められたぜんあく観”を論じれば、れいたいの一体性が根底にある二十二フ ジ晴れと真理”“二本晴れと大和”の概念的な背景バックボーンを浮き彫りにできます。

 そこから見えて来るのは、“対偶の統合むすびという歓喜を増す宇宙の姿であり、

日月神とはぜんあくを結ぶ神”なのでしょう。

 こういった善悪の“超越”“向こう側”に類する内容を、せいどうどうの在り方と絡めながら、【ぜんあくがん】と題して考えてみます。

 そして、先に結論的な部分を要約すると、「善悪はある」「善悪は無い」の視点のようです。

「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理 分りたら それが善人だぞ」 『天つ巻』 第二十三帖 [130]

 この考察により、の善悪観が日月神の宇宙観からの“必然的帰結”であることが判るはずです。


 日月神示において、理想世界であり三千世界の実相でもあるてん一体のあめつちの実現には、れい必要があります。これを言い換えると役割はたらきを排さない」になります。

 そのため、結果的に天や神や霊を排する地上人の物質世界を前提にした意識は、“科学的平面的行為”との呼び方で極めて厳しく批判されています。

「霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体のうごきをなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。〔中略〕 善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 ここで、物質世界のみを前提とする意識が“悪そのもの”と呼ばれるのは、局部的な傾向を全体に当て嵌める過ちを犯しているのと同時に、

的なを排除する行為は、対偶を結ぶを阻害するだからです。

 そして、上の帖のという言葉に見られる日月神示のぜんあく観は、“正道の善と平衡バランスを主軸に展開されています。

 これは難しい話ではなく、天と地であり、陽と陰であり、神と人であり、表と裏であるれいの関係”が、正道の善と正道の悪の“最も適切な代表例”として語られているに過ぎません。

 言うまでもなく、日月神様はの両方が栄えること」を望んでいらっしゃいます。

〔前略〕 れいもつのみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである」 『地震の巻』 第四帖 [381] 霊物は「霊的な」という意味です)

「すべての善はより起り、にかえるのと同様、総ての悪もまたより起りにかえる。故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する」 『地震の巻』 第十五帖 [392]

 その上で、役割はたらき的な交流うごきどうは、である“外道の善”“外道の悪”を指しており、“極度の偏向アンバランスを意味します。

「神の申すやう、神の息 戴いて下されよ。天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢゃぞ」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540]

「道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。スリーでないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう」 『春の巻』 第三十九帖 [696]

「光は上から人民に与へられてゐる、光に向ふから照らされるのざ、光はの真、善、美、愛となり、又そのうらの疑、悪、醜、憎となり現はれるのであるぞ、御用の善となり御用の悪となるのざ、悪にくむでないと申してあろう、悪にくむは外道の善であるぞ。〔中略〕 善にも外道あるぞ、心得よ」 『春の巻』 第四十一帖 [698] 昭和二十七年版)

「調和 乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「物質偏重の世は やがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ」 『至恩の巻』 第八帖 [955]

 他にも、少しだけ注意が必要な“善”の記述も引用します。

〔前略〕 それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。善にも外道の善あるぞ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]

 この帖の文意は「正道の悪を排する善は外道の善となって先細り、正道の実現のための善ならば正道の善として弥栄する」であると思われます。

 また、「のためのならば弥栄えるぞ」は「のためのならば弥栄えるぞ」が第一義的な意味かもしれません。何故なら、「全」と訳せば直前の「己のためのみならば死し」に掛かることになり、前後の文意が明確に繋がるからです。

 そのような“局部的であることの弊害”もしくは偏向アンバランスの害悪”を逆説的に説いたとも言える、全体すべての記述も引用してみます。

「生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなすが歓喜していた、そのが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相はの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的に向って弥栄する面と、外的、地上的に進むと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄すると、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

「他の為に苦労することは喜びであるぞ。全体のために働くことは喜びぞ。光の生命ぞ」 『黒鉄の巻』 第三帖 [621]

「全体の為 奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。早合点 禁物」 『春の巻』 第五十帖 [707]

「総てに感謝せよと申してあろうが。総てのものに、それ相当の意義あるぞ。全体的には喜びせねばならん」 『夏の巻』 第一帖 [718]

「犠牲になることを尊いことぢゃと申してゐるが、犠牲に倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ」 『月光の巻』 第三十三帖 [820]

「そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神のはらの中にゐて、一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。悪く映るのは心のかがみが曇ってゐるからぞ。悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ」 『月光の巻』 第五十帖 [837]

 この辺りの“正道と外道”“全体と局部”の話には、の宇宙観の中核たる「神は宇宙を創り給わず」や「神の中に宇宙を生んだ」が背景にあります。

「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

「神は宇宙を創り給はず。神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] 第一仮訳)

「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]

「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構」 『月光の巻』 第九帖 [796]

「神は宇宙を創り給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切な別れ道で御座るぞ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]

 同時に、そのような宇宙観によって「善と悪への理解が進む」とも書かれています。

「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ。このこと よくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと善悪のこと、よく判って来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

 簡単に説明すると、「宇宙の全ては神がもの」であるが故に、を抹殺せんとするの一部を消滅させる行為になってしまい、結果的にことに繋がるそうです。

〔前略〕 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずしてであることを知らねばならない。〔中略〕 地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。〔中略〕 地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである」 『地震の巻』 第四帖 [381]

 恐らく、一部どこかの抹殺は自己否定や自己矛盾として、究極的に“自殺”に行き着くのでしょう。神が拒絶しているがあるとすれば、の意に沿わぬ“外道的なであって、のです。それも“正道的な在り方”ことによって肯定的に解消されます。

 逆に言えば役割はたらきを正確に活用してを繁栄させること」が、の意に沿うの在り方として、結果になります。

 そのため、日月神示ではを混同しないように、“悪でない悪”“影でない影”などの表現を使って注意が促されています。

「斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道 知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「上から来るものは光となって流れてくるのざ。光に本来 影はないのであるが、動くから影がうまれる。それを影でない影と申すぞ。悪でない悪あると申してあろうがな」 『春の巻』 第四十一帖 [698]

 ここでの悪や影はプラスに対するマイナス太陽に対するのようなものであり、であっても決してではありません。その上で「地上人はの性質が強い」とのことです。

「われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。〔中略〕 神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。〔中略〕 月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性を そのままうけついでいる場合が多い。〔後略〕 『地震の巻』 第一帖 [378]

 太陽の霊人が住む世界は“神界”もしくは“狭義の霊界”に相当し、の霊人が住む世界は“幽界”に相当するはずです。二つの世界は、共に“広義の霊界”を形成します。

 ただし、幽界は御用のとしての一面ではあるものの、に転じ易い傾向がある」そうです。

「この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪が この世にうつる」 『黄金の巻』 第三十八帖 [549]

「天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又 天に反影するのであるが、まだまだ地にはでこぼこあるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「悪を意志して善を理解すること許さんぞ。悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。悪を意志して悪を理解する処に、善としての悪のはたらきうまれるのざ。幽界もまた神のしろしめす一面のこと」 『黒鉄の巻』 第十三帖 [631]

「人間の死後、自分のイノチの最も相応フサワしい状態におかれるのであるぞ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]

「外道とは上からの光が一度 人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ」 『春の巻』 第四十一帖 [698]

〔前略〕 又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ」 『竜音の巻』 第四帖 [912]

 上の引用でのれいかいを外れた在り方”から考えるに、

の機能を引き起こす“局部的な循環”であり、長期的にはを招きます。

 即ちの死”です。結局の所、

正道の悪を排する善は外道の善になってを助長します。

 そうであればこそ、局部的な循環にまいしんし、三界の機能不全を拡大する天や神や霊や立体軸を排する物質世界のみを前提とした意識は、平面的、局部的、利己的、刹那的なとして、に位置付けられるのでしょう。

「まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか」 『富士の巻』 第二十二帖 [102]

「悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

〔前略〕 マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

「和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり」 『青葉の巻』 第十一帖 [480]

「悪とはわれよしのこと」 『青葉の巻』 第八帖 [477]

〔前略〕 悪のやり方よ、早う善にまつろへよ、まつろへば悪も善の花咲くのぢゃぞ」 『海の巻』 第九帖 [501]

「調和 乱すが悪ぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「神は善人の中にも悪人の中にも呼吸してゐるぞ。悪なくては生きて行けん。悪は悪でないぞ。外道の悪が悪であるぞ」 『黒鉄の巻』 第十六帖 [634]

 この点に関しては“人体の機能はたらきたとえると判り易いかもしれません。恐らく、

人の想念は“三界の血液”に相当します。

 ですから、血液のによって、が塞がったり栄養が行き渡らなくなるのは、が困る結果を生むのです。

 故に身体からだたる宇宙の隅々に栄養をめぐらせるには、全ての生命体ひ との想念を“本来の循環めぐりに組み込む必要があります。それが正しいの中に戻すであり、“正しい因果めぐりの確立になります。

「めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

 そして、外道がに戻った正道の在り方は“春秋はたらきと呼ばれ、対偶的かつ表裏一体の呼気と吸気としての呼吸”に位置付けられます。

〔前略〕 何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである」 『地震の巻』 第十八帖 [395]

 上の帖では、しゅんじゅうじつげつ“善悪”と呼ばれ、ぜんあくの二者の統合むすびミチである“新しきぜんを生むことが描写されています。同様の記述を もう一つ引用してみましょう。

「今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んでさとりて下されよ、今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ。〔中略〕 善も悪もあななひて、一つの新しき善となるのぢゃ、〔後略〕 『海の巻』 第七帖 [499]

 ここから判るように、

ぜんあくの用の本質は“三を生むこと”にあり、の弥栄”を目的とします。

 その最も判り易い事例が、対偶の結びの最たるであるあめつちの実現”です。そこからは“日月神の心”の一面が読み取れます。

ぜんあく全体すべてを活かす意思こころつきのかみの名に込めている」

 このような“日月のこころが、対偶的な存在がぜんあくの呼吸”になります。そうやって天地ぜんたいが更に光り輝いて弥栄する」とのことです。

「愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。〔後略〕 『地震の巻』 第五帖 [382]

「霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上に於ける場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる」 『地震の巻』 第十四帖 [391]

 こういった呼吸が、対偶を結ぶ“正道の善と正道の悪の平衡バランスとして日月神示の善悪観の骨子になっており、“神のむね“生きたる真理の大道”とすら呼ばれます。

〔前略〕 愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

〔前略〕 これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されてゐるのである。その秩序、法則、統一は一応完成してゐるのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する、故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが生命の本体であって、限られたる智によって、このうごきを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もあるのであるが、これこそ善を生かして更に活力を与へ、悪を浄化して御用の悪とし、必然悪として生かすことであり、生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。〔後略〕 『地震の巻』 第七帖 [384] 第一仮訳)

〔前略〕 神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」 『地震の巻』 第十五帖 [392]

 同時に、全体を正しい循環や呼吸や脈拍は、“大宇宙の鉄則”として“フトマニ”と呼ばれ、に深い関係を持つ」と明かされています。

「総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、ようにも変化して誤らない、の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

 結局の所、大宇宙はを含む“全ての存在いのちいやさかを目指して呼吸や脈動を繰り返します。故に、

体を成させるが、神の御旨や真理の大道や“日月神のはたらきなのです。

 それが、すらほうせつする“全を善とする在り方”です。このことは「全体と永遠の視座から考える」という風に語られます。

「今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

 以上のように、局部的で短期的な平面次元での対立や矛盾を、全体的で長期的な“立体的な展開うごきによって解消した統合むすびの状態が、“神のの姿”として、惟神かんながらの歓喜”“大和”に相当するのでしょう。

「歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をとする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 そうであればこそ、日月神様はを排しません。何故なら、

対偶たるの存在はの弥栄への活力”だからです。

「念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん」 『春の巻』 第四十六帖 [703]

 もし排すとすれば、平面次元や局部的な循環にとどまるわけですが、これは「を排すを排す」という格好になり、存在の否定や抹殺とは似て非なるものです。

 ですから、神の御心はを抱き参らせてにあります。

「善の御代 来るぞ、悪の御代 来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ」 『磐戸の巻』 第四帖 [240]

「邪はらふとは邪無くすることではないぞ、邪を正しく導くことざぞ、追払ふでないぞ、まつろへよ。引寄せて抱き参らせよ、取違ひならん大切事ぞ」 『マツリの巻』 第五帖 [409]

「今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ」 『海の巻』 第七帖 [499]

「心次第で皆 救はれる。悪には悪の道、それ知らん善の神では、悪抱き参らすこと出来ん」 『黄金の巻』 第三十八帖 [549]

〔前略〕 今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教」 『秋の巻』 第一帖 [742]

〔前略〕 正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。何れも大神の現れであること忘れるなよ。悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「悪を抱けよ。消化せよ。浄化せよ。何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する」 『月光の巻』 第十二帖 [799]

「厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ」 『月光の巻』 第二十八帖 [815]

〔前略〕 悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ」 『月光の巻』 第三十帖 [817]

〔前略〕 悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちにキメつけてはならん、やんわりともちかけて善きに導かねばならんぞ、悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。〔後略〕 『竜音の巻』 第十七帖 [925]

 そして、このような「を排さない」や「に戻す」という日月神の意思こころが、一二三四五六七八に対する“九十”や、一二三四五六七八九十に対するれいもしくは〇一二三四五六七八九十に対する“十九八七六五四三二一〇”などのはんたい役割はたらきの扱いに滲み出ています。

 ちなみに、日月神示ではが隠れた状態せかいを、一二三四五六七八の世、八方世界、平面、闇の世と呼んでいますが、こういった表現は、一二三四五六七八九十の世、〇一二三四五六七八九十の世、十方世界、立体、光の世との対比が強く意識されており、より奥深い意味をいだせるように、非常に繊細な配慮を以て言葉が選ばれたと考えられます。

 一例を挙げると、の世の直前”の神経綸十を“暗闇時代”と称し、地上人がぜんあくの関係の真実まことを完全に把握できていない状態を“闇の世”と呼ぶことなどが そうです。

「善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ」 『磐戸の巻』 第十五帖 [251]

 そのことを受けて、英知ひかりが入り乱れる三千世界の生成化育の最終段階は、最終戦争ハルマゲドンを意味する“地獄の三段目”と呼ばれます。

「今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐてくれよ、地獄の三段目に入ることのおもては一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一」 『富士の巻』 第九帖 [89]

 これらは一二三四五六七八の世が、善悪“新しき太陽ひかりが生まれる時代”であることや、英知ひかりを駆逐した状態せかいに掛けた表現になっています。

 つまり、旧九月八日からの天と地の交流によって、“神懸かり”が始まり、立体へのそのものである平面的で物質的なのです。

「マコトの改心はいよいよとならねば出来んものぢゃが、出来んことも無理もきかねば この峠越せんこともあるのざぞ。天も近うなるぞ、地も近うなるぞ」 『海の巻』 第九帖 [501]

 それが「夜が明ければ闇はなくなる」や「外道は夜明けが来れば消えてしまう」と語られる背景です。

「外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界はカミヒト共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のむねであるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ」 『春の巻』 第四十二帖 [699]

「平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えてしもふぞ。夜明けの御用 大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ」 『春の巻』 第四十三帖 [700]

 これは、れいたいの一体化によって、平面的な地上世界が立体世界の一部として確立されるために、平面は無くなったとせることに似ており、“組み合わせ”によってのです。このような方法がであり、悪を抱き参らせることになるのでしょう。

 だから、上の引用ではを抱き参らせてたるにした結果、と語られているのです。また、そうであるが故に、「新天地では悪を憎む想念は無くなる」とのことです。

「一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ」 『地震の巻』 第七帖 [384]

「悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、この道理 腹の底から判りて、ガッテンガッテンして下されよ」 『空の巻』 第八帖 [463]

「物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。文明も神の働きから生れたものぢゃ。悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。善にくむよりなお悪い。何故に判らんのか」 『黄金の巻』 第九十七帖 [608]

「善と悪との動き、心得なされよ。悪は悪ならず、悪にくむが悪」 『黄金の巻』 第九十八帖 [609]

 そのようにして、ぜんの世界の住人とあくの世界の住人の的な交流うごきが加速し、地上人の平面的な暗闇の意識状態が改革されて行きます。これは“正中の大道”とも呼ばれます。

「現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰りのない道、新しき世界への道である。平面のみではどうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか。黒船にびっくりしては間に合わん」 『月光の巻』 第十八帖 [805]

「そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]

 同時に、日月神示では霊界人と地上人の交流を、“神の道”及び“光の道”と称します。

「宗教連合会も世界連合も破れて了ふと申してあらうがな、つくった神や神の許しなきものは皆メチャメチャぢゃ、三千世界に手握る時と知らずに、の世界、元の世界を知らんからさうなるのぢゃ、火火の世界、火火の人、水水の世界、水水の人、と交通出来るのぢゃ、人と云っても人間ではないぞ、ヒトカミざぞ、手握って三千世界に天晴れぢゃ、この道 神の道ぢゃ、光の道ぢゃ、教ぢゃ、悪と悪と、善と善と、悪と善と、善と悪と握る手持ちて御座れよ、心持ちて御座れよ、びっくり嬉し箱あくぞ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

 こういったぜんあくが手を握り合うまっとうする在り方”こそが、体の成や二十二フ ジや二本やあめつちに通じる姿と言えます。故に、

二十二フ ジは晴れたり二本晴れには“完という神意が秘められているはずです。

 このような、ぜんあくが手を握って歓喜を増す姿、れいたいの立体的関係への認識、を抱き参らせてに導く心、てんを生んだ宇宙観などが、まこと“神の御旨ひかりとして、日月神示の説く“真理”“新しき太陽”に最も近い内容だと思われます。

〔前略〕 大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜としてはらみ、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく」 『地震の巻』 第三帖 [380]

〔前略〕 限られたる智によって、このうごきを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もあるのであるが、これこそ善を生かして更に活力を与へ、悪を浄化して御用の悪とし、必然悪として生かすことであり、生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。〔後略〕 『地震の巻』 第七帖 [384] 第一仮訳)

「マツリせねば真理は通らん。子供にまつろはねば子供導けん道理」 『黒鉄の巻』 第七帖 [625]

「愛からはなれた信仰はないぞ。善からはなれた真理はないぞ。タネなくて芽は出ん道理」 『黒鉄の巻』 第十九帖 [637] 第一仮訳)

「日本の、世界あけたり。あなスガスガし、日本晴れぞ。は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ」 『春の巻』 第四十五帖 [702]

〔前略〕 神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。〔後略〕 『月光の巻』 第三十八帖 [825]

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

〔前略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

〔前略〕 神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか」 『五葉の巻』 第十二帖 [975]

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 以上のように、合わせ鏡である天と地や霊と体の関係を筆頭に、ぜんあくの存在が一方的で平面的な対立軸の“超越”“向こう側”目指さんとすることが、ぜんあくとして、世の元の神様が説く一二三四五六七八であり、“光の御代”の姿なのです。

「世の元からの仕組であるから、臣民に手柄立てさして上下揃った光の世にするのざから、臣民 見当取れんから早よ掃除してくれと申してゐるのぞ」 『日月の巻』 第十四帖 [187]

「建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「あらたぬし、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草のかきことめて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。〔後略〕 『夜明けの巻』 第十二帖 [332]

「世の元の 神の仕組の 現はれて 三千世界 光り輝く」 『雨の巻』 第八帖 [342]

「今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のおつちの御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国と神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。悪い者殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では何うにもならんであろがな。元のたままで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元のたまに改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居り乍ら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、たまから改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、アメツチぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

「天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あなさやけ、あなすがすがし、あな面白や」 『梅の巻』 第十七帖 [444]

ひかりの輝く御代となりにけり、嬉し嬉しの岩戸明けたり」 『空の巻』 第十四帖 [469]

〔前略〕 天の教ばかりではならず、地の教許りでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度上下揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教と光り輝くのざぞ」 『青葉の巻』 第十九帖 [488]

「物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ」 『春の巻』 第九帖 [666]

 同時に、に戻って、正道の善と正道の悪が共に“全の善”として輝くことが、“善一筋の世”“善悪ない世”であり、光の世の姿であると明言されています。

「何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが、善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。悪でない悪とあなないてゐるのざぞ。此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ」 『日月の巻』 第九帖 [182]

「悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」 『松の巻』 第二十二帖 [313]

「天地引くるめて大建替いたすのぢゃ。天地のビックリ箱とはそのことざぞ。間違ひ出来んうちに、間違はん様 気つけて下されよ。出来てからは、いくら泣いても詫びしても後へは返せん。この方でも どうにもならん元のキの道ぢゃぞ。くどう気付けておくぞ。これまでは道はいくらもあったのぢゃが、これからの道は善一筋ざぞ」 『岩の巻』 第三帖 [368]

〔前略〕 善も悪もあななひて、一つの新しき善となるのぢゃ、〔後略〕 『海の巻』 第七帖 [499]

 こういった内容から推察するに、日月神示では善、真、理、道、神、光が殆ど同一視されており、を降ろした神霊が日月神と名乗るのは、を祓う英知ひかりを伝える」といった側面も含まれるのでしょう。

「人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。神は光ぞと申してあらうが」 『風の巻』 第九帖 [360]

 そもそも、日と月は闇を照らす“光そのもの”であり、文字通り、

日月神は“光のと言えます。

「今の法律でも、教育でも、兵隊でも、宗教でも、この世は建直らんぞ、新しき光が生れて世を救ふのぢゃ、新しき光とは この神示ぢゃ、この神ぢゃ」 『海の巻』 第十五帖 [507]

 同じことを類推させる“新しき光の道”の記述も見受けられます。

「この道は道なき道ざぞ。〔中略〕 この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道で みな生き返るのざぞ」 『地つ巻』 第十二帖 [149]

「いくら偉い役人 頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな」 『水の巻』 第十一帖 [285]

「新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ」 『夜明けの巻』 第六帖 [326]

「此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き、嬉し嬉しのマコトの惟神かんながらの道で御座るぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「岩戸開けたり野も山も、草のかき葉もことやめて、大御光により集ふ、楽しき御代とあけにけり、〔中略〕 御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越しくれよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし」 『風の巻』 第四帖 [355]

「この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、元の神代よりも、も一つキの光り輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。〔中略〕 この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ」 『岩の巻』 第二帖 [367]

「静かに神示よく肚に入れて御用して下されよ。神の道 光るぞ」 『岩の巻』 第七帖 [372]

「途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ」 『梅の巻』 第二十一帖 [448]

「ここは いと古い神まつりて、いと新しい道ひらくところ」 『黄金の巻』 第六十帖 [571]

「十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。この方の道へ御座れ。正しき光の道によれよ。十日で、一月で見ちがへる程になるぞ」 『春の巻』 第四十九帖 [706]

「まことの光の道に行き、進めよ、ここぞと見極めたら、ひたすらに進まねばならん、理窟いらんぞ」 『春の巻』 第五十二帖 [709] 第一仮訳)

「自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマの道でなくては立ちては行かん」 『星座の巻』 第十一帖 [894] ここでの「玉」には“無限の面を糾合した一つの面”といった意味が込められているはずです)

「教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神かんながらの道と申すぞ」 『紫金の巻』 第十二帖 [991]

 このように、日月神様の説くひかり“新しき太陽ひかりになってふっしょくする様子が、神の御旨ひかり姿であり、れいたい姿であり、二十二フ ジや二本が姿なのでしょう。

 そういった“神の願い”を込めた歌が「富士は晴れたり日本晴れ」なのです。その意味において、

二十二フ ジは晴れたり二本晴れは日月ひかりの神の真情”と言えましょう。

 以上のぜんあく観が、三界の真実まこと惟神かんながらの歓喜や光の世の姿として、二十二フ ジ晴れと真理”“二本晴れと大和”の概念的な背景バックボーンになっており、日月神示で“光のきしと称される“神が望む境地こころです。

「此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光のきしに見事つけて喜ばしてやるぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「早う神示読んで神の心 汲み取って、ミロクの世の礎 早う固めくれよ。算盤のケタ違ふ算盤でいくらはじいても出来はせんぞ、素直にいたしてついて御座れ、見事 光の岸につれて参って喜ばしてやるぞ」 『梅の巻』 第二十七帖 [454]

〔前略〕 善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。〔中略〕 悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 恐らくは こういった境地が、“善悪の彼岸に在る光明ひかりなのでしょう。

こんにちまでのおしへは、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教ぞ、この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ、三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々ふへるのみ、悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心はいやさかぞ、本来 悪も善もなし、只 ひかりの栄ゆのみ、また大蛇おろちきんもうも、じゃも皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪いだきませ善もき、あななふ所にちからの、輝く時ぞ来たるなり、善いさかへば悪なるぞ、善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ、只 御光の其の中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、みな一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界 大和して、只 御光に生きよかし、生れ赤児となりなりて、光の神の説き給ふ、誠の道をすすめかし、マコトの道にさかませ」 『海の巻』 第五帖 [497]

 以上のぜんあくの関係を軸とした内容から、二十二フ ジ、真理、二本、大和、富士は晴れたり日本晴れの神意、日月神のことばはたらきなどが、“同一の本源”から流れ出たものであり、決してことが感じられるでしょう。の内容は同じものを異なる角度から眺めており、のです。

 そして、本項では日月神示の善悪観を中心にして、“概念的な側面”つきのかみを論じたので、次項では“原理的な側面”ひつくのかみを取り上げます。

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1+1=3(1)

 前項では二十二フ ジ晴れやほん晴れの背景にある概念的な側面を、日月神示の善悪観から論じました。本項では概念を単純化したとも言える“原理的な側面”を考察します。これは非常に簡単シンプルな【1+1=3(1)】という形で表すことができます。この表現は一見すると奇妙に感じられますが、

