天之日津久神様の言葉を自動書記したのは、岡山県出身の画家である岡本天明氏です。天明氏は大本教との関わりが深く、降霊実験の霊媒役や、機関誌の編集業務に携わっていました。
天明氏には色々と霊的な現象が起きたそうですが、通常は昭和十九年六月十日から自動書記現象で記された書が日月神示と呼ばれます。
参考として、当時の機関誌に掲載された日月神示の発祥の経緯を引用します。
「 世界大経論の書
日月神示はかくして生れた
修史協翼会の実験
神かかりと云ふ現象が起るものかどうか?その高低正邪は別として起るものならば実験してみたい、神かかりの正体を或程度まで突きとめなければ日本の歴史をそのまゝ信ずるわけにはゆかぬ──と云ふ声が、歴史研究団体として発足した修史協翼会の内部に起つて来た。
昭和十九年四月十八日、その声が具体化してその実験会をひらく事となつた。集つた人々は
太洋興業社長 | 高井 邦丸氏 |
夢幻科学社長 | 長谷川 一氏 |
陸軍少将 | 小川 喜一氏 |
古代神道研究家 | 法元 中心氏 |
支那研究家 | 森崎 鉄男氏 |
神代文学研究家 | 安西田鶴子氏 |
千駄ケ谷八幡宮司 | 岡本 天明氏 |
神道研究家 | 五十嵐あい氏 |
その他七、八名であつた。
実験は東京都渋谷区原宿の修史協翼会事務所であつたが、その後戦災の為め重要な記録を失つたことは残念である。
実験方法としては古来支那で行はれているフーチの形式をとることとした。現在は各地でこの形式を採用してゐるが当時としては珍らしいやり方であつた。これは霊媒二人によつて、三尺あまりの丁字形のチボクの両端をもち、下に砂盤(三尺平方位の砂を入れた箱様のもの)をおき、その砂上に自動書記する方法である。
当日は立会の人々を、その場で霊媒として使用し、専門の霊媒は使用しなかつた。これならば立会の人々も満足出来る良心的なやり方だと思われたからで、司会(サニワ)の役は千駄ケ谷八幡神社宮司岡本天明氏であつた。
先づ最初の霊媒は前記高井、五十嵐両氏であつたが、五、六分間も経過すると霊感情態に入りチボクの先がびくと振動を起し、立会の人々は相当に緊張の色をみせはじめた。
サニワは先づ常識的に「あなたはどなた様ですか」と云ふ質問を発した、所がそれに応ずる如くチボクの先端が大きく円を描きはじめ数分の後、
天のひつくの神
と自動書記した。後で聞いたのであるが岡本氏は、サニワ的常識の上からみて「これは下級霊が高級神霊の名をかたつてゐるに相違ない“天のひつく”なる神名は聞いた事がない、おそらく「あまつひつき」なる語を暗示して高級神霊に見せかけようとしたものだろう、一つ化の皮をひんむいてやろう」と考へ左の如き意味の質問を発した。
「あなたは現実世界では何処に鎮まつて居られますか」
「御名前は文献の中に出て居りますか」
「何と云ふ大神様に属して居られますか」
「どう云ふ御用件で、おいで下さいましたか」
しかし、それに対しては何等の反応もない、少し変だと考へたサニワは高井、五十嵐両氏の態度を見たが下級霊らしい現れはなく、かなり澄んでゐたそうである。
この実験会の目的は、神の内容をサニワするのではなく前記の如く霊現交流を目的としたものであるから、根掘り葉掘り問ひつめる必要もなく一先づ打切り、次に又二人の立会者を霊媒とし実験に入つたが、霊動状態に多少の変化を見るのみで「アメノヒツクノカミ」なる御神名以外の何ものをも得られなかつたが、立会者の中の主なる人々は「神かかり現象」を自ら体験したわけである。
体験者の正直な感想
さて当日霊媒として実験した人々の正直な感想を聞いて見ると大体左の如きものである。
「どうも少し変で狐にでも化かされたような気持ではあつたが、確かに何ものか、眼に見えぬ力が加つた」
「兎に角、自分の意志以外の意志が加つた事だけは事実である」
「相手が強い力でチボクを押したり引いたりするから自分はそれにまかせたまでであるが、おかしい事はおかしい」
「サニワが変なことを云つてゐたが何か魔術にかかつたような気がした、しかし自分自身はハツキリしてゐた」
「天のひつくの神とは何神だろうか」
「如何なる理由で実験会に出て来たのだろうか」
「果して天のひつく神なるものがあるのかどうか」
等々であつたが、岡本氏は
