なお、立替えの方法論的な側面は次項で考察しますので、本項では神の力に焦点を当てて論じます。
前々項の最後で引用したの記述をよく読んで頂くと判ることですが、“”と“”に譬えられているのは神国と外国だけではなく、“神”と“臣民”も含まれています。
臣民とは「天皇を奉戴する民」という意味であり、戦前までは一般的に使用されていました。日月神示での臣民には非常に深い“神経綸上の密意”が込められているようですが、それは この第三章の総論で論じますので、本項では神霊に対する“人間”及び“肉体”としての側面を取り上げています。
そして、日月神示はいよいよの段階において、“元の神”である天之日津久神様が『因縁の五十九の身魂』と称される人々を筆頭とする“身魂の磨けた人間”に神懸かり、立替え立直しや岩戸開きが遂行されることを明かしています。
「元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいてくれよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ」 『上つ巻』 第十三帖 [13]
「イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ 〔中略〕 カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな」 『磐戸の巻』 第一帖 [237]
「此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]
次に「神が懸かる」と「神が取り掛かる」の二重の意味が込められていると思われる記述を引用します。
「いづれは天の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は烈しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、よくとことん掃除せねば御かかり難しいぞ」 『地つ巻』 第三十六帖 [173]
「いよいよ あめの日津久の神様おんかかりなされるぞ」 『水の巻』 第十四帖 [288]
「愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]
この他にも「神が懸かる」と同じ意味で使われている「神がうつる」という記述があります。
「臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ」 『下つ巻』 第三十四帖 [76]
「いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりてくれよ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]
「人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいてくれよ。世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ」 『地つ巻』 第三帖 [140]
「今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時 近づいたぞ。力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ」 『日月の巻』 第十一帖 [184]
「洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ」 『キの巻』 第七帖 [264]
「神だけでは この世の事は成就せんと申してあらうがな。神がうつりて成就さすと申してあろうがな。こんなこと これまでにはなかりたぞ」 『岩の巻』 第三帖 [368]
「今の人民はマコトが足らんから、マコトを申しても耳に入らんなれど、今度は神が人民にうつりて、又 人民となりてマコトの花を咲かす仕組、同じことを百年もつづけてクドウ申すと人民は申すなれど、判らんから申してゐるのであるぞ」 『極めの巻』 第二帖 [929]
日本語の「うつる」には、写る、映る、移る(遷る)などの意味がありますが、日月神示では基本的に全ての意味を包括する形で使われているようです。ちなみに「うつる」という表現は霊界と現界の関係を背景としていますが、その辺りの解説は本項では省略します。
そして、正念場における神懸かりは決して特別なことでなく、一定の水準まで身魂を磨いた日本人であれば「誰でも神懸かる」とのことです。
「掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ」 『上つ巻』 第十九帖 [19]
また、直接的ではないものの、同じ意味合いの記述は他にもあります。
「神が真中で取次ぎ役員いくらでもいるぞ、役員はみな神柱ぞ。国々、ところどころから訪ねて来るぞ、その神柱には みつげの道知らしてやりてくれよ、日本の臣民みな取次ぎぞ、役員ぞ」 『下つ巻』 第三十八帖 [80]
「臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]
「日本の臣民は何事も見えすく身魂授けてあるのざぞ、神の御子ざぞ。掃除すれば何事もハッキリとうつるのぞ」 『日月の巻』 第三十九帖 [212]
「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]
「皆々 心の鏡 掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ」 『風の巻』 第九帖 [360]
「皆々 神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ」 『光の巻』 第三帖 [399]
それ故、日月神示では神懸かりとなるために、心と体を綺麗にする“掃除”や“洗濯”や“身魂磨き”が非常に重要視されているのですが、これらの記述は数が多過ぎるので、神懸かりに関連していることが明言されているものに絞って抜粋してみます。
「いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いてくれよ」 『上つ巻』 第一帖 [1]
「神に目を向ければ神がうつり、神に耳向ければ神がきこえ、神に心向ければ心にうつる、掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。掃除出来た方から神の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ」 『上つ巻』 第十帖 [10]
「洗濯すれば神かかるぞ、神かかれば何もかも見通しぞ、それで洗濯洗濯と、臣民 耳にタコ出来るほど申してゐるのざ」 『上つ巻』 第二十六帖 [26]
「神様と臣民 同じ数だけあるぞ。それぞれに神つけるから、早う身魂みがいてくれよ、みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ」 『下つ巻』 第十四帖 [56]
「身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ」 『地つ巻』 第二十二帖 [159]
「神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ、身魂せんだくするぞ、神かかりと申しても狐憑きや天狗憑きや行者の様な神憑りでないぞ、誠の神憑りであるぞ」 『日の出の巻』 第十一帖 [224]
「これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除してくれよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ」 『日の出の巻』 第二十一帖 [234]
「神が見て、これならと云ふミタマに磨けたら、神から直々の守護神つけて、天晴れにしてやるから御用 見事に仕上げさすぞ、臣民ばかりでは出来ん、三千世界の大洗濯、誰一人 落したうもない神心、皆 揃ふておかげやりたや、喜ぶ顔見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心 汲みとれよ」 『マツリの巻』 第四帖 [408]
こういった身魂磨きの結果、神懸かった人々は“千人力”を与えられるとのことです。
「早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりてくれよ。一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ」 『富士の巻』 第十二帖 [92]
「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ」 『天つ巻』 第二十三帖 [130]
「神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが」 『日月の巻』 第二十三帖 [196]
「今度は千人万人力でないと手柄出来んと申してあろがな」 『日月の巻』 第三十一帖 [204]
「今度は十人並のおかげ位では誠の信心とは申されんぞ、千人万人のおかげを取りて下されよ、千人力与へると申してあろが」 『海の巻』 第十帖 [502]
「一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ」 『黄金の巻』 第九十四帖 [605]
「因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。知らしてからでは味ないぞ。十人並ぞ。今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]
このような人々が文字通りの“一騎当千”の活躍をすることによって、日本は苦境を跳ね返して逆転するとのことです。恐らく、これが とどめの戦における最も具体的な形での“神の力の顕現”だと思われます。
余談になりますが、第十巻『水の巻』第三帖には「千万いやさかのおはたらき」とあります。この祝詞は『ミロクの概略』でも触れたように出口なおの祝詞を再構成したものであり、元々は「千騎一騎の御働き」という言葉であったことから推察すると「千人力や万人力の御働き(力添え)」という意味だと思われます。これは後で引用する第十九巻『マツリの巻』第三帖の祝詞も同様です。
また、上で引用した記述には「一人改心すれば千人助かる」とありますが、日月神示の千人力や万人力の表現は日本語の“一粒万倍”に意味が引っ掛けてあるようです。この場合の一粒に相当する“種”については、次項で触れてみたいと思います。
◆
日月神示には“神の力”や“神力”という言葉が五十箇所ほど出て来るのですが、殆どが具体的とは言えない内容なので、参考として、ここまでに論じた要素の多くが盛り込まれている“元の神の仕組”についての帖を引用してみます。
「世の元の大神の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに難しい仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除してくれと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうしてくれよ。今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いてくれよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか難しいぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面 間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひてくれよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いてくれよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ」 『上つ巻』 第二十一帖 [21]