1+1の答えが“神のです。

 何故なら、2とは新しき1たる3を生まない在り方だからです。こういったが外道の善と外道の悪であり、神の目から見たになります。逆に、3を生む在り方は“正しいミチとして、に位置付けられます。

 以上の考え方を背景バックボーンに語られているのが、前項までに解説した二十二、二本、あめつち、善と悪の超越むすびなどです。

 そのような背景を“共通点”として認識することにより、次に挙げる“基本的な問い”に一つのが与えられます。

の別名はなのか?」

 この問いについては“天之日津久神が司るはたらきと一緒に、本項で明確な回答こたえを導き出しますが、先に結論的な要点を述べると、

日月神示は森羅万象が辿る筋道をツキミチと総称しています。

 ただし、ので、まずは“一と二と三の対応関係”を図示します。

 簡単な補足を加えると、天之日津久神様は基本的に“永遠の視座”から一二三を説いていますが、人間の頭で全体の構造を把握し易くするための“便宜的な措置”として、大きな一二三の一部を切り取って小さな一二三と形容する場合が散見されるのです。逆に、小さな一二三の中に大きな一二三の姿をいださせようとする例や、一と二の繰り返しを三と呼ぶ例などもあります。

 これらの事例に見受けられる手法が成り立つのは、の説く宇宙観が、極大と極小が同一の形態を有するの構造”、いわゆるそうひながたになっていることに起因します。ですから、本項で論じる一二三の内容も、日月神示と同様に言及していることに御注意ください。

 そのようにしてツキミチを多面的に論じることにより、1+1=3(1)の内容と共に、次の点が徐々に明らかになります。

秘密こたえは最初から明かされている」

 或る意味において「日月神示には無い」のです。そういったことをひつくのかみ、三が道、一神即多神即汎神、一二三、つ、三千世界の大道、はらしだい、秘密などと絡めながら見て行きます。

 これにより、日月神示が同じものを別の角度から言及していることが明らかになり、表層の部分が僅かな“湧き水”に過ぎず、深層の雄大な“本源”で繋がっていることが更に明瞭になります。

 この手法は複数の平面的な見方を組み合わせて“立体的な一つの実像”に迫るのと同じであり、神の仕組の概要をための“必要な手順”と言えます。

 なお、や一二三やミチの言葉で表される“日月神示の中核的な原理”は、本来ならば“三元の象徴”である造化三神やミロクの大神と一緒に解説する方が判り易いのですが、本項では二十二フ ジに関連した部分に絞ったことを御了承ください。


 最初に1+1の結果が3か1になる大まかな流れを、前項で言及した“対偶の象徴シンボルであじつげつを例に挙げて説明します。

 日月神示で対偶はツキで表される場合が多いのですが、そのえんげん“天国での元の神の現れ方”にあるそうです。

「天国の政治は歓喜の政治である、〔中略〕 統治するものは一人であるが二人であり三人として現はれる、三人が元となりその中心の一人はによって現はされ、他の二人はによって現はされる、は左右、上下二つの動きのを為すところの立体からなってゐる、統治者の心奥のは更に高度にして更に内奥に位する中のによって統一され、統治され、立体をなしてゐる。天国ではこのをスの神と敬称し歓喜の根元を為してゐる。スの神はアの神と現はれ給ひ、オとウとひらき給ひ、続いてエとイと動き現はれ給ふのである、これが総体の統治神である、三神であり二神であり一神である。〔中略〕 天国の政治は光の政治である、天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より光と熱とを発してゐるが天国の太陽は一つではなつ二つとして現はれてゐる、一は月球の如き現はれ方である、一は火の現はれ、火の政治であり一は水の現はれ、水の政治である。愛を中心とする天人は常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給ふのである。又それは大いなる歓喜として現はれ給ふ、〔後略〕 『地震の巻』 第十九帖 [396] 第一仮訳)

 これによると、

総体の統治神は三位一体であり、日月ひかりの姿で現れる大歓喜”とのことです。

 つまり、プラスマイナスに代表される対偶ふたつに、対偶に分かれる前や対偶が結ばれた後を含めるみっつとしてのひとつひとつとしてのみっつの側面が、総体の統治神の姿として語られています。この場合は日と月のひつくとしての側面が重要になります。

 例えば、日月神示を降ろしたアメノヒツノカミ様には、「天之日津神」という発音を重視した漢字が当てられます。

 古事記の三貴子のつくよみのみことのように、古語で「月」はツクと訓む場合が散見されるので、ヒツでもヒツでもじつげつの意味であることに違いはないのでしょうが、ヒツの方は「おとこおんなが結ばれること」を意味する「」に掛けてあるらしく、ヒツ以上に結合むすびの意味が強く込められているようです。

 その例証となり得る話が第六巻『日月ひつくまき』の巻名です。この巻は『の巻』と『つきの巻』を一つに数える特殊な巻であり、巻名が指定された帖を原文と一緒に引用してみます。

「日の巻 書き知らすぞ」 『日月の巻』 第一帖 [174] 第一仮訳)

 『ひつ九のまキ』 第一帖 [174]

「日の巻 終りて月の巻に移るぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

ツキ 『ひつ九のまキ』 第二十七帖 [200]

「月の巻」 『日月の巻』 第二十八帖 [201] 第一仮訳。第二十七帖と第二十八帖の間にありますが、第二仮訳では欠落しています)

のまキ」 『ひつ九のまキ』 第二十八帖 [201] 原文Uで確認すると原書にも書かれていたようです)

「この巻二つ合して日月ひつくの巻とせよ」 『日月の巻』 第四十帖 [213]

フタ 『ひつ九のまキ』 第四十帖 [213]

 ここでは二つの巻を個別に見る場合はヒ及びツキと訓み、一体として見る場合はヒツクと訓むように指示されています。

 同様の例証として、日の神と月の神が一体になった“日月の神”三位一体ミ ロ クの大神”であることを明かす、第二十二巻『青葉の巻』第十七帖も引用します。

「日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、月の神ばかりでもならず、そこで月の神、日の神が御一体となりなされて「ミロク」様となりなされるなり、日月の神と現はれなさるなり。「みろく」様が日月の大神様なり、日月の大神様が「みろく」の大神様なり、の御先祖様 の御先祖様と御一体となりなされて大日月の大神様と現はれなさるなり、旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ」 『青葉の巻』 第十七帖 [486]

 原文Uで確認すると、「日月の神」と一つ目の「日月の大神」の日と月は象形文字のようになっており、小さめの円と大きめの楕円を“少し大きめの一文字”として書かれています。その意図を重視して訳すなら、ひつくが妥当であるはです。

 以上の背景から、本論ではつきひつくの双方の意味を包括する意図で、の基本的な呼称を日月ひつくしんに統一しています。

 また、の各帖の署名サインでは「一二」が散見されますが、これはヒツノカミやヒツノカミが第一義的な訓み方になります。

 日月神示の原文では「二」を月や次と訓ませる場合が非常に多く、漢数字の一と二は日と月を象徴する数として“対偶の数霊的な表現”になっています。ちなみに「三」を道と訓ませる例も極めて多いです。

 同様に、対偶の象徴的な記号としてが使われる事例も多く、そこからは一と二を組み合わせた造形たる「三」に対応する表現が、「明」や「」であることが推し量れます。つまり、

ツキカミ“同じことばなのです。

 そして、ツキの一体性”を格別に強調するための言葉が、じつげつや引っ付くなどの意味を内包した「ひつく」や「ミチ」であるというわけです。

 日本の神々は名前がはたらきを表す場合が非常に多いと考えられており、高位の神霊ほどことばはたらきは分割できません。古来から言うように「たいを表す」のであり、ここからは、

天之日月ひつく神様の司る用が“三位一体”であることが容易に想像できます。

 このような背景に基づき、日月神示では“三位一体の原理”が、天地の理、一二三、造化三神、三が道、三元と称されています。

あめつちことわり 書き知らすぞ、〔中略〕 想念おもひの世界が天ぞ、の世界が地ぞ、想念は肉体と一つぞ、二つぞ、三つぞ。〔中略〕 陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒ と カミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ現れるぞ。 よく見て下されよ、一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう、陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ、このこと先づ心得て下されよ。そなた達は父と母と二人から生れ出たのか、さうではあるまいがな、三人から生れ出てゐること判るであらうがな。〔後略〕 『白銀の巻』 第一帖 [612] 原文U準拠)

 以上の内容により、日月神示で展開されるミチを中心とする概念や原理や宇宙観が、“同じから流れ出ていることが判ります。故に、日月ひつく神を論じることは一二三を論じることになり、一二三を論じることは日月ひつく神を論じることになり、その全てがを論じることになるのです。

 これらは多面的な見方によって実相マコトを浮き彫りにするために用意されたであって、日月神示は どの部分を論じてもに向かって導かれます。

 恐らく、全体はが展開したものであるが故に、にこそがあるのです。その“意思の如き道理”の一環として掲げられているのが、日月神という神名であり、一二三という表題タイトルであり、の一節”です。即ち、

二十二フ ジは晴れたりほん晴れ」には日月神や一二三と同じ意味があります。

 その更なる詳細を、ここから論じて行きます。

 では、二十二フ ジ晴れや二本晴れの背景である“日月神示の全体を貫くもの”が、どのような言葉で語られているのかと言えば、その答えはぜんあくが統合した姿である“三”“新しき歓喜”になります。

〔前略〕 何故ならば霊と物とは対応してゐるからである、生前は生後であり、死後は又 生前であって、春秋日月の用をくりかへしつつ弥栄へてゐる。従って霊界に住む霊人たちも両性に区別することが出来る、陽人と陰人とである、陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人の為めに存在する、太陽は太陰によりて弥栄へ、太陰は太陽によりて生命し、歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、又 絶えず反してゐる、故に二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、又は結婚と呼び、霊人の結婚とも称えられてゐる、三を生むとは新しき生命を生み且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心を為し、物質として現はれるものである。霊界に於ける春は陽であり、日と輝き且つ力する、秋は陰であり、月と光り且つ力する、この春秋のうごきを又 歓喜と呼ぶのである。春秋のうごきあって神は呼吸し、生命するとも云ひ得る、又 悪があればこそ生長し、弥栄し且つ救はれるのである、故に神は悪の中にも善の中にも、又 善悪の中にも悪善の中にも呼吸し給ふものである」 『地震の巻』 第十八帖 [395] 第一仮訳)

 上記のように、ツキ対偶ふたつ統合した三番目の状態としての“新しきひとつの実現”が重視されており、そのことが三や新しき歓喜と称されています。ちなみに、ふたつに分かれる前のひとつは、れい番目”“以前の三”という側面も有します。

 こういった全体の流動の様相から判るように、

ミチ“同一の原理はたらきを表しています。

 これはアイウエオの五音を包括して行と呼んだり、一二三四五六七八の世を方世界、一二三四五六七八九十の世を方世界と呼ぶのと同じで、先頭はじめ最大おわりに相当するものが“全体の象徴”になるのは、多くの言語に見られる省略表記の慣例です。

 つまり、目的や背景であるが故に原因はじめ結果おわりの両方で成立する三が、一も二も内包した“全体”や、一と二の在り方のされています。この場合の三はさんと呼んでもミチと呼んでも構いませんが、本質的な意味は同一であり、

一と二を包含する全体すべてを活かす三がです。

 そのことを、天之日津久神様は「三が道」と語っています。

「戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道とくどう申してあろう」 『春の巻』 第四十三帖 [700]

〔前略〕 同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。〔後略〕 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「世界を一つにするのであるから王は一人でよいぞ、動きは二つ三つとなるのぢゃ、キはキのうごき、ミはミのうごき、動いて和してキミと動くのぢゃ。三が道ぞと知らしてあろう」 『極めの巻』 第一帖 [928]

 そこからは、対偶ふたつから新しき統合ひとつを生む在り方がでありミチであることが判ります。逆に、二とは三を生めないを外れた在り方としてになります。

 このような認識は、日月神示で「1+1の答えは2ではない」という風に明言されています。

「神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ」 『地つ巻』 第二十一帖 [158]

「一に一足す二でないと申してあろが」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったら神に尋ねと申してあること忘れるなよ、一に一たす二ばかりとは限らんのぢゃ、判りたか」 『梅の巻』 第十五帖 [442]

 同じ内容が「二は二ではなく三や一である」という見方としても示されています。

「歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。〔中略〕 而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである」 『地震の巻』 第十六帖 [393]

〔前略〕 善と真のはたらきを完全にするには、善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ、とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、区別することによつて結ばれるのであるぞ、すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。大き喜びとなるのであるぞ。このこと日月の民には判るであらうな、道は三つぞ。合点ぢやなあ。〔後略〕 『白銀の巻』 第二帖 [613] 昭和二十六年版)

「内の念と外の念とあるぞ。二つであるぞ、一つであるぞ、三つであるぞ、このこと判りて下されよ」 『黒鉄の巻』 第二十八帖 [646] 昭和二十六年版)

「愛は脈うってゐるぞ。真は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。喜びと三つが一つであるのぞ」 『黒鉄の巻』 第三十三帖 [651]

「幽界と霊線つなぐと自己愛となり、天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。よろこびも二つあるぞ。三つあるぞ。大歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ」 『秋の巻』 第五帖 [746]

「外の喜びはその喜びによって悪をまし、内の喜びはその喜びによって善をますなれど、マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ」 『秋の巻』 第十帖 [751]

「宇宙は霊の霊と霊と物質とからなつてゐるぞ、〔中略〕 神と霊は一であつて、幽と現合せて三ぞ、この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ、故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もないのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年版)

 ここまでの内容から見えるように、

1+1の答えがのが“神のです。

 そして、1+1の答えである3や1は、“霊”“無限”“立体”に対応するとのことです。

「そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、現実界では その通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ」 『月光の巻』 第六十二帖 [849]

 また、無限や立体と“永遠”“新しき世界”“岩戸開き”の関連も明かされています。

「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604]

「現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰りのない道、新しき世界への道である」 『月光の巻』 第十八帖 [805]

「善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあれば地の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、このたびの岩戸は立体に入る門ぞ」 『五葉の巻』 第十一帖 [974]

 以上の記述から推察できるように、

日月神示では三が“無限”“立体”“岩戸開き”に対応します。

 その上で、無限や立体に入って岩戸を開くことが二十二フ ジが輝く」に通じるそうです。

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん、無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ。岩戸あけなば富士輝くぞ。弥栄々々」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 昭和二十六年版。昭和三十八年版では「不二輝くぞ」です)

 結局の所、1+1の答えが2になる在り方とは、3である新しいヨロコビを生み出せない的な在り方であり、『地震の巻』第九帖でそのもの”に位置付けられている、霊的な世界を認めない物質世界だけを前提とした“限られたる科学的平面的行為”なのでしょう。

 それはおもてうら両方すべてを活かす二十二フ ジや二本立てと相反しており、に沿わないのです。逆に言えば、霊的な世界を認めることが、独善を抜け出し、霊と物質を統合し、神のに沿う“新しいあめつちの世界”への第一歩になります。だからこそ確言できます。

1+1=3(1)が二十二フ ジは晴れたりほん晴れの背景バックボーンです。

 これが、天と地の岩戸を開いて二十二フ ジ晴れや二本晴れを実現するためのまことことわりであり、新しき歓喜が溢れるミチの姿です。

「二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

 こういった内容を一言で総括する言葉が、「三が道」や「富士は晴れたり日本晴れ」なのです。

 ただし、1+1の結果としての3や1は“象徴的な表現”であり、

 これらは「複数の要素を融合して昇華する」「既存の延長線上にない可能性をひらく」といった意味合いが極めて強く、一般的な言い回しでの“第三の選択”に類似します。創作の分野において、良質な組み合わせや切っ掛けによる好転的で爆発的な反応や飛躍を表す、性質変化ケミストリー上限突破ブレイクスルーの言葉の方が実態に近いと言えるでしょうか。

 そういった3や1の実態を、“無限”及び“一神即多神即汎神”の言葉と一緒に補足します。

 まず、三や新しき一の実態がことを伝えるものとして、

日月神示では「三と無限は対応する」と語られています。

〔前略〕 歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。〔後略〕 『地震の巻』 第二帖 [379]

「物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。信仰に入ることが無限を得ること。まことの神をつかむことぞ」 『春の巻』 第九帖 [666] 昭和三十八年版)

「一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ」 『月光の巻』 第六十二帖 [849]

「道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。スリーでないぞと申してあろう。無限であるぞ」 『春の巻』 第三十九帖 [696]

 上の引用では三に「参」の漢字が当てられています。これは漢数字の一二四五六七八九十が、だいでは壱弐肆伍陸漆捌玖拾で表記されることを背景として、「同じでありながら異なる意味も有する」という内容を表す翻訳であることを、岡本天明氏が『古事記数霊解序説』で述べています。

〔前略〕 さらに、この第4図、第5図を検討するならば、三神と二神の二つに分けられます。これは、老子道教の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」に通ずるものがあるようであります。ここで、一言附記したいことは、この場合の三神の三は『古事記』の序文にもある如く、三であると共に参であります。即ち三とは、数理的表現であるが、参は数霊的表現となります。つまり±と+と−の三つの因子が0の中に芽生えた。そして、この三は三であると共に参であると言うことであります。参とは「交わる」、「とけ合ふ」と言った意味を含んでおり、0即1、1即2、2即3……と無限の0(∞)に弥栄することを示しておるものでありましょう」 『古事記数霊解序説』 第七章 本節の第一項で解説した[666と六六六」も同様の考え方による天明氏の翻訳です)

 以上のように、日月神示や天明氏が“三と無限の対応関係”に言及していることから、1+1=3(1)の考え方には“無限への入口”的な側面があるらしいです。

 そして、無限への“組み合わせ”にあります。その代表的な事例として日月神示が挙げているのが、陽と陰、天と地、神と人、霊と体、善と悪、春と秋、表と裏、一と二、などであり、日と月に象徴される“対偶”であるわけです。

 対偶は突き詰めればでありもの”です。だからこそ、日月神示は一二三四五六七八に対する九十や、一二三四五六七八九十に対するれいなどのなるものを、“三を生み出すために必要な要素”として排そうとはしません。そのことがぜんあくの関係”として語られた記述を引用します。

「霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体のうごきをなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。〔中略〕 故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。〔中略〕 霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。〔後略〕 『地震の巻』 第九帖 [386]

 そういった「異なるものの存在によって自他が更に弥栄する」を表現を変えて説いたものが、日月神示の神観である“一神即多神即汎神”です。

「大日月地大神としての この神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ、その働きがもろの神様ぢや、無限であるぞ、この神一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ、一神ぢや、多神ぢや、汎神ぢや、総てが神ぢや、喜びぢやぞ」 『春の巻』 第二十一帖 [678] 昭和二十七年版)

「一神説いて多神説かんのもかたわ、多神説いて一神説かんのもかたわ、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」 『夏の巻』 第十五帖 [732]

「父のみおろがみたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神をおろがまねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ」 『星座の巻』 第十三帖 [896] 第一仮訳)

 日月神示では神を唯一とする一神論と、神を複数とする多神論と、万物を神が具現化したものとする汎神論が展開されており、「一神論と多神論と汎神論は矛盾しない」という立場を取っています。

 むしろ、一般的には対立的かつ排他的な関係にあるとされる一神論と多神論と汎神論は、一つのを異なる角度から眺めた“一方的で平面的な視点”であり、実際には、それらの神観を組み合わせることによって、存在の実相とでも言うべき“立体的な真相マコトへの理解が進む、と天之日津久神様は説いているように見えます。

 つまり、一神論も多神論も汎神論も“三面図の一枚”に過ぎず、単独の視点では真実マコトには辿り着けないらしいのです。これは一や二の「単独では三を生めない」という側面に似ています。

 このように、一見すると対立的に見える複数の神観が、実際には“相互補完の関係”にあることを、前出の引用では「一神説いて多神説かんのも片輪、多神説いて一神説かんのも片輪、一神即多神即汎神である事実を説いてきかせよ」と語っているのでしょう。

 また、日月神示では三が無限すべてに対応することに加えて、古今東西で“二”には「一つにあらず」の意味で“多”の意味があることを考え合わせると、次の点に気付かされます。

神即神即神はの異なる呼び方である」

 恐らく、一神論と多神論と汎神論はことによって、平面的な対立軸を超えて、立体的で包括的な融和軸に昇華して行くのではではないでしょうか。ですから「一元であり二元であるが故に三元であり、三元であるが故に二元であり一元である」という風に認識するのが、恐らくは神の目から見た全景すべてであり実相マコトなのでしょう。

 そこで、この神観を更に判り易く要約してみます。

「日月神示はすがたを一二三と呼んでいる」

 こういった内容が、二十二フ ジ晴れや二本晴れを“真理”“大和”と称することに通じており、そのような多くの意味を込めて、天之日津久神様は「三が道」や「一神即多神即汎神」や「二十二フ ジは晴れたり二本晴れ」と語っているようです。

 結局の所、三位一体、三、新しき一、三元、三が道、一神即多神即汎神、一二三、二十二フ ジ晴れ、二本晴れなどはであり、極論すれば、

日月神示は“1+1=3(1)を多面的に説いた啓示”と言えます。

 これは“一二三を多面的に説いた啓示”と言い換えても構いません。なお、そのことを考える上で非常に重要な前提があります。

「神々は全体をを前提に認識している」

 この流動性は「統合状態が一時的な分離状態を経て再統合する」や「一と在り、二と分かれ、三と結ぶ」のように表現しても良いです。

 要するに、は変化、進展、生長などから更なる歓喜が生まれることを説いており、そういったを新しき歓喜を生むためのいやさかとして、無限や永遠や“神のはたらきに位置付けています。

〔前略〕 大歓喜は無限であり、且つ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。〔後略〕 『地震の巻』 第十六帖 [393]

〔前略〕 天国に於ける礼拝は千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は常に弥栄えゐるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。無限と永遠は そのまゝにして神である。神の意志は その総てに於て、それ自体が無限であり永遠である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形に於て変化繁殖するを見て、無限と永遠が神の用なることを知らねばならぬ」 『地震の巻』 第十九帖 [396] 第一仮訳)

「天地総てのもの、生きとし生けるもの悉く、よりよくなるやうに働いてゐるのであるぞ。それが神の心、いつぞ。弥栄と申すものぞ」 『黄金の巻』 第九十六帖 [607]

 こうした“三を生む様相の背景バックボーンを集約しているのが、『地震の巻』のの一節”です。

「われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。只 存在するものが生れに生れつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 上記の内容は「森羅万象はヨロコビを生み続けている」や「万物は三として新しく生まれ続けている」といった“新生”“歓喜の増大”を語る内容であり、宇宙が新しき歓喜たる三を生むことを目指して常に流動することを、「我々の一切は生まれつつある」や「一定不変の神もなければ宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく」と表現しています。

 そのような“日月神示の宇宙観の総括”的な内容だからこそ、非常に高度な三千世界論が展開されている『地震の巻』のに持って来たとも言えます。

 これが天之日津久神様の説く“弥栄”であり“歓喜の宇宙観”になるわけですが、それをに実現するために採用されている手法が、1+1=3(1)としての“一二三”であるわけです。

の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。道は一で、二で、三であると申してあらう、一も二も三も同じであり、違つて栄えるのざ、一二三であるぞ、このこと教へられても判るまい、はらで判る大切こと、肚 大切ぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 こういった流動の様相は、一時的な分れを経て再び結ばれる“統合と分離のはたらきや、“岩戸開きと岩戸閉め”などに言い換えても問題ありません。

 また、統合状態の方が本来の姿であるものの、実際には分離状態も再統合を実現するための“必要な過程”なので、みっつひとつだけではなく、大局的にはふたつ実相マコトの一面”に含まれます。即ち「一は二にして三である」です。

 要するに、神々は全体をを前提に認識しているので、一時点の状態を切り取って「これが実相マコトだ」と決めつける真似はしないのでしょう。これは、存在の実相といっても特定の一面しかないわけではなく、一つの実像を形成している」からです。

 以上の背景から、は存在が統合ひとつから分離ふたつを経て再統合みっつとして新生する“流動的な一二三のすがたへの理解”を、の道に通じるであろう“神智”と称しています。

〔前略〕かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

 このように、神々は三千世界の実相マコト“一と二と三の動的な関係”を前提に認識していることから、

1+1=3(1)が神智であり波長うごきであるはずです。

 これはの一言にも要約できます。また、神の心、神の息、神の理、神の道たる“神のなみとも言え、新しきよろこびを生むとして「森羅万象のことごとくが同様の律より一歩も出ない」と明言されています。

〔前略〕 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。〔中略〕 これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである」 『地震の巻』 第五帖 [382]

 上の引用では三つがこんぜん一体になってひとつを形成していることが“根本の大呼吸”などの言葉で強調されています。

 そして、新しきひとつであるヨロコビを生むための過程としての分離状態、つまり対偶ふたつの基本的なものが、日と月、陽と陰、霊と体、神と人、男と女、正道の善と正道の悪などであり、最大のものが“天と地”です。

 当然の如く、天と地の関係は、総体の波長や根本の呼吸たる“天と地のなみに基づいており、で三にして一であるあめつちを生むためのてんの岩戸開き”が、の物語”として描写されているのも、本質的な背景は全く同じなのです。

 こうやって、統合と分離を繰り返しながら新しいヨロコビを生み続ける“天と地の状態すがたの最終局面”が、最大最後の神仕組であるの仕組の“立体的神秘”としての側面というわけです。

〔前略〕 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては生命の統一はなくなる。其処に分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面には、平面的には割切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは平面的には分離し得ない、二なるものは平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は立体的神秘の中に秘められてゐる。に於ては一なるもに於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、又 真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は存在しないのである。〔後略〕 『地震の巻』 第二帖 [379] 第一仮訳)

