最初に辛酉の“暦的な背景”を説明します。
旧暦と共に古来より受け継がれる暦に“六十干支”があります。これは“十干”と呼ばれる、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸と、“十二支”と呼ばれる子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の組み合わせです。現在は十二支を干支と呼ぶ場合が多いですが、本来は六十干支を指します。
六十干支は年と月と日に対応しており、それぞれ、六十年、六十ヶ月、六十日で一巡します。そして、2041年は六十年に一度巡って来る“辛酉の年”であり、2041年の11月25日は六十日に一度巡って来る“辛酉の日”です。
辛酉の年は古来から“三革”の一つに数えられ、異変が多いと言われます。
三革 |
革令 | 甲子の年 |
革運 | 戊辰の年 |
革命 | 辛酉の年 |
革の字はアラタとも訓み、「革める」や「革まる」という風に“変革”の意味を持つ漢字です。この話は『霊界物語』でも見られます。
「〔前略〕 ミロクといふ意味は、至仁至愛の意である。さうして、その仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接 当らせたまふゆゑに、弥勒と漢字に書いて、「弥々革むる力」とあるのをみても、この神の御神業の、如何なるかを知ることを得らるるのである」 『霊界物語』 第四十八巻 第十二章
こういった内容と関連があるのかは判りませんが、“神武天皇の即位の年”とされる皇紀元年(紀元前660年)も辛酉であり、日月神示では“四度目の岩戸閉め”に該当します。
「神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]
日月神示では神武天皇の即位を“神の世と人の世の変わり目”に位置付けているので、今回の辛酉の年は、逆に“人の世から神の世への転換点”になるのかもしれません。
また、日本語では舞台の最後を締める出演者をトリや大トリと呼び、それを“三千世界の生成化育の結び”である辛酉の年に掛けてある可能性も考えられます。この点は前章で言及した辰の年に似ています。
◆
前章の最後で触れたように、神経綸十である“暗闇時代”の期間は“十七年と十七日”です。ここから2041年11月25日という“結びの日”に辿り着くまでの過程が、“時節の原則を導き出す手順”になるので、順序立てて解説して行きます。
具体的には、1999年に次の手順で時節の原則を導き出しました。
1. | 『黄金の巻』第五十四帖を“天子様の年齢”と推定しました。 |
2. | 天子様の年齢から“旧九月八日”を推定しました。 |
3. | 旧九月八日から“子の年”を推定しました。 |
4. | 子の年から“辰の年”を推定しました。 |
5. | 辰の年から“旧十月八日”を推定しました。 |
6. | 旧十月八日から“暗闇時代”を推定しました。 |
7. | 暗闇時代から“辛酉の年と辛酉の日”を推定しました。 |
8. | 辛酉の年と日から時節の原則が“数の順序”であることに気付きました。 |
9. | 数の順序から「時節と数霊と神話は同じものの別側面」であることに気付きました。 |
上記の手順から想像が付くように、
時節同士の組み合わせはもとより、最終的には数霊や神話と併せて考えなければ、“時節の全容”が読み解けないように書いてあります。この点に留意して以下の解説を御覧ください。
1.天子様の年齢
第三章の『天子様の年齢』でも触れましたが、次に引用する『黄金の巻』第五十四帖の記述には主語が無いので、一見しただけでは“天子様の年齢”ではなく岡本天明氏の年齢に見えます。
「五十二才 二の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世」 『黄金の巻』 第五十四帖 [565]
これは『黄金の巻』第十五帖に「天明九十六才七ヶ月ひらく」と書かれていることが原因です。
「天明九十六才七ヵ月、ひらく」 『黄金の巻』 第十五帖 [526]
日月神示の初期の信奉者は立替えが すぐに来ると思っていたので、天明氏が九十六才の時という何十年も先のことは考慮の外だったらしいです。そのため、岡本天明氏が存命中の機関誌では「天明九十六才七ヶ月」を「天明五十六才七ヶ月」の誤記として、天子様の年齢と混同したまま論じたものが散見されます。
では、一次資料である“神示の原文”は どうなのかと言えば、明確に“九十六才七ヶ月”です。
「てん九十六さい七ケつ 八」 『九ネのキ』 第十五帖 [526] (※原文U。第一仮訳でも「九十六才七ヶ月」です)
この件に関しては、機関誌『窓』に掲載された天明氏の一文が補足になるでしょう。
「最後の日はいつ?