「そんな神はないと思ふ、よしあつたにしても下級神霊であつてとりあげるに足りない、下級霊は兎や角えらそうな名乗りをあげるものだ、この実験会としては一応満足すべき結果を得たのだから今更そんな神をさがす必要はないと思ふ、変にこぢれて悪かみがかかり的なものをつくつてはならない」と語つてゐた。
天之日津久神の出現
ところが一部の人々はおかしい程熱心になり神名辞典や色々な古文書をひねくり廻して「天のひつくの神」を調べたが一向に見あたらない。
こんなさわぎが幾日かつづいた、或日前記森崎鉄男氏が偶然の機会から「あめのひつくのかみ」を発見した。森崎氏の話によると「平凡社発行の百科辞典を何かのことで調べてゐる内にマ行のマの中に麻賀多神社なる項目があり(千葉県印旛郡公津村台方──現在成田市台方)その麻賀多神社の末社に天之日津久神社あり──と云ふのを発見した」と云ふのである。
さわぎはかなり大きくなつて協翼会の人々の中には相当のぼせ上つたものもあつたらしい。
竹隣先生の酒談義
岡本氏は「霊界からの感応は多くの場合その時の霊媒の心の内質に相応した──つまり同一波調の霊の感応があるのであつて、普通の場合高級神霊の感応は絶対にない」と信じてゐたため、このさわぎの渦には巻込まれないで毎日千駄ケ谷八幡宮に奉仕してゐた。所が五月末のある日飄然とその社務所を訪れたのが竹隣高田集蔵氏である。この時の事情は岡本氏が記録してゐるのでそのまゝを此処に御紹介しよう。
「その時どんな話からそうなつたのか忘れたが高田先生が「どうだ岡本さん、お酒をのます所へ案内しようか」とのお話、酒に餓えてゐた私は目の色をかへたらしく「え、お酒ですつて?お伴しましよう、お酒と聞いたら唐へでも、天笠へでも──」と云ふ意味のことを叫んだ(?)ように記憶してゐる。高田先生は私の先輩であり、尊敬する人であつたから常に総て受け身であつたがその時に限り非常に積極的となり、その場でハガキを出し、嫌応なしに“酒をのますといふ千葉の家”へ連絡をとつて頂いた程である。酒をのましてくれる家と云ふのは印旛沼のほとりの一寒村であるが、其処に今宗吾と云われる仁が居つてうまいドブロクをのましてくれるとの事であつた。」
酒はおあづけとなる
高田先生と相談の結果、六月の十日朝に上野駅で待ち合せて出発することになり、同日は八幡様の方は休日をもらひ、用意万端とゝのえ「明日はのめる」とよろこびつゝ寝に就こうとした九日の夜、高田先生がひよつこりと現われ「残念だろうが明日の千葉行は延期ぢやよ、酒はおあづけ、先方で無くなつたそうだから一カ月程待てとの事だよハツハツヽヽお互に改心が足らんのぢやろう」と云つた調子、がつかりして返事も出来ない。
しかし、その時電光のように胸中にキラメクものがあつた。それは“天之日津久神社と酒をのますと云ふ家と同じ土地ではなかろうか”と云ふ事である。調べてみると予感通り同じ村である。
八幡様は休み、前日申告までして切符は求めて居りお弁当もつくつてゐる、どうしてもこれは予定の村まで行けと云ふ事であろう、考へてみると、自分が司会した心霊実験会に出た天之日津久の神様に対し、御礼を申上げない乍りか悪しざまに云つた自分を深く後悔した、何と云ふ罰あたりであつたろうか。
昭和十九年六月十日
偶然だ、偶然であろう、しかし私にとつてはもはや偶然ではない、高田先生は心霊実験のことは全然知らない、私も酒の家と日津久神社を同時に考へたことはない。何か宿命的な神意といふ風なものが働いてゐるような気持がする。
よし明日は行こう、おまゐりしよう、天之日津久の神が、よしどんな神様であろうと、どんな事になろうと心からなる御礼を申上げ、御無礼をわびねばならない。それ位のことが何故に判らなかつたのであろうか、人間同志の場合でさへ知らぬ人から「今日は」と挨拶されて黙つてゐないではないか──何とも申訳のないことをした、自分があまりにも囚われた考へ方をし頑固であつたから、私の弱点たるお酒によつてつり出されたのかも知れぬ、私は従来、こうした出来事を「神様がさしたのだ」とか「さう云ふ因縁になつてゐたのだ」と云ふ風に考へることを極端な程さけて来たのであるが、この時ばかりは一言もなく頭を下げた。
昭和十九年六月十日──
たづねてやつと麻賀多神社へお参りしその末社として祀られてゐる天之日津久神社の前に立つた。荒木でつくつた三尺四方位な極めておそまつな宮であり、相当に古びてゐる。
万感交々多く語るべからず──と云ふ古い言葉があるが、その時の私の気持がそれであつた。