 恐らく“超長期的な視点”で見れば、統合と分離を繰り返す三千世界の姿は、上の引用で語られるように「分離して分離せず、統合して統合せざる」という風に見えるのでしょう。

 ですから、あい反するもの同士、或いは性質の異なるもの同士が、反発し合いながらも最終的には一致和合して弥栄することを軸にした宇宙観や神の仕組の要旨は、“神の“統合と分離のはたらき“岩戸開き”として、次のように要約できます。

「対なるものは結ばれて新生する」

 そのようにして、陽と陰や日と月から、更なる歓喜たる“新しき太陽ひかりが生まれ続けて行くそうです。

〔前略〕 極内は極外に通じてを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜としてはらみ、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用に於ては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

〔前略〕 この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

「霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上に於ける場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる」 『地震の巻』 第十四帖 [391]

「太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し、歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、又 絶えず反している。故に二は一となり三を生み出すのである。〔中略〕 三を生むとは新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である」 『地震の巻』 第十八帖 [395]

 太陽というメインの要素とサブの要素によって三番目の状態、即ち“新しきたいようが生まれるわけです。これは表面おもてが一つになって、新しきおもてが生まれる」とも言い換えられ、二十二フ ジの仕組と同一の背景バックボーンを有することが判ります。このことから見えるように、

ミチや一二三や“神の波長うごきを言い換えれば“1+1=3(1)”になります。

 そうした内容からは、一と二と三の一体性の表現たる一二三やミチが、実質的に不二ひとつと同じ意味であることが推し量れます。

 だからこそ、三界を一体ひとつにするの仕組は“三千世界の生成化育の総仕上げ”に位置付けられるのでしょう。これは“一を生かし二も生かすミチがあることを示しています。

「善の御代 来るぞ、悪の御代 来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ」 『磐戸の巻』 第四帖 [240]

「今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「大神は一切を幸し、一切を救ひ給ふのであるぞ。一切が神であり一切が喜びであるぞ」 『春の巻』 第二十四帖 [681]

「道は一つ二つと思ふなよ、三つであるぞ。新しき道 ひらいてあるに、何故 進まんのぢや」 『黄金の巻』 第十八帖 [529] 第一仮訳)

 ここに見られる「立て分けてどちらも生かす」は、両方すべてを活かす二十二フ ジ“二本立て”と意味が通じており、

二十二フ ジ晴れや二本晴れには「一切を活かすわきまえる」という意味があるのでしょう。

 結局の所、二十二フ ジ晴れも二本晴れも「三番目の一なる状態すがたを実現する」という意味では“同一の原理”に帰属する仕組であり、日月神示の説く“歓喜の宇宙観の一環”なのです。

 故に“神の計画の概要”は非常に単純シンプルな一言に要約できます。

「三千世界を一二三にする」

 ですから、“一二三”とは全体であり、概念であり、原理であり、目的であり、原因であり、結果であり、象徴であり、本質であり、波長であり、呼吸であり、意向であり、歓喜であり、弥栄であり、そうであるがために“一切を包含する言葉”の如く語られています。

とは限りなき神の弥栄であるぞ、は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神のはたらきが一二三であるぞ、始なく終なく弥栄のなかいまぞ。一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、天子様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、であるぞ、であるぞ。皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、ぞ、ぞ、判りたか」 『キの巻』 第十一帖 [268] 五十連は五十音の別名であり言葉そのものを指しますが、言霊に“宇宙の枠組の基本”としての側面もあることが、直後のイロハに掛かっているようです)

 なお、上の引用の最後の「イロハぞ」は、物事の順序、初歩、根本、基本、母、最初に認識すべきことなどの意味があります。一二三という“神の息”に沿った在り方を、“物事の初歩”の意味でのイロハとして語っているようです。

 そして、一二三がイロハであることが明言されているように、

一二三は最も根本的な“神の条理すじみちなのです。

 例えば、武道の分野では「奥義は基本にあり」や「基本を極めれば奥義になる」などの言葉がありますが、神の仕組や人の道も本質的に同様なのでしょう。

 結局は“基礎的なこと”を地道に積み上げるのが、正道として極みに至る道です。そして、神霊の存在や天地の波長うごきなどが認識されるようになる世界の姿が“ひふみイロハの世”であり、三である新しき太陽が生まれる“日の出の御代”の一面なのでしょう。

「今度はいろはの世に戻すぞ。ひふみの世に戻すぞ」 『松の巻』 第十帖 [301]

「いろはに戻すぞ、に返すぞ、が元ぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「ひふみはらに入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ」 『雨の巻』 第五帖 [339]

「待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、いろはの世はたちにけり」 『雨の巻』 第六帖 [340]

「五十になっても六十になっても、いろは、から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ」 『風の巻』 第十二帖 [363]

「これまでは「いろは」でありたが、いよいよ一二三の力 加はるぞ、「いろは」はやさしいが「一二三」はあらいから、あらごともするから その覚悟致されよ、その覚悟よいか」 『マツリの巻』 第二帖 [406] イロハはすぐ後で引用する『月光の巻』第四十三帖で、“平面的な横軸の教え”の意味があることが明かされています。ここから一二三は“立体的な縦軸の教え”と考えられるので、この帖は「平面での進展より立体への遷移の方があらあらいものとなる」と伝えたいのでしょう)

「ひふみにもまに、いろはにもまに、よく心得なされよ。何彼の事 ひふみ、いろはでやり変へるのぢゃ、時節めぐりて上も下も花咲くのぢゃぞ」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

 また、日の出や“神の気”と同じ意味を持つであろう言葉として“キの出”があります。

「イシはイにかへるぞ。であるぞ。 であるぞ。井であるぞ。イーであるぞ。であるぞ。であるぞ。キと働くのざぞ。わかりたか」 『夜明けの巻』 第一帖 [321] イはイロハ順で一番目の言葉であることから「最初」という意味もあり、この帖では一二三やイロハと同じ意味で書かれています。いわゆる「イロハのイ」です)

「日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

 ここでのキは“気”と同じであり、根本の原理や最初の道理といった意味合いで用いられています。そのような“道”が人々の常識になる時代が、まことが世界を照らす日の出の御代として、“光の世”“神のの姿と言えましょう。だから、

三千世界が一二三になった姿が“神の波長うごきのっとった世界”です。

 このように、三界が流動する背景バックボーンには、1+1=3(1)という“変わることなきがあるのです。

 以上の如く、日月神示では流動する三界の動的な様相や根本の大呼吸を、“一と二と三の関係”として言及する場合が非常に多いです。

 そして、流れや動きはわだちの如く筋となって道を形成しますが、ミチの更なる意味を“みちみつ”と説いているのが次の記述です。

「道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

 その上で、天之日津久神様は“道”“教え”を明確に区別しており、自らの言葉は宗教的な義ではなく、宇宙の根本的な律動として、神のちる“普遍的な理”と明言なさっています。

「このおしへ宗教をしへではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。道とは臣民に神が満ちることぞ、神の国の中に神がみちみつることぞ」 『下つ巻』 第一帖 [43]

 このようなが人や世界にちた状態すがたを、“富士”はらしだいと絡めながら論じることによって、ミチや1+1=3(1)の総括とします。

 まず、道の意味を「充ち満つ」とするのは日月神示の独自の説ではなく、出口王仁三郎も展開しているので、言霊学の一般的な解釈と言えるかもしれません。

は道と云ひ、言葉と云ひ、神とも云ふ。宇宙にへんまん充実する神の力をさして、みちみつと云ふのである。要するに 苦 集 滅 の意義を総括したものが道となるのである。道は霊的にも体的にも踏まねば、到底 天国に達し、彼岸に渡る事が出来ない。故に空中にも道があり、地上にも道があり、海の面にも道がある。道は充ち満つる意味であり、霊 力 体 の三大元質を統一したる意味であつて、これがいはゆる 瑞霊の働きである」 『三鏡』 大本教ではずいれいを三で表し、げんれいを五で表します)

 出口王仁三郎は道を「宇宙に遍満充実する神の力」と解説していますが、日月神示にも全く同じ見解が見られ、“変わらぬおおみち“宇宙に充ち満つの在り方”と呼ばれます。

「そなたはまだ方便をつかつてゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の世とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢや。教ではどうにもならん。ぎりの世となつてゐるのぞ。道でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、方便の世はすんで ほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。道とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 昭和三十八年版。この帖の「イロハの教え」は限定的かつ“平面的な横軸の教え”と明言されており、前述の根本的な原理としての「一二三イロハ」とは微妙に意味が違います。推察するに、イロハに対して一二三は“立体的な縦軸の教え”に相当し、「たてよこが組み合わさって実相マコトを成す」と伝えたいのでしょう)

 そうであるが故に、天之日津久神様はミチ“宗教の垣根を超えた道理”と説いています。

「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採る気ぢゃ。今迄の教では この道 判らんぞ」 『マツリの巻』 第一帖 [405]

「今迄の教では立ちて行かん。生れ変わねば人も生きては行かれん」 『黄金の巻』 第五十六帖 [567]

〔前略〕 今迄の教ではマボロシぞ、力ないぞ。まつり合せて意志と働き、理解出来るのであるぞ、まつりと申してあらう、上のまつりざぞ。マボロシとは人間智慧のことぢや、理窟のことぢや、理窟とは悪の学のことぢや。理窟や智や学が悪ざと申してあること判りたか」 『黒鉄の巻』 第十帖 [628] 昭和二十六年版)

は光の道 伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう、教は教に過ぎん、道でなくては、今度はならんのぢや、天の道、地の道、もろの道、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢや、迷信となるぞ、肚にとつげよ、肚が神であるぞ」 『春の巻』 第一帖 [658] 昭和二十七年版)

〔前略〕 肉体の病ばかりでないぞ。心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。この病を治すのは、今日までの教では治らん。病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。病を浄化しなければならん。悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ」 『月光の巻』 第三十帖 [817]

「神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ」 『月光の巻』 第五十帖 [837]

〔前略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

 また、宗派に囚われない普遍的なは、“光”とも表現されています。

「この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れてくれよ、この道はぞ、の中に入れてくれと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、入れてくれよ、を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦はの掃除ぞと申してあらうがな、まつりとは調和まつり合はすことと申してあろうがな、この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めてくれるなと申してあらうがな。世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道でみな生き返るのざぞ」 『地つ巻』 第十二帖 [149]

〔前略〕 よろこびは道ぞ、言葉ぞ、真理ぞ、愛善ぞ、生命のイキと云ふこと判るであらう。〔中略〕 弥栄の道、神の喜び、人間の喜びの中にあるぞ、〔中略〕 天国に道あると申すが、人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ、道なき道と申してあらうが、喜びが道であるぞ。嬉し嬉しの道、早う合点せよ。生命栄えるもの皆 喜びであるぞ。信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。生も死もなくなるのざ、時間や空間を入れるから、血 通はなくなるのざぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 上の帖の「道なき道」とは“道として認識されないほど広い道”の意味でしょうか。また「時なき道」はの変化に左右されることがない条理”の意味と思われ、共に空間や時間に囚われない“根本的な原理”という側面を表現しているようです。

 だからこそ、天之日津久神様の説くミチは、特定の神霊や宗派や民族のみならず、天と地の境界にすら囚われるものではないらしく、“三千世界の大道”“正中の大道”に相当するそうです。

「この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、今迄の様な宗教や教の集団ツドヒはつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早う この神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、配給は配給と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。このほうの申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ」 『磐戸の巻』 第七帖 [243] 第一仮訳)

「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの、三千世界の大道ぞ。教でないぞ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]

「そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。正中の大道あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ」 『月光の巻』 第五十四帖 [841]

 そして、三界に遍満するを受け入れるのは、日月神示で「身の中に神の力を張り巡らすこと」としてはらしだいと呼ばれ、富士との関連が明かされています。

「この神をまつるのは、みはらし台ぞ、富士みはらし台ぞ」 『上つ巻』 第四帖 [4]

「富士とは神の山のことぞ。神の山はみな富士といふのぞ。見晴らし台とは身を張らすとこぞ、身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。臣民の身の中に一杯に神の力を張らすことぞ」 『上つ巻』 第五帖 [5]

 上の引用では「富士が見晴台であり神を祀る場所である」と書かれており、「まつる」は一見すると祭祀に見えますが、より本質的な意味は「神に従う」であるそうです。これは「根本的な道理に通じる」と受け止めても構いません。

「神祀るとはお祭りばかりでないぞ、神にまつらふことぞ、神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、神に従ふことぞ、神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、神に従ふことぞ、神にまつらふには洗濯せなならんぞ、洗濯すれば神かかるぞ、神かかれば何もかも見通しぞ」 『上つ巻』 第二十六帖 [26]

「此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ。まつりとはまつはる事で、まつり合はす事ざぞ。まつり合はすとは草は草として、木は木として、それぞれのまつり合はせぞ。草も木も同じまつり合せでないのざぞ」 『日月の巻』 第九帖 [182] 「あなない」は「支え合う」という意味の古語です)

「神に頼りて神祀りてまつわりておれよ。神救ふぞ」 『日月の巻』 第三十五帖 [208]

「人、神とまつはればしうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実まことの神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ、と申してあろが、戦もと壊し合ふのでは無いぞ、とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。それには掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]

「これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除してくれよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。一二三唱へよ、祓えのれよ、神 称へよ、人 称へよ、神は人誉め、人は神 称へてまつりくれよ、まつはりくれよ、あななひくれよ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]

 つまり、神を祀るとは“神の意向こころに通じること”であり、最終的には“神を身に宿すこと”に繋がって行きます。それが、日月神示の説くかみひと境地すがたです。

「ひかり教の教旨 書き知らすぞ、〔中略〕 教旨 てん不二、神人合一。あめつちなり、つちあめなり、なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、かみひとなり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国 実現を以って教旨とせよ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

「自分で自分のことしてゐるのであるが、又させられてゐるのであるぞ。大き自分に融け入ったとて小さい自分無くなって了ふのでないぞ。神人ぞ。あめつちぞと申してあらうが」 『黄金の巻』 第十一帖 [522]

「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604]

「自分の自由にならんことは大き自分が自由にしてゐるのであるぞ、神となれば、神人となれば何事も心のまま。神とは神、大神とはかみひとのこと」 『黒鉄の巻』 第二十三帖 [641] 第一仮訳)

「カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ」 『春の巻』 第二帖 [659]

「神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をとして、心として生命しているのぢゃ。神人と申してあろうがな。このドーよくわきまへよ」 『春の巻』 第六帖 [663]

「神と人民とは神のへそと人民のへそとつながつてゐるのであるぞ、へその緒さへつながつて居ればよく、神人であるぞ、〔後略〕 『秋の巻』 第十八帖 [759] 昭和二十七年版)

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、〔中略〕 カミヒトとならねば生きては行かれんのぢゃ、てんがアメツチとなってきてゐるからぞ、てんも近うなるぞ、も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

 こういった良い意味での“神懸かり”に類する内容を、前出のはらし台の引用では「身の中を神の力で張る」と言っているのでしょう。

 そして、台の意味が「富士を開く」であることも明言されています。

「富士を開くとは心に神を満たすことぞ」 『上つ巻』 第五帖 [5]

 この内容は、二十二フ ジ、二本、真理、大和、善と悪、霊と体、天と地、神と人などのおもてうらの関係への理解を深めれば、“全体の構造の解析”に繋がり、「神の意向こころや天地のに通じることになる」と言っているように見えます。

 これは、原理の認識による“全体像の把握”であり、「高い場所から見渡せるようになる」と言っても良いのでしょう。

「世界一目に見へるとは世界一度に見へる心に鏡磨いて掃除せよと云ふ事ぢゃ、掃除結構ぞ」 『青葉の巻』 第十一帖 [480]

 だからこそ、日本で一番高い山である“富士”には、神を祀る聖なる場所としての意味合いの他に、極めて広く遠くまで見渡せる“高い視座”の意味が含まれているらしく、

普遍的な道理や根本の大呼吸に通じることは、に立つ”と表現できるのかもしれません。

 そのような側面に掛けた表現が「富士が見晴台である」と思われます。ですから、

二十二フ ジは晴れたりほん晴れにはを見渡す境地”ことぐ意味があるはずです。

 神の意向こころを理解し、人が神と同じ視座に立つことを祝う“喜びの歌”が、富士は晴れたり日本晴れの一面なのです。また、こういった神と人にたがう所が無い“神人の境地すがたが、「身の中に神の力が充ち満つること」であり、「富士が見晴台である」の意味と言えるでしょう。

 そして、このような見晴台の意味は、前項の最後で触れた“光の岸”“神が望む境地こころと何も違いません。それが、地上界のみならず霊的な世界をも含めた“全体と永遠の視座”に立つ、から見える景色”なのかもしれません。

〔前略〕 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

「見へる幸福には限りがあり、見へん幸福は永遠であるぞ、道にいそしめ、道にとけ入れよ、モノは無くなるぞ、霊は永遠に弥栄えるぞ、〔中略〕 自分の魂をはぐくみ、生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ」 『春の巻』 第五十四帖 [711] 第一仮訳)

〔前略〕 全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

「現実の事のみで処理してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、生きることは死に向って進むこと、マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、神示を始めから読めば何事もありやかぞ」 『紫金の巻』 第十四帖 [993] 第一仮訳)

 ちなみに、日月神示に霊界の様相を伝える記述が多いのは、「三千世界の全景を見渡すために必要なこと」だからだと考えられます。

 実際には、人間が神と同じ視座に立つことは無理でしょうが、らしく、天之日津久神様は人間に「少しでも神に近付いて欲しい」や「僅かでも神の心を理解して欲しい」と願って、つき、天と地、霊と体、善と悪の関係や、二十二フ ジ晴れや二本晴れの背景バックボーンである“一と二と三の関係”を伝えるべく万言を費やしておられます。だからこそ明言できます。

日月神示は一二三おなじことしか説いていません。

 ですから、富士は晴れたり日本晴れという七五語調の歌が日月神示の冒頭に掲げられ、神の言葉の表題タイトルが一二三が指定されたことは、“神のこころと言えます。

 そうやって、神のはたらきとしてのミチへの理解が深まることが、人の身の中に神の力を張るつ”や「富士で身を張る」や「心の富士を開く」の意味であり、人間のまこととして“三千世界の大道を歩む姿”になるのでしょう。

 このような在り方へ人間や世界を至らせるが、三千世界の生成化育や神の計画の核心であり、宗派を越えた道理として“永遠に動かぬと呼ばれるものであるはずです。

「臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、なかなか大層と申すのぞ。の仕組とは、に動かぬ道のことぞ、いづの仕組とは、みよいづの仕組ぞ、御代出づとは神の御代になることぞ、この世を神の国にねり上げることぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

 ちなみに、一二三の仕組には前述の“ひふみイロハの世”のように、“最初の御用”という意味もあります。日月神示での最初は原点や本質や実相や成就を指す場合が多いので、永遠に動かぬ道はとして最初の御用と意味が通底します。

 そして、永遠に動かぬ道を理解して人が神の境地すがたに至るや、天と地が練り上げられて神のや神の御代が出づるや、一と二と三の用の最大規模での達成である二十二フ ジの仕組は、“成就”“興隆”に掛ける形で「桜花が一二三と咲く」とも語られています。

「神の仕組 愈々世に出るぞ、三千年の仕組 晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花と咲くぞ」 『キの巻』 第十四帖 [271]

 同様の意味合いでの花が咲く」という記述も多いです。これは富士山の神霊であるはなさくひめのかみに掛けてあるようです。

「今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に の花咲耶姫の神 祀りてくれと申してあろがな、とことはにしぼまん誠の花咲く世 来たぞ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「やがてはの花咲くのざぞ、見事が鎮まって、世界 治めるのざぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]

〔前略〕 岩戸開けたり御光の、の花どっと咲く、〔後略〕 『風の巻』 第四帖 [355]

「九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花 中々ぞ」 『空の巻』 第十二帖 [467]

〔前略〕 苦しむ時は苦しめよ、苦の花咲くぞ。世は七度の大変り、変る代かけて変らぬは、誠一つのの花ぞ、の花咲くはの山、は神山 神住む所、やがて世界の真中ぞ」 『青葉の巻』 第十一帖 [480] 「二三の山」は第一仮訳では「富士の山」と訳されています。これは文脈を重視したそうの国を象徴する山”という意味の翻訳です)

〔前略〕 永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ。神徳は重いから腰ふらつかんやうにして下されよ。その代り貫きて下されたら、にしぼまん九の花となるぞ。に、の花どっと咲くぞ」 『黄金の巻』 第七十六帖 [587]

「今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。真理に苦の花さくのであるぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]

〔前略〕 天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ、カンニンのカンニン、ガマンのガマンであるぞ、苦の花咲くぞ」 『扶桑の巻』 第七帖 [856] 第一仮訳)

「今度は神が人民にうつりて、又 人民となりてマコトの花を咲かす仕組」 『極めの巻』 第二帖 [929]

 こうやって、根本的なや神の計画こころを人々が理解するが、桜花が開くの花が咲くとして「心の富士が晴れる」「心が晴れる日本晴れ」の意味であるようです。

さくらばな一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、にち毎日 富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ」 『日の出の巻』 第四帖 [217]

「こんどのの花はに咲くのみざぞ。富士にの花咲くやひめまつれと申してあるが、苦の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。苦の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。まことのかみかかりぞ」 『岩の巻』 第二帖 [367] 第一仮訳)

 そして、一二三の仕組である宇宙に充ち満つ“永遠に動かぬが、おもてうらを結んで新しくおもてを生む二十二フ ジの仕組の“動かん真理”の側面に掛かっています。

「動かんふじの仕組のなるとの仕組。ことたま、かずたま、ひふみ、いろたま、いろは」 『黄金の巻』 第二十帖 [531] 言霊、数霊、色霊、一二三、イロハなどは“根本的なこと”の代表例として挙げられているように見えます)

「不二の仕組とは動かん真理、〔後略〕 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

「動かん富士の仕組、ひらけて渦巻く鳴門ぢゃ」 『星座の巻』 第十一帖 [894]

「二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

 ここからは、新しい一たる不二ひとつの実現は“一二三の仕組はたらきの成就”であり、に動かんミチまっとう”であることが判ります。

 同時に、二十二フ ジナルも二本立ての仕組も、本質的な側面は全体すべてを活かすこと」に通じており、満ち足りた状態すがたとして、道の深い意味である“みちみつ”と意味が通じています。ですから、

宇宙に充ち満つ“神のちからへの賛歌”二十二フ ジは晴れたり二本晴れの一面と言えましょう。

 以上の話からは、三千世界の生成化育の総仕上げたる二十二フ ジの仕組が、“日月神示の宇宙観であることに気付かされます。だからこそ、“永遠に動かぬミチを伝える表題タイトル“一二三”が指定されたと言えます。

「この神示説いて臣民の文字で臣民に読める様にしたものはと申せよ」 『天つ巻』 第三十帖 [137]

「神示につけたもの先づ大番頭、中番頭、小番頭どのに読ましてくれよ、道さへつければ読むぞ」 『地つ巻』 第三十一帖 [168]

「これからの神示は「ひふみ」と申せよ」 『青葉の巻』 第二十三帖 [492]

 つまり、一と二と三の関係は“天之日月ひつく神様が最も伝えたいこと”であり、そうであればこそ、

一二三が“神の秘密こたえです。

 そして、ミチや一二三と同様の意味を持つことばツキカミひつくのかみです。こういったことばが選ばれる背景には、を降ろした神霊が司るはたらきに基づくのです。

 結局、天之日月ひつく神様の“秘めたる意志こころは、既に表れています。古来から「名は体を表す」と言われますが、秘密こたえ明かされており、その意味では、

日月神示には無いのでしょう。

 同じような意味合いで、「隠したものは現れている」「秘密は必ず現れる」とも書かれています。

〔前略〕 かくしたものは現はれるのぢゃ、現はれてゐるのぢゃ。何でもない事が中々のことぢゃ、判りたか」 『海の巻』 第十五帖 [507] この帖の「隠したもの」は多面的な読み方ができます)

「秘密は秘密でないぞ、火水であるぞ、明らかな光であるぞ、火水のマコトを悪神にたぶらかされて判らなくなったから、秘密となったのであるぞ、秘密は必ず現はれて来るぞ」 『海の巻』 第十三帖 [505] 「明らかな光」は“明白な道理”や、総体の統治神の現れ方であるじつげつに掛けてあるのかもしれません)

 ここでのには“元の神の心”“根本の道理”の意味も含まれており、そこからの仕組とは一二三を実現する仕組である」と読める記述もあります。

〔前略〕 ひみつの仕組とは一二三の仕組ざ、早う一二三唱へてくれよ、一二三唱へると岩戸あくぞ」 『上つ巻』 第三十二帖 [32]

、ひふみとなるのざぞ。火 近づいたぞ。水 近づいたぞ」 『日月の巻』 第二十一帖 [194]

「おもてばかり見て居ては何も判りはせんぞ。月の神様まつりてくれよ。此の世の罪穢れ負ひて夜となく昼となく守り下さる素盞鳴神様あつくまつりくれよ。火あって水動くぞ。水あって火燃ゆるぞ。火と水と申しておいたが、そのほかに隠れた火と水あるぞ。それを一二三と云ふぞ、一二三とは一二三と云ふ事ぞ、言波ぞ。コトタマぞ、祓ひぞ、ぞ。スサナルの仕組ぞ。成り成る言葉ぞ、今の三み一たいは三み三たいぞ。とあらはれてかくれよ。月とスサナルのかみ様の御恩 忘れるでないぞ。御働き近づいたぞ」 『日月の巻』 第三十二帖 [205] この帖の内容は「月」を二や次やサブや裏と認識した上で、富士の仕組の“メビウスの輪”としての側面や、「三千世界を一二三にするための神示ことばの名も一二三である」という点から考えれば、意味を把握し易いでしょう)