〔中略〕
●十年先きはミロクの世。
●天明五十六才七ヶ月ミロクの世。
と云ふのがあります。十年先と申しますと、これを神示の始められた日からとすれば昭和二十九となり、又、天明五十六才七ヶ月と云ふのは二十九年の六月で、最初の神示が十九年の六月でありますから、正確に満十年となるのであります。
〔中略〕
私のクドク申上げました「昭和二十九年改造説」は、地上天国へ到る一つのカタであり「十年おくれた」で「昭和三十九年説」が正しいのではないでせうか。
それとも
●天明九十六才七ヶ月、ひらく。
で昭和九十年前後に地上天国が完成すると云ふのであらうか? 現在の私には断言出来ない。総ては神示に暗示されてゐます。神示をおよみになって、それに受取って頂きたいのであります」 『窓』 昭和二十六年六月号 (※「昭和九十年」は底本のままです)
天明氏は「九十六才七ヶ月は五十六才七ヶ月の書き間違いではないか?」という疑問を持った際に、確実に原書を確認したでしょう。だから、原書が「てん五十六さい七ケつ」であったならば、上記の言葉は決して出て来ません。
つまり、天子様の年齢と岡本天明の年齢が混同されたのは、「余りに遠い未来の日付なので、当時の信奉者は原書の誤記と見做していた」というだけの話です。ですから、『黄金の巻』第十五帖は原文Uや第一仮訳や第二仮訳に収録された通り、「天明九十六才七ヶ月」で間違いありません。以上のように、
天子様の年齢と岡本天明の年齢は非常に混同し易いので注意して下さい。
ちなみに、日月神示の時節は この二つだけが“絶対座標”で書かれ、他の時節は全て絶対座標を基点として配置される“相対座標”で書かれています。
◆
ここで改めて『黄金の巻』第五十四帖を“天子様の年齢”と推定した経緯を解説します。
「五十二才 二の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世」 『黄金の巻』 第五十四帖 [565]
「五十二才つキの曰のは曰 五十六才七月 みろ九の曰」 『九ネのキ』 第五十四帖 [565] (※原文U。第一仮訳では未収録です)
この記述には主語が無く、天明氏が五十六才七ヶ月の時にミロクの世は実現していません。故に、別人の年齢であろうと推測し、天明氏と共に神示で個人的に言及されている“天子様”の年齢である可能性が思い浮かびました。
また、日月神示の研究者の間には「天子様とは天皇陛下のことである」という意見がありました。
そこから「次の世の始め」と、別の箇所で「新しき世の始め」と明言されている“辰の年”を組み合わせて、以下の仮説を立てました。
「辰年に五十二才になる皇統の人物が天子様ではないか?」
調べてみた所、この条件の適合者は皇太子殿下と、当時は御存命だった桂宮様だけでした。それで、次代天皇である皇太子殿下の方を天子様と仮定して考えてみることにしました。
なお、この時点では天子様の年齢の「ミロクの世」に仕掛けられた“引っ掛け戻し”には気付いていませんでした。
2.旧九月八日
『黄金の巻』第五十四帖に皇太子殿下の誕生日である1960年2月23日を当て嵌めると、2016年9月23日という、“旧九月八日”に極めて近い日付が浮かび上がりました。参考として、旧九月八日の重要性が判る記述を抜粋してみます。
「九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事 少しは判りたか」 『日月の巻』 第十帖 [183]
「九月八日の仕組 近ふなったぞ」 『キの巻』 第十四帖 [271]
「旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ」 『松の巻』 第三帖 [294]
「旧九月八日までに何もかも始末しておけよ」 『夜明けの巻』 第三帖 [323]
「九月八日の九の仕組 近付いたぞ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]
「めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]
ちなみに、旧九月八日が内包する意味の中で最も重要度が高いのは次の記述だと思われます。
「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]
旧九月八日の解説は多くの予備知識が必要になるので割愛しますが、この時点で第三章の『二つの注意点』で解説した“旧暦の一日のズレ”には気付いていたので、それを考慮して2016年の旧九月八日を確認すると、満五十六才の七ヶ月の十七日目であり、「五六七十七」と読めることを発見しました。
| 日月神示 | 一般の暦 |
2016年 旧九月八日 | 10月9日 | 10月8日 |
また、神示の研究者の間には「天明九十六才七ヶ月は阪神淡路大震災を指す」という説があり、震災が起きた平成七年一月十七日が「岩戸成り成る日となる」と読めることが指摘されていました。
ここから“十七日”が印象に残るのと同時に、「神示の時節は日数の数え方だけ違うのだろうか?」と思いました。
3.子の年
