はじめは目標つくって進まんと
行ったり来たり同じ道を堂々巡りぢゃ
掴める所から掴んで行けよ
『黒鉄の巻』 第五帖
『すめらみち』の執筆上の目標は“徹底せる日月神示論”です。そのため、掲載した論考は“専門書”の性質を帯びています。大半の人は全文に目を通すことを難しく感じるはずなので、初めに“概要を把握できる読み方”を述べます。
具体的には『時節概論』の最初と最後である『序文』、『辛酉の年の辛酉の日』、『百年』、『総括』を読んでから、個々の論考で興味を持てそうな部分を読むと、全体像を掴み易くなります。
こういった順序での読み方を推奨するに至った経緯は次の通りです。
元々は『時節概論』のために『すめらみち』の立ち上げを決めました。また、時節を考察していると日月神示が“ジグソーパズル”や“知恵の輪”を模して書かれていることや、「時節や神話や数霊は同じものの異なる側面」であることに気付きました。これらは立体の正確な形状を把握するために複数の平面図を使う“三面図”と同じ手法なのです。
故に「時節だけでは時節を論じることはできない」と結論し、神話や数霊や宇宙観と一緒に、多面的かつ詳細に日月神示を論じることにしました。結果的に分量が多くなり過ぎたので、個別の題目に沿って各部を独立させたという経緯があります。つまり、
『すめらみち』の論考は全て“時節概論の一部”なのです。
それぞれの論考は平面図の一枚に相当し、相互に照らし合わせて「立体的な一つの実像を認識できる」という構成になっています。ですから『時節概論』の“発端”や“結論”から読むことによって、そこから派生もしくは収束した部分、即ち“全体像”を把握し易くなります。
以上の話と似たようなことは日月神示にも書いてあります。
「大日月地大神としての この神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ、その働きがもろの神様ぢや、無限であるぞ、この神一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ、一神ぢや、多神ぢや、汎神ぢや、総てが神ぢや、喜びぢやぞ。始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの、この神の手でもよい足でもよい、何処でもよいから、掴める所からつかんで、ついて御座れよ。だん判つてくるぞ、全体つかむには、この神と同じにならねばならん、その人民々々のつかめるところから掴んで参れよ」 『春の巻』 第二十一帖 [678]
「宇宙の総ては この神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのであるぞ。その何処つかんですがつてもよいのであるぞ、水の流れも宗教ぞと申してあらう、総てにこの神の息、通ふているぞ、この神の喜びぞ」 『春の巻』 第二十二帖 [679]
「神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ、それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ、判るところから、気長に神求めて来いよ」 『夏の巻』 第十七帖 [734]
天之日津久神様は「森羅万象は元の神の無限の側面の一つ」と明言していて、この宇宙観が日月神示の書き方にも反映されています。よって「多面的な見方から一つの真相に迫る」のが“日月神示の正しい読み方”である可能性が高く、これが『すめらみち』で推奨する読み方でもあります。
ですから、無理に全文を通して読もうとはせず、興味が湧いた部分から少しづつ気楽に読む程度で充分です。誠意を以て歩めば行き着く頂は同じなのですから、急ぐ必要はありません。
「神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ、今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前」 『極めの巻』 第二帖 [929]
それでは、『すめらみち』が“日月の神の真実”を掴み取る手助けになることを願って、初めの挨拶とします。