「一切と手をつながねばならん。人民のみで世界連邦をつくろうとしても、それは出来ない相談、片輪車と申してあろうが、目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、タテのつながりつけねばならん道理、人民同士の横糸だけでは織物にはならんぞ。天は火ぞ、地は水ぞ、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗ぢゃ、ヒミツの経綸しぐみであるぞ」 『扶桑の巻』 第九帖 [858] 錦の御旗は“明白な道理”“大義名分”の意味であり、由来になった九百年前の旗の図柄は“日月紋”でした)

 上の帖で秘密と同一視されているミツは、フジナルトの仕組の「火の霊界たる神界や水の霊界たる幽界と一体になる」を意識した表現になっています。

 いずれにせよ、どれもが「新しき歓喜たるを生む」を前提に書かれており、天之日月ひつく神様の宇宙観としての“三千世界の大から何も外れていないことが判るでしょう。

 ミツ二十二フ ジ晴れも二本晴れも、“三番目の一なる状態すがたの実現”という意味では仕組です。だからこそ、

1+1=3(1)が神のでありツキなのです。

 故に、ツキ道筋を伝える神霊がつき神や天之神と名乗り、自らの啓示ことばを一二三と称し、二十二フ ジは晴れたり二本晴れから言葉を紡ぎ始めるのは、“当然の措置”とすら言えます。

 たとえるなら、作家が自らの志を秘めた言葉を筆名ペンネームとし、作品の主題メインテーマとなる言葉を表題タイトルに定め、内容を概括した言葉を冒頭に掲げるようなもので、「最も伝えたいことを全体の象徴シンボルとなる箇所に配置する」のは、むしろ“常道”でしかありません。

 そういった、判ってしまえば普通や当然や基本や常識に過ぎなくなるを伝えるのが、最初ひふみの仕組”の第一義的な意味であるはずです。

の仕組とはに動かぬ道のことぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]

 以上の認識に立ち、日月ひふみ神示の意義”を一言に要約して、1+1=3(1)の総括むすびとします。

日月神示あめのひつくのかみとはに変わらぬツキミチを伝えるもの”である」

 その言の葉がと命名されたのは必然あたりまえと言えましょう。

 上記の内容が、二十二フ ジは晴れたり二本晴れの背景バックボーンとしての“原理的な側面”です。日月神示の内容は一見すると脈絡がない話の寄せ集めに映りますが、実際には“共通点”があり、緊密に連携しています。そこからは“物事の本質”が、表層ではなく深層に、枝葉ではなく根幹に、末ではなく元に、湧き水ではなく本源に、事象ではなく概念やにあることが、感覚的に理解できるのではないでしょうか。

全てはミチで繋がっています。

 天地の理も神の計画も人の在り方もは同じ」です。背景や共通点を浮き彫りにしながら本質こたえに近付くほど、結論こたえ簡単シンプルになって行くのです。

 そこで、次項では1+1=3(1)や一二三を更に単純シンプルに表現したを、“元の神の息吹”と絡めながら論じてみます。

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の息吹

 前項までは“富士の仕組の背後にあるもの”を概念や原理から考察して来ましたが、本項では宇宙のや総体のといった神律リズム的な側面から見て行きます。

 それらに共通する1+1=3(1)のは一と二と三の対応関係のみならず、の対応関係”に置き換えることもできます。

 極言すれば、三千世界を立て替える神々の計画ですら、“根本の秩序ルールから表層的なものに過ぎないので、“事象の本質的な側面”であるや一二三やを軸にことにより、富士と鳴門の仕組などの神の計画への更なる理解が得られます。

 逆に見ると、「表層と深層を同時に把握する」という形でなければ、真に理解が及んだとは言えないのでしょう。これは“万象万物の背後にあるもの”を見ようとするのと同じであり、結論から述べれば、

森羅万象の秘奥には“元の神の息吹リズムが存在します。

カミになりたら天地 近うなるぞ、天も地も一つになるのざぞ、今の人民には分るまいなれど、カミも人も一つ、上も下も一つとなって自づから区別出来て一列一平上下出来るのぢゃ。この世はほって置いても自然に どうにか動いて行くものざと上に立つ守護神 逃げて居るが、そんな事でまつりごと出来ると思ふてか、自然には動かんのぞ、その奥の奥の奥の のキのイキから動いてゐること判るまい、人民の思ふてゐることは天地の違ひざぞ、の中に又があり そのがあり 限り無いのざぞ。人民の研究もよいなれど研究は神ぞ、道にひたすら仕へまつれよ、おろがめよ、研究では誠のことは分らんのぢゃ、我折りて判らんことはの申すこと聞くのぢゃ、分らんでも聞いて下されよ、悪い様には致さんぞ。まつりまつりとくどう申してあらう、我捨てておろがめばのキ通じて何でも分って来るのぢゃぞ」 『梅の巻』 第十六帖 [443]

 大本系統では根元的な神の象徴としての記号を掲げています。はスとみ、「主」の漢字を当てて「の神」や「しん」と呼ぶのが慣例です。日月神示の原文でも、“神”“元”太陽の意味合いで使われる例が非常に多いです。

 そして、天之日津久神様が人間に探究して欲しいと願っているのは、本質的かつ真相的な“元の神のこころと呼び得る領域なのです。

の息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

 このような話の展開によって、神の仕組が“元の神のの発露”に過ぎず、ことが判るでしょう。そこにはから こうなっている」としか言いようがないカミぶきが存在します。

 そういった内容を、呼吸であることを強調する意味で【ぶき】と題して考察し、日月神示が「富士は晴れたり日本晴れ」から始まる背景や、及び“時節の真実”に迫って行きたいと思います。

 なお、日月神示の訳文では、原文のに「神」を、三に「道」を、に「理」などの漢字を当てる場合が多いのですが、本項では「の更に深い理解が得られる」と判断した場合には、表記を原文に戻して引用します。


 最初に、本項の要点と前項までの内容をまとめると、

日月神示ではの息吹と一二三が同一視されています。

 このことを明かす記述は多いので、順に引用してみます。

とは限りなきの弥栄であるぞ、〔中略〕 はたらきが一二三であるぞ、〔中略〕 一二三はの息吹であるぞ、〔中略〕 始め一二三あり、一二三はぞ、一二三はミチぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、の息ぞ、〔後略〕 『キの巻』 第十一帖 [268]

「我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ、愈々神示となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ。神示よく読めば分ることぞ」 『キの巻』 第十七帖 [274]

の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。ミチは一で、二で、三であると申してあらう、一も二も三も同じであり、違つて栄えるのざ、一二三であるぞ」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 また、一二三にはそのものや1+1=3(1)というを指す意味もあります。この前提で一二三を“森羅万象のなみと認識し、“息吹”と呼ぶ記述も見られます。

「世の元と申すものは泥の海でありたぞ。その泥からが色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。〔中略〕 愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

 そのため、“一二三を内包する祝詞”もしくは“一二三を展開した祝詞”的な意味で、一二三祝詞と息吹を絡めた記述が見受けられます。

〔前略〕 手首の息と腹の息と首の息との息と頭の息と足の息と胸の息とへその息とくびの息と手の息と八所十所の息合ってゐれば病 無いのざぞ、〔中略〕 しも息合ってゐない時には唱へよ、〔中略〕 神の息と合はされると災難、病 無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命 助けてやるぞ、〔中略〕 飛行機の災難も地震 罪 けがれわざわいも、大きい災難ある時には息 乱れるのざぞ、一二三祝詞と祓え祝詞との息吹と息と一つになりておれば災難 逃れるのぞ」 『日の出の巻』 第十五帖 [228] 原典準拠)

 上の帖の背景を簡単に説明すると、五十音の実質的な総体である四十七音を並べた一二三祝詞は、冒頭が一二三四五六七八九十百千万の数歌になっており、更に その最初が一二三という“三位一体のミチを表すことばです。それで、の音読のみならず、一二三祝詞の奏上も“簡易的”もしくは“精髄的”な意味で一二三をことぐことになるらしく、

日月神示では一二三祝詞がの息吹の一面”されています。

 同様に、の息吹を原理的に表現すると1+1=3(1)になり、この内容を言葉を尽くして説くなので、日月神示は息吹ことばとして認識されており、一二三祝詞の奏上と霊的な意味が通じるのでしょう。

は言波ぞ、言波とはマコトぞ、いぶきぞ、道ぞ、マコトとはまつり合はした息吹ぞ」 『地つ巻』 第三十四帖 [171]

「よくこの神示読んで神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめてくれよ」 『地つ巻』 第三十六帖 [173]

「早うカカリになる様 掃除してくれよ、の息吹に合ふとカカリになれるのぞ。一二三唱へよ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]

「皆 和合してくれよ。わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、〔中略〕 息吹つくりてやれよ、いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。〔中略〕 今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトのの息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ」 『磐戸の巻』 第十五帖 [251] この帖のマコトは上段の引用の「マコトとはまつり合はした息吹ぞ」を指すと思われます)

〔前略〕 よろこびはミチぞ、言葉ぞ、真理ぞ、愛善ぞ、生命のイキと云ふこと判るであらう。〔後略〕 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 そして、極言すれば「日月神示は一二三しか説いてない」のですが、の息吹と一二三の同一性から考えると、次のように表現することもできます。

「日月神示は万言を費やしてを伝えている」

 故に、を一二三として認識し、一二三をとして認識することにより、“元の神の姿はたらきを鮮明にできるのです。

 以上の前提に立ち、ここからはの息吹を更に掘り下げて行きます。

 を根元神の象徴に位置付けたのは、言霊学の祖たるた山口志道と言われます。この説を出口王仁三郎が大本教の教義として取り入れたことから、以後の派生団体にも広まり、新興神道系の宗派での思想”と呼び得るものが形成されました。

 その中でも日月神示は、に分離して個別に言及したり、他の記号と絡めるなどの、極めて独特で詳細な論を展開しています。

 ちなみに、は西洋の占星術では“太陽の記号シンボルであり、日月神示でも、太陽、一、日、陽などは意味が通底します。

 そして、日月神示ではの息吹と一二三の一体性”が繰り返されますが、この話はが一を、が二を、が三を象徴するというの造形”から考えても妥当と言えます。漢字の三が一と二を組み合わせた造形になっているのと同じく、

一であり二であり三であることを一文字で表現した“三位一体の象徴”です。

 だから、造型的にも象徴的にも=三”並びに=一二三”になります。これはひとつもしくは不二ひとつのように置き換えても構いません。

 こういった背景から、日月神示の原文では「」がスやズやヒの当て字として多用されており、天界でも根元的な存在を“スの神”と敬称するそうです。

〔前略〕 統治するものは一人であるが二人であり三人として現はれる、三人が元となり、その中心の一人はによって現はされ、他の二人はによって現はされる、は左右、上下二つの動きのを為すところの立体からなってゐる、統治者の心奥のは更に高度にして更に内奥に位する中のによって統一され、統治され、立体をなしてゐる。天国では このをスの神と敬称し歓喜の根元を為してゐる。スの神はアの神と現はれ給ひ、オとウとひらき給ひ、続いてエとイと動き現はれ給ふのである、これが総体の統治神である、三神であり二神であり一神である」 『地震の巻』 第十九帖 [396] 第一仮訳)

 ここでは「スの神は三位一体の姿で現れる」と語られており、の神の姿はたらき“一二三”であることが判ります。

とは限りなきの弥栄であるぞ、〔中略〕 はたらきが一二三であるぞ、〔中略〕 一二三はの息吹であるぞ、〔中略〕 始め一二三あり、一二三はぞ、一二三はミチぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、の息ぞ、〔中略〕 一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、〔後略〕 『キの巻』 第十一帖 [268] 最後の部分は直後の「ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ」と対になっているので、「ヒであるぞ、フであるぞ、ミであるぞ」の方が適訳です。両者は順律と逆律の表現になっています)

 つまり、の息吹とは一二三のことであり、基本的に1+1=3(1)というとして現れます。ここからも推察できるように、

“同じことばです。

 日月神示は論じるほど日月神や一二三という“名”のは前項で述べましたが、これらの名はに置き換えることもできます。理由は単純であり、「宇宙の全てはになっている」からです。

「ひかり教の教旨 書き知らすぞ、〔中略〕 三大実践主義 いやさか実践 はらひ実践 まつり実践 〔中略〕 宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、ことごとく中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

 日月神示は一切すべてを活かさんとするマツリの精神”に立脚していますが、これは「モトの神のすがたにまつろうこと」として「の息吹にまつろうこと」と同じであり、“深層と表層の調和まつりという側面があります。

 また、息吹は律動リズムを極めて強く意識した言い方であり、それが日月神示での表現が多用される背景と言えます。

 そして、呼吸の本質は「止まることがない」や「活きる」や「生きる」といったな様相”にあるので、の息吹に沿って三千世界がして行く姿は、“神の呼吸や脈拍”と呼ばれます。

「地上人の内的脊後には霊人があり、霊人の外的足場として地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない、地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に順序を追はず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出で呼吸するものはあり得ない。〔中略〕 因が果にうつり、呼が吸となり行く道程において、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、又 強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼も又 長くなる、ここに平衡が生れてくる。は常に動いて栄え、は常に動かずして栄え行く、その平衡が浄化、弥栄である。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現はれであることを知らねばならない。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 ここには「順序や法則や形式なきものは呼吸しない」と書かれており、その動的な様相が1+1=3(1)として一二三と称される場合が多いので、内容をと一二三の関係”として要約します。

を動的に表現すると一二三になり、一二三を象徴化するとになる」

 ちなみに、上の要約のミチに置き換えても完全に意味が通ります。

 こういった息吹うごき“三千世界の生成化育のであり、日月神示では“根本の大呼吸”と称します。

〔前略〕 しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。〔中略〕 これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである」 『地震の巻』 第五帖 [382]

 上の帖では、天国、地獄、善、悪、、一二三、三などがになって展開されており、「根本の大呼吸は」や「森羅万象の悉くが同様の律より」と明言されています。

 ここからは、森羅万象の内奥には“総体の波長”“神のリズムとでも称すべきが存在することが判ります。それこそがの息吹”なのです。

「世の元と申すものは泥の海でありたぞ。その泥からが色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ」 『日月の巻』 第二十七帖 [200]

「道徳、倫理、法律は何れも人民のつくつたもの。生れ出たの息吹きによらねばならん、も世界も人民も何れも生長しつつあるのざと知らしてあらう、何時までも同じであつてはならん道理ぢや」 『秋の巻』 第四帖 [745] 昭和二十七年版)

 また、このような“元の神の律動リズムの一環として、一二三祝詞を“三五七の韻律”に区切ってることも推奨されています。

祝詞のりとするときは、の息に合はしてれよ、の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ」 『下つ巻』 第七帖 [49]

〔前略〕 のりともよいぞ、シメは当分造りめぐらしてもよいぞ。今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ。七五三は逆ざぞ。三五七ざぞ。天地のいぶきぞ。波の律ぞ。風の律ぞ。神々様のおんいぶきのなみざぞ」 『夜明けの巻』 第十帖 [330]

「これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである」 『地震の巻』 第十九帖 [396]

 ここで重要なのは三五七の韻律ではなく、「表層的な事象を更に有効に活かせる深層的ななみが存在する」という点です。そのは呼吸や脈拍のようなものであり、無理に逆らって乱すよりも、同調まつりして方が、総体にとって極めて良い結果をもたらします。

 そういったこともあってか、日月神示では息を“最初のマツリ”“最初の気”と説いています。

「イシはイにかへるぞ。であるぞ。イであるぞ。井であるぞ。イーであるぞ。であるぞ。であるぞ。キと働くのざぞ。わかりたか」 『夜明けの巻』 第一帖 [321] 第一仮訳)

「息すること此の世の初めのまつりぞ。まつれまつれと申してあろが」 『夜明けの巻』 第八帖 [328]

「キが元と申してあるが、キがうえじにすると肉体 餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、の子はのキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構なのキざぞ。臣民 こうなくなればのキ入るぞ、の息 通ふぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ」 『雨の巻』 第十二帖 [346]

「この世はほって置いても自然に どうにか動いて行くものざと上に立つ守護神 逃げて居るが、そんな事でまつりごと出来ると思ふてか、自然には動かんのぞ、その奥の奥の奥の のキのイキから動いてゐること判るまい、〔中略〕 まつりまつりとくどう申してあらう、我捨てておろがめばのキ通じて何でも分って来るのぢゃぞ」 『梅の巻』 第十六帖 [443]

 そして、キには、気、中心、概念、原理、根本、元、肉体の前にあるもの、人間を内奥から動かすもの、事象の真相などの意味があることから、

の息吹はのキ”と同一と言えます。

 そうであるが故に、キは“太元の神”に通じるそうです。

がよろこびであるぞ。もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表裏合せてぞ。カミであるぞ。カミであるなれど現れのカミであり、現れのよろこびであるぞ。のもとがであるぞ。キであるぞ。モトモトモトカミであるぞ」 『春の巻』 第四帖 [661] 原文U準拠。第一仮訳と第二仮訳では「元の元の太元の神」と訳されています)

 そこで“キ”に関する記述を引用してみますが、これらは数が多過ぎるので、“元”との関連が判るものに絞ります。

「元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな、無理でも、に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキのままの魂にかへらんとならんのぞ」 『磐戸の巻』 第二十一帖 [257]

「他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや」 『雨の巻』 第十三帖 [347]

「今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、なかからの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ」 『風の巻』 第三帖 [354]

「この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ」 『岩の巻』 第二帖 [367]

「天地引くるめて大建替いたすのぢゃ。天地のビックリ箱とはそのことざぞ。間違ひ出来んうちに、間違はん様 気つけて下されよ。出来てからは、いくら泣いても詫びしても後へは返せん。この方でもどうにもならん元のキの道ぢゃぞ」 『岩の巻』 第三帖 [368]

「元のキのことは、元のキの血統でないと判らんのぢゃ、判る者は判らなならんぞ、判らんものは判らんのがよいのぢゃぞ」 『マツリの巻』 第十二帖 [416]

「学もよいが、それはそれの様なものぢゃぞ、途中からのは途中からの、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からのでないと判らんぞ、出来はせんぞ」 『梅の巻』 第二十一帖 [448]

「自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるからモトモトモトのキの道でなくては、タマの道でなくては立ちては行かん」 『星座の巻』 第十一帖 [894] 原文X準拠)

 上の引用と同じ意味合いで、「人間はの息吹や元のキに通じている」とも説かれています。

「人民はお土でこねて、の息入れてつくったものであるから、もう、どうにも人間の力では出来ん様になったら おつちに呼びかけよ、おつちにまつろへよ、おつちは親であるから親のふところに帰りて来いよ、嬉し嬉しの元のキよみがへるぞ」 『光の巻』 第五帖 [401]

〔前略〕 人間は土でつくって、の気 入れてつくったのざと申してあらうがな」 『白銀の巻』 第二帖 [613]

「人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、の歓喜を魂としてそれにうつして、の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ」 『秋の巻』 第二帖 [743]

 また“元のキを言葉にしたもの”として、をキと一体視する記述も見受けられます。

「此の神示キの儘であるから心なき人民には見せるでないぞ、あまりきつくて毒になるから、役員 薄めて見せてやれよ」 『風の巻』 第五帖 [356]

「神示に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどい様なれどあまり見せるでないぞ」 『風の巻』 第七帖 [358]

 更に、全ての人間に宿る元のキの発露という点から、の息吹に合わせることがカミかりの本質である」と読める記述もあります。

〔前略〕 これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早うカカリになる様 掃除してくれよ、の息吹に合ふとカカリになれるのぞ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]

「人間は皆、かかってゐるのであるぞ。かかってゐないもの一人も居らんのぢゃ。かからんものは呼吸せんのぢゃ。このこと判りて居らうがな」 『白銀の巻』 第六帖 [617]

 以上の話はの息吹や元のキがの一面である」と言っているのも同然であって、前出の引用の「宇宙の全てはになっている」と意味が通底します。

〔前略〕 総てが太の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太の歓喜から生れたものであるが、太もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

〔前略〕 もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、〔後略〕 『竜音の巻』 第三帖 [911]

「今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ」 『極めの巻』 第二十帖 [947]

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、〔後略〕 『至恩の巻』 第二帖 [949]

 故に、の息吹は根本的な原理として“元の神のとも言えるので、“神のとも同一視されるというわけです。

の息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

 ここまでの内容から見えるように、

の息吹は元のキや神の心としてを形成し、森羅万象に浸透しています。

 全ての事象の内奥にはに通じる神律リズムが存在しており、そういった“総体の波長”を最も単純シンプルかつ本質的に表現したものが、日月神示の説く及び“一二三”なのです。

 そして、三千世界を立て替える神の仕組もの息吹に沿って計画されたらしく、そこから“時節の真実”が見えて来ます。

 ここまで論じたように、全ての事象の内奥には“元の神のが存在します。それに沿って三千世界の生成化育が行われているので、神々による立替え立直しの計画もの息吹のはんちゅうに属します。

 そして、を動的に表現すれば一二三になり、なおつ、

一二三の“動的な特質”を更に強調した記号シンボルです。

 日月神示の原文では、流動、変化、活用、生成、連続、循環などの“動的な事例”うずまき記号で表現する場合が多く、る、る、るに通じることから“ナル”むそうです。

「霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体のうごきをなす」 『地震の巻』 第九帖 [386]

「ナルとはナルことぞ。〔中略〕 ナルとはナルこと、自分が大きく成ることぞ。〔後略〕 『黄金の巻』 第四十七帖 [558] 原文U準拠)

 その上で、ツキを包摂した三を生む」という活動うごき“三千世界の生成化育の様相”うずで表現できることから、

天之日津久神様ははたらきである」と明言しています。

〔前略〕 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、はその用である」 『地震の巻』 第一帖 [378]

ぞ。おんはたらきざと申してあろがな」 『梅の巻』 第十二帖 [439] 原文準拠)

 そこで、に示された=一二三=の構図を考察することによって、“時節の真実”に迫ります。

 日月神示には“本体と活用”の如く、を絡めて説く記述があります。

〔前略〕 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。〔中略〕 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える」 『地震の巻』 第五帖 [382]

かみの動くがほとけぞ、卍の動くがか三ぞ、の澄みきりがおおかみぞ」 『マツリの巻』 第一帖 [405]

 上の引用に「となりて廻り、極まることなく弥栄える」や「の澄みきりがぞ」とあるように、

を新生させるうごきです。

 そのため、“月”統合マツリと深く関わるそうです。なお、ここでの月とはじつげつつきツキツキであり、メインサブ役割はたらきを指します。

「世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。くもでて くにとなったぞ。出雲いずもとは このくにの事ぞ。スサナルのは この世の大様ぞ。はじめはであるなり、うごいて月となり地となりたのざぞ」 『日月の巻』 第二十八帖 [201]

みぎりに行かんとする者と左に行かんとするものと結ぶのがの神様ぞ、の神様とはなるの大神様ざぞ、このおんはたらきによりて生命いのちあれるのぞ、力うまれるのぞ、がまつりであるぞ、国の祀りであるぞ、は そのまっとうき姿ぞ、神の姿ぞ」 『日の出の巻』 第五帖 [218]

「左は火ぞ、右は水ざぞ、の神との神ぞ、の神とツキの神ざぞ、の神ばかり拝んでの神 忘れてはならんぞ、人に直接じきじき恵み下さるのはの神、の神ぞ、ぢゃと申しての神 おろそかにするでないぞ、水は身を護る神さぞ、火はたま護る神ざぞ、火と水とで組み組みて人ぞ、身は水で出来てゐるぞ、火の魂入れてあるのざぞ、国土も同様ぞ。海の御用 大切ざぞ」 『日の出の巻』 第二十二帖 [235] 原文U準拠。この帖の「海」は「生み」が一義的な意味かもしれません)

 ちなみに、調和マツリと深い関係を持っているのは、循環を意味するが、混ぜる、ねる、練るといった“統合の動作”を象徴化した記号だからです。また、が月や地上と関係が深いのは、物質世界が“混在界”であることに由来します。

 その上で、“鳴門の大渦”に掛ける形で鳴門の仕組との関係が深く、逆に富士の仕組は“不動の真理”としてのモトとの関係が深いらしいです。

「動かんふじの仕組のなるとの仕組」 『黄金の巻』 第二十帖 [531]

「不二の仕組とは動かん真理、ウズウミのナルトの仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

「霊界での現れは同じであっても、現実界に現れる時は違ふことあるぞ。それはモノが異なるからぞ。二二はもとのキぞ。ナルトとはその現れのはたらき」 『秋の巻』 第三帖 [744]

「動かん富士の仕組、ひらけて渦巻くナルぢゃ」 『星座の巻』 第十一帖 [894]

 以上の如く、のように対偶的に表現される例も多く、うごきとでもがいかつできそうな両者のおおよその関係を、簡単にまとめてみます。

静 純 日 火 左 主 天 霊 本体富士
動 混 月 水 右 副 地 体 活用鳴門

 こういった、の息吹に通じる動き”としてのの姿は、日月神示で“宇宙の呼吸や脈拍”の如く描写されているので、判り易いものを抜粋してみます。

〔前略〕 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。〔後略〕 『地震の巻』 第四帖 [381]

「地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである」 『地震の巻』 第七帖 [384]

「四季はめぐる。めぐる姿はウズであるぞ。は働き、上れば下り、下れば上る」 『黄金の巻』 第九十五帖 [606]

〔前略〕 は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。故によろこびなくして生きないぞ。合一はないぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