この記述によると、日月神示の説く神の力とは基本的に“元の神の力”であるようです。実際に、本項の最初の引用では神懸かるのは元の神だと明確に書かれていますし、同じ内容の記述は他にもあります。そして、世の元の大神の仕組であるが故に、人間はおろか「神々にも判らない仕組である」とのことです。
「神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、下の神々様にも分らんぞ。何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりて この方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ」 『下つ巻』 第九帖 [51]
「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]
「神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示 腹に入れて身魂磨いて素直に聞いてくれよ。それが第一等ざぞ」 『日月の巻』 第三十六帖 [209]
「新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ」 『夜明けの巻』 第六帖 [326]
「今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが」 『雨の巻』 第十帖 [344]
「今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ」 『風の巻』 第三帖 [354]
「元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ」 『風の巻』 第八帖 [359]
「元のキのことは、元のキの血統でないと判らんのぢゃ、判る者は判らなならんぞ、判らんものは判らんのがよいのぢゃぞ。何事も人民に判りかけ致さな、物事遅れるぞ、十年おくれると申してあるが、おくれると益々苦しくなるから、おくれん様 結構したいなれど、大層な肝腎かなめは神々様にも申されんことであるが、今の内に判って貰はねば、知らしてからでは十人並ぢゃ、それまでは神のもとのコトは申されんぞ、元の身魂に輝くぞ」 『マツリの巻』 第十二帖 [416]
「日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな。この神示 肚に入れて居ればどんなことあっても先に知らしてあるから心配ないのざ、ソレ出たとすぐ判るから胴すわってゐるから何事も結構におかげ頂くのざ」 『梅の巻』 第十一帖 [438]
「途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ」 『梅の巻』 第二十一帖 [448]
「中つ代からの神では何も出来んと申してあろがな」 『海の巻』 第七帖 [499]
「何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの言を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ」 『海の巻』 第十四帖 [506]
「今迄のこと ちっとも交らん新しき世になるのであるから、守護神殿にも判らんことするのであるから、世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢゃ」 『黄金の巻』 第十八帖 [529]
以上の内容から考えると、神懸かりや神懸かりから派生する出来事を“とどめの戦の最重要の出来事”に位置付けても良いと思われます。それは、戦争や天災はいつの時代にもありますが、根元的な神々が直々に現れて指図するような「神さえ判らん仕組」は、恐らく前例が無いからです。
そして、元の神による前例の無い仕組が遂行された結果、神様は「臣民に手柄を立てさせて御礼を申す」とのことです。
「闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ」 『上つ巻』 第二帖 [2]
「この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからは お手柄さして、とことはに名の残る様になるぞ」 『上つ巻』 第二十五帖 [25]
「細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして親から御礼申すぞ」 『上つ巻』 第二十七帖 [27]
「どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]
「神は天からと宙からと地からと力合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分もないのざぞ。神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ」 『天つ巻』 第十六帖 [123]
「世の元からの仕組であるから臣民に手柄立てさして上下揃った光の世にするのざから、臣民見当取れんから早よ掃除してくれと申してゐるのぞ」 『日月の巻』 第十四帖 [187]
「御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めてくれよ、皆のものに手柄さし度いのぞ」 『日の出の巻』 第十七帖 [230]
「この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処まで見届けねば、この方の役目 果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処までも貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ」 『磐戸の巻』 第十九帖 [255]
「いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。」 『水の巻』 第十一帖 [285]
「神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名 残して世界唸らすのざぞ」 『雨の巻』 第五帖 [339]
「人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ」 『雨の巻』 第十六帖 [350]
「役員 皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ」 『雨の巻』 第十七帖 [351]
「時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ」 『風の巻』 第五帖 [356]
「ミロク世に出づには神の人民お手柄致さなならんぞ、お手柄 結構々々」 『空の巻』 第九帖 [464]
「神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。自分でびっくり」 『春の巻』 第五十七帖 [714]
これらの記述で重要なのは手柄ではなく“御礼”の方です。何故、神様が人間に対して御礼を述べることになるのかと言うと、
神懸かりとは“肉体”を神に捧げることだからです。
そのことを、日月神示は神道での供物の一種である“玉串”として表現しています。
「玉串 神に供へるのは衣供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理 分りたか」 『天つ巻』 第十三帖 [120]
「玉串として自分の肉体の清い所 供へ奉れよ、髪を切って息吹きて祓ひて紙に包んで供へまつれよ、玉串は自分捧げるのざと申してあろがな」 『青葉の巻』 第二帖 [471]
現在では、玉串は小枝に飾りをつけて神前に供えたものや、“榊”を指す場合が多いです。榊については「神棚に供えられている葉っぱ」と言われた方が判り易いかもしれません。ちなみに、日月神示では“松”も玉串としています。
「火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、地の饅頭の上に初めに生えたのがマツであったぞ。マツはもとのキざぞ、松 植へよ、松 供へよ、松ひもろぎとせよ、松 玉串とせよ、松おせよ、何時も変らん松心となりて下されよ。松から色々な物 生み出されたのぞ、松の国と申してあろが」 『松の巻』 第十六帖 [307]
ただし、本来の玉串とは神霊が宿る“依代”の全般を指していた可能性が高いそうです。依代とは神霊が現し世に顕現するための媒体になる物質のことで、中身を零さずに留めるための“容器”や、荷重を受け止めるための“足場”のような性質を有しています。ちなみに、この依代の概念を物質だけではなく、人間の行為や自然界の事象にまで範囲を拡大したのが“雛型”の概念です。
こういった依代の概念は、出口王仁三郎が人間のことを「神の霊が止まるから人は“霊止”である」と言っていたのに通じる概念です。案外とどめには“留める”の意味も掛けてあるのかもしれません。
要するに、立替えに際して“神の依代”として自身を提供するからこそ、神様から御礼を言われるような手柄に成り得るというわけです。
また、依代という言葉こそ使われていないものの、“容れ物”や“宮”や“衣”という言葉を使って、意味的に同じことを説いた記述もありますので、主なものを抜粋してみます。
「早くの神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト心になりてくれよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりてくれよ」 『上つ巻』 第二帖 [2]
「お宮も一時は無くなる様になるから、その時は、みがけた人が神のお宮ぞ。早う身魂みがいておけよ、お宮まで外国のアクに壊されるやうになるぞ。早くせねば間に合わんことぞ」 『上つ巻』 第三十七帖 [37]
「神のゐる場所塞いで居りて お蔭ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが」 『下つ巻』 第三十七帖 [79]
「衣はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、汚れ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。」 『地つ巻』 第二十四帖 [161]
「タマの中に仮の奥山移せよ、急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ 〔中略〕 臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事 仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ 〔中略〕 奥山 何処に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行っても この方の国ぞ、肉体ぞ」 『風の巻』 第一帖 [352]
「いれものキレイにして居りたら この方がよきに使ふぞ」 『空の巻』 第十帖 [465]
「人は神のいれもの、神は人のいのち」 『黄金の巻』 第四帖 [515]
「神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理 判るであらうが」 『黒鉄の巻』 第二十一帖 [639]