天子様の年齢から2016年と旧九月八日が浮かび上がることによって、“子の年”が固定できました。
「子の歳 真中にして前後十年が正念場」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]
子の年の“前後十年”には複数の解釈が成り立ちます。具体的には、前五年と後五年の解釈、前十年と後十年の解釈、子の年を第一年目にする解釈、しない解釈です。
それらの全ての解釈を試してみた所、2020年の子の年を第一年目にして前五年と後五年で見れば、前五年が2016年を指し示すことに気付きました。
余談になりますが、2016年の旧九月八日から2024年の旧十月八日までは八年と一月であり、九ヶ年が「前後十年」になるようです。「全体を二つに分けて両端を重ねて真ん中を作ると数が一つ少なくなる」といった感じでしょうか。これは偶数には真ん中が無いことや「全体を一つ少なく数える」という数霊論と関連する可能性があり、「神の座を造る」などの意味が内包されているのかもしれません。
4.辰の年
子の年の前五年と2016年の絡み方から、後五年は自然に2024年になり、この年が“辰の年”でした。
「九歳は神界の紀の年ぞ、神始めの年と申せよ。一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ」 『日の出の巻』 第二帖 [215] (※「九歳」は辰年です)
「辰の年はよき年となりてゐるのざぞ」 『磐戸の巻』 第九帖 [245]
「新しき御代のはじめのたつの年、あれ出でましぬ かくれゐし神。かくり世も うつし御国の一筋の光りの国とさきそめにけり」 『紫金の巻』 第九帖 [988]
「新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ」 『春の巻』 第一帖 [658]
日月神示では辰年が「新しき御代の始め」と語られており、これが“次の世”に掛けてあると判断しました。ただし、天子様が五十二才の2012年も辰の年であり、二つの年が数霊的な観点での“大別的な視点”と“個別的な視点”という形で、「どちらの年も同じ意味を有する」と気付くのは、もう少し後になります。
5.旧十月八日
2016年の節目の日付が旧九月八日だったので、「九の次だから十だろう」と感じて、2024年の節目の日付に、神示で言及がある“旧十月八日”を仮定しました。
「九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ」 『日月の巻』 第十帖 [183]
「旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが」 『日の出の巻』 第四帖 [217]
この時点では“数の順序”が時節の原則になっていることは確信していなかったので、本当に何となく当て嵌めてみただけです。
6.暗闇時代
辰の年や旧十月八日を推定した段階では、「2024年に理想社会が実現するのかもしれない」と考えていたのですが、その場合は辛酉の年が意味不明になるので困惑していました。
また、“暗闇時代”の記述も時節の中で浮いているように感じられて持て余していました。
「三年と半年、半年と三年であるぞ、その間はクラヤミ時代、火をともしてもくらいのであるぞ、あかるい人民にはヤミでも明るい、日は三日と半日、半日と三日、次に五年と五年ぢゃ、五日と五日ぢゃ、このこと間違へるでないぞ」 『扶桑の巻』 第六帖 [855]
そんな時、試しに暗闇時代の年数と日数を合計してみると“十七年と十七日”になりました。
ここから、十七年が上手く嵌まる場所を探してみると、2024年と組み合わせれば辛酉の年を指し示すことに気が付きました。
他にも、暗闇時代の十七日が「ミロクとなる」や「岩戸成り成る日となる」と同質のものかもしれないと感じて、2024年の旧十月八日の十七年後の十七日目である2041年11月25日を調べてみようと思い立ちました。
無論、日月神示と一般の暦のズレを考慮に入れた上での話です。
| 日月神示 | 一般の暦 |
2024年 旧十月八日 | 11月9日 | 11月8日 |
7.辛酉の年の辛酉の日
時節について考えていた1999年前半の時点では、2030年頃までの六十干支と旧暦が記された資料しか手元に無かったので、2041年11月25日を調べる前に次のように推論を練り込みました。
@ | 辛酉の日は“辛酉の年の辛酉の日”ではないか? |
A | 旧暦と同様に「六十干支にも一日のズレがある」のではないか? |
B | 2041年11月25日の六十干支は辛酉の次の“壬戌”ではないか? |
C | 表も裏も無くなるのだから旧暦でも“十一月”ではないか? |
結論から言えば、
2041年11月25日は全てが“想定通り”でした。
その内容を詳述して行きます。
7−@ 辛酉の年の辛酉の日
読む人によりますが、日月神示の説く辛酉の日は“辛酉の年の辛酉の日”のように見えます。
「辛酉はよき日、よき年ぞ」 『下つ巻』 第三十帖 [72]
「辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな」 『日月の巻』 第十帖 [183]