〔前略〕 総てが太の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太の歓喜から生れたものであるが、太もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

「世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ」 『星座の巻』 第七帖 [890]

 結局の所、呼気と吸気には上下や優劣や善悪が無い如く、全ての循環的な動きには局面フェーズがあるだけです。の息吹は良いものでもなければ悪いものでもなく、としてから こうなっている」としか言いようがないのです。

「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。只 大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、はその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。〔中略〕これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 だからこそ、日月神示では大河や海流に身をゆだねる如く、「神に任せよ」との記述が散見されます。これは「根本のキにに合わせる」といった意味です。

「何事もにまかせて取越し苦労するなよ」 『下つ巻』 第四帖 [46]

「何もかもに任せよ。の生命、の肉体となりきれよ」 『日月の巻』 第十五帖 [188]

は難しいこと云はんぞ、に心 皆 任せてしまうて、肉体慾 捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ。が限りなき光、よろこび与へるのざぞ」 『風の巻』 第六帖 [357]

「これと信じたらまかせ切れよ」 『黄金の巻』 第八十三帖 [594]

「まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。まかせ切るには、まかせ切って安心出来るをつかまねばならん。〔中略〕 大きな生命に通ずるものには死はないぞ。通じなければ死あるぞ」 『黒鉄の巻』 第二十帖 [638]

は理窟ではないぞ、生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。只 求めるより外に道ないのざぞ、親呼ぶ赤児の声でを求めよ、に呼びかけよ、総てを投出せよ、まかせ切れよ、は喜びの光となつて、そなたに現はれて来るぞ」 『黒鉄の巻』 第二十六帖 [644] 第一仮訳)

がうつらぬと申してゐるが、心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。たいらかにすれば正しく写り、デコボコすれば曲ってうつる。の前に固くなってはならぬ」 『黒鉄の巻』 第三十三帖 [651]

「信じ切るからこそ飛躍するのぢゃぞ。不信に進歩弥栄ないぞ。〔中略〕 まかせ切るからこそとなるのぢゃ。に通づるのぢゃ。他力で自力であるぞ」 『春の巻』 第十一帖 [668]

「あなたまかせ、よい妻と申してあろうがな、まかせがよい人民であるぞ、このとみとめたらマカセ切れよ、さまにホレ参らせよ信仰の第一歩ぞ」 『春の巻』 第十六帖 [673] 第一仮訳)

「そなたの苦労は取越し苦労。心くばりは忘れてならんなれど、取越し苦労、過ぎ越し苦労はいらん。そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身がいらぬ苦労をするぞ。何ごとも神にまかせよ」 『月光の巻』 第六十一帖 [848]

 また、「神に任せる」とは“神の計画のいちよくになう人間の姿勢”であることが、鳴門、舟、かじなどの言葉を使って語られています。

〔前略〕 此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「そなたは何時もあれもよいらしい、これもよいようだと迷って、迷ひの世界をうみ出し、自分で自分を苦しめて、気の毒よなあ。これと一応信じたらまかせきれよ。梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。まかせきるとひらけてくるのぢゃ。悟れたようでゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ」 『月光の巻』 第五十六帖 [843]

ナルの渦巻を渡る時はカヂをはなして、手放しで流れに任せると渡れるのであるぞ、カヂをとると同じ処をグルグルぢゃ。カヂをはなせる人民 少ないのう。何んでも彼んでもカヂをとって自分の思ふ通りに舟を進めようとするから大変が起るのぢゃ、渦にまかせる時はまかさなければならんぞ、ナルトの仕組の一面であるぞ、大切ごとぞ」 『五葉の巻』 第二帖 [965]

 鳴門の大渦の話は旧九月八日の仕組やミロクの仕組の中核である“神懸かり”を前提に書かれていますが、二つの仕組の総称たるナルの仕組や、神の計画の全般への見解に加え、の息吹に対する身の処し方”としても通じます。

 ですから、真に賢明な態度や姿勢とは、人間や物質世界だけではなく、神霊や霊界を含めた大きな流れを見極めてを合わせることにあるのでしょう。それが調和マツリとしてカミに任せること」になるので、

の息吹の局面フェーズにまつろうことが“時節の要点”と言えます。

 立て替えの個々の事象や個人の想念は小舟に過ぎず、大河や海流に逆らってもすぐに力尽きます。時節には呼吸のように一定の順序ルールがあり、原理ルールに逆らうことは基本的に良い結果をもたらしません。

 その法則ルールに相当する元の神の息吹はに通じるので、高位の神々ですら抗い難い秩序ルールであることを、天之日津久神様は“時の神”「この方も時節には敵わん」と表現しています。

「時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。〔中略〕 この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ」 『地つ巻』 第二十五帖 [162]

「慌てて動くでないぞ。時節が何もかもへんぽう返しするぞ。時の様 有難いと申してあろがな」 『日月の巻』 第十六帖 [189]

「愈々時節来たのであるから、何と申しても時節にはかなわんから、神示通りになって来るから、心さっぱり洗ひ晴らしてしまふて、持ち物さっぱり洗ひかへしてしまふて、のミコトに生きてくれよ」 『岩の巻』 第六帖 [371]

「時節には従って下されよ、逆らはず、後の立つ様 致されよ」 『青葉の巻』 第八帖 [477]

「見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ、今はを見下げて人民が上になってゐるが、さうなってからに助けてくれと申しても、時が過ぎてゐるから時の様がお許しなさらんぞ、マコトになってゐれば何事もすらりすらりぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「そなたのやることはいつも時が外れて御座るぞ。もちつくにはつく時あるぞと知らしてあろうが。時の神を忘れてはならんぞ。春には春のこと、夏は夏のことぢゃ」 『月光の巻』 第三十七帖 [824]

「春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸のきわみは呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神のハタラキであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ」 『月光の巻』 第五十八帖 [845]

 ですから、宇宙の呼吸や脈拍の発露としての“天地のリズムに乗れば、ので、「大峠は楽に乗り越えられる」とのことです。

「八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、カミガミ様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか」 『五葉の巻』 第十二帖 [975]

 「三千世界を立て替える神の仕組がある」と言われれば、強大な力を持つ高位の神々が、世界を自分達が望む方向へ進めるために多くの計画を立てて実行しているように感じるはずです。そのこと自体は間違いではないのですが、厳密にはらしいのです。

 こういった姿勢がに沿うとでも称すべき在り方として、人間にとっても「神の息を戴くこと」になります。

「ここは種つくるところ、種は人民でつくれんぞ。の申すやう、の息 戴いて下されよ。天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢゃぞ」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540] 「戴く」は「頂く」でも意味が通り、深い所での意味は同じです)

 極言すれば、神の仕組は“宇宙の律動リズムの発露”であって

「森羅万象よりもの息吹の方が先に在った」としか言いようがないのです。

 だからこそ、天地の呼吸や脈拍に合わせるのは、活きる、生きる、動く、マツリなどに通じることになるので、天之日津久神様はという表現を多用なさっているのでしょう。

「善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとはのイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、の心 早うくみとれよ」 『磐戸の巻』 第四帖 [240]

「今の政治はむさぶる政治ぞ、のやり方は与へぱなしざぞ、ウズぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ」 『光の巻』 第三帖 [399]

うりつるならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆が それぞれに息する道あろがな。見よ、森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへてくれよ。すべてにまつろう事と申してあろがな」 『日月の巻』 第八帖 [181]

 また、の息吹にまつろう姿は、呼吸や脈拍のような“自然な循環”に繋がることから、とどこおりなく巡るすがた“神の御心通りにはたらくもの”として、まるい」と描写されています。

「お太陽様 円いのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ、人も円いのが良いのではないぞ、息してゐるから円く見えるのざぞ、はたらいてゐるから円く見えるのざぞ、皆 形無いものいふぞ、息してゐるもの皆 円いのざぞ。の経済この事から生み出せよ、大きくなったり小さくなったり、の御心通りにはたらくものは円いのざぞ、円い中にもしんあるぞ、神の政治、この事から割り出せよ、まつりごとの姿であるぞ、の政治 生きてゐるぞ、人の政治 死んでゐるぞ」 『日の出の巻』 第十四帖 [227]

 ちなみに「神の御心通りにはたらくものは円いのざぞ、円い中にもしんあるぞ」から判るように、上の帖は内容的にも象徴シンボル的にもの描写”です。は中心的な原理に沿って全体が安定的にする調和マツリ記号シンボルなのです。

 その様相をの息吹”と呼ぶのは核心を突く表現であり、“天之日津久神様の妙手”と言っても差し支えないでしょう。

 このようにして、動的かつ循環的なの様相と絡めながら天地のについて考えることによって、“元の神の息吹”への理解が深まります。

「世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生おんひとかた御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、シン力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生様のおん息吹き どんなに お力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ、肉体ばかりか、たままでのうにならふやも知れんぞ、震へ上がるぞ。ぞ。おんはたらきざと申してあろがな」 『梅の巻』 第十二帖 [439] 第一仮訳と第二仮訳では「理が神ぞ。理が神の御用ざと申してあろがな」です)

 上の帖のには“巡る動き”的な意味があり、逆らい難いもの、あらがい難いもの、避け難いもの、逃れ難いものなどとして、直前の「元の生神様の御息吹き」の他に、鳴門の大渦、流動うごきなどに掛けた表現になっています。

 つまり、根本の呼吸に沿ったまるく巡る動き”うずで表現しているようです。同じ意味合いの記述は他にもあり、そこではと一二三とが一体視されています。

「一二三とは限りなきの弥栄であるぞ、ヒは始めなき始めであるぞ、ケは終わりなき終わりであるぞ、はたらきが一二三であるぞ、始めなく終わりなく弥栄のなかいまぞ、一二三はの息吹であるぞ、一二三唱えよ、人共に一二三唱へて岩戸ひらけるのざぞ、一二三にけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三せよ、始め一二三あり、一二三はぞ、一二三はミチぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、の息ぞ、天子様の息ぞ、臣民の息ぞ、獣、草木の息ぞ、一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、であるぞ、であるぞ、皆の者に一二三唱へさせよ」 『キの巻』 第十一帖 [268]

 ここではの息吹が“森羅万象にとして全てを姿を、「カミの息、天子様の息、臣民の息、獣 草木の息」と表現し、更にうごき的な意味でおおうずと言っているようです。

 だからこそ、の息吹によって流動する世界のうごきは、神律リズムとして一二三や“根本の大呼吸”と総称され、「森羅万象は同様の律から一歩も出ない」との明言があります。

〔前略〕 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。〔中略〕 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。〔中略〕 これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである」 『地震の巻』 第五帖 [382]

 同時に、ここには「同じことを繰り返す」という循環的な側面のみならず、「以前と以後は少し違う」というらせん的な側面も含まれており、新しきひとつを生む一二三や、「完成から大完成に進む」という、日月神示の“弥栄の宇宙観”が反映されています。

〔前略〕 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じてを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜としてはらみ、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく」 『地震の巻』 第三帖 [380]

「一切のものはであるぞ。同じことくりかへしているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな」 『春の巻』 第十帖 [667] 第一仮訳)

 また、の息吹によって世界が新生し続ける姿は「が三にナル」的な意味で、一二三や元の神のすがたに通じるさんいったいを形成するそうです。

「おもてばかり見て居ては何も判りはせんぞ。月の神様まつりてくれよ。此の世のつみけがれ負ひて夜となく昼となく守り下さるなるのかみ様あつくまつりくれよ。火あって水動くぞ。水あって火燃ゆるぞ。火と水と申しておいたが、そのほかに隠れた火と水あるぞ。それを一二三と云ふぞ、一二三とは一二三と云ふ事ぞ、言波ぞ。言霊ぞ、祓ひぞ、みそぎぞ、ぞ。スサナルの仕組ぞ。成り成る言葉ぞ、今の三位一体は三位三体ぞ。一とあらはれて二三かくれよ。二と三の神様の御恩 忘れるでないぞ。御働き近づいたぞ」 『日月の巻』 第三十二帖 [205] 原文準拠。この帖の内容は、言霊学の先鞭を付けた山口志道が展開したの関係を背景にしていると思われます。なお、五十連は志道によるの独自の呼び方であり、日月神示でも使われています)

 上の帖の「一と現れて」は表面おもてを統合した一つのおもてを指し、「二三隠れよ」が表面おもてを指しています。恐らくは“新しいひとつを生めない的な在り方”と呼ぶことにより、“新しいひとつを生む的な在り方”である三位一体やと対比しています。

 その上で、一二三には“原因と過程と結果の三位一体性”を表現する意味もあるので、そこに見える流動、変化、活用、生成、連続、循環などの“動的な様相”を、としてはらいやまつりに位置付ける形で、に絡めてあるのかもしれません。

 こういった内容と関連するのか、全体や本体をと認識した上で、原因はじめ過程あいだ結果おわりうちなかそとで表現し、の息吹はらちがいに在る故に万象万物に浸透している」的な、一見すると矛盾に見えかねない話も展開されています。

「愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美と為さんとするが故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ善は善として使命し、醜あればこそ美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思ひ、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思ひ、御用の醜を果す。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々純なれば益々充実し、円通する、さればの中のの中なるの中なるは一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが大歓喜そのものであって、神は このに弥栄し給へるが故に、最外部のの外にも弥栄し給ふことを知覚し得るのである。始めなき始のの真中の真空にゐますが故に終りなき終りのの外の無にゐまし、中間に位する力のの中にも生命し給ふのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 上の帖などによると、元の神は数字のゼロの如く“無きが如き存在”らしく、基本的に何らかのそうです。の息吹は元の神に最も近く、人間からは同一に見える場合が多いですが、厳密にはのでしょう。

「人間にはは知れんものぞ。のはたらきのみ やっと知れるぞ。ハタラきは千変万化、ハタラき見てそのものと思ふは人間心」 『黄金の巻』 第四帖 [515]

「肉体人には直接分らんものぞ。ハタラき、の働きの影しか判らんものぞ。の姿 見たと申すのは、の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。心に判っても肉体に判るものでないぞ」 『黒鉄の巻』 第三十一帖 [649]

「人民の智の中に現われてくるときは もはや大ではないぞ、であるぞ。大は人民には判らんと云ふことが判らねばならんぞ。原因の原因は中々見当とれん」 『夏の巻』 第二十帖 [737] 第一仮訳)

「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に また大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とは凝り固まった一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対空は無の始めであり、空の入口であるぞ、そこから無に入れよ、空に生きよ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]

 この辺りの話を踏まえた上で、敢えて結論すると、

の息吹は“森羅万象の最初の枠組”です。

 たとえるなら、物事を大枠フレーム形式フォーマットを決めるようなもので、以後は“既定の形式”に沿って事態が進行して行きます。故に、枠組が内質”として呼吸うごきになるわけです。

〔前略〕 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

〔前略〕かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

〔前略〕 形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。共通性なきものは、差別し、区分することができない。〔後略〕 『地震の巻』 第十帖 [387]

 だからこそ“始める前に決めた枠組”は、として、“無”に最も近い位置に在ります。

 故に、日月神示では「無であればこそ万象に浸透して万物たり得る」的な話が、「始まりも終わりもない」「全てはと共に弥栄して行く」という風に展開されています。

「一二三とは限りなきの弥栄であるぞ、ヒは始めなき始めであるぞ、ケは終わりなき終わりであるぞ、はたらきが一二三であるぞ、始めなく終わりなく弥栄のなかいまぞ、一二三はの息吹であるぞ、〔中略〕 であるぞ、であるぞ」 『キの巻』 第十一帖 [268] ヒとケは一二三祝詞の最初と最後のことばです)

モトモトモトの神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終なく始なく弥栄えてゐるのぞ」 『黄金の巻』 第一帖 [512]

「われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。只 存在するものが生れに生れつつある。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。只 自分自身のみの行為はない。只 生れゆき栄えゆくのみである。〔中略〕 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。〔中略〕 宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。只 大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、はその用である。〔中略〕 これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである」 『地震の巻』 第一帖 [378]

 上の帖の重要な箇所に傍点を振りましたが、“始めの前に在るもの”こそがであり、真実マコトであり、であり、永遠であり、なのです。

「第一歩の前にれい歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん。〔中略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、ミチでなくてはならんと申してあるぞ、ミチは永遠ぢゃ、れいから出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

 ここでの「れい歩が大切ぞ」や「ミチは永遠ぢゃ」や「れいから出てれいに至るのぢゃ」は、“枠組と全体の関係”“永遠に動かぬミチへの言及になっており、実質的にの息吹を指しています。

 以上の内容からは、と一二三との同一性”こんぜん一体になって展開されていることが読み取れ、次の表現が可能です。

「森羅万象はうごきの中に在り、によってもとと共に歓喜を増して行く」

 そうであればこそ、

や一二三や“元の神のすがたでありの息吹”なのです。

 そして、世界を根本から動かし、全てを巻き込み、あらゆる存在を栄えさせて行く呼吸うごきとして、

の息吹は“時の神”であるのと同時に“時節のはたらきでもあるのでしょう。

 その意味では、三千世界の生成化育がかみの現れ”になるので、の息吹に沿って進展して行くことが、“時節の本来の在り方”と言えます。だからこそ、

森羅万象す べ てつつがなく活かすことが“時節の真実”であるはずです。

 このため、三千世界を立替える神々の計画も、世界を完成から大完成へと進める“元の神の呼吸の一環”になります。故に、厳密には単なる律動リズムであってとすら言えます。

 神の仕組は、三千世界を立て直す、岩戸を開く、神が表に現れる、人間の霊性を取り戻す、天と地を一つにするなど、様々な物言いで表現されますが、本質的にはです。それが、日月神示で「時の神や時節には敵わん」と語られる背景なのです。

 そうであればこそ、立替えに際して起きる表層的な事象ではなく、“万象万物の背景バックボーンにして元の神の姿はたらきたるの息吹にまで理解を深めてこそ、“真の時節論”と言えましょう。

 以上の如く、元の神はの息吹として万象万物に浸透する故に、ので、天地万有すべてが活かされること」を望んでいます。言うなれば、

全ての存在はモトいつくしまれています。

 同様の話として、元の神と森羅万象を“親と子”と認識する記述もあります。

〔前略〕 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜としてはらみ、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。〔中略〕 神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。〔後略〕 『地震の巻』 第三帖 [380]

「臣民ばかりでは出来ん、三千世界の大洗濯、誰一人 落したうもない心、皆 揃ふておかげやりたや、喜ぶ顔 見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心 汲みとれよ」 『マツリの巻』 第四帖 [408]

も人間も同じであると申してあろう、同じであるが違ふと申してあろうがな、それは大の中にを生み、の中に人民生んだのであるためぞ、自分の中に、自分、新しく生むときは自分と同じカタのものを生む道理わかるであろうが、大弥栄なれば、も弥栄ぞ、弥栄なれば人民弥栄ぞ、困るとか、苦しいとか、貧しいとか悲しいとか云う事ないのであるぞ、ミチふめば、ミチふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724] 昭和二十七年版)

「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ」 『月光の巻』 第九帖 [796]

 こういった“元の神の心”「神は宇宙を創り給わず」及び「大神の中に宇宙を生んだ」という日月神示の宇宙観の中核を成しているので、主要な記述を抜粋します。

は宇宙を創り給はず。の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] 第一仮訳)

「地上人は肉体を衣とするが故に宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば永遠性はあり得ない。宇宙は神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生まれつつある」 『地震の巻』 第一帖 [378]

「全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、〔中略〕 故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。〔中略〕 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ」 『地震の巻』 第五帖 [382]

〔前略〕 大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に総てのものが生長しているためである」 『地震の巻』 第十七帖 [394]

「大の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、なり、なるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢやぞ」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655] 昭和二十六年版)

「宇宙は この方の中にあるのぢゃ。この方ぢゃ」 『春の巻』 第五十二帖 [709]

〔前略〕 その総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙は大の中に、大が生み給ふたのであるぞ、このことよくわきまへて下されよ、善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判つて来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770] 昭和二十七年版)

は宇宙を創り給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切な別れ道で御座るぞ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]

 だからこそ、全ては“大神の姿はたらきの現れ”であり“大神の中での動き”であることが強調されています。

「何も彼も存在許されてゐるものは、それだけのはたらきあるからぞ。近目で見るから、善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには、部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]

「人民と申すものは天狗ざから、自分はよいのだが、世の中 悪いのざと申してゐるなれど、世の中と申すものは大のハタラキの現れであるから、大の中でのうごきであるから、世の中が悪いと思ふのは、大が悪いと思ふことになるのぢゃぞ、に底知れぬ程の魔の仕組があるぞ、気つけおくぞ」 『扶桑の巻』 第十一帖 [860]

「悪を食ふて暮さなならん時近づいたぞ、悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶってゐること多いぞ、だが悪も大の中に生れたものであることを知らねばならん」 『五葉の巻』 第十三帖 [976]

 上記の宇宙観が、神の仕組に通底する両方すべてを活かす」の根源であり、「二十二フ ジは晴れたり二本晴れ」の背景バックボーンなので、そこに込められた“神の想い”も見て行きます。

 全ての事象は“1+1=3(1)”“統合と分離のはたらきたるの息吹に沿って進展しますが、その中で元の神の呼吸うごきを達成する最大のものが、天と地を不二ひとつにするの仕組”です。この意味において、

富士の仕組はの息吹の最大規模での発露”と言えます。

 また、二十二フ ジほんとは対偶ふたつ統合むすびであり、本質は「新しきひとつを生むこと」です。だからこそ、では二十二フ ジ“三”の道と明言されています。

「十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又 三であるぞ、〔後略〕 『星座の巻』 第十五帖 [898]

 これはの仕組が、元の神の呼吸たるに則した“三番目の一なる世界”を実現する仕組だからです。

 それこそが日月神示で繰り返し登場する、神の世、元の世、の世、あめつちなどの言葉が指すものであり、世の元の大神の御心のままの“御光の世”です。

「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

 故に、根本の大呼吸や元のキたるの息吹にのは、「元の神の心にこと」になります。そのため、の息吹には指針、基準、希望といった側面もあり、一種の“光”に相当するそうです。

「滝に打たれ断食する様な行は幽界がいこくの行ぞ。の国のお土踏み、国の光いきして、国から生れるたべもの頂きて、国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ」 『日月の巻』 第三帖 [176]

「幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは国ぞ。国の民となれば戦も有難いぞ。イキの生命いつも光り輝いてゐるぞ。にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろてくれと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが」 『日月の巻』 第十五帖 [188] 「イキの生命」は「生きる」や「活かす」の意味合いが強く、息や光に通じています)

ひとひとみことの世となるぞ。の事いふよりみことないぞ。物云ふなよ。みこと云ふのぞ。みことざぞ。道ぞ。アぞ。世 変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。光食へよ。息ざぞ」 『日月の巻』 第二十九帖 [202]

 こういった元の神ののっとった仕組を集約した言葉が、天と地、霊と体、神と人、善と悪、などの両面すべてを活かす二十二フ ジ晴れ”“二本晴れ”です。そのため、元の神の呼吸に合わせることがとして「」に掛かっています。即ち、

二十二フ ジは晴れたりほん晴れがうたうのはの息吹のまっとう”です。

 そうであればこそ、神の息吹を道理に掛ける形で、は次の一節から始まるとすら言えます。

「富士は晴れたり日本晴れ。の国のマコトのの力を現わす世となれる」 『上つ巻』 第一帖 [1]

 が天地という最大規模で全うされることが、二十二フ ジ晴れや二本晴れや「を現す世となれる」の言葉に込められているはずです。

 そう考えれば、天之日津久神様は真実マコト至誠マコトに通じるであろう“全体の精髄”を、意図的にとなる部分に掲げたことが推察できます。

日月神示では明かされているのです。

 その最初に相当するのが、神の象徴シンボルであり、の訳文のであり、を降ろした神霊の日月ひつくのかみであり、の創世神話のあめつちときであり、世界のことあまつかみしんちょくであり、数の“数霊のれいであり、の一節の“富士は晴れたり日本晴れ”であるというわけです。ここからは、

二十二フ ジは晴れたりほん晴れがや一二三に等しい言葉”であることが判ります。

 この七五調の歌は一見すると長閑のどかな情景の描写に見えますが、実際には極めて多くの密意が秘められており、“神々の心情の総括”としての側面があります。

 は心であり、呼吸であり、脈拍であり、波であり、律であり、概念であり、原理であり、はたらきであり、状態すがたであり、目的であり、原因であり、過程であり、結果であり、原点であり、基準であり、指針であり、背景であり、本源であり、情景であり、情念であり、理想であり、希望であり、しるべであり、光であり、

二十二フ ジは晴れたりほん晴れは“神の万感の歌”です。

 そうであればこそ、の息吹やに通じるとして、二十二フ ジは晴れたり二本晴れをの最初の言葉”にしたことが強調されています。

〔前略〕 総てが太の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太の歓喜から生れたものであるが、太もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、〔後略〕 『碧玉の巻』 第十八帖 [882]

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、マコトのマコトであるぞ、合せて二十二、富士であるぞ。神示の始めに示してあろう。は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]

 逆に言えば、それほどの意味を内包する言葉だからこそ、にしか置き所がなかった」のが真相かもしれません。

 言葉にすると十二音しかありませんが、天之日津久神様は少なくとも これだけの“神の想い”を込めて、「富士は晴れたり日本晴れ」と歌っていらっしゃるのです。

 以上が“富士の仕組の背後にあるもの”であり、「二十二フ ジは晴れたりほん晴れ」に込められた“神の想い”の考察です。

 は多面的かつ重層的に書かれており、“神の仕組の全容”は概念や原理を絡めた複数の視点から眺めなければ、本当の意味でことはできないのでしょう。ようなものです。

 そして、パズルの断片ピースを繋げて“元の絵”を浮かび上がらせることにより、“全体像のかんが行えるようになると、表層的で局部的な事象ではなく、“大局”からものごとを認識できるそうです。