「神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世をとして、心として生命しているのぢゃ。神人と申してあろうがな。この十理よくわきまへよ。この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。これが得心出来ねば どんなによいことをしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ」 『春の巻』 第六帖 [663]
「肉体は霊の衣と申してあらう。衣が霊を自由にしてはならんぞ。衣には衣の約束あるぞ。衣ぢゃと申して粗末してはならん。何れも神の現れであるぞ」 『秋の巻』 第二十八帖 [769]
「人間の肉体に他の霊が入って自由にしてゐるのだと、多くの霊覚者やサニワが信じてゐるなれど、事実そう見へるなれど、それは誤りであるぞ。人間の肉体は原則として真理の宿り給ふ神の生宮であるから、下級霊は中々に入ることは出来ん」 『竜音の巻』 第十帖 [918]
同じ内容のことを“”の記号を使って説いた記述もあります。以下はの記述からの更なる抜粋です。
「神の最後の仕組と申すのはに入れることぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]
「今度の行はを綺麗にする行ぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]
「を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦はの掃除ぞと申してあらうがな」 『地つ巻』 第十二帖 [149]
「戦もとと壊し合ふのでは無いぞ、ととまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。それには掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]
つまり、完全な“”になるためには、臣民というに、神というを留める必要があり、そのためにはである人間や肉体を浄化する必要があるということです。日月神示はを神や霊や魂や生命に譬える場合がありますが、このとの関係は、いわゆる“画竜点睛”の考え方に通じるものがあります。
こういった内容から判るのは、人間は一方的に助けられるだけの存在ではないということです。神示にも次のように書いてあります。
「どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れてくれよ、この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ」 『富士の巻』 第五帖 [85]
「これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ。もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ」 『風の巻』 第十帖 [361]
「人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか」 『黄金の巻』 第十三帖 [524]
「自分すてて他力なし。人民なくて此の世の仕事出来ん。人民は道具ぢゃ。神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。道具だけでならん」 『春の巻』 第二十四帖 [681]
一般的に神霊や精神的なものに興味を持つと、肉体や物質的なものを軽視してしまう傾向がありますが、日月神示では霊と同じく肉体を大切にすることの重要性が繰り返されています。それは神示の“天地不二”や“神人合一”の宇宙観に基づいているのですが、「元の神の仕組には肉体が不可欠だから」という理由もあるのでしょう。
どうか、このことを お忘れなきよう お願い申し上げます。
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以上の内容を踏まえて、神懸かりが旧九月八日の仕組に含まれる根拠となる第十九巻『マツリの巻』第三帖の祝詞を、重要な部分に傍点を振って引用してみます。
「旧九月八日からの誓の言葉 知らすぞ。五三体の大神様 五三体の大神様、天之日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地の日月の大神様、世の元からの生神様、百々の神様の大前に、日々弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業、弥が上にも、千万弥栄の御働き祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民一時も早く改心いたし大神様の御心に添ひ奉り、地の日月の神と成りなりて、全き務め果たします様 何卒 御守護願ひ上げます。そがためこの身この霊はいか様にでも御使ひ下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が知らず知らずに犯しました罪、穢、過は、神直日大直日に見直し聞き直し下さいます様、特にお願ひ申し上げます。元つ神えみためえみため」 『マツリの巻』 第三帖 [407]
わさわざ「旧九月八日から」と指定してあるのは、この日から本格的に“神懸かりの仕組”が始まるからだと思われます。つまり、この祝詞は正念場の際に、自らの身も心も“玉串”として捧げることを天地に向かって表明する“神への宣誓”なのです。
また、この祝詞の最後には「元つ神」という言葉が盛り込まれています。『ミロクの構図』でも引用しましたが、日月神示を降ろした天之日津久神様は自らが“元神”であることを明かしています。
「アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメのの神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちのの御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。それでよう堪れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]