六十日に一度の辛酉の日を単独で特定するのは実質的に不可能であり、「別の要素と絡んでいるとすれば辛酉の年だろう」と感じていました。これに関しては完全に直感です。
7−A 六十干支のズレ
第三章で触れたように、日月神示と一般の暦の旧暦にはズレがあります。六十干支は新暦よりも旧暦との関係が深いので、「六十干支も一日ズレている可能性が高い」と判断しました。
その証拠になり得るのが次の記述であり、旧暦と同じく六十干支にも一日のズレが見られます。
「六月十七日、かのととりの日、ひつくの神」 『光の巻』 第三帖 [399]
「六月十七日、かのととり、ひつくの神」 『光の巻』 第四帖 [400]
| 日月神示 | 一般の暦 |
新暦 | 6月17日 | 6月17日 |
干支 | 辛酉 | 壬戌 |
神示の各帖の署名の一環としての「辛酉」は全部で三十九箇所ありますが、日付と併記されているのは上記の『光の巻』の二箇所と、下記の『岩の巻』の二箇所だけであり、共に昭和二十一年の書記です。
「旧一月十五日、かのととりの日、一二」 『岩の巻』 第一帖 [366]
「旧一月十五日、かのととり、一つ九のか三」 『岩の巻』 第四帖 [369]
| 日月神示 | 一般の暦 |
新暦 | 2月16日 | 2月16日 |
旧暦 | 旧一月十五日 | 旧一月十五日 |
干支 | 辛酉 | 辛酉 |
『岩の巻』は全十一帖が一日で書記されました。署名の書記日は「二月十六日」と「旧一月十五日」が混在していますが、新暦と旧暦が併記された箇所はありません。
『岩の巻』で六十干支が併記されているのは前出の二つだけであり、どちらも旧暦です。ただし、ここでの旧暦と六十干支は、神示と一般の暦の間にズレが無いのです。
日月神示で旧暦や六十干支がズレている場合とズレていない場合がある理由は判然としませんが、第三章の『二つの注意点』で詳述したように、新暦と旧暦が併記された『地つ巻』第二十五帖と『磐戸の巻』第十五帖は両方とも一日ズレています。
「時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節には敵はんことあるのざぞ。今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みてくれよ、二十八日どのもあるのざぞ。何事も時待ちてくれよ、炒豆にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。〔中略〕 旧の八月の十一日、ひつ九のか三」 『地つ巻』 第二十五帖 [162]
「一月十四日、旧十一月三十日、の一二」 『磐戸の巻』 第十五帖 [251]
| 日月神示 | 一般の暦 |
1944年 9月28日 | 旧八月十一日 | 旧八月十二日 |
1945年 1月14日 | 旧十一月三十日 | 旧十二月一日 |
そこに、『光の巻』で新暦と六十干支にズレがある点や、『岩の巻』で旧暦と六十干支にズレが無い点を加味して、
「日月神示では旧暦や六十干支は一日ズレる見方が優先される」と判断しました。
ですから、本論で言及する旧暦は、全て一般の暦とは一日ズレています。
7−B 壬戌の日
上述の考察に基づき、2041年11月25日が日月神示の説く辛酉の日ならば、一般の暦では“壬戌の日”になると予想しました。
7−C 旧暦でも十一月
次に「旧暦でも十一月ではないか」と推測した件についてですが、これに関しては後述の部分との時系列が前後しているように見えるかもしれません。
辛酉に関する推論を立てていた時点では、2041年11月25日の六十干支と旧暦は判明していませんでしたが、かなりの手応えを感じていました。それで、暦の資料を入手するまでの空いた時間を使って、「推論は正しい」という前提で他の仕組についても考えていたのです。
ですから、証拠が固まっていないだけで、この時点で後述する“時節の原則”や“数霊や神話との関係”に気が付きました。
そして、それらを前提に“数霊”や“二十二の仕組”を考えていた所、「旧暦でも十一月」の推論が出て来ました。
この辺りの話は本章で詳述しますが、十の次の十一の段階では、表と裏、日と月、陽と陰のような区分が無くなるらしく、そのことを「新暦と旧暦で同じ月になる日を使って暗示しているのではないか?」と推測したのです。
また、辰の年に2012年と2024年を指す二重の意味があること、天子様の年齢におけるミロクの世に独自の意味が付加されていること、2024年の時点では理想社会が実現しないこと、神経綸九を形容する“正念場”の言葉が、遷移や羽化や国生みや陣痛を意識した表現であることなども、この時に判りました。
これは、時節の原則や数霊や神話との関係に気付いたことによって全体を俯瞰することができ、個別的な部分の役割について、より深く注意を向けられるようになった点が大きかったです。
以上の仮説を立てた後、遠方に出向いて暦の資料を調べてみた所、予想は全て的中していました。
| 日月神示の暦 | 一般の暦 |
新暦 | 11月25日 | 11月25日 |
旧暦 | 旧十一月一日 | 旧十一月二日 |
干支 | 辛酉 | 壬戌 |