「何も彼も存在許されてゐるものは、それだけのはたらきあるからぞ。近目で見るから善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]

「大日月地大としての このほうは一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ、その働きがそれ様ぢや、無限であるぞ、この方一柱であるが無限柱ぢやぞ。総てがであるぞ、一神ぢや、多神ぢや、汎神ぢや、総てがぢや、喜びぢやぞ。始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの、この方の手でもよい足でもよい、何処でもよいから、掴める所からつかんで、ついて御座れよ。だん判つてくるぞ、全体つかむには、この方と同じにならねばならん、その人民のつかめるところから掴んで参れよ、この方 抱き参らせてやるぞ」 『春の巻』 第二十一帖 [678] 原文U準拠)

「局部的に見るから判らんのぢゃ。文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見へるのぢゃ。手見るはまだよい方ぢゃ。筆の先だけしか見えん。筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考へ方ぢゃ。筆が一番偉いと思ふて御座るのぢゃ。信仰に入った始はよいが、途中から判らなくなるのぢゃ。そこが大切ぞ。判らなくなったらよめよ。キ頂いてよみかへるぞ」 『春の巻』 第二十五帖 [682]

「世が段々せまつて悪くなるように申してゐるがそれは局部的のことぢや、大局から見れば、よきに向つて弥栄えてゐるのぢやぞ、肚に手あてて考へて見れば判るであろうが、悪うなれかしと、悪うなるようにはなつてゐないぞ。夏が暑いと申してブツ申すでないぞ、秋になるぞ、夏ばかりでないぞ、冬もあるぞ、冬ばかりと考へるでないぞ、やがては春が訪れるのぢや、いづれも嬉しとなる仕組」 『春の巻』 第五十二帖 [709] 昭和二十七年版)

「今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

〔前略〕 人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。寸分の間違ひもないのであるぞ、これが間違ったら宇宙はコナミジン、はないのであるぞ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

 そうやって物事の深層や大局といった“真相の領域”に辿り着くと、の息吹としての“神のに通じるそうです。

カミになりたら天地 近うなるぞ、天も地も一つになるのざぞ、今の人民には分るまいなれど、カミも人も一つ、上も下も一つとなって自づから区別出来て一列一平上下出来るのぢゃ。この世はほって置いても自然に どうにか動いて行くものざと上に立つ守護神 逃げて居るが、そんな事でまつりごと出来ると思ふてか、自然には動かんのぞ、その奥の奥の奥の のキのイキから動いてゐること判るまい、人民の思ふてゐることは天地の違ひざぞ、の中に又があり そのがあり 限り無いのざぞ。人民の研究もよいなれど研究は神ぞ、道にひたすら仕へまつれよ、おろがめよ、研究では誠のことは分らんのぢゃ、我折りて判らんことはの申すこと聞くのぢゃ、分らんでも聞いて下されよ、悪い様には致さんぞ。まつりまつりとくどう申してあらう、我捨てておろがめばのキ通じて何でも分って来るのぢゃぞ」 『梅の巻』 第十六帖 [443]

 結局の所、天之日津久神様が真に人間に求めているのは「森羅万象に通うの息吹に通じること」であり、意向こころを見極めること」と同じなのでしょう。

の息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

 それが「元の神の姿はたらきを知ること」として、富士は晴れたり日本晴れに込められた“神の想いこころの一面であるはずです。恐らく、

日月神示あめのひつくかみとは“元の神のこころを明らかにするもの”です。

 これはや一二三のすがたとしての全編に濃密に浸透しており、の息吹は万象万物に表れている」とのことです。

「宇宙の総ては このほうの現れであり、一面であるから、そのつかんで拝んでもよいのであるぞ。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに この方の息 通ふているぞ。この方の喜びぞ。〔後略〕 『春の巻』 第二十二帖 [679] 原文U準拠)

の姿は総てのものに現われてゐるぞ。みちばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に総てを見せて飲み込ませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから気長に求めよ」 『夏の巻』 第十七帖 [734]

「この世は 皆 神の一面の現われであるぞ」 『月光の巻』 第六十一帖 [848]

 そして、万象万物は三千世界の生成化育の的な原理であるの息吹からことを、「神の外には出られない」「全ては神の中で栄える」という風に、独自の表現で伝えています。

ミチふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。人民いくら頑張ってもの外には出られんぞ。いくら頑張っても大の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

「総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構」 『月光の巻』 第九帖 [796]

「そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ」 『月光の巻』 第五十三帖 [840]

「人民はの中にゐるのであるから、いくら頑張ってもの外には出られん。死んでもの中にゐるのぞ」 『極めの巻』 第十三帖 [940]

 これらの内容が「宇宙はになっている」「全てはに統一されている」宇宙を生んだ」という日月神示の宇宙観と話が繋がるわけです。

「宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

は宇宙を創り給はず。の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」 『黄金の巻』 第三帖 [514] 第一仮訳)

 ですから、“永遠に動かぬとしてのに行き着き、一二三に行き着き、の神の姿はたらきに行き着くことが、日月神示を学ぶ上での“正しいなのでしょう。

「学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、の学、の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、に尋ねての科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったらに尋ねと申してあること忘れるなよ」 『梅の巻』 第十五帖 [442]

から伸びた智と愛でないと、人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。やりてみよれ。根なし草には実は結ばんぞ」 『黄金の巻』 第六十四帖 [575]

「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ」 『月光の巻』 第三十四帖 [821]

「判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、モトモトモトカミの申すことよく聞きわけなされよ、の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]

 故に、日月神示は どの箇所を見ても的なたるの神の姿はたらきに行き着くことを、天之日津久神様は「進めば進むほどに還る」や「に至る」と語っています。

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん、無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ。岩戸あけなば富士輝くぞ。弥栄々々」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 昭和二十六年版。昭和三十八年版では「不二輝くぞ」です)

 だからこそ、森羅万象のちゅうしんである元の神の息吹は、“宇宙にみちみつの在り方”と称されます。

〔前略〕 おしえはみな方便ぢや。教ではどうにもならん。ぎりの世となってゐるのぞ。道でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、〔中略〕 道とは三界に貫く道のことぞ。宇宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

 余談ですが、日月神示を直受した岡本天明氏は、自らの墓碑に「一二三」と刻みました。これはの中心や核心としてのかみごころを、天明氏が正確に把握していたからでしょう。

 また、と一二三の二つを一言ひとつのものとして墓碑に刻んだことから、全てが“同じものの別側面”であり、互いに補完し合って初めて“一つの実像”が見えることを、天明氏は察していたはずです。

 その上で、こういった=一二三”と同様の関係にあるのがです。

〔前略〕 統治するものは一人であるが二人であり三人として現はれる、三人が元となり、その中心の一人はによって現はされ、他の二人はによって現はされる、は左右、上下二つの動きのを為すところの立体からなってゐる、統治者の心奥のは更に高度にして更に内奥に位する中のによって統一され、統治され、立体をなしてゐる。天国では このをスの神と敬称し歓喜の根元を為してゐる。スの神はアの神と現はれ給ひ、オとウとひらき給ひ、続いてエとイと動き現はれ給ふのである、これが総体の統治神である、三神であり二神であり一神である」 『地震の巻』 第十九帖 [396] 第一仮訳)

 そして、にまつわる内容が“最大最後の神仕組”たる二十二フ ジの仕組に深く関わっています。

〔前略〕 今の戦はとの戦ぞ、の最後の仕組と申すのは入れることぞ。〔後略〕 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

 上の帖の内容は多面的な読み方ができますが、その内の一つとして、は三千世界の生成化育の総仕上げに発動される“元の神の息吹”でもあるらしいのです。

「世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生おんひとかた御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、シン力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生様のおん息吹き どんなに お力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ、肉体ばかりか、たままでのうにならふやも知れんぞ、震へ上がるぞ」 『梅の巻』 第十二帖 [439]

 そこで、の息吹や富士の仕組の更なる意味であり、三千世界のテンについて、【りょうテンせい】と題して詳しく考えてみます。

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画竜

 前節まで見て来たように、二十二フ ジの仕組は概念や原理としてのの息吹”“一二三”と緊密に結び付いており、観念的な“日月神示の宇宙観”の話になる場合が非常に多いです。その上で、

「宇宙は生み出された」という話が“最大最後の仕組の伏線”になっています。

 そういった事柄を“九十九と一”の話として論じます。具体的には本節で九十九にまつわる内容を展開し、最終節で一について詳述します。これらはぜんたいちゅうしんの話であるのと同時に、“百”かんぜん最後トドメの話になります。

 なお、故事には竜の絵の仕上げに瞳たるてんき入れると、本物の竜になって天に昇ったという話があります。そこから「最も大事な部分を加えて完全に仕上げること」や、要点、眼目、中心、最後、完成などを“画竜点睛”と呼ぶようになりました。

 その話を踏まえて、三千世界の生成化育のに行われる二十二フ ジの仕組の一面を、【りょうテンせい】と題して考察します。


 例えば、日月神示には三千世界を完成させる“最後の仕組”二十二フ ジの仕組”について、次の記述があります。

ばかりでもならぬ、ばかりでもならぬ。がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民はでありたが、が神国に残りが外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。も片輪、も片輪、と合はせて まことのかみの世に致すぞ。今の戦はとの戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは入れることぞ。〔後略〕 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 また、天之日津久神様は仕組や三千世界の生成化育を“数歌”に見立てていますが、そこには次の理由があるらしいのです。

「最後のを特定できるようにするためにを数で表現した」

 この話を【の概略】、【九分九厘】、【れいの岩戸開き】、【一なるもの】、【ももよろず】、【穿うがつ】という順序で解説しながら“九十九”の姿を明らかにし、最終節の“一”へと話を繋げます。

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の概略

 日月神示における岩戸開きや立替え立直しは、数的には一二三四五六七八九十れい“七八九十れいの段階に相当するので、

天之日津久神様が説く最後トドメとは“三千世界の生成化育の最終局面”を指します。

 ただし、全ての段階が神の計画に含まれており、“世の元の大神の仕組”“世の元からの仕組”と称されます。

「世の元のの仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに難しい仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたらの元のカミの神力出して岩戸開いて一つの王で治めるカミのまことの世に致すのであるから、〔中略〕 今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ」 『上つ巻』 第二十一帖 [21]

「この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ」 『下つ巻』 第四帖 [46]

「今度の戦はとの大戦ぞ。神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、しもの神々様にも分らんぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]

「何もかも悪の仕組は分りているぞ、いくらでも攻めて来てござれ、神には世の本からの神の仕組してあるぞ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]

「悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、ホトケ結構、ヤソ結構、コトゴトク結構の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ。世の元からの仕組、中行く仕組、アッパレ三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、〔中略〕 世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ」 『雨の巻』 第八帖 [342]

「学もよいが、それはそれの様なものぢゃぞ、途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ」 『梅の巻』 第二十一帖 [448]

 その上で、世の元の大神の計画や三千世界の生成化育は“数歌”で表現され、このを経て実現する世界は、『先代旧事本紀』に伝わる天照大神のの神宝”に見立てられています。

「二二と申すのは天照大神殿のくさかんだからテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 上の帖では、たる二十二フ ジを実現するものがテンであることが明かされており、“数霊のれいが これに該当します。

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の二の五ぢゃ、二二ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962] 第一仮訳)

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 このような順序で、たるれいが十方世界に加わって、1234567810の世界にしての御代たる“富士は晴れたり日本晴れの時代”が到来するとのことです。以上の話からは、

テンれい二十二フ ジ“同じの異なる表現”であることが判ります。

 簡単に言うと、日月神示では物事を複数の視点から眺める“三面図の如き手法”によって、“一つの実像”を浮き彫りにできます。ですから、れいへの理解を深めることが、二十二フ ジの仕組の内容に迫ることに繋がるのです。

 ただし、への言及は分量が多い上に非常に多義的であり、詳細は三位一体の象徴たる造化三神やの神と一緒に説明する必要があるので、ここで全ては詳述できません。ですから、富士の仕組への理解を深めるものに絞って【の概略】を述べます。


 まず、日月神示のの概要”の要点を述べます。

の最も本質的な意味すがた大歓喜よろこびです。

 そして、大神の大歓喜はモトの神の意向ココロとして展開し、らしいのです。この辺りの話は『地震の巻』で“根本原理”及び“二つの力と神の歓喜”の言葉で触れられているので、重要な箇所に傍点を振って引用します。

〔前略〕 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に常に相反し力し力を生じ、又 常に相通じて力を生み行く。。されば差別は平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。霊人が地上人と和合し、又 地上人が霊人と和合し弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為めであることを知らねばならぬ。。生成発展もなく神も歓喜し得ない、この力なくしては地上人は霊人と和し神に和し奉ることは出来ない、故に生命しないのである」 『地震の巻』 第十帖 [387] 第一仮訳。省略した多数の「」が“縦と横”として、「相反する力が結ばれる姿」を表現していると思われます。この話は“十方世界”“立体”にも通じます)

 ここでの「二つの相反するもの」や「二つの力」は、天と地、霊と体、陽と陰、神と人、男と女、日と月などに代表される“対偶の存在”を指しており、それらを統一する“対なるものを結ぶはたらきこそがとして、「そのものの力であり歓喜である」とのことです。これがの説くや一二三に通じるのは言うもまでもなく、実質的にミチ“三元”の話が展開されています。

〔前略〕 よく見て下されよ。一であり、二であり、三であらうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。なくてはならん。にもかくれたと現われたとがあるぞ。このこと先づ心得て下されよ。そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな」 『白銀の巻』 第一帖 [612] 昭和三十八年版。「」を含む文章は原文や昭和二十六年版にはなく、天明氏が書き加えたようです。追記の是非は別として、晩年の天明氏が三に相当するものをと認識していたことは注目に値します)

 その上で、“神の歓喜”と説く記述は他にもあります。

「愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力を為すは歓喜である。故に歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は これを愛の善と云ひ、歓喜なき愛を愛の悪と云ふのである。その歓喜の中に 又 歓喜があり、又 愛があり、真があり、真の真と顕はれ、愛の愛と顕はれ、となり、と集約され、その集約のの中にを生じ、更に尚と弥栄ゆる。生前の世界、現実の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである」 『地震の巻』 第四帖 [381] 第一仮訳)

〔前略〕 一の世界に住むものには二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには一の世界は 又 苦の世界と感覚するからであって、何れも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになってゐるのである、又 一の世界に於ける善は二の世界では善ではなく、二の世界の真が一の世界に於ては真でない場合も生じてくる。しかし その総ての世界を通じて、更に高きに向って進むことが彼等のよろこびとなるのである。は中心であり、大歓喜であり、神である」 『地震の巻』 第十七帖 [394] 第一仮訳)

〔前略〕 天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜のが感じられるのみである」 『地震の巻』 第十九帖 [396]

「奥の奥の奥のは大神に通ずるであるぞ。喜びであるぞ。ある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ」 『黒鉄の巻』 第三十二帖 [650]

 また、大神の大歓喜であるは「無限立体的 無の存在」とも表現されています。当然ながら“無”れいに通じており、更には“無限”“立体”にも通じるとのことです。

「一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、又 真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は存在しないのである。しかし大歓喜にまします太神のは、そのままで成り成りて鳴りやまず存在し、弥栄する、それは立体を遥かに越えた超立体、無限立体的 無の存在なるが故である」 『地震の巻』 第二帖 [379] 第一仮訳)

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん、無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ。岩戸あけなば富士輝くぞ。弥栄々々」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 昭和二十六年版)

「道は三つと申してあろう、三とは三であるぞ、3でないぞと申してあろう、無限であるぞ、平面的に申せば右と左とだけでないぞ、その右の外に 又 左の外に道でなき道あるぞ、それを善の外道、悪の外道と申すのぢや、外道多いのう。中の中には中の道あるぞ、中の中は無であるから動きないぞ、動きないから無限の動きぢや、そのの外の中は人民にも動きみゆるぞ、この道は中ゆく道ざと申してあろうが、行く道、動く道であるぞ、の外の中であるぞ、中の道は太神の道、中行く道が神の道、人の道ぢや、判りたか」 『春の巻』 第三十九帖 [696] 昭和二十七年版)

がよろこびであるぞ、またはムでもあるぞ、内から外に向つて行くのがのやり方、外から内に向つて行くが外国のやりかた、からに行くのは、マコトが逆であるからマコトのことは判らん、〔中略〕 から出てにかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又 有限に動くのがマコトのやり方であるぞ」 『夏の巻』 第二帖 [719]

 日月神示によると、宇宙は元の神の中に生まれたが故に、究極的には全てが“元の神が変じたであるそうです。だから、元の神は“森羅万象の真の実体”と呼び得るのですが、「万象万物であるが故に そのいずれでもない」「変じた時点で元のままとは言い難くなった」という風に認識されるらしく、そういった点を指しての存在”に位置付けられているようです。

 一応、人間の頭で想像できる範囲では、元の神は概念イデア原理ルールエネルギーに近い存在らしく、そのようなで万物にそうです。このような元の神の在り方を理解することが、「歓喜に向かい、親に向かい、根元に通じる」ことになるそうです。

〔前略〕 真実が益々単にして益々純なれば益々充実し、円通する、さればの中のの中なるの中なるは一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが大歓喜そのものであって、。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出で、神の中に抱かれてゐるが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜する。歓喜に向ふとは親に向ふことであり、根元に通ずることである」 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 傍点を振った箇所を補足すると、「は最小の内にも最大の外にも中間の中にも存在する」や「は原因と結果と過程の全てに浸透している」といった意味であり、そのことを「神が生み、神より出て、神の中に抱かれている」と表現しています。他の帖で出て来るの外には出られない」なども同様の意味であって、

は全ての存在の内奥に存在するなのです。

 だからこそ、中の心を現す記号は“中心”を表す「テン」なのでしょう。これは無を空白で表現すると意味が伝わらないので、「最小の記号を以て無の便宜的な表現とする」という措置です。数字のゼロのようなもので、「無いが在る、在るが無い」のが“万物の中心の姿カタチと言えます。

 以上の背景に基づき、日月神示にはは中心であり、大歓喜であり、神である」「中心は無」といった表現が見られます。

〔前略〕 その総ての世界を通じて、更に高きに向って進むことが彼等のよろこびとなるのである。は中心であり、大歓喜であり、神である」 『地震の巻』 第十七帖 [394] 第一仮訳)

「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]

 上の「見えぬ力が永遠の生命と現われる」とは、実体カタチがあるものはいつか滅びますが、実体カタチ元の神、即ち“万物のマコト実体カタチであり、の言う「無限立体的 無の存在」や「万物中の最も空にして無なるもの」にしてたる大歓喜よろこびの、“滅びることも尽きることもない姿カタチを指すようです。

 故に、元の神は無やくうの如く認識されながら、実際には概念や原理やエネルギーや、それらを包括した意向こころとして隅々にまで行き渡り、三千世界の生成化育や大宇宙の弥栄や神の計画を含む“あらゆる事象うごき軸”に位置するらしいのです。

 こういった背景から、日月神示では元の神のちからや大神の歓喜や神の心が、まんなかの記号で表現される場合が非常に多くなっています。

 ここまでの話を簡単にまとめると、万物の中心には大神の大歓喜たるが在り、それが“神の意志こころ“神の喜ぶこと”としての概念や原理が形成されており、三千世界の生成化育の“不動の中心軸”になっているそうです。

「中の中には中の道あるぞ、中の中は無であるから動きないぞ、動きないから無限の動きぢや、そのの外の中は人民にも動きみゆるぞ、この道は中ゆく道ざと申してあろうが、行く道、動く道であるぞ、の外の中であるぞ、中の道は太神の道、中行く道が神の道、人の道ぢや、判りたか」 『春の巻』 第三十九帖 [696] 昭和二十七年版)

ナカイマと申すことは今と申すことであるが、は無であるぞ、動きなき動きであるぞ、真中うごくでないと申してあろう、うごくものは中心でないぞ、その周囲が動くのであるぞ、そのことよくわきまへよ」 『秋の巻』 第十九帖 [760] 第一仮訳)

 なお、日月神示の説く不動うごかないには“不変”“普遍”の意味も含まれます。その上で、

歓喜よろこびを多少の情感を込めて表現すれば、カミココロの息吹”になります。

 また、万象万物のちゅうしんは世界や生命を動かす“指針”原動力エネルギーになっており、この様相を万言を費やして語らんとするがために、天之日津久神様はの心”の息吹”と同一視しています。

「口と心と行と三つ揃ふたら今度は次に入れて下されよ、カミぢゃ、神示ぢゃ、神示元ぢゃ、と申してあろが、三つ揃ふても肝腎の神示 肚に入って居らんと何にもならん事になるぞ」 『梅の巻』 第八帖 [435]

「神示はカミの息吹きぢゃ。心ぢゃ」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

「はじめの御用は神示ぞ、次の御用は神示うつすことぢや、神示うつすとは神示を人間に、世界にうつすことぞ、神示を中心とした世界のはたらきせよ、通した人間の仕事つかへまつれよ、神示とした世界つくることぞ」 『黒鉄の巻』 第十二帖 [630] 昭和二十六年版)

 そして、元の神の意向こころの本質的な側面を凝縮した総称として、“三千世界の筋道”を過不足なく表現する言葉が“一二三”です。

の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。道は一で、二で、三であると申してあらう、一も二も三も同じであり、違つて栄えるのざ、一二三であるぞ、このこと教へられても判るまい、肚で判る大切こと、肚 大切ぞ、かたまつてはならん、に捉はれるとは判らん。地の定規ではかつてはならん」 『白銀の巻』 第三帖 [614] 昭和二十六年版)

 だからこそ、

一二三やの息吹はカミココロと呼び得るのです。

 また、は万象万物に通じる“普遍的なとして、“宇宙にの在り方”に位置付けられています。

〔前略〕 おしえはみな方便ぢや。教ではどうにもならん。ぎりの世となってゐるのぞ。道でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、〔中略〕 道とは三界に貫く道のことぞ。宇宙にみちみつのあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳)

 そこで、ここまでのちゅうしんの内容を簡単にまとめてみます。

無限立体的 無の存在 = 大歓喜よろこび意向こころ = 法則 = 秩序 = ミチ = 一二三 =

 それと、『地震の巻』には「は目的である」という主旨の記述があり、には指針や活力や希望として、広義の意味での“光”も含まれます。だから、カミココロカミちゅうしんにまつろう」「光に向かう」などに要約できるはずです。恐らく、

ちゅうしん“光の本源”意味すがたが強いのでしょう。

 そのように想起させる記述が日月神示に見受けられます。

「この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道でみな生き返るのざぞ」 『地つ巻』 第十二帖 [149] 「時がない」とは「の変化に左右され」という、不変、不動、普遍の性質を有すると言いたいのでしょう)

「建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「あらたぬし、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草のかきことめて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。〔後略〕 『夜明けの巻』 第十二帖 [332]

「人民 カミに仕へて下さらんとカミのまことの力出ないぞ、〔中略〕 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。カミは光ぞと申してあらうが」 『風の巻』 第九帖 [360]

「この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ」 『岩の巻』 第二帖 [367]

〔前略〕 この道 神の道ぢゃ、光の道ぢゃ、教ぢゃ、〔後略〕 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

「今の法律でも、教育でも、兵隊でも、宗教でも、この世は建直らんぞ、新しき光が生れて世を救ふのぢゃ、新しき光とはこの神示ぢゃ、この神ぢゃ」 『海の巻』 第十五帖 [507]

「マコト光るのぢゃ。光のマコトの宗教 生れるのぢゃ。その時は宗教でないぞ。心得なされよ」 『黄金の巻』 第二十七帖 [538]

は光の道伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。教は教に過ぎん。道でなくては、今度はならんのぢゃ。天の道、地の道、もろもろの道、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ」 『春の巻』 第一帖 [658] 第一仮訳)

「十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。このほうの道へ御座れ。正しき光の道によれよ。十日で、一月で見ちがへる程になるぞ」 『春の巻』 第四十九帖 [706]

「神は宇宙をつくり給はずと申して聞かせてあろうが、このことよく考へて、よく理解して下されよ、大切なわかれ道で御座るぞ。〔中略〕 光は中からぢゃ、岩戸は中からひらかれるのぢゃ」 『紫金の巻』 第八帖 [987]

「教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神かんながらの道と申すぞ」 『紫金の巻』 第十二帖 [991]  惟神の道とは「神の御心のままに」や「神と共に歩む」という意味です)

 他にも、『地震の巻』には「神は常に光と熱として接する」や「神は大いなる歓喜として現われ給う」や「歓喜によって統一される」との記述があります。

「天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜のが感じられるのみである。この歓喜のが、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ」 地震の巻 第十九帖 [396]

 このようにちゅうしんと光と歓喜の強い結び付き”を例を挙げると判り易いのですが、

日月神示における“大神の大歓喜から派生する概念”を包括した内容です。

 故に非常に多義的であり、一見しただけでは意味すがたを捉えにくいです。しかし、詳細にを読み込むなら、それらは同じ本源から流れ出た“同質のもの”であり、一つの実像と呼び得る共通点があることに気付かされます。そうやって複数の側面をことによって、“中心と全体の関係への理解”のです。

 そして、実像や共通点は“全体を束ねる役割”を持ち、万物に浸透する形で宇宙に満ち満ちています。これはカミココロが秩序や法則や原理と呼ばれるものを形成しながら弥栄し行く、“三千世界の生成化育の様相”であり、そこでの中心の役割はたらきは次のようにも表現できます。