同時に、臣民は“地の日月の神”と呼ばれています。
「地の日月の神とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ、今の臣民も掃除すれば九二の一二の神様となるのざぞ、自分いやしめるでないぞ、皆々神々様ざぞ」 『光の巻』 第一帖 [397]
「人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地の日月の神ぢゃと申してあろがな」 『光の巻』 第三帖 [399]
「万物の長とは神の臣民の事であるぞ、世界の人民も 皆 万物の長であるが、この世の神は臣民ぢゃぞ、神に次いでの良き身魂ぞ、臣民は地の日月の神様ざぞ」 『梅の巻』 第十二帖 [439]
「待てるだけ待ってゐるが世を潰すわけには行かん、人民も磨けば神に御意見される程に身魂に依ってはなれるのざぞ、地の日月の神と栄えるのざぞ、何より身魂磨き結構」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]
つまり、元の神である天之日津久神様が神懸かるから、身魂の磨けた臣民は“天にまします日月の神”の地上世界における顕現、即ち“地に現れた日月の神”であるというわけです。地の日月の神という表現は、単に人間の本性が非常に尊いことが強調されているだけかもしれませんが、神懸かりの仕組を背景にした表現と見ても間違いではないはずです。
恐らく、日月神示を読み、普段の想念と言動を“神の心”に近付けて行けば、殆どの人間が地の日月の神として取り立てて頂けるのでしょう。たとえ遅い歩みに見えるとしても、神示の内容を少しづつうつすことが、地上世界に“神の力”を現すための最も確実な方法であると思われます。
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次に、やがては神懸かって地の日月の神となる人間、いわゆる“日月の民”や“因縁の身魂”と呼ばれる人々について補完したいと思います。神示によると、これらの方々は現在の社会的地位から見ると基本的に落ちぶれているとのことです。
「神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢してくれよ、その代り御用つとめてくれたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな」 『下つ巻』 第三十七帖 [79]
「今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな」 『磐戸の巻』 第十八帖 [254]
これは主に身魂を磨くための試練だと思われますが、“神様側の事情”もあるようです。
「愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よく この神示読んでおいて下されよ」 『雨の巻』 第一帖 [335]
「一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸るのぢゃ、落した上に落して もう落す所 無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]
「此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ」 『空の巻』 第十二帖 [467]
「今迄は大地の先祖の大神様の血統を落して了ふて途中からの代りの神でありたから、まぜこぜしたから世が乱れに乱れて了ふたのぢゃぞ、知らしてあらうがな、よくなっとくしてくれよ、人民 皆その通りになってゐるのぢゃ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]
「大事な御先祖様の血統を皆世に落して了ふて無きものにして了ふて、途中からの代へ身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、今の有様は何事ぞ、まだ判らんのかなあ、人民もぐれんぞ」 『海の巻』 第十帖 [502]
他にも、日月の民が落ちぶれている事情が、更に詳しく述べられた記述があります。
「この方 悪神、祟神と人民に云はれてトコトン落されてゐた神であるぞ、云はれるには云はれるだけの事もあるのぢゃ、此の方さへ改心いたしたのであるぞ、改心のおかげで此の度の御用の立役者となったのぢゃぞ、誰によらん改心致されよ」 『海の巻』 第十帖 [502]
「この方 世に落ちての仕組であるから、落して成就する仕組」 『黄金の巻』 第六十九帖 [580]
「此の方」とは天之日津久神様の一人称なのですが、上の記述では立替え立直しの総指揮を執るとされる“国常立神”か、救世神に位置付けられている“素盞鳴神”を指す意味が非常に強いです。そして、日月神示には両神を同一神的に説く記述があります。
「大国常立神が大素盞鳴大神様なり」 『黄金の巻』 第三十四帖 [545]
詳しくは記紀神話と一緒に解説しますが、大本系統の神話では、この二柱の神様は冤罪を着せられて蔭から世界を守護なさっていると言われています。それ故、両神と縁が深い人々は一時的に貶められる場合があるとのことです。これは国常立神の肉体とされる日本列島に住まう人間、つまり“日本人”も同様です。それが正念場において日本が苦しむ理由の一つになっていると思われます。日月神示には次のようにも書いてあります。
「神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国々もその通りざぞ、神には依怙無いのざぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]
「つらい役は因縁のミタマに致さすぞ。心得なされるがよいぞ」 『梅の巻』 第十四帖 [441]