その結果、これほどの“整合性”を偶然とは認識できなくなりました。
「昭和十九年(1944年)の時点で、七十二年後(2016年)や九十七年後(2041年)の日を、
十六年後(1960年)に生まれる人物の誕生日を基点にしなければ特定できないように伝える」
この仕掛けは“神の御業”や“天啓の証明”と言っても良いのではないでしょうか。
8.数の順序
ここで、2024年の辰年の節目の日付に、「九の次だから十だろう」と旧十月八日を当て嵌めたことの意味を、改めて考えることになりました。
それと言うのも、神示が発祥した1944年6月と、「天明九十六才七ヶ月」が示す1996年7月を含めて時節を俯瞰すると、綺麗に六月、七月、九月、十月、十一月と並んでおり、そこには、明らかに“数の順序”が見て取れたのです。
実際には一つだけ抜けているのですが、日月神示には“八月”への言及があるので、時節の節目の“八”は存在しないのではなく、「隠れているだけ」と結論しました。それで「七と九の間に八がある」と考えて、2008年を神経綸八の始まりの年と推定したのは、第二章で述べた通りです。
また、神経綸十の期間は十七年と十七日であり、旧九月八日は天子様が五十六才七ヶ月と十七日であり、神経綸七の始まりの日である阪神淡路大震災は平成七年一月の十七日です。
そのため、「神経綸の節目の日付には十七が深く関わる」と推測し、神経綸八の始まりの日を2008年8月の中でも17日とする仮説を立てました。
ちなみに、日月神示が発祥した昭和十九年六月十日は、「今は六の世である」と示すためのものであって、「この日から六になった」という意味ではないでしょう。後者の意味を持たせるつもりなら、初発の神示が降りる日は十日ではなく十七日が選ばれたはずです。
以上の手順で「時節の原則は数の順序に基づく」と結論し、「別角度から見た記述が同じ日と年を指し示す」という形で、岩戸開きの日は一日単位で特定できることが判明しました。これらは精密機械の歯車と同じであり、「部品の位置を一箇所でも弄ると全体が破綻する」と言えるほど雁字搦めに設計されています。
こういった形で、神経綸の節目の日付には何重もの制約が課せられており、
岩戸開きの日や立替え立直しの期間は、基本的に間違えようがないのです。
その中で僅かながらも異なる解釈の余地が残るのは、神示で言及が無い“神経綸八の始まりの年”だけであり、他は どうにもなりません。そうであるが故に七月、八月、九月、十月が、“神経綸の進展段階の隠語”になっていることを確信できたのです。
七月 | 神経綸七 | 1994年7月(1995年1月17日)〜 |
八月 | 神経綸八 | 2008年8月17日〜 |
九月 | 神経綸九 | 2016年旧九月八日〜 |
十月 | 神経綸十 | 2024年旧十月八日〜 |
同時に、次の点が浮き彫りになりました。
「日月神示の時節は天子様を徳仁様と認識することでしか読み解けない構造になっている」
ここから「天子様=天皇陛下」の説の裏付けが取れました。恐らく、“ミロクの世の王の開示”は神々にとっても極めて重大な案件なので、間違えたくとも間違えられないようにしてあるのでしょう。
余談ですが、神示の源流に当たる大本神示や出口王仁三郎の著作を後で調べてみると、日月神示に輪を掛けた“尊皇”だったので、上記の説は更に補強される格好になりました。同時に、大本教団が戦後に刊行した大本神示は、天皇陛下に関する記述を削除していることが判明しました。これは日月神示が教団の外部に降りた理由の一端かもしれないので、最も分かりやすい一例を掲載します。
「今度は二度目の天の岩戸を開くと申せば、日本の天皇陛下でも、お変り遊ばす様に思うものもあらうが、ナカ、其んなことは、神は為さんぞよ。天津日継の御位は、幾千代までも、天照大神様の御血統故、ます栄えますやうに、艮の金神が、世界の事を知らして、日本人に日本の行為を致さして、神の国 建てる日の本のみかどの光を、三千世界へ告げ知らし、外国から攻めて来て、サア敵はんといふ所で、神が誠の者を集めて、日本の国を護り、大君の光を世界へ照らして、世界中一つに致して、日本の天皇様に服従はすやうに致すために、艮の金神が、三千年の昔から苦労致した初まりであるから、此の事が腹へ這入らんと、真実のお蔭は無いぞよ。〔中略〕 明治二十五年からの筆先を、能く腹へ入れてみよ。此の神は日本の大将に何事も知らして、蔭から護ると申してあらうがな。日之出の神の苦労と、出口の苦労を、基礎に致すと書いてあらうがな。日本魂を研き上げて、天子様へ一つの忠義を立てさして、末代 名を残す綾部の大本であるぞよ」 『大本神諭/神霊界』 明治三十四年 旧七月十五日 (※ 『神霊界』大正十年四月一日号 掲載。この神諭は再録を除けば『神霊界』に掲載された最後の大本神諭ですが、以後に刊行された大本神諭では削除されています。ちなみに、この内容は旧九月八日の仕組やミロクの仕組の概略になっており、大本神示よりも日月神示との整合性の方が高いです)
そして、“知恵の輪”の如く手順さえ踏めば岩戸開きの日を特定できるからこそ、天之日津久神様は次のように明言なさっているのです。