厄介な自動書記現象
麻賀多神社は延喜式にも出て居るかなり古い神社で神苑内には千数百年の寿を保つてゐる関東一の大杉もある神さびた一宮である。
私は天之日津久神社の前に額つきつづけた、のりとを奏上し、お礼を申上げ、おわびを心からくりかへしたことは確かであるがその総ての行動は無我無中と云つた方が真実に近いと思ふ、はたから見てゐたなら恐らく狂人であつたろう。
一応、感激の嵐はすぎてホツト一息した、少し空腹を覚えてゐたので社務所(神官のゐない)の入口に腰をおろして弁当をひらきかけた、所が松風とも霊耳ともつかぬ「フーフー………」と云ふような響が全身に聞えて来たかと思ふ間もなく私の前額部から強い電流に似たものを感じた、右腕は焼火鉢を突込まれた程の痛さである。
「自動書記だナ」と直感した。長い間こうした現象から遠ざかつてゐる私ではあつたが直ちに感じ得られたので矢立と紙を出した。(私は半面画家であるためいつも持つてゐた)次の瞬間、私の意志を無視して筆は紙の上に得体も知れぬ文字様なものを、のべつに書きなぐつた──厄介極まる自動書記現象である。
得体の知れぬ文字?
こうした現象は洋の東西を問わず到る処に起る現象であつて決して珍らしいものではない。しかし従来私の体験する神かかり現象は私自身が中止しようと思へば中止出来たものであるが、今度ばかりは私の自由にならない。中止しようとすれば腕に激痛を覚える、堪え得ぬ苦しさである。有名なレナルド夫人(英)は「霊感の弱い時は自分の意志で自由になるが、強く深くなると霊媒自身どうしてゐるか判らなくなる時もある」と云ふ意味のことを述べてゐるが大体そんな状態であつた。
それは兎も角、私自身としてはたまつたものではない、止むなく其処で障子紙二枚に変な文字か記号か判らぬような自動書記をつくり上げさせられた。
見れば見る程怪しげなものである(凸版参照)どうみても正気の沙汰ではない、頭もなく尻もない紙一杯に書き散らされた妙なものである。しかし何処かに心をうつ霊気を発してゐるようにも思へるので一応おみやげ?として持ちかへることゝした。
× ×
──岡本氏の記録は以上の如くであるが、これが後年世界経論の指導書となつた「日月神示」の第一帖第二帖である。(元田亭陽)」 『予言と霊界』 昭和三十年二月号/第112号 (※明らかな誤字、脱字、衍字であっても訂正せずに引用しました。それと「(凸版参照)」とは引用元の文章の脇に掲載された『上つ巻』第一帖の写しを指します)
当初の天明氏は降りた神示を軽く考えていたそうですが、周囲の人間の方が騒ぐので、徐々に本気で信じるようになったとのことです。以後十八年に渡って自動書記が続きました。
第一巻の上つ巻から第三十巻の冬の巻までと五十黙示は、謄写版が資料として遺っているので、確実に自動書記による原書が存在します。ただし、原書が絵である第十七巻の地震の巻の訳文は、霊感や霊耳によるものという説が強く、文章的な原書は存在しないと思われます。
信奉者の悩み事相談のような側面がある月日霊示は、初出の資料の時点で訳文のみであることから、原書自体が無かった可能性が考えられます。もしくは、神示ではなく霊示なので、原書を謄写する必要性を認めなかったのかもしれません。
昭和四十年の天明画集には、掲載した五十黙示の原書に所蔵者の名が併記されているので、原書を部分的に譲渡した例もあったようです。天明氏が自分の書や絵を、お守り代わりに親しい人に贈る習慣があったことは、実際に貰った人からも話を聞いています。
現在の日月神示の原書は所在が不明になっており、現存するのかどうかも判りません。
生前の岡本三典女史に原書の所在を尋ねた際は、話が二転三転して要領を得ず、仕方なく三典女史に近しかった何人かに事情を聞いてみたのですが、保管、譲渡、売却、盗難、紛失、焼却など、色々と情報が錯綜しており、結局は何も判らず終いでした。
現時点で確認できる原書は、各地で開かれた岡本天明展で販売されていた僅かな複製だけであり、それらが日月神示の解説本などに転載されています。
原書が所在不明であることや、精度が高い原文資料と訳文資料の稀少化により、現行の日月神示の訳文の不備を完全には訂正できないのが現状です。そのため、日月神示の全文訳は新規に発表される度に、少しづつ齟齬が大きくなっています。