「いやな事は我が血統に致さすなり、他人傷つけてはならんなり」 『青葉の巻』 第七帖 [476]
「その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。判りたか」 『春の巻』 第二十四帖 [681]
因縁の身魂が落ちぶれていたり、正念場で日本が苦しむのは、「辛い義務は身内に負わせる」という神様の方針の現れなのでしょう。
以上のように、一四一四の時に活躍する人々は、現在は非常に苦しい環境にあると思われますが、それを乗り越えて“尊き因縁”に基づく“御用”を果たされることを、神様は望んでいらっしゃいます。
「いくら金積んで神の御用さしてくれいと申しても、因縁のある臣民でないと御用出来んぞ。御用する人は、何んなに苦しくても心は勇むぞ」 『上つ巻』 第七帖 [7]
「今度の御用は結構な御用ぞ、いくら金積んでも、因縁ない臣民にはさせんぞ」 『上つ巻』 第三十一帖 [31]
「今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。人のようせん辛抱さして、生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみざから、みごと御用つとめ上げてくれよ。〔中略〕 この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ」 『下つ巻』 第四帖 [46]
「因縁の身魂はどんなに苦しくとも勇んで出来る世の元からのお道ぞ。七人に知らしたら役員ぞ、神が命ずるのでない、自分から役員になるのぞと申してあろがな、役員は神のぢきぢきの使ひぞ、神柱ぞ」 『下つ巻』 第三十三帖 [75]
「この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用 結構につとめあげてくれよ」 『磐戸の巻』 第十三帖 [249]
「この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って 又 始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]
「因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。ここの役員は 皆 因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ」 『松の巻』 第九帖 [300]
「三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな」 『雨の巻』 第十帖 [344]
「村々に一粒二粒づつ因縁身魂 落してあるぞ、芽生へて来るぞ」 『マツリの巻』 第十一帖 [415]
「因縁ある身魂が、人民では知らん結構を致すぞ」 『空の巻』 第十一帖 [466]
「御神示通りにすれば、神の云ふ事聞けば、神が守るから人民の目からは危ない様に見へるなれど、やがては結構になるのざぞ、疑ふから途中からガラリと変るのざぞ。折角 縁ありて来た人民ぢゃ、神はおかげやりたくてうづうづざぞ、手を出せばすぐとれるのに何故 手を出さんのぢゃ、大き器 持ちて来んのぢゃ」 『青葉の巻』 第十二帖 [481]
「今度はしくじられんのざぞ、神の仕組 間違ひないなれど、人民しくじると、しくじった人民 可哀想なから、くどう申しつけてあるのざぞ、よう分けて聞きとりて折角のエニシと時を外すでないぞ、〔中略〕 尊い身魂と、尊い血統、忘れるでないぞ」 『青葉の巻』 第十三帖 [482]
「縁あればこそ、そなた達を引寄せたのぢゃ、此の度の二度とない大手柄の差添へとなって下されよ、なれる因縁の尊い因縁をこわすでないぞ」 『海の巻』 第十四帖 [506]
「此の道は因縁なくしては判らん難しい道であれど、此の道つらぬかねば、世界は一平にならんのぢゃ、縁ある人は勇んで行けるのぢゃ、神が守るからおかげ万倍ぢゃ、神の帖面 間違ひないぞ」 『海の巻』 第十八帖 [510]
「因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのであるから、浮いた心で参りて来ても御役に立たん。邪魔ばかりぢゃ。因縁のみたまは何んなに苦しくても心は春ぢゃ。心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢゃ」 『黄金の巻』 第八十五帖 [596]
「人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。因縁判ってうれしうれしで御用結構。うれしおそろしくなる仕組」 『春の巻』 第五十一帖 [708]
「そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。真理に苦の花さくのであるぞ」 『月光の巻』 第五十五帖 [842]
最後に、元の神の手足となって岩戸開きの御用をする因縁の身魂の方々が、困苦に負け、自らを卑しめ、尊き因縁を忘れることが無いように、天之日津久神様が地の日月の神々様の勇気を鼓舞した『三千年の歌』を引用して、本項の結びとさせて頂きます。
「三千年、三千世界 乱れたる、罪やけがれを身に負いて、此の世の裏に隠れしまま、此の世構ひし大神の、みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元の御種ぞ、今 落ちぶれてゐるとても、軈ては神の御民とし、天地駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きてくれよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ、みたまさちはへましまさむ」 『日月の巻』 第二帖 [175] (※この歌の最初の六音は七五調の韻律から外れているので、「三千年」は歌の表題である可能性があります)