「神は気もない時から知らしてあるから、いつ岩戸が開けるかと云ふことも、この神示よく読めば分かる様にしてあるのぞ」 『下つ巻』 第二十五帖 [67]
これらの話からも明らかですが、
日月神示は読み解けるように書いてあります。
神示には「八通りに読める」と書いてあるので、時節についても色々な解釈が並立するように感じられますが、摘み食いではなく完食を目指せば、基本的な解釈は収束する方向に進んで行くのです。
9.時節と数霊と神話は同じもの
その上で、改めて時節の全体像を眺めていると、旧九月八日と旧十月八日が“旧暦”であることの理由が判明しました。
日月神示の数霊論では一二三四五六七八が日の大神に属し、九十が月の大神に属します。そのことを示すための“型”として、九月と十月は月齢を基準とする旧暦が選ばれたのでしょう。
他にも、時節の節目に深く関わる“十七”という数が、“天神の十七段階”を模しているらしいことも見えて来ました。
こういった点から、時節は時節だけで完結しておらず、数霊や神話と連動することが徐々に見えるようになりました。言うなれば、
以上が、時節の原則である“数の順序”に気付き、日月神示の内容が「同じものを別の角度から見ている」と結論するまでの流れです。
◆
さて、ここまでは“時節の手順”を論じましたが、この内容を“全体と部分の関係”として少しだけ補足します。最初に要点をまとめると、
日月神示は全体像と部分像を相互に還流することで理解が進むように書かれています。
譬えるなら“ジグソーパズル”が判り易いでしょう。細かい断片の一つを見ても、そういった“部分像”が何を意味しているのかは完全には読み取れません。しかし、断片を繋げれば読み取れる情報が多くなり、徐々に“全体像”を把握することができます。
そして、全体像が見え始めた時点で個々の部分像の役割が鮮明になり、そこから全体像が更に明瞭になる、という繰り返しにより、“絵”や“構図の意図”への理解が進んで行きます。
そういった側面から考えれば、「神示は八通りに読める」の意味が明らかになります。
「七つの花が八つに咲くぞ、此の神示八通りに読めるのぢゃ、七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど八通り目は中々ぞ」 『海の巻』 第十五帖 [507]
「今の偉い人民が この神示をよむと、理屈に合わん無茶苦茶な文章であるから、下級霊の所産だと断ずるなれど、それは余りにも霊界の事を知らぬ霊的白痴であることを、自分で白状してゐるのぞ、気の毒ぢゃなあ、まして この神示は八通りに読めるのであるから、いよいよ判らん事になるぞ」 『竜音の巻』 第十二帖 [920]
八百万の神々、大江戸八百八町、八十島、八雲のように、古来から日本語の“八”には「多い」の意味が含まれます。ですから、ここでの“八通り”とは「一つの実像を浮かび上がらせるための複数の視点がある」といった意味であり、“三面図”に譬えるのも良いでしょう。これを少し言い換えてみます。
「多面的な解釈が進むほど結論は一つに集約されて行く」
逆に言えば、最終的に収束しない解釈は文字通り的外れになってしまうようです。この話はジグソーパズルの“初期出荷状態”や“組み立て過程”を想起すれば判り易く、言わば、
故に、本論も本質的には「神示の内容を並べ替えただけ」であり、特殊なことは何もしていません。隣り合う内容を少しづつ繋げただけです。
また、ジグソーパズルは“四隅”や“外枠”から組み上げて行くのが定石ですが、これに該当するのが、時節の基点である“天子様の年齢”や、時節や神経綸の骨格を形成する“数の順序”になります。
そして、ここまでの内容からは次のことが言えます。
「時節を論じるだけでは時節すら論じられない」
何故なら、時節は“同じものの一側面”に過ぎず、別の角度から見た、数霊、神話、霊界論、三千世界観などと一緒に考えなければ、“一つの実像”には迫れないからです。
「どの仕組も判りて居らんと、三千世界の先々まで判りて居らんと、何事も成就せんぞ」 『黄金の巻』 第八十五帖 [596]
そして、実像と呼び得る全体像を把握していないことは、部分像すら完全には理解できていないことを意味するのです。
このような“日月神示の構成と読み方”の話が、時節を論じる上での基本的な考え方であり、本論が時節論でありながら、時節以外の割合が非常に大きいことの背景になっています。
その上で“日月神示の構造”の話を更に押し進めてみます。
神示を読み続けると、多くの部分像に共通する“呼吸”や“脈拍”のようなものが見えて来ます。これは“内質的な意味”と言い得るもので、いわゆる“概念”や“原理”のことです。この“神律”こそが雑多な各部を繋ぎ合わせ、全体の性質を決める“核心”であり、
日月神示の神心を一言で表現すれば“”もしくは“一二三”になります。
や一二三の意味は本章でも一端に触れますが、先に要点をまとめると、
日月神示は“フトマニを多面的に見たもの”であると思われます。
天之日津久神様や岡本天明氏は“フトマニ”のことを、「神すら従わねばならぬ大宇宙の鉄則」と語っていますが、フトマニを異なる角度から眺めると、それは時節に見え、数霊に見え、神話に見え、に見え、一二三に見えるようです。