はたらきとは“全体の統括”である」

 そうであればこそ、が入っての姿になるミロクの世は、の世としてくくる」「一点に向かう」と表現されています。

「おのもおのも頭領であるぞ、釈迦ざぞ。キリストざぞ。その上に神ますのざぞ、その上 神 又ひとたばにするのざぞ、その上に又でくくるぞ、その上にもあるのざぞ、上も下も限りないのざぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]

「この世は一つの神で治めんことには治まらんぞ、でくくるのぢゃぞ、人民の力だけでは治まらんのぢゃぞ、一つの教となって それぞれの枝葉が出て来るのぢゃ、今では枝から根が出て大切なミキがなくなって居るのぢゃぞ、中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな」 『海の巻』 第七帖 [499]

「統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう」 『秋の巻』 第十六帖 [757]

 ただ、現在の世界はカミココロないがしろにした無秩序バラバラな世の中であり、「からが抜けてになっている」とのことです。この状態は“主客転倒”の意味で、逆立ち、逆様、アベコベ、外国魂などと呼ばれます。

 逆に、既存の無秩序な世界に元の神の心に基づいた秩序をもたらすことが、を入れてにすること」「中心に帰一すること」として、御心ひかりにまつろうマツリの姿”であると説かれています。

「この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れてくれよ、この道はぞ、の中に入れてくれと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、入れてくれよ、を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦はの掃除ぞと申してあらうがな、まつりとは調和まつり合はすことと申してあろうがな、この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めてくれるなと申してあらうがな。世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道でみな生き返るのざぞ」 『地つ巻』 第十二帖 [149]

「身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、のうつりた人とのかかりた人との大戦ぞ、とが戦して、やがてはを中にしてがおさまるのぞ。その時はでなく、でないのざぞ、となるのざぞ、のまつりぞと申してあらうがな」 『地つ巻』 第二十二帖 [159]

「大宇宙の弥栄 生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、〔中略〕 宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、ことごとく中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ」 『青葉の巻』 第三帖 [472]

 ですから、非常に本質的かつ広義の意味において、

の御心のままにすることがを入れることになります。

 なお、この話はの実践”としての身魂磨きなども含まれます。天之日津久神様が「を読むことが洗濯や掃除の初めで終わりである」と説くのも、こういった背景に基づいており、洗濯や掃除は立替えや立直しにも通じます。

「洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んでくれよ。よめばよむほど身魂みがかれるぞ」 『富士の巻』 第十三帖 [93]

 結局の所、個人が倫理を向上させるのも、世界が根本の秩序に回帰するのも、「元の神の御心のままにする」という意味では、「を入れてにする」に含まれるのです。そのことが非常に判り易いの記述も引用してみます。

「神示読めば神示の気通ふぞ。神示読めよ。神示うつせよ。うつす御役 結構ぢゃなあ。うつせ。うつせ。人にうつせよ。世界にうつせよ」 『黄金の巻』 第四十二帖 [553]

「はじめの御用は神示ぞ、次の御用は神示うつすことぢや、神示うつすとは神示を人間に、世界にうつすことぞ、神示を中心とした世界のはたらきせよ、通した人間の仕事つかへまつれよ、神示とした世界つくることぞ」 『黒鉄の巻』 第十二帖 [630] 昭和二十六年版)

「今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ、正信と思ふものの中に迷信多いぞ。理窟は迷信。神の気通うたら、その気を人間にうつす御役、救ひの御役を結構につとめあげてくれよ」 『黒鉄の巻』 第二十三帖 [641] 第一仮訳)

「神示は一本道ぢや。始めからの神示よんで、よく読んで見なされ、何も彼もハッキリしてくるぞ。神示うつして下されよ、神示、世界にうつすことよろこびぞ。地に天国うつすことぞ」 『春の巻』 第八帖 [665] 昭和二十七年版)

「今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用としてないからぢや、神示よめよ、神示 世界にうつせよ、早ううつせよ。人間の智のみでは世界はよくならん、裏側だけ清めても、総体は清まらんぞ、神にめざめねばならんぞ」 『春の巻』 第十五帖 [672] 昭和二十七年版)

 ここまでの内容と照らし合わせれば、「を人間や世界にうつす」が「くくる」と全く同じ意味であることが判ります。

 そして、上記の内容が前提となる形で、万象万物をで括った世界が“元の神の御心のままの時代すがたとして、岩戸開き、元の姿、神の姿、立直し、光の世、元に戻す、ミロクの世に相当することが力強く説かれています。

「逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、上にゐては足も苦しからうがな、上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、足はやはり下の方が気楽ぞ、あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、この道理 分りたか。岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度はまでもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「日本の上に立つ者に外国の教 伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根 入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用 中々であるぞ」 『梅の巻』 第十一帖 [438]

「天が上で地が下で、中にあるのぢゃ。それがミロクの世ぢゃ」 『春の巻』 第二十九帖 [686]

 このような形で、不変、不動、普遍のちゅうしんに全体が統括されて不二ひとつになることが、元の神の心への帰一、マツリの実現、光の時代の到来であるのと同時に、“三千世界の生成化育の最終局面”としての二十二フ ジの仕組の内容に繋がって行きます。

 日月神示では一二三四五六七八九十にを加えると二十二になることを説いています。は数的に表すとれいであり、を兼ねる“基点”なので、“全体の動きの中心軸”と言えます。

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん。〔中略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]

 なお、基点が始点と終点の二つの側面を内包するように、数霊のれいで表現される場合もあります。

「十くさ、十二くさのかむたから、〔中略〕 む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ」 『月光の巻』 第五帖 [792]

「〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳」 『紫金の巻』 第一帖 [980]

一二三曰五六七八九十百千バン 『紫金の巻』 第一帖 [980] 原文X)

 上の引用での一二三四五六七八九十れい一二三四五六七八九十れいと同義であり、「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄する」を表現した数歌になっています。同様に、順律おもての数歌との数歌が、「〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう」という“対称的な動き”と対応します。

 このように、十方世界にであるれいを加えた世界が、二十二フ ジと呼ぶ一二三四五六七八の世”であり、“十一段階目”に相当します。

 そして、基点や端点や接点であるれいが入口と出口のを兼ねる形で、表の一二三四五六七八九と裏の九八七六五四三二一を結び付けるので、“十と一”の総計を“二十二”と見る極めて特殊な数え方になっています。

 同時に、れい一二三四五六七八九十れいを意味する“十と二”も、十一や二十二の別表現です。

「十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。この二つが天晴れ世に出る時 近づいたのであるぞ」 『秋の巻』 第二十一帖 [762] 昭和二十七年版)

「今度は八のくまでは足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。その他に隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

「岩戸しめの始めはの時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874] 第一仮訳)

 ただし、数字のれいの表現であって、基本的にです。だから、れいは厳密には数や順序には入らないので。数ではないが数と絡み、数への影響力があり、場合によっては数としても扱う、という極めて特殊な役割を持ちます。たとえるならトランプの切札ジョーカーのようなもので、三千世界を盤に、生命を盤上の駒に見立てれば、れいは基本的に存在はたらきです。

 ここで話が二十二フ ジの仕組に繋がります。前節までに詳述したように、富士の仕組は八方世界に九十を加えて十方世界が実現した後に、更にれいであるを加える仕組であり、「天と地の関係をメビウスの輪にする」という内容です。この場合、れいはメビウスの輪のひねり”に相当しますが、てんを一体的なあめつちにする捻りにはのです。

 そして、不二の仕組によって実現する“三番目の一なる世界”は、「全てが捻りの影響下にある」と言えます。捻りがなければおもてうら不二ひとつおもてにはならず、捻りが

「なりなりて なりあまれるところもて、なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。このよのくにうみは一つおもてでしなければならん。みとのまぐはひでなくてはならんのに、おもてを一つにしてゐないではないか。それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ」 『月光の巻』 第一帖 [788]

 上の帖は記紀の国生み神話の男神イザナギ女神イザナミ結合まぐわいなぞらえて描写されており、

 ですから、二十二フ ジの仕組の本質はツキを包摂した“三”を生み、新たなる不二ひとつを実現することです。また、“新しき一”である三を生むとは“歓喜の増大”を意味します。

〔前略〕 何故ならば霊と物とは対応してゐるからである、生前は生後であり、死後は又 生前であって、春秋日月の用をくりかへしつつ弥栄へてゐる。従って霊界に住む霊人たちも両性に区別することが出来る、陽人と陰人とである、陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人の為めに存在する、太陽は太陰によりて弥栄へ、太陰は太陽によりて生命し、歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、又 絶えず反してゐる、故に二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、又は結婚と呼び、霊人の結婚とも称えられてゐる、三を生むとは新しき生命を生み且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心を為し、物質として現はれるものである。霊界に於ける春は陽であり、日と輝き且つ力する、秋は陰であり、月と光り且つ力する、この春秋のうごきを又 歓喜と呼ぶのである。春秋のうごきあって神は呼吸し、生命するとも云ひ得る」 『地震の巻』 第十八帖 [395] 第一仮訳)

 陽と陰、日と月、霊と体などが“統合と分離”を繰り返す姿は、「対なるものは結ばれて新生する」と表現でき、天と地や神と人の結合むすび“陰陽不二の大歓喜”と称されます。

〔前略〕 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない、分類しては生命の統一はなくなる。其処に分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面には、平面的には割切れない神秘の用が生じてくる、一なるものは平面的には分離し得ない、二なるものは平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は立体的神秘の中に秘められてゐる。に於ては一なるもに於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、又 真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は存在しないのである。しかし大歓喜にまします太神のは、そのまゝで成り成りて鳴りやまず存在し、弥栄する、それは立体を遥かに越えた超立体、無限立体的 無の存在なるが故である」 『地震の巻』 第二帖 [379] 第一仮訳)

 そして、メビウスの輪は果てが無いことから“無限”の象徴であり、捻りは“立体”軸での動きであるのと同時に実体が“無い”のですが、それら二十二フ ジの仕組の根幹を成す内容が、意味すがたとして説く、無限、立体、無、及び“無限立体的 無の存在”たる姿ことが判ります。

 天と地に代表される対偶の存在の他に、“無きが如き存在”“大王”としての元の神が在るのです。

「天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に又 大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ。人民は具体的にと申すなれど、人民の申す具体的とはコリ固った一方的なもの、一時的な その時の現れであるぞ。人民の申す絶対無、絶対くうは無の始めであり、空の入口であるぞ、から無に入れよ、空に生きよ」 『紫金の巻』 第十三帖 [992]

 また、先の引用では、元の神たる無限立体的 無の存在は“大歓喜にまします太神のと称されていますが、そこから、不二ひとつの実現たる“対なるものの統合むすびや、の最も本質的な意味すがたである大歓喜よろこびに話が繋がって行きます。

〔前略〕 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に常に相反し力し力を生じ、又 常に相通じて力を生み行く。。されば差別は平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。霊人が地上人と和合し、又 地上人が霊人と和合し弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為めであることを知らねばならぬ。。生成発展もなく神も歓喜し得ない、この力なくしては地上人は霊人と和し神に和し奉ることは出来ない、故に生命しないのである」 『地震の巻』 第十帖 [387] 第一仮訳)

 ここで語られる「相反するものを統一して立体し行く力」が、二十二フ ジの仕組における意味すがたと合致します。が神の歓喜であることを明かした上の帖は、対偶ふたつを結んでひとつを生む元の神のはたらきを説いており、別の個所では“三元”と称されます。

あめつちことわり 書き知らすぞ、〔中略〕 想念おもひの世界が天ぞ、の世界が地ぞ、想念は肉体と一つぞ、二つぞ、三つぞ。〔中略〕 陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒ と カミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ現れるぞ。 よく見て下されよ、一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう、陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ、このこと先づ心得て下されよ。そなた達は父と母と二人から生れ出たのか、さうではあるまいがな、三人から生れ出てゐること判るであらうがな。〔後略〕 『白銀の巻』 第一帖 [612] 原文U準拠)

 このような元の神の力は“相反するものを統一する力”“全体を括る力”のことであり、

は三にして新たなるひとつを生む統合むすびはたらきなのです。

 或る意味において、天と地の全てをひとくくりにする不二の仕組は、最も純粋な形での“元の神のココロの現れ”です。言わば、

二十二フ ジの仕組とは最大規模での“元の神のヨロコビの発露”なのでしょう。

 また、カミココロのままにするのはカミヨロコビが増すのと同義です。そういった様相が「は大神の大歓喜である」と説く日月神示の“歓喜の宇宙観”と繋がっており、最終的には大神と宇宙、親と子、霊界と物質界の関係、そして「万物中の最も空にして無なるものの実態」に通じて行きます。

「弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に順序を追はず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出で呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は全体の弥栄である、個がその個性を完全に弥栄すれば全体は益々その姿を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々あきらかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界はかくの如き関係におかれてゐる。其処にこそ大生命があり、大歓喜が生れ、栄え行くのである。更に極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界が 又 映像される、極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である、極内は極外に通じてを為す、すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない、かくして大神の大歓喜は大いなる太陽と現はれる、これによりて新しく総てが生れ出る。太陽は神の生み給へるものであるが、逆に太陽から神が更に新しく生れ給ふのである、は絶えずくりかへされ、更に新しき総ては神の中に歓喜としてはらみ、生れ出で、更に大完成に向って進み行く。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出づるのであることを知らねばならない。さればその用に於ては千変万化である、千変万化なるが故に一である。一なるが故に永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美と為さんとするが故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ善は善として使命し、醜あればこそ美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思ひ、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思ひ、御用の醜をはたす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々純なれば益々充実し、円通する、さればの中のの中なるの中なるは一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが大歓喜そのものであって、神はこのに弥栄し給へるが故に、最外部のの外にも弥栄し給ふことを知覚し得るのである。始めなき始のの真中の真空にゐますが故に終りなき終りのの外の無にゐまし、中間に位する力のの中にも生命し給ふのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。 『地震の巻』 第三帖 [380] 第一仮訳)

 上の帖には「弥栄は順序、法則、形式によりて成る」とありますが、それこそが宇宙を覆う元の神のすがたとして、三千世界の生成化育の中心軸たるの原理”形式かたちと呼ばれるものであるはずです。

「生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなすが歓喜していた、そのが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相はの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的に向って弥栄する面と、外的、地上的に進むと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄すると、その各々が各々の立場に於て(すすみ)(呼吸し)(脈うち)(生命)していると同時に、全体的にも(生命し)(歓喜し)(弥栄)している。しかして、その現われとしては(和)せば(和)するほど相離れ、遠ざかりつつ(生長)する。また(生命)の(大歓喜)として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、いずれもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る」 『地震の巻』 第八帖 [385]

 ここでは一と二と三を繰り返しながら歓喜を増すが新生し続ける様相すがたが語られており、それこそが“元の神の呼吸”“宇宙の脈動”と呼び得るものです。また、への理解を深めれば、天と地の関係の最終局面である“三千世界の実相”に至ることも明かされています。だからこそ、

“元の神の姿に迫ること”によって富士の仕組を明らかにできるのです。

 これは「進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ」などの言葉でも表現されており、に近付くのは、普遍的な信仰、岩戸開き、富士晴れなどに通じるそうです。

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん、無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ。岩戸あけなば富士輝くぞ。弥栄々々」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 昭和二十六年版)

 『地震の巻』第九帖では、物質界を存在の全てと見る限定的で平面的な思考を、三千世界の弥栄を阻害する行為に位置付けていますが、そのを突破できる可能性が“無限”“立体”としての元の神にあるのでしょう。

 故に、元の神の姿に接近アプローチするのは「に至る」や「れいかられいに弥栄する」の一環になり、三千世界の生成化育の最終局面や二十二フ ジの仕組を考える上での“正しい道筋”と言えるのです。

 結局の所、もろもろの仕組は律動リズムの発露”と呼べます。

 岩戸開きや立替え立直しと聞けば、通常は「人間が堕落したから神が世界を変える」という風に受け止めます。しかし、日月神示を詳細に読むと実際には逆であるらしく、“元の神の呼吸”に合わせて人間や世界の変遷が起きるようです。

「春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神のハタラキであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん」 『月光の巻』 第五十八帖 [845]

 その呼吸が“元の神の仕組”“世の元からの仕組”の一面であろうことは想像に難くなく、高位の神々もの息吹”を前提に様々な計画を立てると思われるので、本質的には次の如く表現できます。

「宇宙は元の神の周りをめぐっている」

 以上の話からは、世界や人間が一時的に道を外れたように見えても、基本的かつ大局的には全てがちゅうしんたる“元の神の意向こころを軸に動くことが判ります。これらの話を少し言い換えてみましょう。

「三千世界の生成化育や神の計画には“基準テンが存在する」

 そして、八方世界に九十を加えて十方世界を実現した後に、更にれいたるを加えて天地を完成させるのが富士の仕組であることから推察できるように、

神の最大最後の仕組とは“基準テンを活用する仕組”です。

 この仕組はであり、元の神の力の発露、根本への回帰、はじめに還るなどと呼べます。これが、一二三四五六七八九十という順序で進展する世界の最終局面ト ド メの概要”です。

 日本語では計画を立てることを「絵図を引く」と言いますが、三千世界の生成化育や神の計画を絵画に見立てれば、不二の仕組は竜の絵の仕上げに、瞳であり中心でありかなめであるテンき入れるようなものなのです。

「神の最後の仕組と申すのは入れることぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 こういった形で、世界を括り、世界を結び、世界を仕上げるテン穿うがつ方法”が、二十二フ ジの仕組の極めて重要な側面であり、本節と最終節で論じる“九十九と一”の話になります。

 その更なる内容を【九分九厘】の意味から見て行きます。

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九分九厘

 三千世界は元の神の呼吸の通りに進展しながら“最終局面”に近付いています。この局面の概要を知るために必要なのが、【九分九厘】のです。

 九分九厘の意味は一つではなく、文脈での判断が必要です。こういった“言葉の多義的な側面”は誤解し易く、中々に真意が伝わらないことを、天之日津久神様は“言葉の含み”と呼んで注意を促しています。

「何も彼も前つ前つに知らしてあるのに、人民は先が見えんから、言葉のがわからんから取違ひばかり」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 少し補足すると、日月神示は「どれだけの範囲を全体として論じるか」「言葉に独自の意味を加える」などの話の前提になる部分を、特に明示していません。

 そのため、の各部を繋げる背景バックボーンに注目し、法則パターン原理ルールや概念を導き出し、全体像を浮き彫りにし、改めて各部の意味を洗い直す、という非常に“煩雑な手順”が必要になります。

 ですから、日月神示の全容を初見で把握するのは実質的に不可能になっています。その例証として挙げても良い言葉が“九分九厘”かのととりなどです。

 以上の内容を踏まえて、三千世界の生成化育の“最終局面のを考えて行きます。


 まず、九分九厘を考える際の予備知識として、日本語の“数の単位”を簡単に説明します。

 日本の伝統的な数の単位は一を基準にして、大きい方に進むと十、百、千、万、億、兆、けいがいになり、小さい方に進むとりんもうこつになります。

 で使われる数の単位は、上が億で下が厘です。ただしよろずは全部、数えきれないほど多い、無数、永遠などの意味を併せ持ち、“事実上の最大”の意味で使われる場合があります。

 また、日月神示ではわりが使用されていません。何故かと言うと、十分の一を意味する割は古来からの正式な数の単位には含まれておらず、“民間の慣例的な単位”だからです。

 割を十分の一の単位として使う場合においてのみ、分は百分の一、厘は千分の一とするのが民間での慣例ですが、“本来の分”は十分の一、“本来の厘”は百分の一の意味です。

 例えば、ことわざの「一寸の虫にも五分の魂」は0.5や50%の意味ですし、「五分五分」も同じです。同様に「腹八分目」は0.8や80%の意味です。

 現在は本来の意味と慣例が混用される場合が非常に多いので分かりにくいですが、日月神示の九分九厘は“0.99”“99%”の意味です。

 九分九厘の正確な意味を把握するためには、日月神示の“二つの数え方”を知る必要があります。具体的な例を挙げると、神経綸十の期間には“九”としての側面があり、辛酉の日以降には“十”もしくはれいとしての側面があります。

 これは一歳から数える“数え年”れい歳から数える“満年齢”の関係に近く、そのような数え方が示された記述を引用します。

「一二三の裏に〇一二、三四五の裏に二三四、五六七の裏に四五六の御用あるぞ。五六七すんだら七八九ぞ、七八九の裏には六七八あるぞ、八九十の御用もあるぞ」 『天つ巻』 第十帖 [117]

「一神のみで生む限度は七ない八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、〔後略〕 『至恩の巻』 第九帖 [956] 第一仮訳)

 上の帖の内容を簡単に説明すると、“整数だけの視点”“小数を含む視点”ではことを、「裏」や「七か八」と表現しているようです。この関係を図示します。

     一の世   0.00 〜 0.99    三元神の出現〜  統合状態    天地未分 / 御中主 ( 5 )
     二の世   1.00 〜 1.99    夫婦神の別離〜  分離状態    岩戸閉め (一)   1
     三の世   2.00 〜 2.99    太陽神の隠遁〜     〃      〃    (二)   2
     四の世   3.00 〜 3.99    贖罪神の追放〜     〃      〃    (三)   3
     五の世   4.00 〜 4.99    現人神の即位〜     〃      〃    (四)   4
     六の世   5.00 〜 5.99    渡来神の浸透〜     〃      〃    (五)   5
     七の世   6.00 〜 6.99    神経綸七     〃    岩戸開きの始まり   1
     八の世   7.00 〜 7.99    神経綸八     〃         〃   2
     九の世   8.00 〜 8.99    神経綸九  移行状態    岩戸開きの本格化   3
     十の世   9.00 〜 9.99    神経綸十     〃         〃   4
  新しき一の世   0.00 〜 0.99  〇九十の世 / 二十二  統合状態  天地不二 / 別の御中主   5
   (十一の世)(10.00 〜10.99) (       〃       ) (   〃   ) (        〃        ) ( 〃 )

 上図で示した数のズレの内容を、“八の世”を例に説明します。整数だけの視点では「7の次は8」ですが、少数を含む視点では7の次に7.01〜7.99があります。つまり八の世は8には至っておらず、その意味では“七の段階”なのです。これが上の引用の「七乃至八」の背景になります。

 ですから、一見すると曖昧に感じる「七もしくは八」という言葉は、実際には“正確を期す表現”とすら言えます。こういった点を踏まえて図を見れば一目瞭然ですが、

九分九厘は各段階に存在します。

 その意味する所は、極限、限界、限度、上限、飽和、臨界、終極、終局であり、そこから、大半、殆ど、大方、更には、くま、境界、接点、転換点ターニングポイントなどの意味も併せ持ちます。

 以上の見方に基づけば、神経綸十の期間は「9以上10未満」であり、内実は「9.00〜9.99」です。故に、少数を含む視点では“九の段階”ですが、整数だけの視点では「9より大きい」や「9の次」として“十の段階”になります。

 このような“複数の視点の混在”という特徴が、日月神示を難解にしています。もっとも、天之日津久神様は重要なことを隠す傾向があるので、意図的な側面も大きいです。

 また、神の計画の進展段階には“性質的な観点でのくくり”という更なる視点もあります。具体的に言うと、八方世界、十方世界、の世の“三つの区分”です。

「12345678の世界が12345678910の世となりなりて012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ」 『至恩の巻』 第十五帖 [962]

 簡単に補足すると、一から八は方角的な八方に対応しており、日月神示では“平面軸”に位置付けられます。九十は天地という上下に対応し、平面に垂直方向で交わるので十方や“立体軸”に相当します。

 こういった「八までと九十は性質が違う」という点は日月神示で明言されています。

「八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ」 『扶桑の巻』 第四帖 [853]

「8迄と9 10とはさがが違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

〔前略〕 一神のみで生む限度は七ない八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十方十全まで拡がるべきものである。ある時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956] 第一仮訳)

 ここに“立体の立体”“超立体軸”に相当するれいが加わった姿がの世であり、“無限立体的な世”“不二の世”と呼ぶこともできます。

 つまり、一から八は同質、九と十も同質、両者に当て嵌まらないれいという“三つの時代”があり、もその前提で書かれたものが多いです。

「今度は八のくまでは足らん。十の隈、十の神を生まねばならんぞ。その他に隠れた二つの神、二つの隈を生みて育てねばならんことになるぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790] ここでの「隠れた二つの神」や「二つのくま」はムとウのことであり、数霊のれいを指しています)

「四と八によってなされたのであるから、森羅万象のことごとくが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

「太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりてみ栄ゆる仕組、十と一の実のり、と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ」 『紫金の巻』 第十帖 [989]

いよいよが来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

ひろ殿どのの左と右に宮が建つ、奥にも一つ」 『紫金の巻』 第十四帖 [993] この帖の左と右と奥は、九と十とれいに対応しています)

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八のくまからひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはのことであるぞ、西と東に宮 建てよと申すこと、これでよく判るであろうが」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

 このように、三千世界は八から十を経てれいという風に進展するので、真実マコトの世に至るための過程の段階である八方世界と十方世界は、“方便の世”と呼ばれます。

「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひてくれよ、方便の世は済みたのざぞ」 『地つ巻』 第十帖 [147]

「此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度はせうまつの信仰であるぞ、〔中略〕 方便の世は済みたと申してあろがな」 『日の出の巻』 第十三帖 [226]

「もう化けては居られん。化けの世はすんだのであるから、人民 嘘してはならんぞ。嘘見分ける鏡与へてあるぞ。〔中略〕 仏の取り次ぎ、キリストの取り次ぎ、天理、金光、黒住、大本の取り次ぎさん早う改心結構ぞ。アラーの取り次ぎさん、道教も同様ぞ。〔中略〕 愛と云ひ信と云ふも皆 方便ぞ。いずれもマコトの現はれであるぞ。はうべんの世はすみてハウベンの世となるぞ、そのハウベンの世すみてマコトの世となるのぢや」 『黄金の巻』 第十帖 [521] 第一仮訳)