そして、時節に「別角度から見た記述が同じ日と年を指し示す」という手法が使われているのは、このような日月神示の構造をなぞっているからなのでしょう。或る意味において“必然”であり、そういったものが“時節の構造の根底”に存在するのです。
◆
以上で、結びの日を特定するまでの“手順”と、そこから読み取れる“構造”の話は終わったので、以降は“辛酉”の内容を考察します。
「辛酉はよき日、よき年ぞ」 『下つ巻』 第三十帖 [72]
「神々様みな お揃ひなされて、雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、今度の仕組の御役きまりて それぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。辛酉はよき日と知らしてあろがな」 『富士の巻』 第十八帖 [98] (※この記述の「五柱、七柱、八柱、十柱」を足すと三十柱になり、三十年の立替期間との関連が考えられます)
「かのととり、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ」 『天つ巻』 第八帖 [115]
「辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事 少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ」 『日月の巻』 第十帖 [183]
「十柱の神様 奥山に祀りてくれよ、九柱でよいぞ、何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、この方 合はして十柱となるのざぞ。御神体の石 集めさしてあろがな、篤く祀りて、辛酉の日に お祭りしてくれよ」 『日の出の巻』 第十五帖 [228]
「十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神であるぞ。辛酉の日に祀りてくれよ」 『日の出の巻』 第十八帖 [231]
辛酉は旧九月八日と同じく「結構で恐い日」と語られています。ただし、非常に抽象的なので辛酉の記述だけでは内容が判りません。
一見すると時節で最も言及が多いのは旧九月八日ですが、「辛酉の日に書いた」という署名の一環としての記述は三十九箇所もあります。単語の登場回数で言えば、時節で最も言及されているのは辛酉であり、実質的に旧九月八日と並ぶ“最重要の時節”であることが判ります。
そのことが関係しているのでしょうが、時節を俯瞰すると、旧九月八日が“時節の起点”であるのに対し、辛酉は“時節の収束点”のようになっています。
この背景は数霊で語られる“三つの時代区分”から見えて来ます。
「八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]
「12345678の世界が12345678910の世となりなりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな」 『至恩の巻』 第十五帖 [962]
個別的な区分での十方世界の始まりは2024年ですが、大別的な区分では2012年から始まっており、見方によっては移行期間である神経綸九の始まりも、八方世界の終わりとして“十方世界の始まり”を意味することは、第四章『一四一四』で述べた通りです。
そして、大別的な三つの時代区分において“八が十になる日”が旧九月八日であり、“十が〇になる日”が辛酉の日です。つまり、
三千世界の生成化育における“二度の遷移の日”が旧九月八日と辛酉の日なのです。
だから、二つの日付は最も重要な日として最も言及が多いのでしょう。これが次の記述の第一義的な意味だと思われます。
「同じこと二度くり返す仕組ざぞ、この事よく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」 『青葉の巻』 第七帖 [476]
「岩戸びらきの九分九厘でひっくり返り、又 九分九厘でひっくり返る」 『黄金の巻』 第十五帖 [526]
このような旧九月八日と辛酉の日に共通する内質的な意味からは、以下の内容が推察できます。
即ち、十方世界を招来する“八方世界へのトドメ”と、〇九十の世界を招来する“十方世界へのトドメ”という、三千世界を完成させるための二つで一つの“最後”です。
「あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]
「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]
「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]
「今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十ざぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]
ちなみに、旧九月八日が“終わりの始まり”なら、辛酉の日は“終わりの終わり”になります。恐らく、旧九月八日からの一連の出来事が広義のトドメであり、辛酉の日にまつわる出来事は狭義のトドメとして、“真の終わり”に位置付けられているのでしょう。
そして、三千世界にトドメを刺して立替える“基軸の転換の計画”が、十方世界を実現する“成十の仕組”と、〇九十の世界を実現する“二十二の仕組”であり、二つの仕組の意味が数から明かされた記述を引用してみます。
「ナルの仕組とは成十の経綸であるぞ、八が十になる仕組、岩戸ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう、富士と鳴門の仕組、結構致しくれよ」 『星座の巻』 第二帖 [885] (※第一仮訳)
「太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種の神宝にを入れることであるぞ、〔中略〕 二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士と鳴門の仕組いよいよぞ、〔中略〕 なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理 世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]
この二つは大本系統で“富士と鳴門の仕組”と呼ばれ、一体的な関係にあります。神示では“火水の仕組”や“秘密の仕組”とも呼ばれるのですが、富士の仕組と鳴門の仕組は対象と方法が違うので、別の仕組として個別に言及される場合も見受けられます。
その辺りの話は本章で後述するので、本節では“辛酉と数霊”の話を先に進めます。まずは、岩戸開きや遷移を“数”で表現した記述からです。
「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈からひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]
日月神示は現在の八方世界に“〇と九と十”が加わることを説いています。そして、旧九月八日と旧十月八日の時点で、八方世界に九と十が加わって十方世界が実現しているのですから、次の節目は当然のように“〇が加わる日”です。これは「〇一二三四五六七八九十の世界になる」と言えます。
何故なら、〇九十は“〇一二三四五六七八九十の略式の表記”だからです。
「〇九十とは〇一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]
「マコトとは〇12345678910のことと申してあろう」 『月光の巻』 第四十五帖 [832]
「マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう」 『紫金の巻』 第三帖 [982]
こういった日月神示の数霊論を前提にすれば、“酉の年”の意味が判り易くなります。
「マコトのことはトリの年」 『秋の巻』 第二十三帖 [764]
上の帖は次のように言い換えられるでしょう。
「酉年に〇と九と十が出揃って〇一二三四五六七八九十の世になる」
これが2041年の辛酉の年を指すのは自明と言えます。以上の話から推察できるように、
辛酉が内包する意味は“数霊の〇”から見えて来ます。
ですが、数霊の〇や富士の仕組を解説するためには多くの予備知識が必要になるので、先に時節の話を終わらせてしまいます。
◆
上記の他にも、一箇所だけ“酉年”への言及があります。
「あら楽し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草の片葉も言止めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ」 『夜明けの巻』 第十二帖 [332]
2016年が申の年なので、この記述は旧九月八日からの五年間である「子の年を真ん中にした前半五年」を指す意味が強いはずですが、2041年に当て嵌めることもできます。
つまり、〇九十の世界への移行が本格的に始まってからの“三年”が、戌の年、亥の年、子の年に該当します。
「三年のたてかへぞ」 『光の巻』 第八帖 [404]
「これから三年の苦労ぢゃ、一年と半年と半年と一年ぢゃ」 『梅の巻』 第二十三帖 [450]
「三年の大ぐれ」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540]
ここからも、日月神示の三年の記述が、九と十と〇の岩戸開きの直後のどの三年にも当て嵌まるように書かれていることが読み取れます。
それ故、神示には「三年は複数ある」と読める記述が存在するのでしょう。
「三千年 花咲くぞ。結構な花、三年、その後三年であるぞ、次の三年めでたやなあ、めでたやなあ」 『黄金の巻』 第二十八帖 [539] (※昭和二十六年版)
また、三年を〇の岩戸開きの直後の三年と見た場合、最後の年である子の年は2044年ですが、この年は日月神示の発祥から“百年後”になります。
そこで、次節では【百年】の話を、他の細かい時節と一緒に取り上げます。