 日月神示によると、三千世界は霊界と物質界が一体になった“半霊半物質”状態すがたであるとのことです。しかし、一度目の岩戸閉めを皮切りに五度の岩戸閉めを経て、天と地の直接的な交流は殆ど無くなりました。

 この“分離状態”は過渡期の一時的なものとしてかりそめの姿”に過ぎないそうです。とは言え、その状態はなので便の世と呼ぶわけです。

 しかし、現在の人間は方便を真実と誤認しており、そのことが、無神論、唯物的な世界観、天国や霊界は死後に行く世界という認識などに強く表れています。このような考えは日月神示で“方便の教え”、横の教え、初級いろはの教え、平面の教えと呼ばれ、真実マコトには程遠いものとされます。

「そなたはまだ方便をつかつてゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の世とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢや。教ではどうにもならん。ぎりの世となつてゐるのぞ。道でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、方便の世はすんでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが」 『月光の巻』 第四十三帖 [830] 第一仮訳。この帖の方便の世とほうべんの世は、八方世界と十方世界に対応しているようです)

「神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ」 『月光の巻』 第五十帖 [837]

 故に、岩戸が閉められ、霊現交流が制限された、現在の八方的な方便の世の時点では、世界や人間の真実マコトの姿を本当の意味では体得できないことが、「三千世界の実相は最後の審判まで判らない」との言葉に表れています。

〔前略〕 かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。〔後略〕 『地震の巻』 第八帖 [385]

 このような、神や霊界と離れた八方的かつ平面的な世界から、立体に属する十方世界やの世に移行して神や霊界と近付くのは、真実マコトへの道が開かれること”として“岩戸開き”と呼ばれます。

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん、〔中略〕 立体に入るとは信仰に入ることぞ。無限に解け入ることざぞ。岩戸あけなば富士輝くぞ」 『黄金の巻』 第百帖 [611] 昭和二十六年版)

「岩戸と申しても天の岩戸もあれば地の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、〔中略〕 このたびの岩戸は立体に入る門ぞ」 『五葉の巻』 第十一帖 [974] 第一仮訳)

 そうであればこそ、既存の平面的な八方世界に、九と十とれいを加わえて立体的な真実マコトの世にすることを、の岩戸開き”に位置付けているわけです。

 以上の内容が、日月神示の説く“三つの時代区分”であり、この認識を前提とすれば、より深い九分九厘の意味が見えて来ます。それと言うのも、

日月神示の説く九分九厘の多くは“別の性質へのせんを指すからです。

 数的に説明すると、一→二→三→四→五→六→七→八及び九→十は“同じ軸線上での進展”に過ぎませんが、八→九及び十→れいへの進展は“異なる軸線への遷移シフトです。前者は“仮の進展”で後者は“真の進展”と言っても良いでしょう。

 この“二度の遷移の日”が旧九月八日と辛酉であり“岩戸開きの日”です。故に、二つの日付は三千世界の生成化育や立替え立直しにおける基軸の転換パラダイムシフトの日”に位置付けられており、最も特筆すべき節目になります。時節で旧九月八日と辛酉への言及が突出して多いことにはのです。

 だから、日月神示の説く九分九厘は“八方世界の九分九厘”“十方世界の九分九厘”の意味で使われる場合が多いです。そのため、

九分九厘の大半は旧九月八日と辛酉を指します。

 そして、ここまでの「複数の視点が混在する」や「各段階に九分九厘がある」や「三つの時代区分がある」という内容を前提にすれば、初めて正確な意味を把握できるであろう記述を引用してみます。

「岩戸びらきの九分九厘でひっくり返り、又九分九厘でひっくり返る」 『黄金の巻』 第十五帖 [526]

 上の引用の九分九厘は“八方世界の最終局面”“十方世界の最終局面”を指しています。範囲を限定すれば別の見方も可能ではあるものの、第一義的な意味が旧九月八日と辛酉を指すことは変わりません。それで次のように書かれているのです。

「同じこと二度くり返す仕組ざぞ、この事よく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

 これらの話からは“岩戸が開く日”である旧九月八日と辛酉が、に重視されているかが判ります。

かのととりの日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事 少しは判りたか」 『日月の巻』 第十帖 [183]

 このようにして、神の計画における“辛酉のが見えて来ます。

日月神示の説く辛酉は“三千世界の生成化育の九分九厘”です。

 何故なら、神の計画の全体像から見れば、9.99は神経綸十の終局の意味“最大の九分九厘”“最後の九分九厘”“真の九分九厘”の意味をからです。

 辛酉の日は、遷移の日、転換の日、節目の日、統合の日、結びの日、終わりの日、そして“完成の日”です。八方世界の完成は八方世界の完成に過ぎませんが、十方世界の完成は三千世界の生成化育の完了、つまりのです。だから、

時節の九分九厘は辛酉を指します。

 また、辛酉は現行の一巡の決着の日であり、“一つの物語が完結する日”です。完成していない作品に評価を下すことはできません。結論を出せるのは基本的に完了の時点であり、その時に。だからこそ、最大最後の九分九厘たる辛酉には“最後の審判の日”としての側面があるのです。

 同時に、であり、天と地をするの仕組が“最大最後の九分九厘を突破する仕組”であることも推察できます。

 こういった内容が“九分九厘の正確な意味”から見えて来るのです。

 以上の内容を踏まえて、“九分九厘”や実質的に同じ意味の“九分”と、対義語たる“一分”の記述を引用して行きます。

 まず「三千世界の終局おわりが近付いている」「世界が行き詰まる」という意味の九分九厘です。なお、引用中の「九分九分九厘」は「最後の最後」のような強調表現です。

「口と心と行と三つ揃ふたら今度は次に入れて下されよ、は神ぢゃ、神示ぢゃ、神示元ぢゃ、と申してあろが、三つ揃ふても肝腎の神示 肚に入って居らんと何にもならん事になるぞ。九分九分九厘となってゐる事も判るであろが」 『梅の巻』 第八帖 [435] ここでのの大意は「元の神の心」です)

「世界の九分九分九厘であるぞ、あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよとなるからと申してあること、近うなつたぞ」 『秋の巻』 第二帖 [743] 昭和二十七年版)

「神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ」 『月光の巻』 第五十帖 [837]

 次に、世界の行き詰まりと同時に「神の心に沿わない者が大半になる」という意味の九分九厘です。

のうつりた人とのかかりた人との大戦ぞ、とが戦して、やがてはを中にしてがおさまるのぞ。〔中略〕 今の臣民九分通りになりてゐるぞ、早う戦すませてくれと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ」 『地つ巻』 第二十二帖 [159]

「今の臣民見て褒める様な事は皆 奥知れてゐるぞ。これが善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆 悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが」 『日月の巻』 第三十六帖 [209]

「神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ」 『磐戸の巻』 第八帖 [244]

「自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護神 九分九厘迄 天の賊ぞ」 『キの巻』 第十三帖 [270]

「日本の人民の身魂が九分九分九厘まで悪になりてゐるから、外国を日本の地に致さねばならんから、日本の地には置かれんから、どんなことあっても神はもう知らんぞよ」 『マツリの巻』 第十帖 [414]

「間に合ふ守護神 九分通り悪になってゐるぞ」 『黄金の巻』 第二十六帖 [537]

「悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ」 『黒鉄の巻』 第十四帖 [632]

「今の人民 九分九厘は死んでいるぞ」 『春の巻』 第七帖 [664]

「今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ」 『竜音の巻』 第五帖 [913]

 次に「最後の秘策は進退窮まった時に発動する」という意味の九分九厘です。

「神の国を千切りにしてなますにするアクの仕組は分りて居る、アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、天地ひっくり返る大戦となるのぞ」 『上つ巻』 第二十八帖 [28]

「今度の戦はとの大戦ぞ。神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、下の神々様にも分らんぞ。何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりて この方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力がんなにえらいものかと云ふこと知らして、悪の神も改心せなならんやうに仕組みてあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]

「今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本の天子様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ」 『下つ巻』 第二十帖 [62]

「神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからは その場で引繰り返る様になるぞ」 『富士の巻』 第二十七帖 [107]

れからは神に逆らふものは一つもらちあかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ」 『松の巻』 第九帖 [300]

「我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆 外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「岩戸びらきの九分九厘でひっくり返り、又九分九厘でひっくり返る」 『黄金の巻』 第十五帖 [526]

 次に「三千世界の抜本的な改造は特定の神々しかできない」という意味の九分九厘です。

「これまでの改造はこうやく張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、ふみにも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

 同じ内容が「最後はこの神でないと判らん」「中つ代の神ではできない」との言葉で表現されています。

「この世が元の神の世になると云ふことは、んな神にも分って居れど、何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、神にも分らんこと人には なほ分らんのに、自分が何でもする様に思ふてゐるが、サッパリ取り違ひぞ。やって見よれ、あちへ外れ こちへ外れ、いよいよ何うもならんことになるぞ、最後のことは この神でないと分らんぞ」 『上つ巻』 第二十九帖 [29]

「世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、世界ところどころに その事知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは この神でないと分らんぞ」 『下つ巻』 第二十三帖 [65]

「今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ」 『風の巻』 第三帖 [354]

「中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな」 『海の巻』 第七帖 [499]

 しかし、身魂を磨いて神の衣になれる“九分九厘の反対の人々”は、最後の秘策を知る元の神や眷属神の手伝いができるそうです。

「神の衣は人であるぞ、けがれ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ」 『地つ巻』 第二十四帖 [161]

「今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。〔中略〕 は神ざ、は臣民ぞ、〔中略〕 神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行はを綺麗にする行ぞ、〔中略〕 神の臣民、掃除洗濯出来たら この戦は勝つのぞ、今は一分もないぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]

「神は天からと宙からと地からとちから合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民いちもないのざぞ」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「も少し人民に判りて来んと、今びっくり箱をあけたら助かる人民一分もないぞ」 『海の巻』 第九帖 [501]

「一分と九分との戦ひぢゃ、皆九分が強いと思ふてゐるが、今度の仕組、アフンの仕組ぞ」 『空の巻』 第十一帖 [466]

 他にも、日月神示には「九十九と一で物事が成就する」や「九十九まで進まねば残りの一は判らない」という主旨の記述があり、これらは“厘止まり”「終りはまっとう出来ん」の言葉でも表現されています。

「神示読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局りんどまりぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘でぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 以上の内容を総合すると、

九分九厘の次へはらしいのです。

 そこで、次項では終局りんどまりの突破”“一巡の完遂”としての【れいの岩戸開き】を考察をします。

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〇の岩戸開き

 前項では九分九厘の正確な意味を論じ、その最後に“厘止まり”という考え方があることに触れました。

読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局りんどまりぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

 同時に“二つの数え方の混在”により、三千世界の生成化育の終局りんどまりを数字で表すと“9.99”になることも述べました。では「9.99の次がどうなるのか?」と言えば、こちらも二つの視点があり、“0.00”“10.00”のどちらかになります。

 数字で見れば一目瞭然ですが、9.99から0.00もしくは10.00になることが、“最大最後の九分九厘の突破”“一巡の完遂”になります。

 これがの仕組”として、日月神示の説く【れいの岩戸開き】に該当するので、その詳細を本項で見て行きます。

 なお、の仕組はらしく、“数霊のれいにまつわる話は、判ったような判らないような“観念論”が主体になります。そのため、詳細は本節と最終節で“多角的な見方”をしながら迫って行くので、非常に回りくどい論じ方になることを御容赦ください。


 日月神示は世界が九分九厘で行き詰まると説いていますが、「どうすれば厘止まりを突破できるのか」については明確に書いてありません。では、全く糸口ヒントが無いのかと言えばそうではなく、“日本神話の基礎知識”“日月神示の神話論と数霊論”を押さえていれば、概要だけは判るように書いてあります。

「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りはまっとう出来ん、九分九厘でリンドマリぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 この内容を次のようになります。

「相互的に二神でモノを生めば終わりはまっとうできる」

 これが“終わりの完遂”であり、“厘止まりの突破”“九分九厘越え”になります。

 上で引用した帖は“伊邪那岐神と伊邪那美神の国生み神話”を背景に書かれています。当初は夫妻神が揃ってを生んでいましたが、途中で妻神が身体を傷め、別の世界へ去ってしまいます。その後は夫神が世界を生み続けたというのが、古来から日本に伝わる神話です。日月神示では一神だけで生んだ現在の世界を“八方世界”と呼びます。

「岩戸閉めの始めは の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉よもつくにに入られたのが、そもそもであるぞ、〔中略〕 夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、〔後略〕 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならしひろ殿どのを見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりてよろづとなりなるのであるぞ」 『至恩の巻』 第五帖 [952]

「ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ」 『至恩の巻』 第八帖 [955]

びきいわをとざすに際して 〔中略〕 その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七ない八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956]

「死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象のことごとくが皆 同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的考へ方、八方的想念や肉体では生きては行けんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ」 『至恩の巻』 第十三帖 [960] 第一仮訳)

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

 ここに見られる夫婦神の別離は、“一度目の岩戸閉め”と呼ばれます。逆に言えば、夫神と妻神が揃って国生みを再開することが、“岩戸開き”“三千世界の立替え立直し”に相当します。

 簡単に要約すると、夫婦神の交流が途絶え、あのよこのよの直接的な交流が無くなったことを「いわとを閉める」と言い、交流が再開することを「いわとを開く」と言っているのです。

 この神話を天之日津久神様は“数霊”で表現する場合が多いです。

「何事もはらい清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違ふもの同士 和すのがマコトの和であるぞ。8迄と9 10とはさがが違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

 日月神示の数霊論では伊邪那岐神が“一二三四五六七八”、伊邪那美神が“九十”で表現されますが、八までと九十はさがが違うもの”であり、同時についなるもの”に位置付けられています。

 対なるものは“対偶性を備えた二つの存在”であり、天と地、プラスマイナス、日と月、一と二、神と人、霊と体、男と女などが該当し、最も本質的な形で表現するならになります。極論すれば、この二つが和合してになった姿が、九分九厘の突破に該当するのです。

 だからこそ、を統合してにすることが“最後の仕組”であると明言されています。

ばかりでもならぬ、ばかりでもならぬ。がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民はでありたが、が神国に残りが外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。もかたわもかたわ、と合はせて まことのかみの世に致すぞ。今の戦はとの戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは入れることぞ。も五ぞも五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。〔後略〕 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

 に関しては“精子と卵子と受精卵”たとえるのが最も分かり易いでしょう。これらの話から判るように、概念的な側面から見れば、

厘止まりの突破とは“性質が異なるものの統合むすびです。

 元の神の望みは“全ての存在の弥栄”なので、のです。だから、神々は「両方が栄えること」を前提に動いており、その最大のものが天と地です。そうであればこそ、ではイザナギイザナミ“天と地のたとえ”になっています。

「父のみおろがみたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神をおろがまねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ」 『星座の巻』 第十三帖 [896] 第一仮訳)

 八方世界から十方世界への遷移も、十方世界からの世への遷移も、。前者の遷移はナルの仕組”、後者の遷移は二十二フ ジの仕組”と呼ばれ、二つの仕組を総称したものが“富士と鳴門の仕組”です。

 また、旧九月八日と辛酉、即ち八方世界の終局りんどまりの突破である鳴門の仕組と、十方世界の終局りんどまりの突破である富士の仕組が、であることが、“夫婦神が生んだ卵の数”で示されています。

「岩戸閉めの始めは の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉よもつくにに入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、〔中略〕 おっとがみつまがみ、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉よもつおおかみとなられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、びきの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

 ここでの卵の数は、数霊の十とれいと九に対応しています。

十の卵八つ生む一二三四五六七八二つ残る九十
れい十二の卵十生む一二三四五六七八九十二つ残るれい
五の卵四つ生む一三五七/二四六八一つ残る九/十

 卵に譬えられているのは「生んだがしていない」や「いずれかえる」という意味を持たせるためでしょう。また、卵をプラスマイナス結合むすびの象徴”に見立てる側面もあるはずです。

 以上のように、夫神イザナギ妻神イザナミの復縁は一二三四五六七八と九十の統合として、“十の岩戸開き”で表現される場合が多いのですが、実際には“九の岩戸開き”れいの岩戸開き”も含まれているのです。

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合せて十葉となりなりなりて笑み栄ゆる仕組、十と一の実り、二二と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ、あな爽々し、岩戸あけたり」 『紫金の巻』 第十帖 [989]

「愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ」 『紫金の巻』 第十一帖 [990]

 この場合、九の岩戸開きと十の岩戸開きがナルの仕組であり、れいの岩戸開きが二十二フ ジの仕組です。三つの岩戸開きに該当する富士と鳴門の仕組によって到来する時代が、の世”というわけです。

 だからこそ、前出の引用の“厘止まり”は、のです。

「太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿のくさの神宝にテンを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士とナルの仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘でぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、ぶつキリストもすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

 このように一見すると別々に見えるものが、実際には「同じものを別の角度から見ているに過ぎない」ことが判るでしょう。のです。

 そして、一つに繋がったこれらの内容が“対なるものの統合むすびとして、「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りはまっとう出来ん、九分九厘でリンドマリぞ」や、この言葉を逆から見た「相互的に二神でモノを生めば終わりは完うできる」の背景になっています。ですから、

終わりのまっとうとは「夫婦神が呼吸を合わせて三千世界を生み直すこと」に他なりません。

 それは「天と地を不二ひとつとして新生させること」であるがために、

天と地を統合して“天地不二”とすることが終局りんどまりの突破”になります。

 故に、不二の仕組は“最大最後の九分九厘越え”であるのと同時に、れいの岩戸開きと同一のもの”なのです。

 神の計画を数字から見れば、9.99を越えた先に在るのは“10.00”もしくは“0.00”です。このことは「八では足らん、十でなくてはならん、れいでなくてはならん」と表現されています。

「四と八によってなされたのであるから、森羅万象のことごとくがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

 事象的な結論だけを先に述べるならば、れいの岩戸開きは“半霊半物質の世界の実現”“三界の結合”“三千世界の新生”になります。しかし、そこから“事象の背後にあるとの関係”にまで踏み込んで論じ、“数霊のれい性質すがたかられいの岩戸開きを更に突き詰めて考えてみます。

 日月神示は岩戸開きを数字で表現しており、現在の八方世界がれいと九と十が出て来る」と説いています。

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八のくまからひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これでよく判るであろうが」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

 そのためとは〇一二三四五六七八九十のことである」とも明言されています。

とは〇一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「マコトに祈れと申してあろう。マコトとは1234567810のことと申してあろう」 『月光の巻』 第四十五帖 [832]

 同時に二十二フ ジと繋がりがある」と語られています。これはは真や誠として“真理”に通じるものがあるからです。

「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、の誠であるぞ、合せて二十二、富士であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二は晴れたり日本晴れぞ」 『至恩の巻』 第二帖 [949]

「マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか」 『紫金の巻』 第三帖 [982]

 その上で、順序的にれいは最後に現れる」とのことです。

「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がと申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、は晴れたり日本晴れぞ、判りたか」 『至恩の巻』 第十五帖 [962]

 れいが最後に現れるのは、からであり、最初と最後が“同じであることを意味するらしいです。

 だから、最後たる九もしくは十の次にはれいがあり、最初たる一の前にもれいがあるのです。この点については「一巡の完遂に際してれいを経る」と言い換えても良いでしょう。

「始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん、〔中略〕 岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇から出て〇に至るのぢゃ」 『碧玉の巻』 第七帖 [871]

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」 『星座の巻』 第十帖 [893]

 上の帖を少し補足すると、「始める前に全体の枠組フレームを決める」と表現できます。だから、世界には原理や法則や概念としての“方針”規格フォーマットが存在しており、そのような“三千世界の生成化育の軌道レールに相当するものが、の息吹、一二三、ミチ、統合と分離の用、対なるものの結びと言えましょう。

 本格的に始める前の時点で“大枠”が決まっているので、始まった後は終わるまでの延長線上の出来事に過ぎず、基本的にから逸脱することはありません。つまり、のです。これは「全ては元の神のてのひらの上での出来事である」とも言い換えられます。

「元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終なく始なく弥栄えてゐるのぞ」 『黄金の巻』 第一帖 [512]

「人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」 『夏の巻』 第七帖 [724]

 上記の理由から、三千世界の基本的な在り方としての“元の神の意向こころや、としてのれい歩”に注目する必要が説かれています。

「第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ、〔中略〕 それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これが妙であるぞ、奇であるぞ、天の父の教であり、地にうつした姿であるぞ」 『極めの巻』 第九帖 [936]

「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、ことあまかみ五柱と申してあろうがな、〔後略〕 『至恩の巻』 第七帖 [954]

 ただし、これらは概念や原理が法則や秩序として全体に浸透しているようなものであり、個別の事象として扱うものではありません。あくまでも“事象の背後に在るもの”です。或いは全体を貫く精神や事象の共通項として“森羅万象のまんなかといった言い方をするのも良いでしょう。肉体を支える精神や、精神を支える信念などに例えると、その位置付けが分かり易いかもしれません。

 いずれにせよ背後や内側や蔭から支えるであり、通常は表層に表れないので、れいの性質は“隠れ”であるそうです。

「五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。ぞ。ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの、かくれた九柱、心して大切申せよ」 『月光の巻』 第十六帖 [803]

 「隠れは無に通じ、無はれいに通じる」といったところでしょうか。

 そして、れいの基本的な性質は隠れや無なので、らしく、文字通りの“番外”として、“盤外”らちがいの位置付けにあるようです。この特質はプラスマイナスれいがある」という風にも語られています。

と〇であるぞ、の陰にはがあり、の陰にはがある、その和の状態が〇であるぞ、のみでは力ないぞ、だけでは力ないぞ、とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ。〇があつてがあり、があつて和があるのであるぞ、別の御中主あると申してあらう、ここの道理よく得心、合点せよ」 『白銀の巻』 第五帖 [616] 昭和二十六年版。この帖の「別の御中主」は昭和三十八年版や第二仮訳では削除されています。別の御中主の話は“三元”として非常に重要な意味を持つので、最終節で再び取り上げます)

 そのため、日月神示では「異なるものを繋げる性質を有する」として、れいが司る用を“結び”と明言しています。ちなみに、ここでの結びには“完成”“最後”の意味もあります。

「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」 『月光の巻』 第十帖 [797]

「一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、レイがもとぢゃ、がもとぢゃ、結びぢゃ、弥栄ぢゃ、よく心得なされよ」 『扶桑の巻』 第二帖 [851]

 ここに見えるれいの姿が、不二の仕組におけるプラスマイナスを結ぶひねり”の位置付けと全く同じであることが判るでしょう。

 同時に、数字や呼吸が円環しているように、れいから始まってれいに還って来るのは、「最初と最後を繋げること」を示しており、その姿も“結び”であるわけですが、同じ意味のことが“抱く”とも表現されています。

「厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くには〇にならねばならんぞ」 『月光の巻』 第二十八帖 [815]

 ここでの「抱くには〇にならねばならんぞ」とは、れい“始まりの前に決めた枠組”“枠組の完遂”と見做しているからです。

 日月神示によると、宇宙は元の神の中に生まれたのですから、「全ては元の神が変じたもの」であり、元の神の性質を受け継いでいます。

「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給ふたのであるぞ。このこと よくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと善悪のこと、よく判って来るのであるぞ」 『冬の巻』 第一帖 [770]

「人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ」 『至恩の巻』 第五帖 [952]

 だからこそ、究極的には「何らかの存在を排することは元の神を排すること」になり、らしいです。故に、元の神は基本的に何かを排したり滅ぼそうとはしておらず、万物が弥栄することを望んでいるとのことです。

 そのことが「悪と善とたてわけてどちらも生かす」と語られています。

「善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ」 『磐戸の巻』 第四帖 [240]

 上の帖の内容が意味するものは、前述のプラスマイナスの和”と同じであり、「相互的に二神でモノを生む」とも同じであることが判るでしょう。

 このような認識や在り方こそが、「元の神の呼吸こころのままに生きる」や、のっとる生き方”として、のです。

 それが、前出の引用の「抱くにはれいにならねばならんぞ」の意味であり、次に引用する「天を自分にする」れいに化す」も同じ意味です。

「山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ」 『月光の巻』 第二十五帖 [812]

 こういった数霊のれい性質すがたにまつわる話が、相互的、二神で生む、性質が異なるものの統合などと繋がっており、厘止まりの突破や対なるものの結びとして“神の計画の背骨バックボーンになっています。

 以上の話からは、

神の計画とは“神のの展開”であることが判ります。

 そうであればこそ、

れいの岩戸開きの行き着く先に在るのは“元の神のすがたなのです。

 最後の最後に行き着くのは最初の最初の存在であり、“元の神の姿こころに迫ることが、神の計画やれいの岩戸開きの秘密に繋がるのです。こういったこともあって、日月神示では“元”が極めて重視されています。

「逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、上にゐては足も苦しからうがな、上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、足はやはり下の方が気楽ぞ、あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、この道理 分りたか。岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「あらたぬし、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草のかきことめて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。〔後略〕 『夜明けの巻』 第十二帖 [332]

「この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ」 『岩の巻』 第二帖 [367]

「日本の上に立つ者に外国の教 伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根 入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用 中々であるぞ」 『梅の巻』 第十一帖 [438]

「教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神かんながらの道と申すぞ」 『紫金の巻』 第十二帖 [991]

 そこで、次項では元の神の心のままの世界である“不二の世”の姿を、【一なるもの】という観点から論じて、れいを更に多角的に考えてみます。

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